جميع فصول : الفصل -الفصل 70

97 فصول

台本のページから溢れる記憶

瑞希は手元に届いた『私のすべて』の台本のページを、ゆっくりとめくった。指先がわずかに震える。そこに綴られていたのは、幼い頃の記憶——卯辰山の公園で満開の桜の樹に登ったこと。ざらざらした樹皮の感触、遠くに見下ろす港と豪華客船の汽笛。そして、地面に座った車椅子の真希と、それを優しく気遣う陸斗の姿。 健康な体に生まれた瑞希は、いつも「瑞希は強いから大丈夫」と言われ続けた。両親は彼女に真希の車椅子を押すよう命じ、公園の坂道を汗だくで押し上げさせた。その不条理さを、ありのままに綴った自叙伝は、同じように周囲の期待や「強さ」を押しつけられてきた多くの読者の心を掴んだ。ページをめくるたび、鮮明に蘇る辛く悲しい記憶の数々。真希だけが守られ、甘やかされ、陸斗の愛を独り占めにしてきた日々。瑞希の笑顔はいつも偽りで、心の奥では嫉妬と憎しみが渦巻いていた。「……瑞希、大丈夫か?」 智久が心配そうな目で彼女を見つめていた。いつの間にか、頰を熱い涙が伝っていた。台本の端が、涙で少し滲む。「やだ……どうして?」「やっぱり疲れているんだよ。陽翔と公園に遊びに行ってくるから、ゆっくり休んで」 智久は優しく彼女の肩を抱き、額に軽くキスを落とした。ひだまりのような、穏やかで包み込む愛情。瑞希は小さく頷き、「……ありがとう」と呟いた。彼は陽翔の手を引いて出かけて行き、リビングに静けさが戻る。 けれど智久の愛は、陸斗とのそれとはまるで違っていた。陸斗との愛は情熱的で、憎しみと嫉妬が渦巻き、刃のように鋭く胸を刺すものだった。真希を奪うための計算と、勝ち取った瞬間の勝利の味。智久の優しさは温かいけれど、どこか物足りなく感じる。胎内の女児が静かに動くのを感じ、瑞希は無意識に下腹を撫でた。 台本の次のページには、真希の最期と、瑞希が感じた「呪い」が記されていた。窓の外では春の風が桜の花弁を運んでくるようだった。卯辰山の記憶が、瑞希の胸の奥で再び疼き始めた。新たな命と、過去の影。どちらが勝つのか、まだわからない。
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真希の呪い

寝室のベッドの上で、瑞希は浅い眠りからふと目を覚ました。枕元に、ぼんやりとした影が立っている。艶やかな黒髪が腰までまっすぐに伸び、暗闇の中でかすかに光を吸い込んでいる。目を凝らすと、その輪郭がはっきりと浮かび上がった。「……真希」 掠れた声が、夜の空気を震わせた。その影はゆっくりと振り返り、ニヤリと真っ赤な唇で弧を描いた。嘲るような、勝ち誇った笑み。次の瞬間、モヤのように溶けて消えた。「智久さん! 起きて! 真希が! 真希がいたの!」 瑞希は半狂乱になって、隣で寝ていた夫の背中を必死に揺り動かした。智久は重い瞼をこすりながら体を起こし、ベッドサイドのライトを点けた。柔らかな橙色の光が部屋を照らす。「……真希さんが、どうしたの?」 瑞希はやや半狂乱のまま、部屋の隅の暗がりを指差した。しかしそこには何もない。人の気配も、影の残像すら残っていない。真希は一年前に脳死宣告を受け、荼毘に付され、骨壺に入れられて墓に納められているはずだった。「瑞希、落ち着いて。深呼吸して」智久は枕元の紙袋を素早く渡し、背中をゆっくりと優しく摩った。声は穏やかだが、目には隠しきれない心配が浮かんでいる。「瑞希、真希ちゃんはもう死んだんだ。怯える必要はないよ」「……でも! でも! そこに真希が立っていたの! 笑ってた……私を嘲るように!」 その時、瑞希の大きく膨らんだ腹部に、鈍い痛みが走った。「……うっ」痛みは徐々に深くなり、波のように何度も繰り返す。彼女は顔を歪め、腹に両手を添えた。冷たい汗が額に浮かぶ。「瑞希! 陣痛か? 陣痛なのか?」 智久の声が緊張で上ずった。瑞希は眉間に深い皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべながら小さく頷いた。「……陣痛、だと思う。痛い……」 智久が背中を摩るその時、瑞希の腹部に突然、鉄の爪で引き裂かれるような激痛が襲った。子宮が波打つように収縮し、下腹部全体が引きつり、背骨の芯まで抉られる。息が詰まり、喉の奥から獣のようなうめき声が漏れた。「う……あぁっ……!」 痛みは一度で終わらず、波のように次から次へと押し寄せる。最初は鈍く重い圧迫感だったものが、瞬時に鋭い刃物に変わり、腰を折り曲げんばかりの力で体を締め上げる。汗が一気に噴き出し、シーツを濡らす。胎児が必死に出口を求めて蹴り上げるたび、骨盤
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出産という名の再会

