ログイン家族の誤解と愛する人の裏切りに傷ついた藤崎心乃(ふじさき ここの)は、別の人生を選び取り、二度と過去を振り返らないと誓う。
もっと見る蒼真は床に跪いていた。叫び、泣き、彼女のドレスの裾をつかんで、行かないでくれとすがりついた。心春ははさみを手に取り、ためらいなくその裾を断ち切った。そして一度も振り返ることなく、そのまま外へと歩き出す。背後にあるのは、蒼真の胸を引き裂くような慟哭。前方に広がるのは、彼女自身の光あふれる未来。彼女と彼は、もう二度と会うことはない。それからずいぶん後になって、心春は人づてに聞いた。蒼真は彼女の結婚式からほどなくして重い病を患い、亡くなる前に成瀬グループの全財産を、かつて二人が通っていた高校へ寄付したのだという。さらに、「心真」と名づけた奨学金まで設立したらしい。その話を聞いたあと、勇信は彼女を腕の中へ引き寄せ、耳たぶを強くも弱くもない力で指先に挟んだ。「お腹に気をつけなさい」心春は笑って彼を軽く叩き、自分の腹部をそっとかばいながら、甘えるように言う。「もうすぐパパになる人が、そんなことでまでやきもち焼くの?」勇信は奥歯を軽く噛んだ。「明日にでも『心信』奨学金を作ってやる。あいつが出した額の倍出すよ」「もう……」心春は人差し指で彼をつついた。勇信は一本の電話を受けるために席を外し、心春は一人で階下へ降りて夕食をとることにした。妊娠しても彼女の好みはほとんど変わらず、食卓には昔から好きだった料理が並んでいる。ポン太は彼女の足もとに寝そべり、靴下を甘噛みしていた。しばらくして勇信がやって来ると、小さな体をくるりとひねって、丸々とした腹を見せる。「どうしたんです?」勇信の顔色があまりよくないことに気づき、心春は少し不安になった。「藤崎家で問題が起きた」心春の手から箸が滑り落ちた。次の瞬間には、冷えた彼女の手を、勇信がしっかりと握っていた。「聞きたくないなら、言わない」夜中、彼女が何度か「お母さん」と寝言を口にするのを聞いたことがある。だからこそ彼は、この話を伝えることにしたのだ。向き合うかどうかは、彼女自身に任せるつもりだった。心春は小さく息を吐いた。「……何があったんです?」「半年前くらいから、啓介が賭博にのめり込んで、高利貸しに百億以上の借金を作ったらしい。三日前、取り立てが家に来たが、澄子が泣きわめいて金を出そうとしなかった。それ
空がようやく白み始めたころ、心春は熱のこもった腕の中で目を覚ました。身じろぎした拍子に、自分がずっと勇信の腕を枕にしていたことに気づいた。しかも二人の身体は、背中と胸がぴたりと重なるほど密着していた。心春の耳先が、そっと赤く染まる。彼女は息をひそめるように、そろそろとベッドから抜け出した。昨日、勇信はひどく酔っていた。普段は無口で言葉数も少ないくせに、酔うとまるで別人だった。彼は彼女をつかまえてなかなか放さず、泣き言まじりに「君は薄情だ」と訴えたかと思えば、今度は引き出しをひっくり返して紙とペンを探し出し、自分の長所を全部書き出すと言って聞かなかった。小学生の時に算数のコンクールで三等賞を取ったことまで、褒めろと迫ってくる始末だ。最後には、心春も本当に手に負えなくなり、人を呼んで彼を寝室まで運んでもらうしかなかった。それでも勇信は彼女を帰そうとせず、仕方なく、心春はそのまま残って彼を寝かしつけた。けれど――確か自分は椅子に座っていたはずなのに、どうしてベッドの上にいたのだろう。心春は火照った頬を軽く叩き、こっそり部屋を抜け出そうとした。その時、視界の端に、床へ落ちたしわくちゃの紙が映る。身長185センチ、腹筋あり、生活習慣は規則正しい、悪い癖なし、家族に遺伝病歴なし……ずらりと並んだその最後の一行には、こんな言葉まで書かれていた。一途で誠実。心春だけを愛している。心春は小さく息をつき、引き寄せられるようにベッドで眠る男の顔へ視線を向けた。黒い羽のようなまつげが目元を覆い、すっと通った鼻筋の下で、薄い唇が静かに結ばれている。