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遠ざかる愛を抱いて のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

22 チャプター

第11話

市の中心部。喧騒の中にありながら、不思議と静けさを保つ一棟の邸宅。心春は落ち着かないまま、そわそわと身じろぎした。五日前、病院を出たその足で、彼女はここへ連れてこられた。迎えに来たのは、京央の百年名家・九条家を率いる現当主であり、今の彼女の婚約者でもある――九条勇信(くじょう ゆうしん)。世間では、情け容赦のない男だと噂されていた。権力を握るためなら、実の叔父や伯父すら容赦なく切り捨てたという。その手段の苛烈さは、想像するだけで十分だった。あるいは、それこそが、彼女が篠宮家の令嬢という立場すら捨てて、逃げ出したかった理由なのだろうか。勇信が人生交換の件をどこまで知っているのか、心春にはわからない。けれど、自ら病院まで迎えに来た以上、何も知らないはずはなかった。ただ、ここへ連れてきたきり彼は姿を消し、今日になってようやくまた現れた。しかも、部屋へ入るなり、ひと言も発さず、じっと彼女を見つめている。心春は、これほど緊張したことがなかった。「あの……ひとつ、伺ってもいいですか?」男の鋭い黒眉が、わずかに上がる。「伺う?」心春は彼の顔色をうかがいながら、思いきって正直に答えた。「その……敬語のほうが、礼儀として失礼がないかと思って……」「君に礼儀なんて求めてない」勇信はおかしそうに笑った。「そんなに身構えなくていい。俺は人を食ったりしない。ここでは、ただ君らしくしていればいい」心春は思わず目を見開いた。――君らしく?やはり、彼は知っている。けれど、九条家と篠宮家の縁談は、並の婚約とは意味が違う。それなのに、どうして彼はこんなにもあっさりと入れ替わりを受け入れているのだろう。心春が顔を上げると、不意に男の薄く笑みを含んだ黒い瞳と視線が重なった。その瞬間、自分が見えない網の中へ、ゆっくり絡め取られていくような錯覚を覚えた。「この数日、会社で急ぎの案件があってな。ゲストルームで寝かせることになって悪かった」勇信は立ち上がると、そのまま心春の手を取って引き起こした。「君の部屋は二階だ。案内する」寝室の扉が開いた瞬間、心春の目が輝いた。ベッドの上には、彼女の大好きなカートゥーン風のぬいぐるみが、ところ狭しと並べられていたのだ。それらは、海外のベテラン
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第12話

成瀬グループ、新作発表会の会場。蒼真はピンクスターを手にしたまま、何度も入口へ視線を向けていた。発表会はもう始まる。それなのに、心乃はまだ来ない。「蒼真、大変よ!」清香が慌ただしく駆け寄ってくる。「ジュエリーブランドのほうで手違いがあって、私が頼んでいたネックレスが届かなくなってしまったの!」蒼真はわずかに眉をひそめた。「予備のアクセサリーは?これだけ大きなイベントなのに、事前に用意してなかったのか?」「ごめんなさい……私の確認不足で……」清香はうつむき、小さくすすり泣く。それだけで、蒼真の心はすぐに揺らいだ。彼は手元のピンクスターを見下ろし、ほんの二秒ほど迷ったあと、それを彼女へ差し出した。「もう泣くな。とりあえず、これをつけていけ」「えっ……でも、これって心乃のために買ったものじゃ……私が身につけるのは、さすがに……」「緊急時の代用品だ。心乃なら分かってくれるさ」「ありがとう、蒼真!」清香は感謝したようにネックレスを受け取った。「安心して。心乃が来たら、すぐに返すから!」だが背を向けた途端、その顔から慌てた色は消え、代わりに笑みが浮かぶ。彼女は手の中のダイヤをもてあそんだ。蒼真は昨日、これを身につけるにふさわしいのはただ一人だけだと言っていた。そして今日、そのネックレスは自分の首にかかる。見せつけてやる。蒼真が本当に大切にしているのは、自分――清香なのだと。心乃のことなど、どうでもいい。彼女がこのニュースを見て、泣き腫らして倒れたりしなければいいけれど。発表会が正式に始まった。フラッシュがきらめく壇上で、蒼真は落ち着き払った口調で語る。「本日は、成瀬グループ新作発表会にお越しいただき、ありがとうございます。今季のメイン作品昼夜は、弊社チーフデザイナー・高梨清香が手がけました」清香がしとやかに壇上へ上がる。その首元で輝く大粒のピンクダイヤが、たちまち会場中の視線をさらった。「あれ、ピンクスターじゃない?成瀬家の御曹司が二十億円以上かけて落札したっていう……!」「高梨さん、成瀬さんが唯一ふさわしいと言っていた相手って、あなたのことなんですか?」「でも成瀬さんには婚約者がいたはずでしょう?ほら、前に盗作疑惑で騒がれてた藤崎心乃さん!」
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第13話

