LOGIN「その日は都合がつかないな……」 智久はネクタイを緩めながら、疲れた顔で瑞希に向き直った。帰宅したばかりの彼のシャツには、出版社の残業の匂いが染みついている。「……そうよね、編集長がお休みなんて……無理よね」 瑞希は爽子を膝の上であやしながら、深いため息をついた。爽子が小さな手で瑞希の髪を引っ張るが、その感触さえ今は重く感じる。「お義母さんにお願いしたら?」「……陽翔だけで精一杯みたい。あの子、元気だから……」 プロデューサーが相馬螢子との対談を指定してきた日、智久も休みを取れず、実家に頼ることもできず、瑞希は途方に暮れた。リビングのテーブルに置かれたスマホの画面が、冷たく光っている。会わなければならない。真希を演じたあの女優に。「なら、一緒に事務所に連れて行ったら? 爽子も陽翔も」 思いもよらない提案に、瑞希の背筋が凍った。「……それは……」 まだ幼い爽子を、そんな場所に連れて行くこと自体が気が引けた。それ以上に——この真希に瓜二つの娘を、相馬螢子に会わせる気には到底なれなかった。何かが起こる。そんな得体の知れない恐ろしさが、瑞希の胸に黒くまとわりついた。爽子の顎の下のホクロ、薄茶の瞳、大人びた微笑み。もし螢子がそれを見て、何かを感じ取ったら。あるいは、爽子が螢子に反応したら——。 想像しただけで、胃の奥が冷たく締めつけられる。 ピコン! その時、スマホが短い通知音を立てた。プロデューサーからの返信メールだった。『ご都合が悪ければお子さんも同伴でも大丈夫です。柔軟に対応いたしますので、ご安心ください。』 瑞希は画面を見つめたまま、唇を強く噛んだ。指先が震え、爽子が「まーま?」と不思議そうに顔を覗き込んでくる。その無垢な瞳が、今日もどこか真希の冷たい微笑みを映しているように見えた。「……行かないわけには、いかないのね」 瑞希は小さく呟き、爽子を抱き寄せた。娘の温もりが、愛おしいはずなのに、今はただ得体の知れない予感を呼び起こすだけだった。死んだ妹は、映像の中で蘇り、今度は現実の自分に近づこうとしている。 智久が心配そうに瑞希の肩に手を置いたが、彼女はただ無言でスマホの画面を凝視し続けた。対談の日が、刻一刻と迫っていた。
瑞希の元に、プロデューサーから連絡が入ったのは、螢子のオーディションが終わって数日後の静かな午後だった。スマホに届いたメールの件名はシンプルに「最終オーディション映像 ご確認ください」。 瑞希は爽子をベビーサークルに座らせ、深呼吸をして動画を開いた。 最初に流れたのは阪崎絢音の演技だった。長いストレートの黒髪、毒々しい赤い口紅、車椅子に腰掛けた儚げでいて狡猾な佇まい——それはまさに瑞希が脳内で描いていた「真希」そのものだった。「……これは、真希だわ」 瑞希は思わず息を呑んだ。完璧だった。弱さを武器にしながら、姉を静かに見つめる視線。台本通りの優しさの中に、わずかに滲む影。まさに自分が書いた通りの、真希だった。 しかし、次の動画に移った瞬間、瑞希の背筋が凍りついた。 画面に現れたのは、栗色の巻毛を優雅に揺らす相馬螢子。一見して「真希」とは程遠い、華やかなイメージの女優だった。なぜ最終候補に残ったのか、最初は不思議に思った。 5秒、4秒、3秒……1秒。 間を置き、螢子は車椅子からゆっくりと立ち上がった。右足を引きずりながら。「瑞希! 私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! 悔しいでしょう! 陸斗の視線も、両親の愛も、全部私のもの! あなたは何も持っていけない!」 その叫びは、瑞希が書いた台本とは全く異なるものだった。消えゆく命が最後に燃え盛るような激しさ。嫉妬と勝利の喜びと、底知れぬ憎悪が渦巻いている。髪の毛をくるくると指で巻く癖、引きずる右足、勝ち誇ったような唇の歪み——すべてが、ゾッとするほどに本物の真希を連想させた。 瑞希は思わずスマホをソファに投げつけた。