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雲の彼方に散る愛

雲の彼方に散る愛

By:  あかりが私Completed
Language: Japanese
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菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。 十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり遂げている。二十五歳で北方航空基地の指揮官の座に就き、一万回を超える指揮でもミスは一度としてない。 雷星の辞書に「私情」の文字はない。あるのは「責務」のみだ。 星野遥(ほしの はるか)は五年を費やし、素手で百メートルの断崖を攀じ登り、高空の鋼索を渡り歩いて、ようやく高所恐怖症を克服した。 航空士官学校に合格し、首席で卒業を果たした。そのまま北方航空基地へと配属される。 あと五年の考査期間を無事に通過すれば、エースパイロットとなり、雷星のただ一人の飛行パートナーになれるはずだった。 ところが、この五年間に与えられた三度の任務は、いずれも惨憺たる結末を迎えることとなった。 一度目は雷の直撃を受けて全身から血を流し、二度目は家族全員が報復によって無惨に殺され、三度目は全身の骨が砕ける重傷を負った。 そのすべてが仕組まれた罠だった。遥がようやく黒幕を突き止めたとき、扉の向こうから耳に飛び込んできたのは、あの男の言葉だった。 「俺と遥が結婚すると知り、きっと受け入れられなかったのだろう。だから俺が伏せておいた。あの程度の過ちで、彼女の一生を台無しにする必要はない」 遥は、ただ静かに笑った。 そして、彼に生涯消えない悔恨を抱えさせることになる「三つのもの」を残して去っていった。

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第1話
菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり遂げている。二十五歳で北方航空基地の指揮官の座に就き、一万回を超える指揮でもミスは一度としてない。雷星の辞書に「私情」の文字はない。あるのは「責務」のみだ。星野遥(ほしの はるか)は五年を費やし、素手で百メートルの断崖を攀じ登り、高空の鋼索を渡り歩いて、ようやく高所恐怖症を克服した。航空士官学校に合格し、首席で卒業を果たした。そのまま北方航空基地へと配属される。あと五年の考査期間を無事に通過すれば、エースパイロットとなり、雷星のただ一人の飛行パートナーになれるはずだった。ところが、この五年間に与えられた三度の任務は、いずれも惨憺たる結末を迎えることとなった。一度目の任務は、雷星自らの命令によって下された。遥は国境の外から極秘の製剤を持ち帰ることになった。しかし、唯一の飛行ルートで激しい雷雨に遭遇してしまう。遥は歯を食いしばり、戦闘機を操縦して雷雲を引き裂くように突破した。製剤のケースは無傷のままだったが、機体はいたるところが激しく損傷していた。二度目は、百人規模の拉致事件での航空支援任務だった。遥はすでに犯人の位置を特定し、あとは包囲網を締め上げるだけのところまで追い詰めていた。その決定的な瞬間、暗号通信に一人の女の声が突如として割り込み、作戦計画を敵に晒してしまった。雷星は間髪を入れず命令を下した。「プランBに移行。機体ごと目標ビルへ突入せよ。今すぐだ」遥は一切の躊躇なく指示に従い、百名の人質は全員無事に救出された。しかし、遥を窮地に陥れたあの女の声の主は、いつまで経っても突き止められないままだった。三度目には、遥は紛争地帯への救援物資投下任務に派遣された。ところが、最初に投下された荷物は――爆弾だった。遥は自らの機体を爆弾に衝突させ、空中で起爆させるほかなかった。無数の命を救ったにもかかわらず、その危険極まる操縦を理由に、一年間の飛行停止処分が下された。五年の考査期間が終わり、遥は雷星の直属チームから外される運命に直面していた。それでも、遥は諦めていなかった。この一年、あらゆる伝手を使って調査を続け、掴んだ証拠はすべて同じ一つの名前を指し示していた。