清香は必死に動揺を押し隠した。「蒼真、違うの……!全部、誤解よ!」「……心乃よ!きっとあの女が私の原稿を盗んで、それをもとに手を加えただけよ!」清香は心春を指さし、今にも飛びかかって引き裂かんばかりの形相で叫んだ。「どうして心乃なんかに加担して、私を陥れようとするの!あなた、いったい何者なの?」そのときになって初めて、蒼真は目の前の女に妙な既視感を覚えた。「……そちらのお客様」彼は心春へ向き直り、声を抑えて言う。「今日は成瀬グループの発表会です。何か要求があるなら、終わってから俺に言ってください。俺にできることなら、必ず応じます」心春は冷ややかに笑った。「成瀬社長は、お金でこの場を収めるつもり?残念だけど、私は応じる気なんてないわ」心春はマイクを取り上げた。澄んだ冷たい声が、会場の隅々まで響き渡る。「皆さん。私は今日、心乃さんの依頼で、高梨さんの本当の顔を暴くためにここへ来ました。高梨さんが言っていた心乃さんによる盗作は、すべて事実無根です。真実は逆です。ずっと作品を盗み続けていたのは、高梨さんのほうです」清香は目をつり上げた。「でたらめよ!証拠はあるの?」「もちろんあるわ」心春は落ち着き払って電源をつなぎ直した。すると巨大スクリーンに、一つの動画が映し出される。「高梨さん、知らなかったみたいね。心乃さんには裏アカウントがあったの。自分のデザイン過程を、ずっと記録していたのよ。その投稿日を見れば分かるでしょう?あなたが証拠として出した日付より、ずっと前から残っている」会場がどよめいた。「本当だ……!見て、この燦めき。高梨さんは二月から描き始めたって言ってたのに、藤崎さんのほうは一月の時点でもう完成稿を上げてる!」「やっぱり!ここ二年くらいの高梨さんの作風、前と全然違ったもの。自分で生み出したデザインじゃなかったのね!」「オリジナルを守れ!藤崎心乃を支持する!高梨清香は業界から出ていけ!それに、藤崎心乃に謝れ!」「そうよ!謝罪しなさい!業界から消えて!」会場の空気は一気に沸騰した。中には心乃のファンらしき者たちが壇上へ押しかけようとする者までいたが、警備員が必死に制止する。清香は恐怖で後ずさりし、もはやまともな言葉すら紡げなかった
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第14話

