Todos os capítulos de 未亡人を庇う婚約者を捨て、私は夢を叶える: Capítulo 1 - Capítulo 10

25 Capítulos

第1話

「あの、国立特級芸術アカデミーへ応募したいんですが……」松浦直美(まつうら なおみ)は応募締切ぎりぎりのその日、募集窓口へ駆け込み、志望届を差し出した。職員は顔を上げて彼女を見る。「国立特級芸術アカデミーは、選考に受かるとそのまま合宿形式の訓練に入ります。その間は外部との連絡も取れません。それでも参加しますか?」「はい。お願いします」直美は高まる胸の鼓動を抑え、まっすぐな瞳で答えた。「わかりました。では10日後の選考試験にお越しください」受験票を手にした瞬間、ようやく直美の心は落ち着いた。やっとここを離れられる。そして、ずっと胸の奥で思い描いてきた舞台へ、ようやく踏み出せるのだ。病院に付属している寮に戻ると、周囲の視線が少し冷たかった。「松浦さん、精神科に行ってたんじゃないの?こんなに早く良くなるもんなの?」「確かに。宮本先生の診断が間違っているはずないもん」「急に暴れ出したりとかして、私に迷惑かけないでよね」ルームメイトたちが、口元を手で隠してくすくすと笑う。直美が精神疾患を患っているという噂は、とっくに院内で広まっていた。直美は聞こえないふりをして、自分のベッドに寝転がる。ここ数日間、隔離された病棟ではろくに食事もとれず、精神的に追い詰められそうだった。数分後、部屋のドアが激しい音を立てて開いた。ドアの外に立っていたのは、白衣を纏い、理知的な雰囲気を纏う宮本瑞樹(みやもと みずき)だった。彼は険しい顔で、直美を怒鳴りつける。「直美!誰の許可で退院なんかしたんだ?」怒りがこみ上げた直美は、言い返した。「私、病気でも何でもないんだけど。なのに、退院して何が悪いの?」「君が病気かどうか決めるのは、医者の方だ」瑞樹は一歩も引かない。直美が健康だと知っていても、「教育」の名の下に彼女を精神病院に閉じ込めようとする。「そんなの認めないから。それなら、院長先生に診てもらう。院長先生の診断なら信じるから」直美も譲る気はなかった。二度と自由を奪われてたまるか。院長の佐野和彦(さの かずひこ)は今出張中だ。瑞樹は直美を鋭く睨みつけると、背を向けて部屋から出ていった。瑞樹が去ったのを確認し、直美はようやく安堵のため息をつく。瑞樹は直美の婚約者であり、この病院の医長でもあった。か
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第2話

その日の夜、予想外のことに瑞樹が直美を訪ねてきた。「直美、俺が酷いやつだと思わないでほしいんだ。もし、君に精神的に不安定だとこちらで診断を下さなかったら、白石さんにしたことは重く受け止められ、君の職務継続さえ危うかったんだから。でも、どんなに腹を立てたとしても、人を傷つけてはいけないだろ?ここは家じゃなく、病院なんだから。それに、俺が白石さん親子に援助をしているのも、彼女が大変そうだと思ったからに過ぎないんだ。俺たちの間には何もないって何度も言ったはずなのに、どうして信じてくれないんだ?」普段は控えめで口数の少ない瑞樹がこれほど一気に捲し立てているのを聞いて、直美は胸を締め付けられた。自分への配慮からだと言う一方で、実際はどの言葉も結香を庇うものばかりだった。なんと滑稽なのだろう。結香に少し言っただけで、瑞樹は自分を加害者と認定したのだ。瑞樹の心の中では、結香の方が婚約者である自分よりもずっと重要らしい。それなら、もう二人の幸せを応援してあげよう。直美はきっぱりと答えた。「うん、分かった。信じるし、もう二度と白石さんに関わらないから」あまりにあっさりとした態度に、瑞樹は眉をひそめた。少し言い争いになるかと思っていたが、こんなにも素直に聞き入れられるなんて。きっと直美なりに事態を重く見たのだろう。「分かってくれたならよかったよ」瑞樹が背を向けて立ち去ろうとすると、直美が声をかけた。「結婚の件だけど……」瑞樹は苛立ちを露わにして直美の言葉を遮った。「だから言ってるだろ?今は結婚のことなんか考えられないって。家だってまだ準備できてないんだから」直美は「婚約を取り消そう」と言いたかったのだが、瑞樹に全く結婚する気が無さそうな態度を見て、言っても言わなくても大差ないと思えてきた。翌日、直美は仕事を再開した。出勤した直後、待合ロビーの方から甲高い泣き声が聞こえてきた。駆けつけてみると、結香が子供を連れてロビーに座り込み、呼吸困難になるほど激しく泣いていた。「誰か!誰かうちの子を助けてください!宮本先生はいますか?あの人なら助けてくれるはずですから!」結香の息子である白石慎也(しらいし しんや)は高熱を出し、意識が朦朧としていたのだった。しかし、瑞樹は隣の街へ巡回診療に出かけており、いなかった。瑞
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第3話

