LOGIN菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。 十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり遂げている。二十五歳で北方航空基地の指揮官の座に就き、一万回を超える指揮でもミスは一度としてない。 雷星の辞書に「私情」の文字はない。あるのは「責務」のみだ。 星野遥(ほしの はるか)は五年を費やし、素手で百メートルの断崖を攀じ登り、高空の鋼索を渡り歩いて、ようやく高所恐怖症を克服した。 航空士官学校に合格し、首席で卒業を果たした。そのまま北方航空基地へと配属される。 あと五年の考査期間を無事に通過すれば、エースパイロットとなり、雷星のただ一人の飛行パートナーになれるはずだった。 ところが、この五年間に与えられた三度の任務は、いずれも惨憺たる結末を迎えることとなった。 一度目は雷の直撃を受けて全身から血を流し、二度目は家族全員が報復によって無惨に殺され、三度目は全身の骨が砕ける重傷を負った。 そのすべてが仕組まれた罠だった。遥がようやく黒幕を突き止めたとき、扉の向こうから耳に飛び込んできたのは、あの男の言葉だった。 「俺と遥が結婚すると知り、きっと受け入れられなかったのだろう。だから俺が伏せておいた。あの程度の過ちで、彼女の一生を台無しにする必要はない」 遥は、ただ静かに笑った。 そして、彼に生涯消えない悔恨を抱えさせることになる「三つのもの」を残して去っていった。
View Moreあの恐怖、あの焦燥、そして深く、どうしようもないほどの愛……雷星はこれまで、自分にはまだチャンスが残っていると思い込んでいた。この手さえ離さず、遥をそばに縛りつけておけば。来る日も来る日も一緒に過ごしていれば、いつかきっと、あの冷え切った心をもう一度温め直せるはずだと――そう、信じていた。けれど、遥が一片の迷いもなく拘束を振りちぎり、吹きすさぶ風の舞う虚空へとその身を投げ出した、あの瞬間――雷星は、ようやく芯から思い知らされた。遥を、もう二度と取り戻せないのだと。何をしようと。どれほど哀願しようと。どれほど狂って見せようと。遥の視線がもう一度自分の上で止まることは、今後一秒たりとも、ない。遥が自分に向ける感情は――もう、憎悪と冷たい拒絶だけだ。そしてそのすべては、雷星自身が招いた結末であり、どうあがいても取り返しがつかない。ふいに、生ぬるいものが雷星の目尻から頬を伝い落ちた。――ああ。心が死ぬというのは、こういうことか。背後から、慌ただしい足音が近づいてくる。雷星は、振り返らなかった。蒼の声が耳に届く。その声には、長きにわたる疲労と、隠しきれない痛惜が滲んでいた。「雷星……もう、終わりだ」暗色の制服を纏った軍の捜査官数名が雷星の前に進み出ると、身分証と一枚の令状を提示した。「菅野雷星。複数の重大な容疑により、ただちにあなたの身柄を拘束する――抵抗はするな」カチャリと乾いた音を立てて、無機質で冷たい手錠が雷星の手首に嵌められた。蒼は、紙のように色を失った雷星の顔を見つめ、低く絞り出すように言った。「……どうして、こんなことに。あんたはもう二度と、雲の上には戻れない。七歳のあの日からずっと追いかけてきた、たった一つの夢だったじゃないか」雷星はゆっくりと顔を上げ、窓の向こうに重く垂れ込めた鈍色の雲をただ見つめた。ふ、と雷星の喉から、空虚で掠れた笑いが零れた。「……そんなものは、とっくの昔に失っていたさ」……あっという間に数ヶ月が過ぎ、遥の日常は、研究所と病院の集中治療室を行き来するだけの、ひどく単調なものになっていた。そして、ある穏やかな午後のこと。ベッドに横たわる蒼淵の指先が、誰にも気づかれないほど微かに動いた。傍らで付き添っていた遥の身体が、弾かれたように固まった。
雷星は、弾かれたように、隣の席の遥を見た。遥の顔は血の気が失せ、唇はきつく引き結ばれている。その目の中には、ただ、剥き出しの恐怖だけが、凍りついていた。――そうだ。雷雨。遥の七つの穴から血を噴き出させ、機体を空中で引き裂きかけた、あの雷雨――雷星の胸の奥が、凍るような自責と恐怖に貫かれた、ちょうど、その瞬間だった。前方、分厚く垂れ込めた雲の腹から、一筋の稲光が、闇を真二つに裂いた。その光は、寸分の狂いもなく、雷星の機体めがけて、まっすぐに落ちてきた――!「危ない――!」遥が、喉を引き裂くように叫んだ。まさに、一瞬の出来事だった。側方から、蒼淵の機体が、およそ人間業とは思えない角度で突っ込んできて、雷星の黒い機体と、落ちてくる稲光の、その狭間に――身を挺して、割って入った。――ドガァァァン。鼓膜を裂くような轟音と、視界を焼き尽くす白い閃光が、一斉に弾けた。遥の視界が、一瞬で、涙に滲んだ。蒼淵の機体が、稲光の直撃を正面から浴び、制御を失った独楽のように錐揉み回転しながら、眼下の、漆黒に沈んだ山林へと、一直線に落ちていく――その光景が、目に焼きついたからだ。「だめ――!」その瞬間、遥の心臓が、ひゅっと、音を立てて縮み上がった。――嫌。蒼淵だけは、彼だけは、だめ!遥は、自分でも信じがたい力を、どこからか振り絞った。全身の拘束を引きちぎるようにして、操縦席に身を投げ出し、雷星の手から、操縦桿をもぎ取った。「――何をする気だ!?」雷星が、驚愕と怒りの混ざった声で叫んだ。「助けに行くの」遥は、雷星に一瞥もくれなかった。操縦桿を引き下ろし、機体を、墜ちていく蒼淵の機影へと、追い縋らせる。「あいつが、そんなに、大事なのか?――自分の命を投げ出してまで、助けに行くほどに」雷星は、遥の、迷いを振り切った横顔を見つめた。胸の奥を、鋭い刃で抉られるような痛みが、ゆっくりと広がっていく。雷星は、掠れた声で、問い詰めた。「私はただ、パイロットとしてやるべきことをやっているだけよ」遥の声は、切れ切れに震えていた。だが、その芯は、研ぎ澄まされた刃のように、硬く、揺らがなかった。「あなたとは違う。あなたはもう、とっくにパイロットの使命を裏切ってる。何のために空を飛んでいたのかも忘れてしまった」機体は、限界の速度で、山林へと
