All Chapters of 雲の彼方に散る愛: Chapter 11 - Chapter 20

21 Chapters

第11話

雷星は病室のドアの前に立ち、ふらつく足取りのまま、室内へと踏み込んだ。一つ目は、退職届。一番下の署名欄には、見慣れた遥の筆跡で、静かに署名が残されていた。二つ目は、最高軍事法廷の内部告発システムから届いた審査完了通知。愛椛に対する数々の告発が受理され、すでに逮捕手続きの段階まで進んでいることを示していた。通信回線における情報漏洩の音声解析データ。救援物資すり替えの監視カメラ映像のスクリーンショット……見ているうちに、雷星の指先が震え始めた。遥は、すべて知っていたのだ。――どうして。一体いつから?脳内を渦巻く疑念と動揺は、しかし、三つ目の品を目にした瞬間、完全に吹き飛んだ。そこにあったのは、一枚の白いお守りだった。雷星の心臓が、大きく跳ねた。震える手を伸ばし、そっとそのお守りを取り上げる。お守りを結ぶ赤い紐の先に、特有の小さな結び目が一つ。あの日、彼が自分の手で結んだものだ。この世界で、この特殊な結び方ができる人間は、雷星ただ一人だった。雷星はお守りをきつく握り締めた。その脳裏に、いくつもの記憶の断片が、濁流のように押し寄せてくる。――何年も前。航空士官学校の新入生歓迎会。雷星は、名誉教授として一度だけ、公開講義を行ったことがあった。遥は、最前列の真ん中に座っていた。瞳を、宝石のように輝かせて。質疑応答の際、雷星は彼女に問いかけた。「なぜ、パイロットの道を選んだ?」遥は緊張したように唇を引き結び、だが、まっすぐな声で答えた。「――昔、私を助けてくれた人が、いるんです。その人がパイロットで……私も、その人みたいになりたくて」――三年前。祝勝会の夜。少しだけ酒を口にし、頬を淡く色づかせた遥が、こっそりと雷星を見つめていた。同僚の一人が冷やかすように声を上げた。「星野さん、菅野司令のこと、好きなんじゃないのか?」遥は慌てて首を振って否定した。だが雷星が視線を向けた瞬間、遥の指は、無意識のうちに首筋へと触れていた。まるで、そこに下げた何かを、そっと撫でるように。――一年前。婚約を交わした夜。遥は雷星の肩に頭を預け、掠れるような声で呟いた。「雷星。覚えてる?あの時――」だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。愛椛からの電話が鳴ったのだ。「怖い夢を見た」と。雷星は急いでその場を
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第12話

会議室へと向かう道すがら、雷星は突きつけられた残酷な真実を、ただ黙々と反芻していた。自分が何をしてきたのか。そして、もう二度と取り戻せない「何か」を、いかにして無惨に叩き壊してしまったのかを。会議室の重い扉を押し開けると、中にはすでに多くの人間が着席していた。長机の中央には、監察査察チームの委員長が厳めしい面持ちで腰を下ろしている。愛椛は、入ってきた雷星を認めた途端、溺れかけた者が浮き輪を見つけたような顔で、ぱっと立ち上がった。愛椛は泣き声をまといつかせながら、雷星に駆け寄ろうとする。「雷星!早く、この人たちに言ってよ!こんなの全部、嘘だって!遥先輩が、あたしを嵌めようとしてるの!」そのすがりつくような表情の裏には、どこか傲慢な響きすらあった。これまで数え切れないほど繰り返してきたように、雷星が自分の前に立ちはだかり、必ず庇ってくれるものだと信じ切っていたのだ。だが、雷星は愛椛に一瞥もくれず、その横をただ通り過ぎていった。真っ直ぐに長机の前まで歩み出ると、委員長に小さく頷いて見せる。委員長が静かに切り出した。「菅野司令、お掛けください。井上愛椛の関与した一連の犯罪行為については、証拠の裏付けはすでにあらかた整っております。本日ご足労いただいたのは、これらの証拠そのものに対し、司令のほうから何か異議があるか否か――それを確認するためです」会議室中の視線が、一斉に雷星に集まった。愛椛も息を呑んで彼を見つめる。雷星はゆっくりと顔を上げた。落ち着き払った、しかし氷の刃のように冷ややかな声で言い切った。「異議は、ありません」愛椛の顔から、見る間に血の気が引いていく。唇を震わせ、雷星の言葉の意味そのものをまったく理解できないという顔をしていた。雷星は、なおも言葉を継いだ。「また、私の個人的な判断の誤りにより、星野遥を繰り返し、深く傷つけました。いかなる処分も、謹んで受ける所存です」「雷星!どうして、どうしてそんなこと言うの!」愛椛は金切り声を上げ、雷星に飛びかかろうとした。だが、即座に屈強な警備員たちに両腕を容赦なく取り押さえられる。混乱の中、愛椛は会議室から引きずり出されていった。廊下には、彼女の凄絶な泣き叫びが長く響き渡り、やがて少しずつ遠ざかっていく。雷星が自らの罪を認めて全面的に協力したこともあり、その後の
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第13話