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第2話
次の瞬間、鼓膜を突き刺すような警報音が鳴り響き、遥は弾かれたように席を立った。駐機場での緊急事態を告げるアラートだった。この一年、飛行停止処分を受けていた遥は、地上での戦闘機メンテナンスを任されていた。その遥が考えるより早く、体の方が外へ飛び出していた。格納庫のすぐ手前まで来たところで、遥の心臓が一気に冷え込んだ。視線の先に、愛椛がいた。遥が五年間かけて守り抜いてきた戦闘機のすぐ脇に立ち、その手には起爆装置が握りしめられている。それは、本来なら機体が制御不能の致命的リスクに晒されたとき、最後の最後にだけ使用される、自爆用の最終手段だった。「それを置きなさい!」遥は声を張り上げた。愛椛がビクリと肩を震わせる。「遥先輩、あたしはただ、いつもみたいに機体の点検をしてて……」遥は一歩ずつ間合いを詰めながら、氷のような声で言い放った。「さっきも言ったはずよ。その起爆装置を置きなさい。それは遊び道具じゃない」愛椛は下唇を噛みしめ、次の瞬間、何かにひどく怯えたように全身を震わせた。そのまま、勢いよく起爆装置のボタンを押し込んだ。「やめろ!」遥が飛びかかろうとしたが、ほんの一瞬遅かった。凄まじい爆音と共に、爆風が遥の身体を容赦なく地面へ叩きつける。それでも、痛みはほとんど感じなかった。見開いた瞳に映っていたのは、五年間苦楽を共にしてきた愛機が、炎の中でひしゃげ、きしみ、やがてバラバラに崩れ落ちていく光景だけだった。視界が一気に暗転し、遥の意識は闇の底へと沈んでいった。……医務室にて。医師が擦り傷に薬を塗り、ガーゼを当てていくのを、遥はただされるがまま受けていた。目を閉じても、脳裏には空へと噴き上がる炎の柱が焼き付いたままだった。この五年間のすべての昼夜、幾度となく繰り返した離着陸、機体に触れた指先の感触。積み重ねてきた記憶の一つ一つが、あの爆発と共に灰になってしまった。そのとき、不意にドアが開いた。雷星が入ってきて、その後ろには目の周りを真っ赤に腫らした愛椛が、身を縮こまらせて立っていた。愛椛が泣き声混じりに言い訳を始める。「遥先輩が急に飛びかかってくるから、びっくりしちゃって……それに、あれ、ただの普通のスイッチだと思ってたんです。起爆装置だなんて、本当に知らなくて……」遥は自嘲気
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第3話
つまり、遥にはまだ雷星の唯一の飛行パートナーになる可能性が残されている、ということだ。しかし遥はただゆっくりと立ち上がり、無言で頷いた。雷星は一瞬、虚を突かれた顔をした。もうかつてのように、目を輝かせて「本当ですか」と問い返すことも、「絶対にご期待を裏切りません」と意気込んで誓うことはしなかった。遥は無言のまま雷星の横をすり抜け、視線すら向けなかった。すでに、心の中で決断は下されていたからだ。この任務を終えたら、辞表を出す。十年――もう目を覚ます頃合いだ。駐機場では、白衣姿の男が戦闘機に寄りかかりながら資料に目を通していた。視線が交差した瞬間、二人とも少し驚いた表情を見せた。白衣の科学者は目を丸くして言った。「遥さんですか?てっきり、あの男性パイロットが来るものと思っていました」遥は事務的な態度で機体の状態をチェックしながら答えた。「パイロットの腕に性別は関係ありません。搭乗してください。三分後に離陸します」飛行中、幾度となく発生した乱気流を、遥は完璧な操縦で回避してみせた。無事に着陸を終えると、あの科学者はシートに深く背中を預け、問いかけた。「僕のチームには、最高水準のパイロットが必要です。年俸はこの基地の三倍、興味はありますか?」遥はそこで初めて、横を向いて科学者を見据えた。「あと一ヶ月ほど、時間をください」「問題ありません」帰路、遥が操縦に集中していると、突然レーダー画面から航路表示が消失し、すべての通信が途絶えた。遥の胸の奥で警鐘が鳴った。知りうる限りの復旧手順を試したが、通信は一向に回復しなかった。上空を旋回し続けるしかなく、燃料はすでに残り三分の一にまで減少していた。管制塔と速やかに連絡が取れなければ、安全な着陸ルートすら確保できない。やむを得ず、最も危険な目視外の計器着陸手順に移行しようとしたその時、チャンネルからかすかなノイズが漏れ聞こえた。通信が繋がったのだ。遥は即座に呼びかけた。「こちら星野遥。着陸誘導を要請する。繰り返す、誘導を――」だが、言葉はそこで途切れた。ヘッドセットから聞こえてきたのは、管制官の応答などではなかったからだ。泣きじゃくる愛椛の声が鼓膜を打った。「雷星、あたしを置いて、本当に遥先輩と結婚しちゃうの?」雷