――こんなにも素敵な人が、自分を深く愛してくれている。心春が部屋を出ていくと、ベッドの上の男はゆっくりまぶたを持ち上げた。床に落ちていた紙は、もうなくなっている。勇信は眉を上げ、黒い瞳に笑みを浮かべた。この家で、彼の酒の強さを知らないのは心春だけだ。彼は昨夜、母から送られてきた贈り物を開いた。中に入っていたのは、布地の少ない、かなり大胆な女性用の下着だった。勇信の目が一瞬だけ深く沈む。だがすぐにそれをしまい込み、低くつぶやいた。「……まだ早い。俺たちは、ゆっくり少しずつでいい」……ウェディングドレス店。勇信は会社で急な
夜風には少し冷たさが混じっていた。勇信は手すりにもたれかかり、その足もとには空になった酒瓶が四、五本、あちこちに転がっている。彼は、心春を迎えに行った時と同じTシャツをまだ着たままだった。上着を持ってきたほうがいいだろうか――心春がそう迷っていた時、不意に勇信が大きくげっぷをした。「……薄情な鈍感め……!」かなり酔っているらしく、勇信は手すりに突っ伏したまま大声で叫ぶ。「君のために、身代わり婚約なんてベタで安っぽい展開までやったのに、まだあのクズ男のことを引きずってるのかよ!見る目のないやつめ!」少し離れたところに立っていた心春は、彼のまわりに漂う酒気にあてられたのか、自分まで頭がぼんやりしてくるのを感じた。どうにか彼の言う鈍感が自分のことだとわかると、今度は別のことが気になった。「……身代わり婚約って、何ですか?」勇気を振り絞ってそう尋ねる。そこでようやく勇信は彼女の存在に気づいた。まずふっと笑い、それから口をへの字に曲げると、足もとをふらつかせながら彼女のそばまで歩いてきて、耳たぶを軽くつまんだ。「ほらな、やっぱり鈍感だ。俺がどうして篠宮家のあの娘と婚約したか、わかる?君に似てたからだよ。どうせ君は成瀬社長と婚約してたんだ。俺は誰を娶ったって同じだった。でも、あの子は君に顔が似ていただけじゃない。家に認めてもらえない想い人までいた。成瀬社長が君を大事にしてないと知って、俺は少し手を回して、あの子に人生交換のことを教えた。そうして、君と入れ替わることに同意させたんだ」勇信は両手で彼女の顔を包み込み、まっすぐその目をのぞき込んだ。「鈍感。君、俺が君を十年も好きだったって、本当にわかってないのか?」二人の距離は、息が触れ合うほど近い。酒の匂いをわずかに含んだ彼の熱い息が鼻先にかかり、心春は、自分まで本当に酔ってしまったような気がした。頭上には満天の星。その下で、自分の手の中には月がある。どれほど鈍い彼女でも、ようやく気づく。勇信は昔から自分を知っていて、自分の知らない場所で、ずっとひそかに想い続けていたのだと。「……勇信さん」心春は指先を動かし、落ち着きなく揺れる彼の頭をそっと自分の肩に引き寄せた。「私たち、どうやって知り合ったんですか?」勇
蒼真は追い出された。それでも帰り際まで、なおも取り乱したように叫び続けていた。「奥様!もう一度よく見てください!彼女は本当に篠宮心春じゃないんです!俺の婚約者、藤崎心乃なんです!本当の心春さんは、きっとあいつにどこかへ隠されてます!お嬢さんは今ごろ、どんな目に遭ってるかわからないんですよ!それでも心配じゃないんですか!心乃!出てこい!俺と一緒に帰るんだ――!」二階。心春は蒼真が引きずるように連れ出されていくのを見つめ、小さく息をついた。――これで、ひとまず切り抜けられた……?「心春」振り向くと、雅子が無表情のまま背後に立っていた。「ちょっと、こちらへ来なさい」張りつめていた神経はまだ解けきっていない。だが心春は敏感に察した。いまの雅子の表情は、先ほど自分が帰ってきた時とはもう違っている。ようやく緩みかけていた指先が、再びぎゅっと強く握られた。心春はそのあとに従い、書斎へ入った。「……お母さん?」篠宮社長の姿はない。書斎には二人きりだった。「座りなさい」そのひと言で、心春は悟った。