パーティー会場の中は、華やかな衣装と、仄かに甘い香水の匂いで満たされていた。遥は、蒼淵の傍らに立っていた。床まで滑らかに流れる白のロングドレスが、遥のしなやかな輪郭を静かに浮かび上がらせていた。蒼淵が、遥のために誂えてくれた一着だった。試着のとき、鏡の中に立つ自分の姿を見て、遥は思わず言葉を失った。――十年。これほど丁寧に、自分自身を見つめたことが、果たして一度でもあっただろうか。「緊張してる?」蒼淵が、声を落として尋ねた。「……少しはね」遥は、素直に頷いた。滑走路とコックピットには身体が馴染んでいる。だが、ここまで美しく装った自分の姿は、自分でもまだ見慣れない。「僕についてくればいい」蒼淵は遥の背にそっと手を添え、人波の中へと導いていった。各方面からの挨拶を、洗練された物腰で、一つ一つこなしていく。探るような視線が向けられるたびに、蒼淵は微笑みながら、遥を紹介した。「蒼淵くんが女性を連れてくる日が来るとはねえ」年長の紳士が、冗談めかして目を細めた。蒼淵は何も答えず、ただ微笑みを返し、横目で遥の顔を見た。――ちょうど、そのときだった。遥の背後から、ひどく掠れた声が響いた。「遥」遥の背筋が、一瞬、ぴんと張りつめた。ゆっくりと、振り返る。数歩離れた場所に、雷星が立っていた。黒いスーツ姿。だが、ここへ駆けつけるまで、どれほど息を切らせてきたかが、ひと目でわかる佇まいだった。雷星の顔色は紙のように青白く、目の下には色濃い隈が刻まれていた。その中でただ一点、雷星の瞳だけが、遥の顔から片時も逸れることなく、縋りつくように注がれていた。――再会すれば、きっと激しく動揺するだろう。きっと、胸が痛むだろう。ずっと、そう思い込んでいた。だが、不思議なほどに、遥の心臓がほんのわずかに震えたのは一瞬だけで、すぐに凪のような平静が戻った。遠い異国で過ごした日々が、そして蒼淵という人の穏やかさが、遥の内にあった過敏な防衛本能を、少しずつ溶かしてくれていたのかもしれない。遥は小さく頷いた。礼儀正しく、だが決して踏み込ませない距離感を保ったまま、口を開いた。「菅野さん」その呼び名が、鋭い針のように、雷星の胸に突き刺さった。凪いだ遥の顔。蒼淵の隣で、ごく自然に力を抜き、親しげに寄り添う姿。得体の知れない焦
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第14話