蒼真は駆け寄るなり、有無を言わさず心春のベールを引き剥がした。「やっぱりお前か!全部、お前が裏で仕組んだことだったんだな!今日お前がこんな騒ぎを起こして、成瀬グループの株価がどれだけの影響を受けると思ってるんだ!少しは俺の立場を考えられないのか!」横から清香も口を挟む。「心乃、私に思うところがあるのは分かるわ。でも、今はそんな個人的な感情より、発表会を優先すべきでしょう?成瀬グループは、蒼真がここまで必死に守ってきたものなのよ。こんなことをして、蒼真にどうやって収めるっていうの?」その言い分がおかしくて、心春は思わず笑ってしまった。心乃の生き死になど意に介さず、盗作の濡れ衣を着せたのは彼らのほうだ。それなのに今さら、自分たちだけが被害者のような顔をしている。「成瀬さん。心乃さんがどうしてあなたのもとを去ったのか、分かる?」心春は蒼真の目をまっすぐ見つめ、一語一語かみしめるように言った。「あなたにとって、一番大事な存在が、いつだって彼女じゃなかったからよ。心乃さんはあなたの婚約者で、十年以上寄り添ってきた恋人だった。なのに、あなたの中での重みは、他人のたった一言にも及ばなかった」「高梨さんが盗作の件で平然と嘘をつけるなら、それ以前のことは?これまでの数々の出来事だって、嘘じゃなかったと言い切れるの?心乃さんは、本当にあの人たちが言うような、どうしようもない女だったの?」過去を突きつけられ、蒼真の心には疑念が差し込んだ。心乃と出会ったのは、彼が七歳、彼女が五歳のときだった。道端で震える子猫を見れば、彼女は大事にためていたおやつを、ためらいもなく全部差し出した。いつも彼の後ろをついてきて、甘い声で「蒼真お兄ちゃん」と呼んだ。父親に叱られて落ち込んでいるときは、自分の小遣いを全部はたいて喜劇のチケットを一枚だけ買い、彼を中へ送り出して、自分は外でずっと待っていた。それから――清香が藤崎家に来てからというもの、年齢を重ねるにつれ、蒼真と心乃が直接会う機会はどんどん減っていった。澄子が心乃を厳しく見張っていたせいで、多くの伝言は清香が間に入って取り次いでいた。もし――もし清香が何かを都合よく曲解して、きちんと伝えていなかったのだとしたら。だとすれば、この何年もの自分の振る
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第15話

勇信の手つきはあくまでやわらかかった。だが、蒼真へ向ける視線は、まるで鋭い刃のようだった。「お久しぶりですね、成瀬社長」蒼真はその場で固まった。まさか、ここに勇信が現れるとは思ってもみなかったのだ。この男は、京央の百年名家・九条家の現当主。ふだんは表舞台にほとんど姿を見せず、メディアですらめったにその姿を捉えられない。そんな人物が、一人の女のためにわざわざ姿を現し、しかも彼女を自分の婚約者だと呼んだのだ。蒼真は瞬時に打算を巡らせた。九条家を前にすれば、成瀬グループなど取るに足りない。今、勇信が明らかに心春の後ろ盾になるつもりでいる以上、ここはひとまず引くしかない。「誤解です。すべて誤解なんです」蒼真は表情を和らげ、取り繕うように言った。「篠宮さんが九条社長のご婚約者とは知らなかったものですから。どうかお怒りをお鎮めください」彼の黒い瞳がすっと冷えた。先ほどまでの穏やかさは、もうどこにもなかった。「つまり、彼女が俺の婚約者でなければ、警備に好き勝手に辱めさせても構わなかったということですか?」上に立つ者だけが持つ圧が、静かに場を覆う。その気配だけで、蒼真は息苦しさを覚えた。彼は思わず視線を落とす。「……大変失礼いたしました。篠宮さん、どうか広いお心で、今回の件はお許しください」心春が口を開こうとした、その前に勇信が一歩前へ出た。「成瀬社長は、何一つ償いもせずに許しを求めるおつもりですか。その謝り方では、あまりにも軽すぎると思いますが」「は、はい……」蒼真は一度目を閉じ、それから床にへたり込んでいる清香を指した。「成瀬グループはただちに声明を出します。今回の件はすべて清香の責任であり、心乃を陥れるために彼女が自作自演したものだったと、正式に発表します」「蒼真!」清香は崩れ落ちるように泣き叫んだ。「そんなことをしたら、私……本当に終わってしまうわ!」「それはお前が欲をかきすぎたからだ!」蒼真は吐き捨てるように言う。「どうしても心乃からチーフデザイナーの座を奪いたかったんだろう。今日こうなったのも、全部お前の自業自得だ!」彼は手を伸ばし、清香の胸元からピンクダイヤのネックレスを乱暴に引きはがすと、それを心春に差し出した。「篠宮さん。どうかこ
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第16話