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第4話
「愛椛!」雷星が叫びながら後を追った。遥がランディングギアを下ろそうとした、まさにその瞬間。一つの人影が、ふらりと滑走路に飛び出してきた。遥は咄嗟に操縦桿を力任せに引き上げる。ランディングギアが、滑走路の縁をガリッと抉るように掠めた。機体はバランスを失い、凄まじい火花を散らしながら、脇のフェンスに激突した。遥の体が、計器盤に容赦なく叩きつけられる。衝撃で、口からどっと鮮血が噴き出した。意識を手放す寸前、遥の網膜に焼き付いた最後の光景は――地面にへたり込む愛椛を、しっかりと胸に抱き止める雷星の姿だった。こちらへは、一瞥すらくれなかった。目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。どれほどの時間、眠っていたのかもわからない。だが、瞼を開けた途端、険しい顔をした雷星に腕を掴まれ、半ば無理やり別の病室へ連れていかれた。「ひくっ」ベッドの上の愛椛が、大きな目に涙を溜めたまましゃっくりを漏らしていた。「あたし、びっくりすると、ひくっ、しゃっくりが止まらなくなっちゃうの。苦しくて、苦しくて……」全身を苛む痛みで、意識が霞む。遥は自分の耳を疑った。雷星は遥を真正面から見据え、有無を言わさぬ声で命じた。「遥、愛椛に謝れ。お前の無茶な着陸で愛椛を怖がらせた。そのせいでしゃっくりが止まらなくなっている。早く謝れ」「……今、何て言った?」遥はかすれた声で聞き返した。肋骨は何本か折れている。内臓もどこかがやられているはずだ。愛椛が「驚いて」しゃっくりが止まらない。ただそれだけのために、自分は病床から引きずり出され、頭を下げろと言われているのか。遥はその場に立ち尽くした。全身から血の気が引き、指先の小刻みな震えが止まらない。遥は静かに聞いた。「……もし、謝らないと言ったら?」雷星の眼差しが、一段暗く沈む。彼は身を寄せ、二人にしか届かない声で囁いた。「遥。飛行時間の管理を誤って燃料を切らし、そのうえ俺の命令に背いた。どう考えても非はお前にある。それとも、お前の祖母が明日にでも一般病棟へ移されることを望むのか」遥は弾かれたように顔を上げ、雷星を睨んだ。祖母は、遥に残されたたった一人の肉親だった。三年前、特別療養施設に入っていたおかげで、あの犯人グループの報復だけは免れていたのだ。自分の口からこ
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第5話
一週間あまりの療養を経て、遥はようやく弱りきった身体を引きずるようにして、職員寮へと戻った。ドアを押し開けた瞬間、そこにいるはずのない人物の姿が、遥の視界に飛び込んできた。愛椛が、遥の机の前に座って、のんびりとマニキュアを塗っている。愛椛は顔も上げずに言葉を放った。「おかえりなさい。ここ最近の騒ぎのせいで、あたし、基地の中で浮いちゃってて。雷星が、しばらくここに住んでいいって。遥先輩が面倒見てくれるからって、ね」遥は何も答えなかった。雷星のことだから、本当にそんなふうに言ったのだろう。この一週間、雷星が病室に顔を出した回数など数えるほどで、その大半も電話一本ですぐに呼び戻されていった。もう、どうでもよかった。遥は黙々と荷物を片付け始めた。そして、ふと手が止まる。視線が引き寄せられたのは、収納棚の上。そこには、家族四人の骨壺が並んでいたはずだった。だが今は、何もない。遥は棚の前まで駆け寄り、床に崩れ落ちるように膝をついて、必死に辺りを探した。愛椛が気だるそうにバルコニーの方へ目を向けた。「あの壺のこと?部屋の中に置いとくなんて、縁起が悪くて嫌じゃない。だから、外に出しておいたの」遥は弾かれたように駆け出し、ガラス戸を押し開けた。バルコニーの隅に、四つの骨壺が無造作に転がされていた。