緩やかな音楽が流れ始め、ダンスの時間が幕を開けた。蒼淵が、遥に向けて静かに手を差し出した。遥は一瞬だけ躊躇し、その手の上に、そっと自分の指先を預けた。二人は、ダンスフロアの中央へと滑り出ていった。周囲から、いくつもの視線が一斉に集まる。「蒼淵くんが、ダンスを踊るなんてね」「しかも、あんな見惚れるような女性を連れてだ。彼にもついに春が来たらしい」遥は、頬をかすかに色づかせた。だが蒼淵は、余裕の笑みを浮かべて遥を見下ろし、音楽に合わせて軽やかにリードしていった。柔らかく落とされた照明。翻るドレスの裾。その何秒間か、遥は周囲のすべてを、本当に忘れそうになった。やがて、音楽が変調し、パートナーを交換するパートへと移っていく。その瞬間だった。背後から、力強い腕がためらいなく伸びてきた。遥の身体は、蒼淵の手の中から強引に奪われ、別の胸元へと引き寄せられた。遥は不意に、かつて嫌というほど馴染んでいた匂いと体温の中に閉じ込められた。顔を上げると、苦悶に歪んだ雷星の瞳と真正面からぶつかった。――ようやく取り戻せたはずの静かな呼吸が、その一瞬で乱された。代わりに胸の奥からどろりと這い上がってきたのは、拭いようのない重たい嫌悪感と苛立ちだった。雷星の心に、本当の意味で『星野遥』という人間が存在したことなど、ただの一度もなかったはずなのに。どうして今さらになって、こんなにも執拗に縋りついてくるのだろうか。自分を連れ戻して、またいつでも差し出せる便利な盾として、手元に置いておくつもりなのだろうか。遥のほうから先に口を開いた。その声は、ひどく冷たく凪いでいた。「菅野さん。愛椛さんの件は、すでに証拠もすべて揃っている。相応の罰は、彼女自身が受けるはずだ。私が自分の手で、直接彼女へ報復に向かわないでいること――それだけでも、今の私に残されている、ぎりぎりの理性だと思っていただきたい」雷星のステップが、ぴたりと止まった。目の奥から、押さえ込んでいた苦痛が今にもこぼれ落ちそうになっている。雷星は、最後の藁に縋るように言葉を重ねた。「全部、知った。遥、俺は見る目がなかった。あいつに、まんまと騙されていた。その代償は、俺も必ず払う。あいつには、無期懲役の判決が下りた。あいつが生きている限り、獄中で『手厚い歓迎』を受けさせ続
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第15話

帰路の車内は、静まり返っていた。蒼淵はハンドルを握ったまま長いこと黙り込んでいたが、やがて、低く抑えた声で口を開いた。「……彼が、わざわざ君の前にまで出向いてきたんだな。君は、あの男のところへ戻るつもりか」その声には、滅多に表に出ない微かな寂しさが滲んでいた。遥は、窓の外を流れ去っていく街の灯火に視線を預けたまま、感情の起伏を一切感じさせない、平らな声で答えた。「蒼淵。これまでの出来事の大筋は、あなたも知っているでしょう。私が失ったものは――『ごめんなさい』の一言や、誰かに罰を与えることくらいで、取り戻せるものではないの。愛椛さんが憎いのはもちろんよ。でも、あのすべてを黙認して、見て見ぬふりをしてきたのは、他でもない、あの人よ」蒼淵が、横目で遥の横顔を見た。張り詰めていた肩のラインから、すっと力が抜けていく。蒼淵は小さく頷き、少し間を置いて口を開いた。「――そうか。それなら、いい。明日の護送任務だが、別の者に行かせようか。君は、少し休んだほうがいい」遥は、静かに首を横に振った。「ううん。あの人がどこに現れたところで、もう、私は揺らがないから」……翌日。駐機場にて。遥は一人、戦闘機の機体状態を入念に点検していた。本日の任務は、極秘研究の中核部品を受領してくる護送飛行だった。遥は慣れた手つきで離陸前チェックを済ませ、コックピットに身を収めた。戦闘機は一気に雲を突き抜け、ほどなく巡航高度へと到達した。遥は周波数を合わせ、受領シグナルとの同期準備に入る。――その時だった。レーダーの端に、ひとつの光点が、ふっと現れた。最初は、通りすがりの民間機かと思った。だが、その光点はつかず離れずの一定の距離を保ったまま、遥の航路にぴったりと食らいついてくる。遥は眉を寄せ、オープンチャンネルを開いた。「後方の国籍不明機。身分と意図を、ただちに明らかにせよ」回線の向こうが数秒沈黙した後、ひどく掠れた、今にも破れてしまいそうな声がこぼれ落ちてきた。「遥……俺だ。医者が言っていた。お前の右手の神経は、まだ完全には戻っていない。長時間のフライトは、負担が大きすぎると……心配で、お前を護衛しに来た」――雷星だ。遥の、操縦桿を握る指がきつく締まった。眉間に深い皺が寄る。遥は低く、冷たく笑った。骨の芯まで冷え込ま
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第16話