画面が回転しながら床に落ちる。「……違う……こんな真希じゃない……」 声が震えた。胸の奥で冷たい汗が噴き出す。爽子がベビーサークルの中で「まーま?」と首を傾げたが、瑞希は娘の声すら耳に入らなかった。 プロデューサーのメールの最後には、こう締めくくられていた。『相馬螢子さんとの面談を希望します。ご都合はいかがでしょうか。』 瑞希はソファに崩れ落ち、両手で顔を覆った。指の隙間から零れる吐息が熱い。死んだはずの真希が、画面の中で確かに息をしていた。そして今、彼女は瑞希に会いたがっている。 この女優は、ただ真希を演じて
螢子が最後のセリフを吐き終え、車椅子に呆然と座り込んだ瞬間、観客席からパラパラと、しかし確かに拍手が上がった。阪崎絢音が演じ終わったときの、礼儀正しい控えめな拍手とは明らかに違っていた。審査員たちの頰は興奮に紅潮し、目がぎらぎらと輝いている。プロデューサーは苦虫を潰したような顔で腕を組んでいたが、監督は立ち上がり、惜しみない大きな拍手を送っていた。「……「真希」……あなたが見えるわ」 螢子は眩しいスポットライトに照らされながら、全身で確信した。髪の毛の一本一本、指先、つま先、引き摺る右足の感覚まで——すべてが「真希」そのものだった。彼女はゆっくりと息を吐き、唇を湿らせた。 私は「真希」だわ。そう、私は「真希」。呪いの言葉を吐きながら死んだ「真希」。姉を恨みながら、陸斗を独り占めしようと最期まで足掻いた、あの「真希」。 螢子の中に長く眠っていたもう一人の人格が、静かに、しかし確かに覚醒した。胸の奥で黒い喜びが渦を巻く。彼女は車椅子から立ち上がり、右足を引きずりながらゆっくりと前に進み出た。審査員席に向かって深々と頭を下げ、その口元は妖しく、勝ち誇ったように弧を描いた。「……ありがとうございました」 数日後、佐々木公彦のスマホに一通のメールが届いた。「私のすべて」のプロデューサーからだった。 公彦はソファで台本読みをしていた螢子に声をかけた。「おい、螢子」 螢子は気だるげに顔を上げ、巻毛を指でくるくると巻きながら答えた。「なに?」 公彦は息を呑み、画面をスクロールした。「……原作者の岡部瑞希がお前に会いたいそうだ。『真希役を演じた女優と、直接話をしたい』と」 螢子はゆっくりと微笑んだ。琥珀色の瞳の奥に、冷たい光が宿る。台本を胸に抱きしめ、窓の外の港の景色を眺めた。遠くに卯辰山の桜並木が見える気がした。 瑞希……。ようやく、会えるのね。 螢子の唇が、静かに動いた。声には出さず、心の中でだけ。「……お姉ちゃん」
オーディションで螢子に課されたのは、卯辰山の桜の樹に登る瑞希を見上げるシーンだった。 台本には、車椅子に座った真希が優しく空を見上げ、「危ないわよ、降りてきて」と穏やかな声で姉を気遣う姿が書かれていた。膝にブランケットを掛け、儚い微笑みを浮かべながら、快活に木を登る瑞希を見守る——それが原作者の描いた「真希」だった。 しかし螢子は、そのページを真っ赤なマジックで塗りつぶしていた。「……こんな風に笑えない。本当の『真希』なら、憎いと思っていたはずよ」 彼女の声は低く、震えていた。瑞希への羨望、憧れ、そして底知れぬ憎しみと衝動的な怒りが、胸の奥から煮えたぎるように湧き上がる。舞台に置かれた車椅子に腰を下ろした瞬間、それは確信に変わった。「……私は、瑞希を憎んでいる」 表情が禍々しく歪む。唇を血が滲むほど強く噛み締め、指先が白くなるまで車椅子の腕置きを握りしめた。次の瞬間、螢子はゆらりと立ち上がった。右足がわずかに引き摺るが、構わず一歩を踏み出す。「瑞希! 私を見下ろして満足!? でも私は、脚が動かない分、みんなから愛されている! 悔しいでしょう! 陸斗の視線も、両親の優しさも、全部私のものよ! あなたがどれだけ強くても、結局は何も持っていけない!」声が舞台全体に響き渡る。鬼気迫る怨嗟と、勝ち誇ったような喜びが混じり合った叫びは、阪崎絢音が演じた台本に忠実な「優しい真希」とは全く違うものだった。