瑞希は陣痛室で、激しい痛みに耐えていた。脊髄が折れるかと思うほどの激痛が背骨を抉り、下半身へと熱い塊がゆっくりと降りてくる感覚が、まるで体の中を溶岩が流れているようだった。汗が全身をびっしょりと濡らし、シーツが体に張り付く。出産——女性としての最大の喜びを目の前にしながら、彼女はただただ怯えていた。(生まれてくる子供が……真希に、私に似ていたらどうしよう) 双子という運命に翻弄された二人は、憎しみと赦しで別れを迎えたはずだった。けれどそれは表面上のことで、瑞希は真希の最後の呪いの言葉に、今も身動きが取れなくなっていた。智久に「疲れているんだよ」と言われても、心の底では納得できない。陽翔に「まーま あかちゃん かわいいね」と微笑まれても、心から喜ぶことができない。(真希に似ていたら……真希の生まれ変わりだったら……) 馬鹿げた妄想が、痛みの波の合間に何度も頭をよぎる。真希の冷たい微笑み、勝ち誇った瞳が、瞼の裏に焼き付いている。「ああっ!」痛みの間隔が短く、強くなった。瑞希は分娩台に上がった。足を大きく開かされ、サイドバーを握る手に力が入らない。足元がふらつき、視界が白く霞む。「まーま がんばって!」 陽翔の小さな声が聞こえた。瑞希は力なく微笑み返したが、すぐに次の収縮が襲い、喉から獣のような叫びが漏れた。「岡部さん! 頑張って!」 助産師の励ましに、瑞希は必死で呼吸を整えた。息を吐き、吸い、いきむ。体が引き裂かれるような痛みの中、(……真希)という名が、意識の奥で繰り返される。「岡部さん、頭が見えていますよ! いきんで! 頑張って!」「ああああああっ!」 次の瞬間、体の奥底から全ての力を振り絞った。「おぎゃあ!」 元気な産声が、陣痛室に響き渡った。予想通り、女の子だった。助産師が赤ん坊の体を丁寧に拭き、へその緒を切り、瑞希の胸元にそっと置いてくれた。 顔を真っ赤にし、小さな手足を震わせて泣く我が子。その姿は、稀有なほどに整っていた。長い睫毛、形の良い小さな鼻、桜色の唇。濡れた黒髪が額に張り付き、産声の合間にわずかに目を開ける。その瞳は——琥珀色に近い、透明で深い光を宿していた。 瑞希は息を呑んだ。胸に抱かれた温もりが、愛おしさと恐怖を同時に呼び起こす。可愛い。あまりにも可愛い。でも、その顔
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無意識の癖