勇信の強引さに押され、心春は仕方なく意を決してあとに続いた。風情ある邸宅の門前では、上品な身なりの中年夫婦が、眉をひそめて彼女を見ていた。「どうしてこんなに遅かったの!」九条洋子(くじょう ようこ)は厳しい顔つきで、口調も決して優しくはなかった。もともと緊張していた心春は、たちまち心臓が喉元までせり上がるような思いがした。「あ、あの、こんにちは、私は……」「何時だと思ってるの。うちの心春ちゃんがお腹を空かせたらどうするの!」洋子は心春を勇信の腕の中からひったくるように奪い取り、宝物でも扱うように「心春ちゃん、心春ちゃん」と呼びながら抱き寄せた。「お腹空いたでしょう?さあ、早く中へ。食事はもうとっくに出来上がっているのよ!」そう言って、勇信のことをきつくひと睨みするのも忘れない。勇信は鼻先に手をやり、おとなしく非を認めた。心春は母子の一連のやり取りに、あっけに取られて言葉も出なかった。つまり、九条夫人は自分を責めていたわけではないのだろう。それどころか、勇信のせいで自分が空腹になったのではと、気にしていたのだ。「おば様、実は私のことで遅くなってしまったんです。九条さんのせいじゃ……」傷ついたような目で見てくる男の視線に気づき、心春は素直に言い直した。「……勇信さん」洋子は二人の間に視線を何度か往復させると、たちまち事情を察した。なるほど。どうやら、うちの鈍い息子はまだこの子の心をつかめていないらしい。このぐずぐずしたやり方、夫とはまるで似ても似つかない。肝心なところでは、やっぱり自分が出るしかないわね。「心春ちゃん、正直に言ってごらんなさい。勇信に無理やり連れて来られたんじゃないの?」心春は一瞬きょとんとし、慌てて手を振った。「いいえ、そんなことありません。勇信さんは私にとてもよくしてくれています」洋子は心の中で、やっぱりまだ若いわね、と思った。男なんて十分いいなんてことはなくて、もっと良くできるだけなのだ。どう育てるか次第で変わる。彼女はわざと、心春の味方をするような顔をしてみせた。「この子ったら、普段から無口で、ろくにしゃべりもしないし、女の子を喜ばせることなんてまるでできないの。これから先、もし勇信があなたを怒らせるようなことをしたら、私に
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第17話

午前三時ちょうど、心春はようやく納得のいくラフを描き上げた。もう遅い時間だったため、彼女はそのまま作業部屋で少し仮眠を取ることにした。以前、成瀬グループで働いていた頃は、こうして何日もぶっ通しで仕事をすることも珍しくなかった。もう慣れている。ところが、うとうとしかけたその時、衣擦れのような足音が聞こえてきた。心春は半分眠ったまま、ポン太が来たのだと思い込み、ぼんやりとつぶやく。「いい子だから、いたずらしないで……」その言葉に、勇信の手がぴたりと止まった。「心春?」心春は一気に目を覚まし、飛び上がるようにして身を起こした。「どうしてここにいるんですか?」「仕事が終わったなら部屋に戻って寝ろ。そんなふうに丸まって寝たら、体に悪い」白目に浮かぶ赤い血筋を見て、勇信の胸は痛んだ。彼は有無を言わせず彼女の腕を取り、立ち上がらせる。「戻るぞ」六、七時間も座りっぱなしだった心春は、引き上げられた拍子に足の裏に鋭い痛みが走り、よろめいて前へ倒れ込んだ。「危ない!」覚悟した痛みはやってこなかった。勇信が、とっさに彼女を受け止めたのだ。二人の呼吸が重なる。心春の手は彼の胸元に触れ、その下で上下する筋肉は硬く、力強かった。その感触に、彼女の心は不意に震えた。「ごめんなさい、足がしびれて……」心春は慌てて離れようとしたが、しびれはまだ抜けきっていない。頭がぐらりと傾き、そのまま勇信の胸に倒れ込んでしまった。男は低く笑った。「心春、これは俺の胸に飛び込んできたってことか?」心春は言葉を失った。――誓って、そんなつもりじゃない。彼女は慌てて転がるように離れ、壁際に立つ。今度は学習したのか、二度と転ばないよう椅子の背をぎゅっとつかんで離さなかった。腕の中からやわらかなぬくもりが消えると、勇信は空になった自分の腕を見下ろし、どうにもやりきれない気持ちになった。ふと、ある言葉が脳裏をよぎる。脇役なら、なおさら奪いにいくべきだ。彼女の世界には、この二十二年間、蒼真しかいなかった。確かにその中で自分は、取るに足りない脇役でしかなかったのだろう。だが、もう違う。今の自分は、もう彼女の目の前まで来ている。――今度こそ、自分のために手を伸ばそう。勇信はそう決め
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第18話

