All Chapters of 捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

入り口を振り返ると、そこには到底ここにいるはずのない、そして私が今最も顔を合わせづらい人物が立っていた。「智哉さん……っ、どうして、ここに……」私の震える呟きを完全に無視し、智哉さんは長い足を乱暴に動かして部屋の中へと踏み込んでくる。その視線は私を通り越し、上座に座る実の父親へと真っ直ぐに向けられていた。「何のご連絡もなく、私の婚約者を勝手に連れ出されては困ります」お義父様は手元の切子グラスをゆっくりと回し、中に入った冷酒を一口含んだ。「どうしてお前の許可が必要なんだ? 私はただ、ひよりさんと食事がしたかっただけだよ。ひよりさんだって、私の誘いにちゃんと合意してついてきてくれたんだからね」合意という言葉に、智哉さんの顎のラインが怒りでギリッと強張った。智哉さんは鼻で冷たく笑い飛ばした。「合意、ですか。この国で、あなたからの誘いに首を横に振れる人間なんて、最初から一人も存在しませんよ」息子の辛辣な言葉に対しても、お義父様はただ大袈裟に眉をひそめ、困ったようなポーズを取ってみせるだけだで。その一連の動作のすべてが、智哉さんの焦りを誘うための完璧な計算のようにも見えた。確かに彼は巨大グループのトップであり、誰も逆らうことのできない絶対的な権力を持っている。けれど私に向けられた眼差しは常に温厚で、言葉の端々には優しさが滲んでいた。圧などという暴力的なもので私を脅し、無理やり連れ出したわけではない。「まるで私が権力を振りかざして若いお嬢さんを脅し取るような、横暴な人間だとでも言いたいのか?」お義父様の問いかけに対し、智哉さんは一切の妥協を許さない冷酷な視線で見下ろし続けた。「事実、そうでしょう。あなたのその他人を自陣営に巻き込む時の圧がどれほど異常か、ご自分では気づいていないのですか」「そうなのかい?」お義父様は智哉さんの言葉を全く気にする素振りも見せず、むしろ私の方へ柔らかな視線を向けて、困ったように首を傾げてみせた。お義父様は横暴な人なんかじゃない。とても優しくて私を温かく迎え入れてくれた人だと、智哉さんに伝えなければ。「いえ、私は……っ」智哉さんがゆっくりと首を巡らせ、私を漆黒の瞳でギロリと睨みつけてくる。たった一度睨みつけられただけで、呼吸の仕方すら分からなくなってしまう。「ははっ。ひよりさんはお前の方がよっぽど怖いみたいだ
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第82話

「お前は彼によく懐いていたからね。娘であるひよりさんに、思い出話のひとつやふたつ、とっくに話してあげているものだと思っていたよ」 智哉さんが、なぜ見ず知らずの私と契約したのか。 なぜ借金をためらうことなく一括で肩代わりしたのか。 なぜ東条グループの息がかかりそうになっていた私を強引に引き剥がし、自分の目の届く範囲に囲い込んだのか。 「私が、父の娘だと知っていたから……?」 ぽつりと零れ落ちた私のその呟きは、料亭の個室に不気味なほど静かに響き渡った。 その瞬間、私の手首を力強く掴んでいた智哉さんの指先から、スッと力が抜け落ちた。 「真に受けるな。お前が耳を貸す必要などない」 そう言いながらも、彼自身が私の問いを真っ向から否定しなかったことが答えだった。 「ところで、智哉。その痛々しい腕は、一体どうしたんだい?」 お義父様の視線は、智哉さんの首から重々しく吊り下げられた分厚く真っ白なギプスへと絡みついていた。 その問いかけに、智哉さんはギリッと奥歯を強く噛み締める。 「大した怪我じゃありません」 全治三ヶ月という診断が下されたその怪我は、誰の目から見ても尋常な状態ではないのに。 智哉さんは、どうして実の父親に冷たいんだろう。母親を救えなかった過去の因縁のせいだろうか。 「どう見ても大したことないわけがないだろう。ギプスまでして…本当に大丈夫なのか?」 お義父様は困ったように眉尻を下げ、深くため息をついた。 素直に「交通事故に遭った」と答えれば、お義父様もそれ以上追求せずに納得してくれるはずなのに、なぜか智哉さんは頑なにその事実を口にしようとしない。 彼は一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、何かを堪えるような切実な眼差しで言葉を失って立ち尽くす私の方を盗み見た。 そしてすぐに視線を外し、誰の目から見ても嘘だと分かるような、あまりにも苦しい弁明を絞り出した。 「……少し、派手に擦りむいただけですよ。あなたに心配していただくようなことではありません」 もしかして智哉さんは、私の前で『交通事故』という単語を口にすることを恐れているのだろうか。 私のトラウマに気を遣い、自分自身が滑稽な嘘つきに成り下がるような不器用な配慮を優先しているのだとしたら…。 「そうか。本当のことは話してくれないんだな」 その静かで悲しげな問いかけは、決し
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第83話