直美は言い返す気力さえ失せ、ただ一言だけ言った。「宮本先生。患者さんの状況をしっかり診てから結論を出してくれませんか?」彼らとはもう関わりたくなかった直美は背を向け、その場を去った。瑞樹は怒りを抑えながら、慎也の手を調べた。そこではっと言葉を失う。確かに直美の処置は間違っていなかった。手がこんなに腫れているのは、明らかに動きすぎで患部に空気が入ったせいだろう。瑞樹は急に自分の衝動的な行動が恥ずかしくなった。直美はこの病院で最も点滴や採血が上手い看護師だ。こんな初歩的なミスをするはずなんかなかったのだ。瑞樹は結香親子を落ち着かせると、ナースステーションへと向かった。「直美、さっきは君を疑ったりしてごめん。でも、白石さんは医療知識のない素人だから、気にするな」直美は俯いてカルテを整理しながら、氷のように静かな声で言った。「大丈夫。もう慣れてるから」瑞樹はこんなにも静かな直美を初めて見た。以前の彼女なら、必ず大喧嘩になっていたはずなのに。言いようのない不安が胸に広がる。瑞樹は映画のチケットを直美の手に押し付けた。「今夜、新作の映画『君を待つ季節』が公開されるんだけど、一緒に行かないか?」直美はもう随分と映画館へ行っていないことを思い出す。もうすぐ国立特級芸術アカデミーに行く自分にとっても、いい経験になると思い承諾した。仕事終わり、瑞樹がナースステーションに迎えに来た。ふと、瑞樹と過ごしたかつての楽しい日々が戻ってきたような錯覚を覚える。しかし、次の瞬間には「宮本パパ!」という明るい声がその思考を切り裂いた。結香は慎也を抱きかかえ、愛おしそうな目で瑞樹を見つめていた。「宮本先生、今日は助けてくれてありがとう。でも夜遅くなっちゃって、慎也を連れて帰るのが大変で……家まで送ってくれないかな?」瑞樹は横にいる直美に視線を向け、少し躊躇う。それを見ていた結香は、気まずそうに微笑んだ。「ごめんなさい、私ったら空気が読めなくて。お二人は用事があるのよね。私は慎也と適当にバスかなんかで帰るから大丈夫」瑞樹は直美と一緒に少し歩いたが、やはり足を止める。「直美、映画は別の日でもいいか?もうこんな時間なんだ、夜道は危ないし、白石さんが一人で子供を連れて帰るのは心配だから」直美は少しだけ口角を上げた。最初から
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第4話