レーダー上で、雷星の機体を示す光点が、突如、狂ったように加速した。本来の航路から大きく逸れ、脇に聳え立つ山の稜線へと、一直線に突っ込んでいく――!「正気なの!?」遥の心臓が、ぎゅっと縮み上がった。思わず、喉から叫びが迸る。「やめて!本当に死ぬわよ!」「もし、これで、俺が死ななかったら……」激しい通信ノイズに削られながら、雷星の声が切れ切れに届いた。そこには、自らの命をチップ代わりに投げ打ったような、歪んだ執念だけが滲んでいた。「――俺を、許してくれるか」遥は、答えなかった。いや、答えられなかった。光点が山肌に吸い込まれていくのを、ただ、見開いた目で見つめ続けることしかできなかった。雷星の最後の声は、うわ言のように、薄く、軽かった。「……過ちを犯したら、罰を、受けなきゃならない」――凄まじい轟音が、空を劈いた。腹の底を揺らす爆発の衝撃。山の中腹から、炎の柱と黒煙が、一気に噴き上がっていく。遥の頭の中が、一瞬、真っ白に染まった。しかし――パイロットとしての本能が、遥の中のあらゆる憎しみや嫌悪を、一瞬で押さえ込んだ。遥はほぼ反射的に操縦桿を前方に押し倒し、墜落地点に向けて、機体を急降下させていった。「こちら星野遥!」遥は緊急通信チャンネルに切り替え、嗄れた声を絞り出す。「墜落事故発生。パイロットは緊急脱出した模様。至急、救助ヘリの要請、ならびに本任務の引き継ぎを求める!」同じ空を飛ぶ機体の墜落を、見て見ぬふりすることなど、できなかった。たとえ、その相手が――菅野雷星、その人であっても。それは、遥の骨の髄まで刻み込まれた、パイロットとしての絶対の掟だった。比較的平らな谷間に機体を降ろすと、遥はシートベルトを外し、救急キットを引っ掴んで、機外へと飛び出した。やがて――へし折れた、一本の巨木の根元に、遥は原型をとどめないほどひしゃげた射出座席と、全身を血に染めた雷星の姿を見つけ出した。雷星の顔は、血と土埃にまみれていた。右腕と左脚はねじ曲がっている。それでも、その胸は、かろうじて小さく上下していた。遥はぐっと奥歯を噛み締めた。応急処置で雷星の四肢を固定し、額から滴る汗も拭えないまま、雷星の身体を背負い上げ、戦闘機まで運び込んでいった。後部座席に雷星を括り付け、遥は操縦席に戻り、最寄りの都市へ離陸するための手
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第17話

今回の突発事故とそれに伴う心理的ショックを理由に、遥は蒼淵の強い要望で、一週間の休養を取ることになった。その一週間、もう二度と戻ってこないと思っていた悪夢が、ふたたび遥の枕元に這い上がってきた。燃え盛る炎。空を劈く爆発音。機体が山肌に吸い込まれていく、あの墜落の感覚。そして、雷星の最後の呟き――「今なら、お前がどれほど痛かったか、わかる」それらは、深夜の静寂の底から遥を窒息しそうな深みへと引きずり込んでいった。蒼淵は、遥の部屋の隣の客間に寝泊まりするようになった。「君の状態が心配だから、すぐ駆けつけられるようにね」それが、蒼淵の口にした理由だった。だが、遥にはわかっていた。理由がそれだけではないことを。蒼淵の眼差しの奥に、日ごとに濃くなっていく気遣いを、遥は確かに感じ取っていた。ただ、今はまだ、その視線に真っ直ぐ応えるだけの余力が、遥の中には残っていなかった。――また、悪夢に叩き起こされた、ある深夜のこと。短く悲鳴を上げた遥はベッドの隅にうずくまり、荒い呼吸のまま動けずにいた。そのとき、ドアを遠慮がちに叩く音が響いた。「遥?……大丈夫か」ドア越しに、蒼淵の穏やかな声がする。遥は答えなかった。ただ、闇の中の何もない一点を虚ろに見つめていた。やがて、ドアが静かに細く開いた。蒼淵は小さな常夜灯を手にして部屋に入ってくると、ベッドの縁にそっと腰を下ろした。「また、怖い夢を見たのか……大丈夫だ、もう怖くないぞ。悪い夢は、全部飛んでいってしまったからな」子供をあやすような、ひどく柔らかい声だった。――その一言が、何の身構えもない遥の胸の奥をまっすぐに貫いた。遥の全身が小さく震え、瞼の裏がじわりと熱くなる。幼い頃、怖い夢を見るたびに、祖母もまたこうしてベッドの縁に腰を下ろして、何度も何度も遥に言い聞かせてくれたのだ。「遥、怖くないよ。悪い夢は、飛んでいってしまったよ……ずっと、ずっと遠くへ、飛んでいったからね」熱いものが、前触れもなく遥の頬を伝って落ちた。遥はほとんど反射のように両腕を伸ばし、蒼淵の胸にぎゅっとしがみついた。顔を埋めたまま、肩が自分の意思では止められないほど激しく震え始める。蒼淵の身体が一瞬固まった。だがすぐに掌を持ち上げ、遥の背をゆっくりと、一定のリズムで叩き続けた。窓の
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第18話