相馬螢子は、療養施設のテラスに吊るされたハンギングチェアーに身を預け、ゆっくりと揺られながら「私のすべて」の台本のページを開いていた。午後の柔らかな陽光が、ページの余白に淡い影を落とす。そこに描かれていたのは、卯辰山の桜の樹を見上げるシーンだった。満開の花弁が舞い、車椅子の少女を見下ろす健康な姉の視線——。 螢子は、主人公・瑞希の妹である「真希」役の候補に選ばれていた。オーディションまであと一ヶ月。頰の傷は綺麗に塞がり、意識もすっかりはっきりしてきた。ただ、右足を引き摺る癖だけが、どうしても残っていた。マネージャーの佐々木公彦が、コーヒーを運びながら心配そうに言った。「精密検査、もう一度受けてみないか? 足の件」「異常なしだって言われたじゃない。……ちょうどいいじゃない。この『真希』って、足が動かない病気なんでしょう?」螢子は台本から顔を上げ、笑った。けれどその笑みは、どこか作り物めいていた。「そうだけど……お前は呑気だな」 すると、螢子の表情から明るい笑みがするりと消えた。琥珀色の瞳が、底知れぬ闇を宿す。「……でも、最近、不思議な夢ばかり見るの」 公彦は彼女から台本を受け取り、テーブルに置いた。風がページをめくり、桜のシーンの文字がちらちらと光る。「どんな夢だ?」「桜の樹に登って、見下ろすの。彼女を」「彼女?」 螢子はテーブルの上で風に捲れる台本を細い指で指差した。「夢の中では、私は『瑞希』なの。そして『真希』を見下ろして笑うの。勝ち誇ったように」その瞬間、螢子の美しい顔が醜く歪んだ。唇の端が引きつり、瞳に冷たい光が宿る。「……憎い。『真希』が憎い。『陸斗』を独り占めにする『真希』が、憎い」 おどろおどろしいほどの憎悪が、声の底から滲み出ていた。公彦は思わず背筋に冷たいものを感じ、眼鏡の奥で目を細めた。そこにいるのは、いつもの相馬螢子ではなかった。まるで別の人間が、彼女の殻を着て話しているようだった。「……螢子、役になりきるのはいい。でもあまり考えすぎるな」 螢子ははっと我に帰ったように表情を緩め、儚げな微笑みを浮かべた。「……そうね」 そして、絹糸のような巻毛を指先でくるくると巻き始めた。無意識の動作。公彦が眉を寄せる。「……お前、そんな癖あったか?」「え?」 言われて初めて気づいた
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爽子のホクロ

瑞希の娘は爽子と名付けられた。瑞希は新生児室から戻されたばかりの娘を、病室のベッドに横たえていた。小さな指が、瑞希の人差し指をしっかりと掴む。驚くほど力強い、小さな手。温もりが、じんわりと伝わってくる。彼女はそっと爽子を抱き寄せ、胸に密着させた。 シャンプーとミルクの甘い匂いが、鼻腔を優しく満たす。産まれたばかりの柔らかな体温、ちいさな吐息。母であるはずの瑞希の心を、ほんの一瞬だけ癒やした。指で背中を軽く撫でながら、頰を赤ん坊の頭に寄せる。この子が、自分の子。智久との子。陽翔の妹なのだ——そう何度も自分に言い聞かせた。 その時、爽子の顎の下に、うっすらと浮かぶ小さな黒い点が目に入った。 息が止まった。「……真希」 声が震えて零れた。肩が強張り、背筋に冷たい汗が一気に噴き出す。真希の顎の下にも、同じ位置に、同じ大きさのホクロがあった。幼い頃、何度も指で突っついて遊んだ、あの目印。双子なのに、唯一の違いだったはずのそのホクロが、今、瑞希の腕の中で息づく娘の肌に、確かに存在している。 これは偶然なのか。遺伝の偶然か。それとも——。 ヒュッ、と喉の奥で息が詰まった。爽子の小さな手が、まだ瑞希の指を離さない。まるで離すまいとするように、ぎゅっと握りしめている。瑞希の視界が狭くなり、産室の白い壁がゆっくりと歪む。真希の最後の微笑み、嘲るような赤い唇が、脳裏で鮮やかに蘇った。「……違う……ただの偶然よ……」瑞希は震える声で呟いたが、言葉は虚しく響くだけだった。爽子の長い睫毛がわずかに動き、薄く目を開ける。琥珀色に近い瞳が、ぼんやりと母の顔を捉えた。その瞳の奥に、真希の冷たい勝利の笑みが重なる気がして、瑞希の胸は激しく締めつけられた。 幸せのはずの瞬間が、再び暗い影に飲み込まれていく。爽子の温もりが、今は得体の知れない恐怖に変わり始めていた。「まーま!さわちゃん おきてる?」智久と陽翔がドアをノックした。智久は雛菊の大きな花束を抱えて微笑む。雛菊の爽やかな香りが不穏な空気を包んだが、瑞希の不安を覆い隠すことは出来なかった。
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初めてのパパ