薄暗い街灯に照らされた石畳の道を、智哉さんはただひたすらに前だけを見て歩いていく。 私がお義父様から聞かされた重すぎる真実。それを突きつけられた今、このまま黙って彼の後ろを付いて帰れば、私たちは永遠に交わることのない平行線を辿ることになる。私は勇気を振り絞り、震える声で遠ざかる背中へ向かって呼びかけた。「……ちょっと待ってください」私のその掠れた声が夜の静寂に響いた瞬間、智哉さんの革靴がピタリと止まった。けれど、彼は決してこちらを振り返ろうとはしてくれない。張り詰めた沈黙が数秒続いた後、彼がゆっくりと口を開いた。「お前は、どうして見ず知らずの他人にホイホイとついて行くんだ。危機感がまるでない」私は冷える指先をギュッと握り締め、反論の言葉を紡いだ。「見ず知らずの他人って……お義父様は、智哉さんの本当のお父様じゃないですか」私のその言葉が地雷を踏んだかのように、智哉さんの肩がビクッと大きく跳ねた。そしてゆっくりと首だけを後ろへ巡らせ、私を鋭く睨みつけた。「今回はたまたま本物だったから良かったようなものの、もし俺の関係者を騙って近づいてきた悪意のある人間だったらどうするつもりだった」「それは…でも、すぐにお義父様だって分かりました。だって、智哉さんに面影が似ていたから……」私の言葉に、彼は瞳を細めギリッと奥歯を鳴らすと、心の底からの嫌悪感を吐き捨てるように言い放った。「ふざけるな。俺は、母親似だ」亡き母親への強烈な執着と、父親に対する絶対的な拒絶。先程まで見せてくれたお義父様のあの温かい気遣いや、不器用な親としての愛情を思い出すと、智哉さんがここまで父親を忌み嫌う姿があまりにも悲しくて理不尽なものに思えてならなかった。「どうして……どうしてそんな風に、お義父様のことを否定するような言い方をするんですか」私のその問いかけに対し、智哉さんは再び私から冷たく顔を背け、暗く続く夜道へと視線を戻した。「事実を口にしただけだ」 まただ。また彼はそうやって、本当に大切な核心部分を分厚い壁の向こう側に隠して、私から遠ざかろうとしている。私は限界まで達した感情を抑えきれず、冷たい夜風を震わせるように、涙声で彼に向かって叫んでいた。「あなたはいつもそう。肝心なことは何も言わず、私に大事な過去も、本当の気持ちも、何一つ話してくれないじゃないですか!
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第84話

高級なスーツ越しに伝わってくる彼の体温は、私の凍りついた指先を溶かしてしまいそうなほどに熱く、そして力強かった。突き放そうと思えば、彼ほどの力があれば簡単に私を引き剥がすことができるはずだ。それなのに、彼は私に触れることすらできずに硬直していた。「あなたが、肝心なことは何一つ言ってくれないから。私は勝手に想像することしかできないんです」智哉さんは何も答えなかった。ただ、彼から発せられていたあの絶対零度の拒絶のオーラが、ほんの少しだけ揺らいだのが分かった。私の頬に触れる彼の背中が、深く、重い呼吸に合わせてゆっくりと上下している。彼が私という人間を借金から救い出した本当の理由が、私の頭の中で一つの答えを導き出していた。私は彼に回した腕の力を少しだけ緩め、震える唇を必死に動かした。「私と契約を結んだ本当の理由は……。私が、お父さんの娘だったから、なんですよね?」彼が私を見ず知らずの女としてではなく、恩師の娘として認識していたからこそ、あんな異常な額の負債を肩代わりしてまで自分の手元に置いたんだ。「ずいぶんと豊かな想像力だな。小説家にでもなれそうだ」いつもの彼なら、もっと論理的に私を論破し、ぐうの音も出ないほどに冷徹に切り捨てていたはずなのに。「誤魔化さないで、ちゃんと答えてください」私の必死の訴えに、智哉さんは小さく、けれど深い溜息を夜の空気に溶かした。「俺はあの人から貰ってばかりで、結局…何一つ返すことができなかった」「それって……娘である私を助けることで、借りを返そうとしているってことですか?」私のその問いかけに対し、智哉さんは自嘲するように力なく口角を上げた。そして私の言葉を真っ向から否定するように、首を横に振った。「そんな大それた話じゃない」彼にとって自分の行動は、過去の亡霊に囚われたままの醜いエゴであり、私を自分の贖罪の道具として巻き込んでいるだけの罪深い行為。だと、そう思っているのだろうか。自分の行動
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第85話