「中島課長、お呼びですか?」怪訝な顔をしていた浩平は、瑞樹の姿を見ると声を弾ませた。「ああ、宮本先生。お二人のための新居が準備できそうなんです!今年こそ、お二人の晴れ姿にお目にかかれそうですね」瑞樹の顔が一瞬こわばったが、すぐに何事もなかったかのように答える。「ありがとうございます、中島課長。招待状は必ず送りますから」瑞樹は直美の手を引いて事務室を出た。「直美、新居の問題は解決できたけど、今年は昇進のためにかなり忙しくなるんだ。だから、結婚の話は……」「わかってる。急がなくても大丈夫だから」直美は瑞樹が言う前に、彼の本音を先に口にしてあげた。住まいなんてただの口実だ。瑞樹には最初から自分と結婚するつもりなんてなかったのだから。ちょうどいい。こっちも、もう瑞樹と結婚する気なんて微塵もない。瑞樹は直美がこうもあっさり受け入れたことに驚いた。以前のように自分に縋り付いて結婚を迫る直美の姿はそこにはなかった。瑞樹は気まずさを紛らわせるように言った。「直美、誤解しないでくれ。結婚する気がないわけじゃない。ただ、今キャリアアップして、君にもっといい暮らしをさせてやりたいだけなんだよ」直美は心の中で笑った。昔の自分は、瑞樹には色々な苦労があるのだと信じ、自分の身を削ってでも力になろうとしていた。しかし、その問題を解決する度に、次から次へと新しい言い訳が出てくる。以前は住まいの問題、今は昇進だ。昇進の件が終われば、また別の問題を持ち出すのだろう。だが、そもそも「問題」などというものは存在しない。すべてが瑞樹の都合の良い言い訳なのだから。ただ、もうそのどれもが自分には関係ない。「そうかもね。じゃあ、お互い仕事に集中しよう。それがこれからのために一番いいと思うし」直美の声には迷いがなかった。それは瑞樹への言葉であり、同時に自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。恋愛は淡くて脆い。確かなのは、自分自身のキャリアだけだ。肩の荷が下りたようで、瑞樹が直美に向ける視線に少しばかりの温かみが宿る。「直美……そう言ってくれるなんて、本当に嬉しいよ」瑞樹と別れた後、直美は再び総務課の事務室へ戻った。「中島課長。先ほどの話の続きですが、例の新居は私の名義で割り当てられるんですよね?なら、今回の申請は取り下げて
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第5話

「ゴミを片付けてるだけだけど、何か問題でもある?」直美は表情一つ変えずに答える。瑞樹の顔色は、怒りからみるみるうちに赤くなっていった。「いい加減にしろ!白石さんたちを呼んだのは俺だ。二人の家は雨漏りがすごくて住めたもんじゃないんだよ。数日住まわせるだけなのに、君はどうしてこんなことを?可哀想な親子二人を見捨てろというのか?」数日住まわせる?結香は全ての家財道具を持ち込んでいるというのに。どう見てもここで暮らす気だった。申請手続きの時、瑞樹は面倒がって何一つ協力してくれなかったくせに。申請が決まった途端、こんなことをするなんて。本当に笑わせてくれる。「瑞樹。この家の申請をしたのは私。何の許可もなく他人を入れるなんて、何のつもり?」瑞樹が気まずい表情を浮かべた。「直美、俺たちはまだ籍を入れてないんだから、それまで白石さんたちに部屋を貸したっていいだろ?空けておいたって無駄になるだけなんだから」なるほど、そういう魂胆だったのか。籍を入れずに、結香をここに住まわせるつもりだったとは……「でも、遅かったね。もう解約の手続きをしたから。すぐにでも追い出されると思うよ。白石さんたちも退去させなきゃ」瑞樹は呆然としていたが、すぐに軽蔑したような目を直美に向ける。「直美、そんな駆け引きで俺が結婚を決めるなんて思うなよ?今年は結婚はしないって言ったらしないからな」瑞樹は、直美が苦労して手に入れた公舎を本当に解約するなど、信じてはいなかった。野次馬たちも口々に騒ぎ始める。「それにしても、宮本先生はひどいわね。新居にシングルマザーを住まわせるなんて」「松浦さんも可哀想。まだ暮らし始めてもない新居を奪われて。本当に嫌な話」それを見ていた結香は、大声で嘘泣きをした。「宮本先生、松浦さん、私のせいで喧嘩しないで。私は夫に先立たれた身だから、どこへ行っても嫌われる……もうここにはいられない。いっそ慎也と……もう生きていても仕方がないもの……」そう言うと、慎也を抱きかかえて外へ走り出した。瑞樹はすぐさま追いかけて叫ぶ。「白石さん!早まるな!」結香は慎也を抱いて川辺まで走ると、追いかけてきた瑞樹に涙ながらに訴えた。「宮本先生、私によくしてくれることは感謝してるの。でも、こんな私が一緒にいると先生まで白い目で見られちゃうから
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第6話