そこにあったのは、生々しい嫉妬と、長い年月で熟成された憎悪。そして、歪んだ愛情だった。 審査員席からどよめきが起こった。意見は真っ二つに割れた。「これは……真希の本質を掴んでいる」「だが、原作者の意図を完全に無視している」「しかし、この迫力は……」 スポットライトの下で、螢子は荒い息を吐きながら、ゆっくりと車椅子に戻った。額に汗が光り、琥珀色の瞳が暗く燃えている。舞台袖から見守る佐々木公彦は、言葉を失っていた。 この演技は、ただのオーディションではなかった。相馬螢子は、真希という存在を自らの体に呼び覚まし、完全に飲み込もうとしていた。
舞台に冷たいスポットライトが白く降り注いでいた。舞台袖の緞帳の陰に身を潜め、相馬螢子はライバルの阪崎絢音の演技に釘付けになっていた。 絢音は腰まで届くストレートの黒髪を艶やかに染め、毒々しいほど真っ赤な口紅を差していた。車椅子に腰掛け、弱々しく微笑みながらも瞳の奥に冷たい光を宿す——それは台本からそのまま抜け出てきたような「完璧な真希」だった。セリフは一切澱みなく、声の震えも、視線の揺らぎも計算し尽くされている。観客席にいるはずの審査員たちから、感嘆の吐息が漏れるのが聞こえた。 螢子の背筋に、凍てつくような負の感情が這い上がった。(真希が……奪われる)胸の奥で、黒い炎が勢いよく燃え上がる。自分のものにしなければならない。この役は、私が生きなければならない。「大丈夫か? 顔が青いぞ」 佐々木公彦が心配そうにホットコーヒーの紙コップを差し出した。螢子は無言で首を振り、自身の台本を強く握りしめた。ページの端はすでに擦り切れ、赤ペンで書き直された文字がびっしりと並んでいる。原作者・岡部瑞希が描いた「真希」を、真っ向から否定したセリフ。自分の奥底から湧き出した、嫉妬と執念と、歪んだ愛情——それが、螢子の血のように紙面に染み込んでいる。 暗記したセリフは、すべて自分が書き換えたものだった。 その時、スタッフの声が響いた。「相馬螢子さん、どうぞ」 舞台袖ですれ違った阪崎絢音は、汗ばんだ額を拭いながら自信たっぷりの微笑みを浮かべた。「お疲れさま。頑張ってね」 その言葉に含まれた余裕が、螢子の胸を抉る。喉がゴクリと鳴った。足がわずかに引き摺るが、今は気にならない。この選択は間違っていない——そう自分に言い聞かせ、螢子はゆっくりとスポットライトの下へ足を踏み出した。 舞台の床が冷たく足裏に伝わる。「相馬螢子です。よろしくお願いいたします」螢子は深々とお辞儀をする。両足が震えているのが分かった。車椅子のセットが、中央に置かれている。螢子は深く息を吸い、ゆっくりと腰を下ろした。観客席の闇に向かって、琥珀色の瞳を細める。 ここから、真希が始まる。 彼女の唇が、静かに弧を描いた。その微笑みは、阪崎絢音のものより深く、暗く、しかし美しかった。
螢子は午後の柔らかな日差しが差し込むサンルームで、「私のすべて」の台本をめくっていた。白い観葉植物の葉が、空調の風に静かに揺れる。ページを追うごとに、「真希」という人格が、彼女の中で息を吹き返していく。輪郭が鮮明になり、血の通った体温さえ感じられるようだった。「……これは違うわ。これも! 真希はそんなことを考えない!」 螢子はブツブツと独り言を繰り返しながら、赤ペンでセリフを太く消し、新しい言葉を書き連ねた。紙が擦り切れるほどの勢いだった。女優がアドリブでセリフを変えることはあっても、オーディション前にここまで大胆に台本を書き直すなど、異例中の異例だった。 佐々木公彦がコーヒーカップを手に、ため息混じりに声をかけた。「螢子、そんなことをしてオーディションに落ちたらどうするんだ? 監督の目にも留まるぞ」 螢子はペンを止めることなく、巻毛を指でくるくると巻きながら答えた。声が低く、熱を帯びている。「真希はこう思っていたのよ……『瑞希はいつも強い。強いから、全部持っていける。