爽子の成長は、まるで毎日が小さな奇跡の積み重ねのようだった。 生後1ヶ月:初めての笑顔生後1ヶ月を過ぎたある夕方、智久が仕事から帰宅し、爽子を抱き上げて「さーわこ、おかえりー!」と顔を近づけると、爽子の口元がゆっくりと緩んだ。くしゃっとした、愛らしい笑顔。智久は一瞬固まり、目を丸くした。「……瑞希、今、笑ったよ……!」 瑞希はスマホでその瞬間を必死に動画に収めていた。再生すると、爽子の小さな「ふっ……ふっ……」という息が漏れ、智久の目がみるみる潤む。「かわいいな、爽子……本当に、かわいい……」 その夜、智久は爽子を抱いたままソファで寝落ちした。爽子は父親の胸の上で小さな寝息を立て、瑞希はそっと毛布をかけた。あの笑顔が、家族の毎日の原動力になった。智久の、血を分けた実の娘への愛情が、陽翔へのそれよりも少しだけ濃くなっていることに、瑞希自身も気づいていた。その分、夜になると陽翔を強く抱きしめ、罪悪感を埋めるように頰を寄せた。◇◇◇ 生後3ヶ月:首がすわる3ヶ月を過ぎ、爽子の首がしっかりとすわった。ベビージムの下で一生懸命に頭を持ち上げ、周囲をきょろきょろと見回す姿が愛おしい。智久が帰宅するや否や、爽子を抱き上げて「首すわった! 見てみろ!」と自慢げに報告する。 公園のベビーカーでの散歩中、爽子は木の葉の揺れや鳥の声に反応して首をくねくね動かした。風が柔らかな産毛を優しく揺らすたび、瑞希は「爽子、楽しそうだね」と微笑みながらも、胸の奥で小さな影がよぎるのを抑えきれなかった。◇◇◇ 生後6ヶ月:離乳食と初めての「ぱぱ」6ヶ月になると離乳食が本格的に始まった。10倍粥に野菜ペーストを混ぜたものを、智久が「あーん」とスプーンで運ぶ。最初は顔をしかめていた爽子も、すぐにぱくっと食べて「んー!」と満足げに声を上げた。 ある夕食時、智久がスプーンを近づけると、爽子が突然、はっきりと言った。「ぱ……ぱぱ」 智久の手が止まり、ペーストがぽたっと落ちる。「……今、俺のこと呼んだ……?」 瑞希は笑いながら頷いた。「うん。ぱぱって言ったわよ」智久は爽子を抱き上げてぐるぐる回し、爽子はキャッキャと笑う。智久の目から涙が溢れ、声が震えた。「爽子……ぱぱって呼んでくれたんだな……」 陽翔が横で「陽翔も! 陽翔もぐるぐる!」とねだ
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恐怖の離乳食

爽子の顎の下にあるホクロが、くっきりと浮かび上がる頃、瑞希はより一層、真希の影を強く感じるようになっていた。朝の光が娘の小さな顔を照らすたび、あの黒い点がまるで真希の印のように瑞希の視界に突き刺さる。 真希は卵が嫌いだった。アレルギーではない。ただ、卵の殻を割った瞬間にドロリと出てくる白身が気持ち悪いと言って、顔を背けていた。爽子も離乳食の時間になると、子供が喜びそうなふわふわの炒り卵を手の甲でぱしっと叩き落とし、眉を寄せて拒絶した。「嫌……! これ、嫌……!」 小さな声で繰り返す。瑞希はスプーンを握ったまま凍りつき、背中に冷たい汗が伝う。他の食べ物でも、好みが異常なほど真希と一致する。甘いものは控えめで、酸っぱい梅干しを好み、柔らかいパンより固めのフランスパンを好む。食事の時間は、瑞希にとって静かな拷問になっていた。笑顔を作りながら娘に食べさせているのに、心の中では恐怖が渦を巻く。 母が遊びに来た日の午後も、重苦しい空気が流れた。爽子がソファで眠そうに顔を擦るのを見て、母は懐かしそうに目を細めた。「やっぱり双子ね! 眠くなると顔を擦るところなんて、真希そっくりだわ。あの頃の真希も、ちょうどこんな感じで……」 瑞希の指が、無意識に自分の太ももを強く抓った。母は爽子を抱き上げ、優しく頰を寄せる。「ねぇ、真希ちゃん。今日はおばあちゃんが来たよ〜」 呼び間違えだった。母はすぐに「あら、爽子ちゃんね」と笑って訂正したが、その度に瑞希の胸に鋭い棘が刺さる。言われようのない恐怖が、喉を締めつけた。愛しいはずの我が子を、抱きしめながらも、どこか遠くから見つめているような感覚に襲われる。爽子の温もりが、時として死んだ姉の冷たい体温にすり替わる。 夜、智久が帰宅すると、瑞希は疲れ果てた顔でソファに座っていた。爽子はすでにベビーベッドで眠っている。智久が瑞希の肩を抱き寄せようとすると、彼女は小さく首を振った。「……今日も、お母さんが爽子のことを『真希ちゃん』って呼んだの」 智久はため息をつき、優しく背中をさすった。「瑞希、そろそろ心療内科に行ってみないか? 君が苦しんでいるのを見ているのが辛い」 瑞希は黙って首を横に振った。言葉にできない。爽子が真希の生まれ変わりだという妄想を、夫に本気で疑われたらどうなるか。家族が崩れ
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この役が欲しいの