直美はもう一度、はっきりと告げた。「退職届を出しに来ました」和彦は耳を疑った。「松浦さん、何かあったのかい?とりあえず、よく話し合おう。だから、そんな急に辞めるなんて言わないでくれ」ここの病院で看護師を務められるというのは、看護師の中でもかなりのエリートだった。しかも直美は今や中核を担う存在で、じきに看護師長への昇進も決まっており、前途は洋々のはずなのだ。それなのに、なぜ辞めようなどと考えるのか?瑞樹が冷ややかな視線を直美に向ける。「今さら大人しくしたって、今回の件はなかったことにはならないからな。今回の君の不始末は、さすがの俺でも庇いきれない」大層なことを口にする瑞樹を前に、直美はただ滑稽に感じた。瑞樹は単なる卑怯な偽善者だったということに、なぜ今まで気づかなかったのだろう?「瑞樹、いい加減なこと言わないで。私は何も問題なんて起こしてないし、あなたに庇ってもらう必要もない。白石さんが勝手に私の家に住み着いたから、追い出しただけ。それがどうして、あなたの口からだと、私が彼女に危害を加えたみたいな話になるの?」瑞樹は怒りで首筋の血管を浮かせ、顔を真っ赤にした。「白石さんは君のせいで死ぬところだったんだぞ?なのに、よくもまあ、そんな白々しい嘘がつけるな」二人が一触即発の状況になり、和彦が間に入る。「詳しい調査は病院の方で行うから。宮本先生、とりあえず外へ出てくれるかな?松浦さんは残って」瑞樹は直美を睨みつけてから、苛立ちを隠さずに退室した。和彦は首をかしげながら言った。「調査もまだだし、病院側だって宮本先生の言い分を全て信じたわけでもないのに、どうしてこんなにも急いで退職なんかするんだ?」直美は自分が国立特級芸術アカデミーに合格したことを打ち明けた。和彦は納得の表情を見せる。「そうか。しかし、宮本先生と結婚するんじゃなかったのか?聞くところによると、アカデミーは3年間の合宿訓練があると言うが……婚約はどうするんだ?」直美は自嘲気味に笑った。「院長先生、彼のさっきの態度を見たならお分かりいただけたと思いますが、彼は私のことなど、もはやどうでもいいのです。あんな人と結婚する必要なんてあると思いますか?」和彦は事情を察すると静かに頷き、感心したような眼差しを向けた。「引き際を心得ているな。松浦さんの判断は
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第7話

同僚たちは、直美が退職すると知って残念がった。「松浦さん、こんなに仕事ができて、もうすぐ看護師長にもなれるはずだったのに……どうして辞めちゃうの?」「理由なんて決まってるでしょ?あんな宮本先生と白石さんの仲睦まじげな様子を見せられたら、落ち込むのも無理はないわ」「男のせいで辞めなきゃいけないなんて。この病院には他にも素敵な独身の先生がたくさんいるのに!宮本先生がなんだっていうの?」直美は苦笑いを浮かべる。「実は、国立特級芸術アカデミーに受かったの。だから、3日後にここを離れなくちゃいけなくて……」周りの看護師たちが羨ましそうに直美を見つめた。「おめでとう!さすが松浦さん!国立特級芸術アカデミーに受かったなら、未来が明るいね」「私も入りたいけど、音痴だしリズム感もないから、来世に期待するよ」ちょうど看護師長がワゴンを押して近づいてきた。「松浦さん、国立特級芸術アカデミーへの合格おめでとう。でも、最後の日まで責任を持って仕事をやり遂げてね」そう言って看護師長はワゴンを直美に渡す。「5番ベッドの薬よ。カルテを確認してから投薬をお願い」「わかりました。最後まで気を抜かずに頑張ります」医療に携わる者として、最後まで手を抜くことなく仕事をやり抜くつもりだ。直美が5番ベッドに向かうと、そこに横たわっていた患者は結香だった。瑞樹の姿はもうなく、直美の姿を見つけた結香は、皮肉たっぷりの顔で直美を見つめた。「あら松浦さん。わかったでしょ?宮本先生の心の中には私しかいないって。あの人があなたと入籍しない理由がわかる?私と慎也を支えられなくなるのが怖いからなのよ?宮本先生は慎也の父親代わりになってくれたの。まあ、もうすぐ私の男になるんだから、あなたはもう諦めた方がいいと思うわ」結香の自信に満ちた笑みを前に、直美は鼻で笑った。「そんなに自信があるなら、実際に籍を入れてから自慢しに来てくださいね」すると結香はゆっくりと袖を捲り上げた。「ねえ、見てこれ」直美の目に、宝石のブレスレットが飛び込んできた。それは紛れもなく、宮本家に伝わる家宝で、瑞樹の亡き母・宮本明日香(みやもと あすか)が、将来の宮本家の嫁に渡すよう遺したものだった。瑞樹は自分たちが結婚する時に、改めて手首につけてくれると言っていたのに。一度
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第8話