私は熱を持った頬に冷たい両手を当てながら、ひどく呂律の回らない声で正直に白状した。「冷酒を何杯か…」確かに、さっきから視界の端がぐにゃぐにゃと嫌な風にぼやけているし、足元はふわふわと宙に浮いているようで覚束ない。なにより、普段なら絶対に口にできないような感情的な言葉がブレーキを失って溢れ出してくるこの感覚は、どう考えても自分が自分ではないみたいだった。智哉さんは深く、そして今日一番の疲労を滲ませた重い溜息をついた。「……帰るぞ」極度の緊張状態の中でアルコールを大量に摂取し、その上で衝撃的な事実を聞かされて精神的にパニックを起こしている。今の私が、まともな話し合いができる状態ではないと、彼の優秀な頭脳は即座に結論付けたのだろう。けれど、酔いが回って感情のストッパーが完全に壊れてしまっている今の私は、そう簡単に彼の言うことを聞くほど素直にはなれなかった。アルコールがもたらした根拠のない万能感と、どうしても彼自身の口から本当の気持ちを聞き出したいという切実な焦燥感が、私の足に根を張らせた。「待ってください、まだ私のお話は終わってません!」「家に帰ったら、いくらでも聞いてやる。だから今は歩け」その言葉は、私を家という鳥籠に押し込めるための、ただの甘い嘘にしか聞こえなかった。あの家に帰れば、彼はきっと仕事や怪我を理由にして自分の書斎に閉じこもり、私との対話を避けるに決まっている。「……嫌です」私のその短くも断固とした拒絶の言葉に、智哉さんのこめかみがピクリと動いた。「……おい」彼が発した短く低い警告の声。普段ならそれだけで私は縮み上がり、大人しく彼の後ろをついていくことを選んでいただろう。けれど今の私は、理性をアルコールに明け渡し、胸の奥底に溜まりに溜まった不満と寂しさを爆発させる準備が完全に整ってしまっている。「だって……家に帰ったら、どうせまた私のことなんて、いないみたいに扱うじゃないですか…っ」私の訴えに、智哉
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第86話

「……泣くな。話さなかった俺も悪い」口にした謝罪を、智哉さんは真っ向から否定することも、突き放すこともしなかった。私は顔を上げることもできず、ただ自分の足元を見つめながら、ポロポロととめどなく涙をこぼし続けた。「本当は…あんなひどいこと、これっぽっちも思ってなかったんです……っ」 涙で視界が完全に滲み、呼吸をするのすら苦しいのに、私は自分自身への怒りと彼への申し訳なさから、ひたすらに謝罪の言葉を探し続けている。「もういい」智哉さんの声は、ただ泣きじゃくる私を前にして途方に暮れているような、困惑と諦めが入り混じったものだった。「私はっ……私は、ただ……っ」喉の奥まで込み上げてきたその言葉は、嗚咽に阻まれてどうしても形にならなかった。アルコールのせいなのか、それとも自分の無力さへの絶望のせいなのか、視界はぐらぐらと揺れ、足元から崩れ落ちそうになる。「……もう分かった。だから、こっちを向け」智哉さんの声には、先程よりも少しだけ強い意思が込められていた。それでも、私は彼の方を向くことができなかった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった醜い顔を見られたくないという羞恥心以上に……。私は彼の命令に抗うように、両手で顔を覆ったまま頑なに首を横に振った。「…ひより」私の名前を呼ぶその声に、思わず肩が大きく跳ねた。いつもは冷たく呼ぶか、あるいは事務的に呼びつけるだけだった彼の口から、信じられないほど甘く優しい響きを持っていた。「ごめん、なさい……」崩れ落ちた防壁の隙間から溢れ出したのは、彼への謝罪の言葉だった。 私がしゃくり上げながらそう呟くと、智哉さんはこれ以上の言葉は必要ないとばかりに、小さく息を吐いた。「……だから、もう泣くな。お前がそんな顔をしていると、俺が何も言えなくなるだろう」そう言うと、大きな左手をゆっくりと伸ばし、その温かくて少し骨張った手のひらが、涙で濡れた頬を優しく包み込む。彼の指先から伝わってくる熱が、私の冷え切った肌にじんわりと染み込んでいく。彼は私の頬を片手で包み込んだまま、逃げ場を塞ぐように少しだけ力を込め、俯いていた私の顔をゆっくりと上へ向かせた。「そうですよね。すみません。すぐに泣きやみ、ますから」喉の奥からせり上がってくる嗚咽を必死に噛み殺し、私は乱暴に手の甲で目元を擦った。これ以上泣き顔を見せて、彼
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第87話