表面には、無数の猫の足跡が泥のようにこびりついている。壺の一つから、一匹の猫が音もなく飛び出していった。むっとするような獣のアンモニア臭が、鼻の奥を突く。家族の遺灰は――猫のトイレ代わりにされていたのだ。遥が指の震えを堪えながら大切に守り続けてきた、ただひとつのもの。亡き家族との絆を、かろうじて繋ぎ止めていた最後の拠り所。「い、の、う、え、あ、い、か」遥の声は、ぞっとするほど静かだった。愛椛が立ち上がり、一歩後ずさる。ポケットの中へ、こっそりと手を滑り込ませた。「な、何する気なの?あんな灰、取っておいたって環境に悪いだけでしょ。むしろうちの猫の役に立てたんだから、ありがたいと思ってほしいくらいなんだけど!」遥はバルコニーの園芸用の鋏を掴み上げると、愛椛に向かって一息に飛びかかった。愛椛は金切り声を上げて逃げ惑うが、訓練を積んだ遥から逃げきれるはずもない。しかし、鋏を振り下ろそうとした、その瞬間。窓の向こう
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第6話
俺のために泣き、笑い、すべてを捧げてきた遥の面影は――もう、どこにも残っていないように見えた。雷星は、胸の奥に湧いた得体の知れない違和感を押し殺し、背を向けた。「ゆっくり休め。明日また来る」ドアが閉まった。右腕の痛みが波のように押し寄せてくる。そのとき、枕元のスマホが鋭く鳴った。療養施設からの、緊急着信だ。遥は手首の痛みも構わず、すがりつくようにして電話に出た。職員の声が、明らかに上ずっていた。「星野さん、おばあ様の容態が急変しました。現在は蘇生処置を行っていますが、非常に厳しい状況です。すぐに来ていただけますか……これが、最期になるかもしれません」遥の心臓が、凍りついたように跳ねた。遥は手の甲に刺さっていた点滴の針を乱暴に引き抜き、もつれる足でベッドから転げ降りて、病室を飛び出した。ところが、エレベーターの前で――雷星が、青ざめた顔で遥の行く手を塞いだ。「どいて!おばあちゃんが危ないの……!」遥は掠れた声で叫び、雷星の脇をすり抜けようとした。雷星の手が、遥の腕を強く掴む。振りほどけない力だった。「愛椛が拉致された。奴らの狙いは俺だ。お前が身代わりに行け。今すぐだ」「離して、お願いだからどいて!」遥は腕を振ろうとしたが、外れない。涙声で懇願するしかなかった。「お願い、一晩だけ。たった一晩だけでいいから……!」「時間がない」雷星は、ほとんど引きずるようにして遥を車へ押し込んだ。「お前の祖母には、俺が最高の医療チームを手配する」足元がもつれた。負傷した右手が壁に激しくぶつかる。骨の奥を抉られるような痛みに、遥の視界が一瞬、真っ暗になった。「雷星……お願い……」遥の声は、震えていた。もちろん、何の役にも立たなかった。遥の痛みも、嘆きも、雷星の心には、もう届かない。泣きながらの懇願に、雷星はほんの一瞬だけ足を止め、遥の額に形ばかりの口づけを落とすと、おざなりな約束を残した。「必ず、迎えに来る」廃工場の中。遥は、愛椛の身代わりとして、犯人たちの手に引き渡された。だが、丸三日が過ぎても、雷星は現れなかった。犯人たちの忍耐も、そこで尽きた。肋骨を殴り折られた。右の手首は、刃物で筋を断ち切られた。遥は痛みに耐えるため自分の唇を噛み破り、もう声を出すことすらできなくなってい
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第7話
雷星が公務を片付け、休暇を取って自宅に戻った頃、外はまだ十分に明るかった。明日、ついに結婚する日を迎える。その事実が、雷星の胸を妙に騒がせていた。認めるのは癪だが、そこには確かに、かすかな期待が燻っていた。ウォークインクローゼットに足を踏み入れる。十数着のスーツが整然と並んでいた。どれも、司令官という立場にふさわしい暗い色調のものばかりだ。だが、彼の足は、一番端に掛けられた一着の白いスーツの前で止まった。かつて遥が自分のために選んでくれたものだ。受け取った時は「必要ない」と冷たく突き放したが、今は不思議と、これこそが明日の入籍にふさわしいと思えた。明日は、これを着て行こう。雷星はスマホを取り出し、遥へメッセージを送った。【明日の朝九時、迎えに行く】画面を見つめたまま、見慣れた「入力中」の文字が浮かぶのを待つ。一分。