瑞樹の言葉を聞いて、直美は固まった。そんなことはありえない。先ほどナースカートを部屋に入れた時、薬剤を確認したばかりだが、そこにはペニシリンなど入っていなかった。「瑞樹、言いがかりをつけるのにも証拠が必要でしょ?適当なことを言わないで。私がいつ白石さんにペニシリンなんて渡したの?」直美の堪忍袋の緒が、今にも切れそうになる。そして、結香のために何度も自分を悪者にする瑞樹に、もううんざりだった。直美は戻って再び薬を確認した。すると、本当にペニシリンが数粒混ざっているではないか……「松浦さん、私が何をしたって言うの?どうして私にこんなことを?宮本先生がいなかったら、どうなっていたか分からないじゃない!」結香は涙をこぼし、すがるような目で瑞樹を見つめた。「直美、君は新人の看護師でもあるまいし、こんな初歩的なミスをするはずがない。わざとやったんだろ?正直に言え」と、瑞樹が怒り声を張り上げる。しかし、いくら腹が立っていても、患者の命を危険に晒すような真似なんて絶対にしない。ましてやペニシリンを飲ませるなどありえない。「なんでペニシリンが混ざっているのか、私には分かりませんが、私がしたことではありません。配布前に必ず確認していますので」「じゃあ何?私が嘘をついているとでも言うの?」と結香が喚く。「私の命に関わることなんだけど?もし宮本先生が気づいてくれていなかったら、死ぬところだったんだから」直美は深く息を吐き出した。「必ず原因を調査します。でも、心当たりのないことに対して謝ることはいたしません」直美がそう言い終わるや否や、瑞樹の平手が飛んできた。「まだ言い訳をする気か?君が手渡したのは事実だろ?一体、白石さんが何をしたって言うんだ?こんなに酷い仕打ちをするなんて!」白い頬は見る間に腫れ上がり、直美の目から涙がこぼれ落ちた。何年も愛してきた男が、他の女のために何の確認もせず自分を叩くなんて。最後のかすかな未練も、この痛みとともに消え去った。「瑞樹。私たち、完全に終わりね」直美は奥歯を噛みしめ、残った気力を振り絞って言い放った。平手を打ち込んだ手の震えと、直美の殺気立つ瞳を見て、瑞樹の胸に得体の知れない不安が広がる。しかし、強気な態度を崩すことはできなかった。「話をそらすな。今は白石さんの話をしているん
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第9話