「篠宮様、お身体の数値はどれも正常です。こちらが検査結果になります」心春はそれを受け取り、軽く頭を下げた。「ありがとうございます、先生」今日は術後の再検査で来ていたのだ。診察室を出たあと、心春は帰りが少し遅くなると勇信に連絡しようと、スマホを取り出しかけた。だが顔を上げた瞬間、そこに立っていた蒼真の姿に息をのむ。「奇遇ですね、篠宮さん」蒼真は笑みを浮かべていたが、その目はまったく笑っていなかった。「いや……心乃と呼ぶべきか?」心春の胸がひやりと冷えた。「何を言っているのかわかりません。どいてください」男は動かない。高い背が行く手をふさぎ、まるで威圧する壁のように立ちはだかっていた。人気のない廊下で、医師や看護師がこちらに気づく気配もない。今ここで助けを呼んでも、間に合わないかもしれない。心春は恐怖を押し隠しながら、思わず脅すように言った。「成瀬さん、忘れないでください。私は勇信さんの婚約者です。あなたが私に無理をしたと知ったら、あの人がどうするか……想像できますよね?」「婚約者?」蒼真は冷たく笑い、言葉を繰り返した。「お前は本当にあいつの婚約者なのか?それとも、俺の婚約者なのか?心乃、言ったはずだ。俺が認めない限り、お前は一日だって俺のもとを離れられない」言い終わるより早く、蒼真は一気に踏み込み、彼女の腕を乱暴につかんだ。「何するの、放して!」蒼真は心春をエレベーターに引きずり込み、そのまま地下駐車場へ向かう。「本当のことを言わない。九条社長っていうあの狂った男までお前をかばう。いいさ、だったら篠宮家へ行ってはっきりさせようじゃないか。篠宮社長と奥様が、自分たちの本当の娘を選ぶか、それともお前を選ぶか――」車は勢いよく走り出し、心春の鼓動も喉元までせり上がった。手術を受けてから、彼女はまだ一度も篠宮家の人間に会っていない。だが、聞いている限りでは、この身体の中身が別人に入れ替わっていることを、篠宮家はまだ知らない。そんなところへ蒼真が突然自分を連れて行けば、気づかれないとは限らない。もしバレたら、すべてが終わる。けれど彼女は車内に閉じ込められ、スマホも取り上げられていた。誰にも連絡できない。頭の中は混乱でいっぱいだったが、それでもひ
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第19話