――もう、気づかれている。「……奥様」心春はすぐに呼び方を改めた。何を言うべきか慎重に考えようとしたが、少し遅れて気づく。いまさら何を口にしても、きっとふさわしくはない。結局、彼女は口をつぐみ、相手の言葉を待つことにした。十分ほどの沈黙のあと、ようやく雅子が口を開く。「……あの子は、幸せにしているの?」誰のことを尋ねているのか、心春にはすぐわかった。彼女はおとなしくうなずく。「はい。好きな人と一緒にいて、彼女がずっと望んでいた暮らしをしています」雅子はしばらく何も言わなかった。心春はそっと様子をうかがった。気のせいだろうか。名門の奥方らしく隙ひとつ見せないその人の目に、かすかに涙の気配がにじんでいるように見えた。心春は少し迷ってから、静かに口を開く。「……どこにいるのか、知りたくはないのですか?」意外なことに、雅子はふっと笑った。「知りたいに決まっているでしょう。でも、人生を入れ替えるなんて大ごとを、あの子は私に何ひとつ知らせなかったのよ。そんな子が、今さら自分の居場所を私に教えてくれると思う?」そう言って立ち上がると、心春に
蒼真は病室で長いこと待ち続けたが、心乃は戻ってこなかった。ふとスマホを取り出してみて、ようやく気づく。五時間前、心乃からメッセージが届いていたのだ。【さようなら、蒼真。あなたともう二度と会わないわ】だが彼は友人が多すぎて、そのメッセージは目に入ることすらなく、下のほうへ埋もれてしまっていた。蒼真は眉をひそめ、不機嫌そうに打ち込む。【心乃、今度は何のつもりだ。五分以内に戻ってこい】送信できない。心乃は、彼をブロックしていた。画面に浮かぶ送信不可を、蒼真はしばらく呆然と見つめていた。これまで何度心乃が大騒ぎしても、彼とのつながりだけは切ったことがなかった。ブ
夜風には冷えが混じり、心乃は病衣一枚きりだったせいで、小さく身を震わせていた。行き交う車ばかりに気を取られ、背後に人影がついてきていることにも気づかなかった。本来なら車椅子に座っているはずの清香は、何事もなかったように木陰に身を潜めている。もし誰かが見ていれば、その脚がまったく無事だとすぐにわかるはずだ。清香はくすりと笑う。「心乃、とうとう我慢しきれずに、手術を前倒しするのね。これでこれから先は、蒼真の愛も、藤崎家の財産も、全部私一人のもの――」清香は、ワゴン車が心乃を乗せて走り去るのをこの目で確かめてから、ようやく入院棟へ戻った。再び車椅子に腰を下ろし、心乃の病室
啓介の動きはあまりにも速かった。心乃は避けようとしたが、間に合わなかった。振り下ろされた椅子が、容赦なく彼女の脚を打ち据えた。骨の髄まで貫くような激痛に、心乃の視界は何度も暗くかすみ、そのまま意識を失いそうになる。「……啓介」額に冷や汗をにじませながら、心乃は弱々しく彼を見上げた。「いつか真実を知ったとき、忘れないで。あなたは実の妹から、脚一本を奪ったのよ」「ふん」啓介はせせら笑った。「脚一本どころか、この命をお前にくれてやっても構わないさ。もっとも、お前の言う真実なんてものが本当にあるなら、の話だが」心乃はかろうじて意識をつなぎ止めていた。全員が病室を
痛い――心乃は、全身の骨が砕かれたかのような痛みに襲われていた。重いまぶたをどうにか持ち上げると、そこは病院のベッドの上だった。自分は死んだのではなく、まだ生きているらしい。「目が覚めたんですね」そこにいたのは、人生交換プロジェクトの看護師だった。看護師は水の入ったコップを差し出しながら、あきれたように言った。「あと三日で手術だったんですよ。それまで、どうして耐えられなかったんですか」心乃は口元をわずかにゆるめた。「すみません。でも……私、こんな状態になってしまったら、もう交換したいなんて思う人はいないんじゃないですか?」「そこはご心配なく。あなたは最初
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