「そんな風に、優しくしないでください……。これ以上優しくされたら、私、どうしたらいいか分からなくなって……っ」私は震える唇を噛み締めながら、彼の手のひらから微かに顔を背け、どうしようもない惨めさを吐露した。「ただ、俺に寄りかかっていればいい」「私……本当は、お父さんを否定することで必死に自分を守っていたんです」その言葉を口にした瞬間、私の視界は再び熱い涙で歪み、智哉さんのスーツの胸元を濡らしてしまった。父はいつだって研究室に引きこもり、私たち家族と一緒に過ごす時間よりも、顕微鏡やデータと向き合う時間を優先していた。母が寂しそうに笑う顔を見るたびに、そして私自身が父親の温もりを知らずに育つたびに、愛されていないのだという残酷な現実を突きつけられているような気がしていた。そして極めつけに、父は交通事故で、私たちを置いてあっさりとこの世を去ってしまった。「家族をないがしろにしたから、罰が当たって志半ばで死んでしまったんだって。そう自分に言い聞かせないと…」父を恨み、軽蔑しなければ、自分が惨めすぎて生きていけなかった。家族を犠牲にしてまで没頭した研究すら未完成のまま終わり、結局何も遺せずに死んでいった愚かな父親。あの夜、私の中で無理やり蓋をしていた父親への恨みが制御不能なまでに暴走してしまった。父の遺したものが素晴らしいと認められてしまえば、愛されなかった事実がより一層惨めなものになってしまうような気がして、ただ盲目的にそれを否定したかった。私は智哉さんの背中に回しかけていた手をギュッと握りしめた。「だから、あの時……薬を馬鹿にしたわけじゃなくて、ただ、お父さんを恨みたかっただけで…つまり……っ」私が言葉を詰まらせたその時、智哉さんの大きく温かい手が私の頭にそっと置かれた。そして、私の弁解を最後まで聞く必要などないと言わんばかりに、彼は信じられないほど優しい声で私の言葉を遮った。「……もういい。それ以上は言わなくていい」「ごめんなさい。結局、ただの言い訳
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第88話

「え……?」そんなはずない。私はいつだって、教室の後ろや校庭の隅を血眼になって探し、父の姿がないことを確認しては絶望して泣いていたのだ。母に聞いても、「お父さんはお仕事が忙しいから」と寂しそうに笑うだけだった。「行っていたんだよ。ただ、どんな顔をして会えばいいか分からないからと……気付かれないように、こっそりとな」智哉さんの口から語られた真実は、あまりにも不器用で、悲しいほどに父親らしいものだった。「どうしてそんなこと……」遠くから隠れて見ていただなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。気付かれないように見ているだけでは、私にとっては来ていないのと同じことだ。少しでも顔を見せて、頭を撫でてくれれば、私はそれだけでどれほど救われたか分からないのに。「確か……お前が小学生の頃だったか。母親に、『自分はお父さんに愛されていない、家族より仕事の方が好きなんだ』と泣いて訴えているのを、偶然聞いてしまったらしく」「その言葉を聞いてもっと避けるように…?」私の幼い一言が、父を永遠に遠くの物陰へと追いやる決定打になってしまったのだという事実に、私は顔からスッと血の気が引いていくのを感じた。父は私の行事を忘れていたわけでも、仕事だからと切り捨てていたわけでもなかった。ただ、普段から家庭を顧みず、娘に寂しい思いをさせているという負い目があったからこそ、堂々と父親面をして学校に顔を出すことができなかった。すべては悲しいすれ違いだった。私が父を憎んでいたのは、愛されていると信じることができなかったから。そして父が姿を見せなかったのは、私を愛していなかったからではなく、私の言葉に深く傷つき、遠くから見守ることしかできなかったから。「あの人も、あの人なりに罪悪感を抱いていた」私は今まで、自分の孤独と悲しみばかりに囚われて、父がどれほどの覚悟と苦悩の中で戦っていたのかを全く見ようとしていなかった。私が長年抱え続けてきた愛されていないという
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第89話