二分……そして五分経っても、一向に返信が来なかった。雷星は不機嫌に眉を寄せた。以前の遥なら、たとえ夜間任務の真っ最中であっても、自分からのメッセージを見た瞬間に「了解」の一言を必ず返してきたはずだった。雷星はスマホをナイトテーブルに置き、バスルームへ向かった。熱い湯を頭から浴びていると、ふと思い至った。思えば、この一年は、自分と遥がもっとも長く時間を共にした一年だったのではないか。飛行停止処分を受けて彼女は沈み込んでいたが、少なくとも、ずっと基地の中、自分の視界の届く場所にいた。かつてのように、遥が空を飛び、自分が各戦線を渡り歩いて、何ヶ月も顔を合わせられない日々とは違っていたのだ。タオルで髪の水気を拭いながら、雷星がまずしたのは、スマホの画面を覗き込むことだった。やはり、返信はない。胸の奥にまた、正体の掴めない苛立ちが湧き上がってくる。雷星はベッドの端に腰を下ろし、指先で無意識に膝を叩いていた。ここ数日、確かに遥のことをないがしろにした自覚はある。だが、愛椛は自分が初めて救い出した相手だ。しかも、拉致されたばかりで心身ともに不安定になっている。その傍に付き添ってやるのは、自分にとって当然の責任のはずだ。遥なら、わかってくれるはずだ。その時、手元のスマホが震えた。雷星は即座に通話ボタンを押し、無意識のうちに声を弾ませた。「どうした。明日は予定通り迎えに行くぞ」
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第8話
雷の直撃を受けて全身から血を噴き出した時も、全身の骨が砕けるような重傷を負った時も、そして最近の立て続けの事故の時でさえ――遥がこんなふうに泣きじゃくる姿を、雷星は一度も見たことがなかった。「痛い」と声を漏らすことすら、ほとんどなかったのだ。むしろ、遥のその芯の強さを、自分はどこかで好ましく思っていたのではないか。だが、思い返せば、愛椛は幼い頃に十日以上も暗闇に監禁された過去を持つ身だ。その心に深いトラウマが残っているのは、無理もないことだ。雷星は声を柔らかく落として言った。「もう大丈夫だ。すべて、過ぎたことだ」愛椛が、濡れた瞳を雷星に向ける。「ずっと、そばにいてくれる?」雷星は、少し間を置いてから答えた。「俺は、これからもお前の面倒を見るつもりだ。だが愛椛。お前ももう大人だ。そろそろ、自分一人で恐怖を乗り越えることを覚えなければならない」愛椛は、雷星の身体にさらにきつくしがみついた。「いやだ!あたしには、もう雷星しかいないの。雷星にまで捨てられたら、本当に、本当に、何も残らないよ……!」……窓の外は、いつの間にか暗くなり始めていた。雷星は時計に目をやった。明日の朝九時には、遥を迎えに行かなくてはならない。そろそろ自宅に戻って、身支度を整える必要があった。「愛椛。もう行く」雷星はそう告げ、愛椛の腕から身を引き剥がそうとした。愛椛は、その手にさらに力を込めてしがみついてくる。「行かないで!行っちゃったら、もう、あたしの雷星じゃなくなっちゃう……!」雷星の顔に、初めて冷ややかな色が差した。「明日は俺にとって重要な日だ。予定を狂わせるわけにはいかない」雷星は、愛椛の指を一本ずつ、ためらいなく解いていった。愛椛は、呆気にとられたように動きを止め、見る間に涙を溢れさせる。「そんなに、あの人が大事なの……?じゃあ、あたしは?あたしは、一体何なの?」雷星は立ち上がり、愛椛を静かに見下ろした。「お前は俺が面倒を見るべき、妹みたいなものだ。だが、遥は俺の婚約者だ。愛椛、その一線だけは弁えておけ」それだけ言い残すと、雷星は背を向けて病室を出た。自宅に戻った頃には、もう深夜になっていた。雷星はベッドに身を横たえ、もう一度スマホの画面を覗く。遥からの返信は、依然として、なかった。翌朝早く
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第9話