蒼真は追い出された。それでも帰り際まで、なおも取り乱したように叫び続けていた。「奥様!もう一度よく見てください!彼女は本当に篠宮心春じゃないんです!俺の婚約者、藤崎心乃なんです!本当の心春さんは、きっとあいつにどこかへ隠されてます!お嬢さんは今ごろ、どんな目に遭ってるかわからないんですよ!それでも心配じゃないんですか!心乃!出てこい!俺と一緒に帰るんだ――!」二階。心春は蒼真が引きずるように連れ出されていくのを見つめ、小さく息をついた。――これで、ひとまず切り抜けられた……?「心春」振り向くと、雅子が無表情のまま背後に立っていた。「ちょっと、こちらへ来なさい」張りつめていた神経はまだ解けきっていない。だが心春は敏感に察した。いまの雅子の表情は、先ほど自分が帰ってきた時とはもう違っている。ようやく緩みかけていた指先が、再びぎゅっと強く握られた。心春はそのあとに従い、書斎へ入った。「……お母さん?」篠宮社長の姿はない。書斎には二人きりだった。「座りなさい」そのひと言で、心春は悟った。――もう、気づかれている。「……奥様」心春はすぐに呼び方を改めた。何を言うべきか慎重に考えようとしたが、少し遅れて気づく。いまさら何を口にしても、きっとふさわしくはない。結局、彼女は口をつぐみ、相手の言葉を待つことにした。十分ほどの沈黙のあと、ようやく雅子が口を開く。「……あの子は、幸せにしているの?」誰のことを尋ねているのか、心春にはすぐわかった。彼女はおとなしくうなずく。「はい。好きな人と一緒にいて、彼女がずっと望んでいた暮らしをしています」雅子はしばらく何も言わなかった。心春はそっと様子をうかがった。気のせいだろうか。名門の奥方らしく隙ひとつ見せないその人の目に、かすかに涙の気配がにじんでいるように見えた。心春は少し迷ってから、静かに口を開く。「……どこにいるのか、知りたくはないのですか?」意外なことに、雅子はふっと笑った。「知りたいに決まっているでしょう。でも、人生を入れ替えるなんて大ごとを、あの子は私に何ひとつ知らせなかったのよ。そんな子が、今さら自分の居場所を私に教えてくれると思う?」そう言って立ち上がると、心春に
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第20話

夜風には少し冷たさが混じっていた。勇信は手すりにもたれかかり、その足もとには空になった酒瓶が四、五本、あちこちに転がっている。彼は、心春を迎えに行った時と同じTシャツをまだ着たままだった。上着を持ってきたほうがいいだろうか――心春がそう迷っていた時、不意に勇信が大きくげっぷをした。「……薄情な鈍感め……!」かなり酔っているらしく、勇信は手すりに突っ伏したまま大声で叫ぶ。「君のために、身代わり婚約なんてベタで安っぽい展開までやったのに、まだあのクズ男のことを引きずってるのかよ!見る目のないやつめ!」少し離れたところに立っていた心春は、彼のまわりに漂う酒気にあてられたのか、自分まで頭がぼんやりしてくるのを感じた。どうにか彼の言う鈍感が自分のことだとわかると、今度は別のことが気になった。「……身代わり婚約って、何ですか?」勇気を振り絞ってそう尋ねる。そこでようやく勇信は彼女の存在に気づいた。まずふっと笑い、それから口をへの字に曲げると、足もとをふらつかせながら彼女のそばまで歩いてきて、耳たぶを軽くつまんだ。「ほらな、やっぱり鈍感だ。俺がどうして篠宮家のあの娘と婚約したか、わかる?君に似てたからだよ。どうせ君は成瀬社長と婚約してたんだ。俺は誰を娶ったって同じだった。でも、あの子は君に顔が似ていただけじゃない。家に認めてもらえない想い人までいた。成瀬社長が君を大事にしてないと知って、俺は少し手を回して、あの子に人生交換のことを教えた。そうして、君と入れ替わることに同意させたんだ」勇信は両手で彼女の顔を包み込み、まっすぐその目をのぞき込んだ。「鈍感。君、俺が君を十年も好きだったって、本当にわかってないのか?」二人の距離は、息が触れ合うほど近い。酒の匂いをわずかに含んだ彼の熱い息が鼻先にかかり、心春は、自分まで本当に酔ってしまったような気がした。頭上には満天の星。その下で、自分の手の中には月がある。どれほど鈍い彼女でも、ようやく気づく。勇信は昔から自分を知っていて、自分の知らない場所で、ずっとひそかに想い続けていたのだと。「……勇信さん」心春は指先を動かし、落ち着きなく揺れる彼の頭をそっと自分の肩に引き寄せた。「私たち、どうやって知り合ったんですか?」勇
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