「……ただ、もし本当に申し訳ないと思ってくれているのなら、一つだけ約束してください」私は少しだけ背伸びをするようにして彼の顔に近づくと、赤く泣き腫らした目で真剣な想いを込めた。「……なんだ。言ってみろ」彼は私が何を要求してくるのかと、微かに警戒するような目をしていた。「これから先、どんな理由があっても、もう二度と私を避けないでください」彼がどんな覚悟をして私の要求を待っていたのかは分からない。けれど、私が彼に求めているものは、お金でも、自由でも、契約の破棄でもなかった。私が欲しいのは、彼自身の心だった。病院でのあの一件以来、彼が私を避けるように深夜にしか帰宅しなくなったあの孤独な日々。同じ屋根の下にいるのに、まるで透明人間になったかのように扱われるあの寂しさは、もう二度と味わいたくなかった。「……あぁ。分かった」その低い声が、冷たい夜の空気にゆっくりと溶けていく。智哉さんの瞳には、私を遠ざけようとしていたあの冷徹な氷の壁はもうどこにもなかった。私は鼻をすすりながら、少しだけ照れ隠しをするように念を押した。「……絶対、ですからね」私のその涙声混じりの強がりを聞いて、智哉さんはふっと吹き出すようにして、笑い声をこぼした。そして目を細めると、左手の親指で、私の目元にこびりついていた涙の跡を優しく拭い取ってくれた。その指先が触れた頬の冷たさに気づいたのか、彼は少しだけ眉をひそめ呆れ声で私を促した。「分かったから、いい加減帰るぞ。こんな底冷えする夜道でいつまでも泣いているせいで、身体中が氷みたいに冷え切っている」彼に身体の冷えを指摘されたことで、私はハッと我に返った。「あっ…」自分がアルコールと感情の爆発に任せて彼に縋り付いていたせいで完全に失念していたけれど、目の前にいる彼は、つい先日交通事故に遭いギプスを吊り下げている重傷者なのだ。自分の圧倒的な配慮のなさに今更ながら気がつき、私は慌てて彼の身
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第90話

湯船に浸かり、じんわりと身体の芯まで温まっていくにつれて、私の中を支配していたアルコールが完全に抜け落ちていくのを感じた。 それと同時に押し寄せてきたのは、冷酒の勢いに任せて智哉さんにしがみつき、泣き喚いた恥ずかしすぎる記憶だった。 酔いが覚めて完全に正気を取り戻した今となっては、強烈な羞恥心が全身を駆け巡っている。 私はお風呂上がりだからという言い訳では誤魔化しきれないほど真っ赤に茹で上がった顔を両手で覆いながら、逃げ出したい気持ちを必死に抑え込んで脱衣所を出た。 リビングの扉を恐る恐る開けると、ソファに深く腰掛けて静かにこちらを待っている智哉さんの姿があった。 「随分と長風呂だったな。少しは温まったか」 智哉さんのその低くて落ち着いた声が鼓膜を揺らした瞬間、私の肩はビクッと大きく跳ね上がった。 先程までの夜道での出来事が幻だったかのように、彼はいつもの静かな佇まいに戻っている。 「は、はい…」 湯上がりで異常に顔が赤く、視線を泳がせて俯いている私の姿を見て、アルコールの回った状態で長風呂をしたせいで体調を崩したのではないかという心配へと向かってしまったようだ。 彼は私の顔色を窺うように、真剣な眼差しを向けてきた。 「どうした。また顔が赤いぞ。湯あたりでもしたか?」 湯あたりなんかじゃない。ただ単に、酔った勢いであなたに縋り付いて泣き喚いた自分が恥ずかしくて死にそうになっているだけ。 けれど、そんなことを素直に白状できるはずもなく、私は必死に両手を振って彼の推測を否定した。 「いえ、湯あたりじゃありません!…あ、あの、智哉さんも、お風呂に入ってきてください」 私が逃げるように早口でまくし立て、彼をバスルームへと促そうとしたその時だった。 「風呂の前に、少し話がある。」 彼はローテーブルの向かい側にある、一人掛けのチェアを左手で軽く示し、私にそこへ座るようにと静かに命じた。 「お話、ですか……?」 私は彼に逆らうことなどできず、示された椅子へとゆっくりと歩み寄る。スカートの裾をギュッと握り締めながら、私はおずおずと彼の向かい側に腰を下ろした。 彼は小さく深い溜息を一つ吐き出すと、私たちが生きるこの残酷な権力闘争の現実へと引き戻すための決定的な言葉を口にした。 「再来週の金曜日、東条グ
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