陸斗の視線も、両親の愛も、私の体が動かないせいで、全部奪える』って。台本の真希はただの被害者でしかない。でも本当の真希は、弱さを武器に、姉を呪いながら愛を独占しようとした女なの」 その眼差しは鬼気迫るものがあった。琥珀色の瞳が、まるで別の人間の光を宿している。右足が無意識に床を軽く引き摺り、痛みなど感じていないかのように赤ペンが走る。 公彦は言葉を失い、ただ黙って彼女を見つめた。事故以前の相馬螢子は、ここまで一つの役に取り憑かれるような女優ではなかった。記憶を失ったはずの彼女が、なぜ「真希」という存在にこれほど深く入り込めるのか。夢で見た桜の樹、車椅子の少女、陸斗という名——すべてが、螢子の内側でゆっくりと形を成している。 螢子は最後のページを書き終えると、台本を胸に抱きしめ、窓の外に目をやった。遠くに見える港の風景が、脳裏の桜並木と重なる。「……私が、真希を生きる」 その呟きは、静かな決意と、得体の知れない歓喜に満ちていた。サンルームに差し込む午後の光が、彼女の横顔を美しく、しかしどこか不気味に照らしていた。
瑞希は美咲を自分のマンションに招いた。温かみのないリビングに、美咲が入ってきた瞬間、彼女の表情がわずかに曇った。気の毒そうな、しかし記者らしい鋭い目で部屋を見回す。「本当に……陸斗先生、ほとんど帰ってきてないのね」美咲はソファに腰を下ろしながら、小さく息を吐いた。「新婚のマンションなのに、こんなに冷たい空気……」瑞希は静かに微笑んだ。「何のためのマンションだったのか、それも、もうすぐ財産分与で売り払われちゃうけどね」キッチンでティーポットを温め、アールグレイの茶葉を淹れる。白い湯気が立ち上り、ほのかに甘い香りが部屋を包んだ。その温かさが、逆にこの空間の虚しさを際立たせてい
余命宣告。その瞬間、真希の心の中で恐怖が怒りに変わった。(どうして私だけ……?お姉ちゃんは健康で、何も苦しまずに生きてるのに……私はこの壊れた体で、毎日痛みと戦って、息をするだけで精一杯なのに……あと3年で終わり? この冷たい足と、震える手で……死ぬの?)真希の視線が、部屋の隅に立つ瑞希に向けられた。そこには、はっきりとした嫉妬と憎しみが宿っていた。母が真希のベッドにすがりつき、声を震わせた。「そんな……真希ちゃんが死ぬなんて……絶対に嫌よ!陸斗くん、何とかしてあげて! もっと良い治療を……」父は顔を青ざめさせ、陸斗に向かって低く言った。「理事長の息子である君が言うん
陸斗が病室を出て行った。真希はベッドに横たわり、天井の白い照明を見つめていた。体が重い。足はもう完全に自分のものではなく、ただの冷たい肉塊。腕を少し上げるだけで指先が震え、息を吸うだけで肺が痛む。余命3年——陸斗が宣告したその言葉が、頭の中で何度も繰り返される。(3年……あと3年で、私は死ぬの?)宣告を受けた夜、最初は頭が真っ白になった。「そんなはずがない」「間違いだ」と何度も否定した。でも、現実は容赦なく体を蝕み続けていた。夜中に突然の呼吸困難で目が覚め、酸素マスクを必死で探す自分。鏡に映る、骨と皮膚だけのような細い腕。すべてが「死に近づいている」証拠だった。恐
役所の窓口は、意外と空いていた。私は離婚届をカウンターに差し出し、係員の女性に静かに言った。「離婚届の提出をお願いします」係員は書類に目を通し、軽く頷いた。「双方の署名と実印、問題ありませんね。受理します」カチリ、という小さな音が、離婚届に押された受理印とともに響いた。その瞬間、私の胸の奥で何かが、静かに、しかし確かに切れた。これで、正式に、私は陸斗の妻ではなくなった。私は役所の外に出て、春の風に吹かれた。桜の季節が、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。薄ピンクの花びらが、風に舞いながら私の足元に落ちてくる。私は近くの公園の桜の木の下に立ち、ゆっくりと息を吐いた。(こ