相馬螢子は「私のすべて」の台本を、端が擦り切れるまで読み込んだ。ページの余白はびっしりとメモで埋まり、感情の起伏や声の調子を赤いアンダーラインで引き、重要なセリフには色とりどりの付箋を挟んでいた。風が吹くたび、ヒラヒラと付箋が揺れ、まるで蝶の羽のように病室の空気を震わせる。 彼女は静かに声を出し、真希という名の短い人生を、惜しむように丁寧に拾い上げた。「……陸斗……ずっと、愛してた……」 声が低く、掠れ、胸の奥から絞り出すような響きになる。台本の文字が、ただのインクではなく、自分の血のように感じられた。螢子の琥珀色の瞳が、ゆっくりと細まる。真希の痛み、嫉妬、勝利の瞬間——すべてが、彼女の体の中に流れ込んでくる。足の違和感が、再び疼いた。引き摺る右足が、まるで車椅子の記憶を覚えているかのようだった。「……螢子、あまり無理をするなよ。まだ十分じゃないんだから」 マネージャーの佐々木公彦が、スケジュール帳から目を上げて言った。眼鏡の奥に、疲労と心配が混じっている。 螢子は台本を胸に抱き、静かに首を振った。「負けたくないの」「……なんて言った?」「私、阪崎絢音には負けたくない。絶対にこの『真希』の役が欲しいの」 公彦は一瞬、言葉を失った。いつもの螢子なら、役など「流れで決まるもの」と軽く笑い飛ばすはずだった。「珍しいな……お前がそんなに役にこだわるなんて」 螢子はハンギングチェアーの上で体を起こし、巻毛を指でくるくると巻いた。無意識の癖が、最近ますます増えている。唇の端が、わずかに歪む。「……この役は、私のものよ。真希は、私が一番よくわかる」 その声には、甘い毒のような響きがあった。公彦は背筋に薄ら寒いものを感じ、思わず眼鏡を押し上げた。目の前にいるのは、確かに相馬螢子だ。美しい顔、完璧なプロポーション。でも、瞳の奥に宿るのは、別の誰かの執念だった。 窓の外では、療養施設の庭で桜の花弁が静かに舞っている。螢子は台本を閉じ、指先で表紙を撫でた。真希の人生を演じることで、彼女は自分が誰なのか、ようやく確かめようとしているのかもしれなかった。阪崎絢音に勝つことなど、もはや表面的な理由に過ぎない。本当の戦いは、この体の中で始まっていた。
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台本の改稿