雷星は愛椛を見下ろし、得体の知れない徒労感に襲われた。「愛椛。あの件は、そもそもお前に非があったはずだ」愛椛は一瞬、息を呑んだ。そして次の瞬間、さっきよりもずっと大きな声で泣き叫び始めた。「じゃあ、遥先輩は悪くないって言うの?あたしたちが一緒に引き取った子なのに!あの子の死を、このまま泣き寝入りしろって言うの!?」雷星は指で眉間をきつく押さえた。しかし、彼が心の中で考えるのは――遥が腹立ち紛れに猫を轢き殺したというなら、それで少しは気が晴れて、機嫌も直るかもしれない。その推測が、雷星の胸にほんのわずかな安堵をもたらしていた。雷星は構わず、愛椛の脇を通り抜けようとした。「愛椛。この話はまた後だ。俺は今すぐ遥のところへ行かなければならない」愛椛はドアの前に立ちはだかり、両手を広げた。「行かせない!今日ここを出るなら、あたし、ここから飛び降りるから!」――また、この手か。雷星は、不意にひどくうんざりした。この数年、愛椛が感情を爆発させるたびに、結局は雷星が折れる形で終わってきた。だが――今回だけは、違う。「愛椛、どけ」雷星の声は、氷のように冷たかった。愛椛の泣き声はさらに激しくなり、ついには、しゃっくりが交じり始めた。ヒクッ、ヒクッと、喉の奥で立て続けに音が跳ねる。「やだ、ひくっ、行っちゃ、ひくっ、やだよぉ……」雷星は一度きつく目を閉じ、湧き上がる苛立ちを力ずくで押し殺した。これ以上、愛椛と揉みあっていたくなかった。今日は遥と籍を入れる日だ。苛立ちを引きずったまま遥の前に立ちたくはなかった。苛立ちを逸らすように、雷星は唐突に話題を変えた。「そういえば。以前お前に渡したお守り、見つかったのか」その瞬間、愛椛の泣き声が嘘のようにピタリと止んだ。顔からも、すうっと血の気が引いていく。「ま、まだ、探してる……たぶん、どっかの金庫に、しまい込んじゃったんだと思う」愛椛の瞳は泳いだまま、決して雷星と目を合わせようとしなかった。雷星は愛椛をじっと見据えた。胸の奥でくすぶっていた違和感が、さらに一段、輪郭を帯びてくる。三年前、愛椛を見舞いに行った時、雷星は一度、わざわざお守りのことを尋ねたことがあった。あの時、愛椛はこう答えた。「ちゃんと、大切にしまってあるよ」それからしばらくして、基
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第10話
海の向こうの遠い異国にて。遥は少ない荷物を手に、空港の到着ロビーへと歩み出た。立ち止まり、胸いっぱいに息を吸い込む。――約束を果たすために、ここへ来たのだ。「遥」誰かが遥を呼んだ。顔を上げると、少し離れた場所に如月蒼淵(きさらぎ そうえん)が立っていた。金縁の眼鏡に、淡い色のシャツ。袖口は、無造作にまくり上げられている。あの護送任務のときに見せた、張り詰めた科学者の顔つきとは違う。今の蒼淵は、ずっと昔、航空士官学校で初めて出会った頃の青年の姿に近かった。「如月教授」遥は、小さく会釈をした。蒼淵は片方の眉を上げ、遥の荷物をすっと受け取った。「ここは研究所じゃない。蒼淵でいい。車は外に停めてある」滞在先へ向かう車の中は、穏やかな静けさに満ちていた。窓の外を流れていく見知らぬ街並みを眺めるうちに、遥の胸に、ふと遠い日の記憶が蘇ってきた。あの頃、遥はまだ航空士官学校の学生だった。全国規模のフライトシミュレーション大会に出場し、蒼淵は航空工学専攻の代表として、宇宙船設計コンテストに参加していた。二つの競技会場は隣り合わせで、休憩時間に廊下で、偶然、肩が触れるほどの距離ですれ違ったのだ。あのときの蒼淵は、こう言った。「君のフライト、見事だった……だが、あまりにも無茶をしすぎる。どうして、そこまで命を削る?」十八歳だった遥は、額の汗を手の甲で拭い、頭の中を雷星のことでいっぱいにしたまま、誇らしげに笑ってみせた。「パイロットって、すごく大事なの。誰かにとっての切り札で、最後の希望になることだってある。だから――一番じゃなきゃ、だめなの」その後も、二人は途切れ途切れに連絡を取り合っていた。そして、あの護送任務で、ようやく直接、顔を合わせたのだ。あの戦闘機のコックピットで、蒼淵は遥を少しからかった。「『必ず、お前のために駆けつける人がいる』――あの言葉を信じていた女の子が、本当に最高のパイロットになってしまったな」そして、今は――部屋に着くと、蒼淵は鍵をテーブルの上に置いた。「まずは、ゆっくり休むといい。フライトの仕事は、急がなくていい。体を治すのが先だ」遥は、自分の右手に巻かれた包帯に目を落とした。「もう、飛べないかもしれません」「神経科の専門医に、何人か知り合いがいる」蒼淵は、
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