目の前で無様に崩れ落ちた男を見据えたまま、遥の唇に、氷のように冷たい笑みが浮かんだ。「私があなたを許さないのは――あなたに、その価値がないからよ。それに、私が誰と、どう生きていくか。そんなことは、もうとっくの昔にあなたとは関わりのない話。今のあなたに、ここで私を問い詰める資格なんて一つも残っていないの」「……関わりがない、だと」雷星は、胸を深くえぐられたように顔を歪めた。そのまま前へ踏み出そうとした拍子に、傷ついた脚が限界を迎えて崩れ折れ、そのまま床に倒れ込んだ。それでも雷星は、地面に這いつくばったまま震える手で顔を持ち上げ、遥の姿を食い入るように見つめ続けた。「遥、俺を見ろ。頼むから、俺を見てくれ……俺たちは婚約していた。子供だっていたはずだろう。それなのに、どうして、お前はこんな簡単に別の男と――」「やめて……子供のことを、あなたの口から持ち出さないで」遥の声が、さらに一段と冷え切った。蒼淵は傍らの警備員に合図を送り、雷星を起こさせた。表向きは丁重だったが、その言葉の端には明確な追い出しの意思が滲んでいた。「菅野さん。君が行くべきなのは病院です。研究所の中でこうして場を乱すべきではない。……警備員さん、彼を病院へお送りしろ」雷星はなおも何かを叫ぼうと身を捩った。だが、全身に走る激痛とここ数日積み重なった消耗が、ついに雷星の意識を呑み込んだ。そのまま力なく項垂れた。病院にて。雷星がもう一度目を開けたとき、視界に入ってきたのは、張り詰めた面持ちで覗き込む副官――蒼の顔だった。「帰ろう。ここで起こされた騒ぎは、すでに本部の耳に入っている。今すぐ戻って対処しなければ――司令官の資格は本当に無くなる」蒼は声を落として告げた。雷星は天井を見つめたまま、ふいに低く笑い出した。その笑いには、自嘲と底の見えない絶望とがべったりと張りついていた。「……資格、か。俺は、ずっと空を飛ぶことが自分のすべてだと思ってきた。だが――今になってようやくわかったんだ。遥を失った俺には、最初から何一つ残っていなかったんだ」「しかし……」「……なのに、あの如月、あいつが、俺の隙に付け込んだんだ。遥の心にいるのは俺のはずだ。十年だぞ。十年も、遥は俺を待ち続けた。そんな女が、こんな簡単に――他の男に心を明け渡すはずがないんだ」雷星は
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第19話