瑞希のもとへ、「私のすべて」のプロデューサーから連絡が入ったのは、爽子が十ヶ月を迎えた穏やかな午後だった。スマホの画面に表示されたプロデューサーの名前を見て、瑞希は一瞬、胸がざわついた。爽子をベビーチェアに座らせたまま、電話に出る。「瑞希さん、お疲れ様です。瑞希役の女優は正式に決まりました。ただ、真希役の候補が二人に絞られていて……そのうちの一人が、台本の改稿を希望しているんです」「……何で今頃?」瑞希の声がわずかに尖った。爽子が小さなスプーンを叩きながら「まーま」と呼ぶが、耳に入らない。「台本を深く読み込んでいくうちに、真希の心情に強い違和感を感じたそうです。『このままでは真希がただの悪役にしか見えない』と」「……違和感、ですか?」「ええ。この台本だと、瑞希視点からの捉え方のみで、真希の側に寄り添った描写がほとんどない。だから不公平だと。真希の孤独や、車椅子での日常、姉への複雑な感情をもっと掘り下げたいと……」 瑞希は電話を握る手に力が入った。指先が白くなる。プロデューサーの穏やかな声が、遠くで響いているように感じた。真希の心情を掘り下げる? あの女の孤独? 車椅子に縛られた苛立ち? 陸斗を独占しようとした執念? 頭の中で、真希の最後の微笑みが鮮やかに蘇る。「勝った、私は瑞希に勝った」——あの呪いの言葉が、耳の奥で反響した。「瑞希さん? 大丈夫ですか?」「……ええ。ちょっと驚いただけです」 瑞希は乾いた笑いを浮かべたが、声はかすかに震えていた。爽子が顎の下のホクロを指で触りながら、こちらを見上げている。その瞳が、一瞬だけ冷たく見えた気がした。 プロデューサーは続けた。「候補の一人は相馬螢子さんです。事故の後遺症で休養中ですが、役への意欲が非常に強いそうで……。もう一人は阪崎絢音さん。どちらにせよ、改稿の方向性については瑞希さんの意見を尊重したいと思います」 相馬螢子という名前に、瑞希の背筋が凍えた。なぜか、その名前が胸の奥に棘のように刺さる。電話を切った後、瑞希はソファに崩れ落ち、爽子を抱き寄せた。娘の温もりが、今日はひどく重く感じられた。 台本を改稿する——それは、真希の側に光を当てるということ。瑞希の視点だけでは不公平だという言葉が、胸に重くのしかかる。真希は死んでも、まだ私の物語を奪おうとし
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もう一つの真希の影

瑞希は爽子をベッドにそっと寝かしつけ、薄暗いリビングに戻った。モニターの青白い光だけが部屋を照らし、立ち上がった画面に映る自分の顔は、ひどく切羽詰まっていた。目の下に濃い隈が刻まれ、頰はこけ、唇は乾いている。 プロデューサーからの連絡以来、瑞希は毎晩のように台本の改稿作業に取り憑かれていた。真希の感情を、自分の記憶の中から掬い取る作業は、思いの外に難しかった。瑞希にとって真希は、いつだって「守られるべき存在」だった。ガラス細工のように儚く、触れただけで壊れてしまいそうな、特別な妹。両親の愛も、陸斗の優しさも、すべて真希のものだった。瑞希はただ、強い姉としてその影に耐え、支える役割を与えられていただけ。 相馬螢子という女優に指摘されるまで、気づかなかった。『私のすべて』は、紛れもなく瑞希視点の一方的な物語だった。真希の孤独、車椅子に縛られた苛立ち、姉への羨望と憎しみ、そして陸斗への歪んだ愛——それらが、ほとんど描かれていなかった。 瑞希はマウスを握る手に力を込め、キーボードを叩いた。大幅な改稿と追加シーンを入れていくうちに、真希の朧げな二面性が、ぼんやりと浮かび上がってきた。 車椅子に座りながらも、夜中に一人で鏡の前で微笑む真希。陸斗の前では儚く弱く振る舞きながら、瑞希の前では冷たい視線を投げかける真希。桜の樹の下で、瑞希を見上げながら心の中で呟く「なぜ私はここにいて、姉さんはあそこにいるの」という、静かな怨嗟。「……こんな真希が、本当にいたの?」 瑞希は自分の書いた文章を読み返し、吐息を漏らした。書けば書くほど、真希がただの被害者ではなく、瑞希と同じように苦しみ、嫉妬し、愛を奪おうとしていた人間として、立体的に見えてくる。自分が長年、無意識に塗りつぶしてきた真希の「影」が、今、文字となって甦ろうとしている。 爽子の寝息がモニター越しに聞こえてくる。瑞希はふと振り返り、寝室のドアを見つめた。娘の顎の下のホクロが、脳裏に浮かぶ。あのホクロが、真希の二面性を宿しているような気がして、胸が締めつけられた。 作業を続けながら、瑞希は静かに震えていた。真希の役を演じる相馬螢子が、この改稿された真希を、どれほど深く、恐ろしく演じるのか。自分が書いた言葉が、スクリーンで動き出すとき——それは、死んだ妹を再びこの世に呼び戻す
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