退院した結香は、瑞樹の独身寮で過ごしていた。瑞樹はというと、同僚と相部屋で生活を送っていたのだった。ここ2日ほど仕事を休んでいた瑞樹は、結香を病院に置いておくのが不安だったのだ。もし、直美がまた看護師という立場を利用して結香に何か仕出かしたらと考えると、気が気ではない。結香の体調が落ち着いたら、絶対に和彦に報告しようと決めていた。しかし、あの日のそれまでに見たこともない直美の目を思い出し、胸がざわつく。ただ結香親子を助けたいだけなのに、なぜ直美はこんなにも攻撃的になるのか?以前はあんなに純粋で優しかったはずなのに、今ではすっかり冷たい女になってしまった。しとしとと降り続く雨のせいか、朝から気分が晴れない。結香はまだ自炊ができる体調ではなかったので、瑞樹は結香親子の食事を持ち帰るために、タッパーを持って病院の食堂へ向かった。「宮本先生、最近やけに食欲があるねえ?」食堂の職員にからかわれる。もし別の女性を寮に住まわせていることが病院に知られれば何を言われるか分からないため、「仕事が忙しくてね」と適当にごまかした。瑞樹はタッパーを抱えて寮へと急ぎ、冷めないうちに二人に手渡す。「さあ、食べて。今日の料理もなかなか美味しいと思うよ」結香の青白い顔を見ると、瑞樹の胸に自責の念が湧き上がった。直美の冷酷な言動がなければ、結香が川に飛び込むなんて事態にはならなかったはずなのに。タッパーを開いた結香は、慎也と質素な暮らしを送っていた時に比べ、あまりにも豪勢な食事に息を呑む。香りに釣られた慎也が箸を伸ばそうとしたが、結香はそれを軽く叩いた。「宮本先生も食べて。私たちの看病ばかりで満足に食事も取れてないでしょ?先生がいなかったら、どうなっていたことか……」潤んだ瞳の結香の頬は赤らみ、まるで雨上がりのバラのように美しかった。瑞樹は思わず見惚れてしまい、慌てて視線を逸らす。「俺はもう食べたから。二人で食べて。それに、雨が止んだら、君の家を補修しにいってくるから。そうすれば雨漏りの心配もなくなるはず」遠回しに帰るよう促されたと察した結香は「あの新居にはもう住めないってこと?」と聞いた。結香は、瑞樹たちの新居に引っ越すと決めていた。あのような家に住んだことのない結香にとって、そこへの引越しは全ての家財
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第10話

直美の部署に着いたとき、瑞樹はふと躊躇した。直美に何を言えばいいのだろう?なぜここ数日会いに来ないのかと聞くべきか?それとも、なぜ結香を度々困らせるのか問い詰めるべきか?散々迷ったが、それでも覚悟を決めて中に足を踏み入れた。室内を見回したが、直美の姿は見当たらない。巡回に行っているのだろうか?瑞樹は入口に立ち、直美が戻ってくるのを待つことにした。不思議なことに、通りかかる看護師たちは、皆瑞樹が見えていないかのようだった。誰も話しかけてこない。瑞樹は腕がよく、見た目もかなり整っていたため、多くの看護師から慕われていたはずなのに。周囲からチヤホヤされるのが当たり前になっていた瑞樹は、今日の冷淡な空気には居心地の悪さを感じた。それに、いつまで経っても、直美は戻ってこない。瑞樹は仕方なく近くの看護師に聞いた。「あの、直美はいつ戻りますか?」看護師は瑞樹を見上げて、怪訝そうに眉をひそめた。「松浦さんはもう退職しましたよ」「退職ってどういうことですか?どこに行ったんですか?」看護師の視線が、さらに不審なものに変わる。「婚約者なのに行き先も知らないんですか?冗談ですよね?」瑞樹は焦った。本当に自分は直美の動向を何も知らない。「何を言っいてるんですか?直美はこの病院の看護師でしょう?それなのに、どこに行くっていうんですか?」近くにいた他の看護師たちも、騒ぎを聞きつけて集まってきた。「宮本先生、本気で言っいてますか?松浦さんは今日の朝、もうここを離れましたよ。見送りもしなかったんですか?」「あのシングルマザーさんに付き添っていなきゃいけないから、自分の婚約者の見送りもしないなんて……ありえないですね」「松浦さん、こんな人から離れて正解ですよ。こんな男と結婚したって、幸せになれるわけがないんだから」瑞樹は固まった。看護師たちの口から次々と発せられる言葉が、瑞樹を混乱させる。しかし、どうしても直美がどこへ行ったのかを知りたかった。「直美は一体どこへ行ったんですか?」瑞樹の表情には焦りが滲み、筋肉がこわばる。「松浦さんは国立特級芸術アカデミーに合格したんです。これからはダンサーとして生きるんですよ」その言葉が、鋭い針のように瑞樹の耳に刺さり、身体が激しく震えた。そんな
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