「お前がいなけりゃ、俺はもう、戻れないんだ。遥……本当に、お前を愛してる。お前のいない日々なんて、俺には何の意味も持たない」――愛だと?遥は、苦痛に歪んだ雷星の顔を見据えたまま、ただ馬鹿馬鹿しくてならなかった。遅れて差し出される情など、道端に転がる石ころよりも軽い。「俺たちには、まだ未来がある。あの子を失ったことはわかってる。だが、また作ればいい。二人でも三人でも、何人だって。俺はいい父親になる。今度こそ、まともな家庭を――」「もういい加減にして。あの子のことを、あなたの口から語る資格はないの。あの子を殺した人間のひとりは、他でもない、あなたなのよ」遥が勢いよく立ち上がった。そして、一語一語区切るように、冷えた刃を落とした。「家庭を持つことに憧れる気持ちは、確かに私の中にもあるわ。――でも、その相手は絶対にあなたなんかじゃない」言い終えると、遥はもう雷星を一瞥もしなかった。身を翻し、足早にその場を後にする。雷星はその場に縫い止められたように動けず、遥が扉を押し開け、道路の縁石へと歩み出ていく姿をただ見送ることしかできなかった。――一台の黒い車が、そこに静かに停まっていた。窓がするりと下がり、蒼淵の横顔が覗く。遥はドアを開け、迷いのない動作で車に乗り込んだ。車はごく滑らかに車列に合流し、やがて雷星の視界からすっと消えた。――その瞬間だった。雷星の胸の奥で、何かがぶつりと、決定的な音を立てて断ち切れた。もう、待っていられない。遥の気持ちを、今すぐにでも取り戻さなければならない。ほんの僅かな隙間でいい。ほんの少しでいい、二人きりで過ごす時間さえあれば……雷星の目の奥に狂った執念が滲んだ。――チャンスは、雷星が思い描いていたよりも、ずっと早く転がり込んできた。ある飛行任務の最中のことだった。遥の機体は、身元不明の改造機二機によって、知らぬ間に本来の航路から押し出されていった。遥が異変を察したときには、すでに通信には強力なジャミングが掛けられ、機体は両翼から挟み込まれるようにして、人気のない山岳地帯へと誘導されていた。やがて遥の機体は、抗う術もなく着陸を強いられた。――雷星が、そこに立っていた。フライトスーツ姿のまま、奇妙に凪いだ、読み取りがたい表情を浮かべて。「降りてこい、遥……ここ
目の前で無様に崩れ落ちた男を見据えたまま、遥の唇に、氷のように冷たい笑みが浮かんだ。「私があなたを許さないのは――あなたに、その価値がないからよ。それに、私が誰と、どう生きていくか。そんなことは、もうとっくの昔にあなたとは関わりのない話。今のあなたに、ここで私を問い詰める資格なんて一つも残っていないの」「……関わりがない、だと」雷星は、胸を深くえぐられたように顔を歪めた。そのまま前へ踏み出そうとした拍子に、傷ついた脚が限界を迎えて崩れ折れ、そのまま床に倒れ込んだ。それでも雷星は、地面に這いつくばったまま震える手で顔を持ち上げ、遥の姿を食い入るように見つめ続けた。「遥、俺を見ろ。頼むから、俺を見てくれ……俺たちは婚約していた。子供だっていたはずだろう。それなのに、どうして、お前はこんな簡単に別の男と――」「やめて……子供のことを、あなたの口から持ち出さないで」遥の声が、さらに一段と冷え切った。蒼淵は傍らの警備員に合図を送り、雷星を起こさせた。表向きは丁重だったが、その言葉の端には明確な追い出しの意思が滲んでいた。「菅野さん。君が行くべきなのは病院です。研究所の中でこうして場を乱すべきではない。……警備員さん、彼を病院へお送りしろ」雷星はなおも何かを叫ぼうと身を捩った。だが、全身に走る激痛とここ数日積み重なった消耗が、ついに雷星の意識を呑み込んだ。そのまま力なく項垂れた。病院にて。雷星がもう一度目を開けたとき、視界に入ってきたのは、張り詰めた面持ちで覗き込む副官――蒼の顔だった。「帰ろう。ここで起こされた騒ぎは、すでに本部の耳に入っている。今すぐ戻って対処しなければ――司令官の資格は本当に無くなる」蒼は声を落として告げた。雷星は天井を見つめたまま、ふいに低く笑い出した。その笑いには、自嘲と底の見えない絶望とがべったりと張りついていた。「……資格、か。俺は、ずっと空を飛ぶことが自分のすべてだと思ってきた。だが――今になってようやくわかったんだ。遥を失った俺には、最初から何一つ残っていなかったんだ」「しかし……」「……なのに、あの如月、あいつが、俺の隙に付け込んだんだ。遥の心にいるのは俺のはずだ。十年だぞ。十年も、遥は俺を待ち続けた。そんな女が、こんな簡単に――他の男に心を明け渡すはずがないんだ」雷星は