「お前がいなけりゃ、俺はもう、戻れないんだ。遥……本当に、お前を愛してる。お前のいない日々なんて、俺には何の意味も持たない」――愛だと?遥は、苦痛に歪んだ雷星の顔を見据えたまま、ただ馬鹿馬鹿しくてならなかった。遅れて差し出される情など、道端に転がる石ころよりも軽い。「俺たちには、まだ未来がある。あの子を失ったことはわかってる。だが、また作ればいい。二人でも三人でも、何人だって。俺はいい父親になる。今度こそ、まともな家庭を――」「もういい加減にして。あの子のことを、あなたの口から語る資格はないの。あの子を殺した人間のひとりは、他でもない、あなたなのよ」遥が勢いよく立ち上がった。そして、一語一語区切るように、冷えた刃を落とした。「家庭を持つことに憧れる気持ちは、確かに私の中にもあるわ。――でも、その相手は絶対にあなたなんかじゃない」言い終えると、遥はもう雷星を一瞥もしなかった。身を翻し、足早にその場を後にする。雷星はその場に縫い止められたように動けず、遥が扉を押し開け、道路の縁石へと歩み出ていく姿をただ見送ることしかできなかった。――一台の黒い車が、そこに静かに停まっていた。窓がするりと下がり、蒼淵の横顔が覗く。遥はドアを開け、迷いのない動作で車に乗り込んだ。車はごく滑らかに車列に合流し、やがて雷星の視界からすっと消えた。――その瞬間だった。雷星の胸の奥で、何かがぶつりと、決定的な音を立てて断ち切れた。もう、待っていられない。遥の気持ちを、今すぐにでも取り戻さなければならない。ほんの僅かな隙間でいい。ほんの少しでいい、二人きりで過ごす時間さえあれば……雷星の目の奥に狂った執念が滲んだ。――チャンスは、雷星が思い描いていたよりも、ずっと早く転がり込んできた。ある飛行任務の最中のことだった。遥の機体は、身元不明の改造機二機によって、知らぬ間に本来の航路から押し出されていった。遥が異変を察したときには、すでに通信には強力なジャミングが掛けられ、機体は両翼から挟み込まれるようにして、人気のない山岳地帯へと誘導されていた。やがて遥の機体は、抗う術もなく着陸を強いられた。――雷星が、そこに立っていた。フライトスーツ姿のまま、奇妙に凪いだ、読み取りがたい表情を浮かべて。「降りてこい、遥……ここ
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第20話

雷星は、弾かれたように、隣の席の遥を見た。遥の顔は血の気が失せ、唇はきつく引き結ばれている。その目の中には、ただ、剥き出しの恐怖だけが、凍りついていた。――そうだ。雷雨。遥の七つの穴から血を噴き出させ、機体を空中で引き裂きかけた、あの雷雨――雷星の胸の奥が、凍るような自責と恐怖に貫かれた、ちょうど、その瞬間だった。前方、分厚く垂れ込めた雲の腹から、一筋の稲光が、闇を真二つに裂いた。その光は、寸分の狂いもなく、雷星の機体めがけて、まっすぐに落ちてきた――!「危ない――!」遥が、喉を引き裂くように叫んだ。まさに、一瞬の出来事だった。側方から、蒼淵の機体が、およそ人間業とは思えない角度で突っ込んできて、雷星の黒い機体と、落ちてくる稲光の、その狭間に――身を挺して、割って入った。――ドガァァァン。鼓膜を裂くような轟音と、視界を焼き尽くす白い閃光が、一斉に弾けた。遥の視界が、一瞬で、涙に滲んだ。蒼淵の機体が、稲光の直撃を正面から浴び、制御を失った独楽のように錐揉み回転しながら、眼下の、漆黒に沈んだ山林へと、一直線に落ちていく――その光景が、目に焼きついたからだ。「だめ――!」その瞬間、遥の心臓が、ひゅっと、音を立てて縮み上がった。――嫌。蒼淵だけは、彼だけは、だめ!遥は、自分でも信じがたい力を、どこからか振り絞った。全身の拘束を引きちぎるようにして、操縦席に身を投げ出し、雷星の手から、操縦桿をもぎ取った。「――何をする気だ!?」雷星が、驚愕と怒りの混ざった声で叫んだ。「助けに行くの」遥は、雷星に一瞥もくれなかった。操縦桿を引き下ろし、機体を、墜ちていく蒼淵の機影へと、追い縋らせる。「あいつが、そんなに、大事なのか?――自分の命を投げ出してまで、助けに行くほどに」雷星は、遥の、迷いを振り切った横顔を見つめた。胸の奥を、鋭い刃で抉られるような痛みが、ゆっくりと広がっていく。雷星は、掠れた声で、問い詰めた。「私はただ、パイロットとしてやるべきことをやっているだけよ」遥の声は、切れ切れに震えていた。だが、その芯は、研ぎ澄まされた刃のように、硬く、揺らがなかった。「あなたとは違う。あなたはもう、とっくにパイロットの使命を裏切ってる。何のために空を飛んでいたのかも忘れてしまった」機体は、限界の速度で、山林へと
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