捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

今日は私の誕生日だった。 手の込んだものではないけれど、彼の好きな料理を作ってテーブルに並べていた。 朝は何も言われなかったけれど、誕生日だから早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれるはず。 そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。 何気なく画面を覗き込むと、差出人不明のメッセージ通知。 開いてみると、一枚の写真が添付されていた。 「…なにこれ」 そこに写っていたのは、私の婚約者だった。そして彼の隣には、別の名家の令嬢。 ヨットの上で、二人はためらうことなく唇を重ねていた。 指先から力が抜け、スマートフォンを落としそうになる。 頭が真っ白になる。 信じたくない。信じられない。 けれど、写真は残酷なほど鮮明で、私の心を容赦なく切り裂いた。 私は震える手で電話をかける。 「…もしもし」 「もしもし。どちら様でしょうか?」 受話器の向こうから返ってきたのは、聞き慣れない女性の声だった。 私は確かに彼の番号を押したのに。 「……すみません。間違えました」 そう言って、私は慌てて電話を切った。 胸の奥に広がるのは、言いようのない不安と恐怖だった。写真に写っていた光景と、今の女の声が重なり合い、私の心を容赦なく締め付ける。 二年間、私は彼を信じ続けてきた。 「家の事情」や「家族の圧力」と言われて、婚約していることを周りに打ち明けられなくても、私の心が揺らぐことはなかった。 彼を信じることが、私にできる唯一の愛だったから。 それなのに。 夕暮れ時、玄関の扉が乱暴に開く音が響いた。 肩にかけたジャケットを雑にソファへ投げ、私の顔を見ても一言の挨拶すらない。 「…亮介。これ、どういうこと?」 そう言って写真を突きつけると、あっさりと浮気を認めたうえで言い放った。 「あぁ、俺の婚約者だよ」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍りついた。 写真の中の光景はただの誤解であってほしいと願っていたのに、彼自身の口から肯定されることで、希望は無惨に打ち砕かれる。 私の存在は、彼にとって婚約者ではなかったのだと突きつけられ、足元の世界が崩れていく感覚に襲われる。 「婚約者…?じゃあ私は?」 自分でも情けないほど弱々しい問いかけだった。けれど、聞かずにはいられなかった。 二年間、彼を信じて待ち続けた私の立場は
last update最終更新日 : 2026-04-20
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第2話

「勝手に信じたお前が悪い」その言葉は胸を鋭く突き刺す。自分の愛が一方的な思い込みだったのかと考えると、心臓が締め付けられ呼吸が浅くなる。「もういい。私は、ここを出ていきます」決意は苦しくも確かなものだった。裏切られた愛にすがるより、自分を守るために離れるしかない。震える声で別れを告げると、胸の奥にわずかな自由への希望が芽生えた。「出ていくなら、その前に借金を返済して行け」突然突きつけられた借金という言葉に、頭が真っ白になる。「借金…?」私は、彼にお金を借りたことなんて一度もない。「お前の母親は、俺に5000万円の借金をしている」母が…?母が彼に5000万円もの借金をしているなんて、信じられるはずがない。だって母は堅実で、無理をしてまで借金をするような人ではないから。彼の言葉は現実味を帯びず、ただ私を追い詰めるための嘘にしか思えなかった。 「そんなわけ、」そんなわけない。はずなのに、彼の冷たい瞳が私を見下ろすたびに、まるで自分が罪人にされたような錯覚に陥る。「何も聞かされていなかったんだな」彼の冷笑が、無知である自分を嘲るように響く。母を信じていたのに、何も知らされていなかった事実が自分を無力に感じさせる。「母がどうしてあなたにお金を?」必死に問いかける。母がなぜ彼に頼らなければならなかったのか。なぜ私に隠していたのか。真実を知りたい一心で、声が震える。「本人に直接聞くんだな。まぁ、教えてくれるかは分からないが。それと、来週のパーティーで婚約者を紹介する。お前は昔からの知人として同席しろ」彼の婚約者を紹介する場に、自分が知人として立たされる屈辱。愛していたはずの人の隣に立つことも許されず、ただ利用される存在に落とされる。「どうして私が」抵抗の声は弱々しい。自分の意思など無視され、彼の都合で操られることへの怒りと悲しみが混じる。「それなら、お前が代わりに5000万円払うか?」突きつけられた金額に息が止まる。到底払えるはずもない。「それは…」頭の中で必死に反論を探すが、どれも現実の前では無力だと悟る。彼が突きつけた条件は残酷で、逃げ道はどこにもない。「俺が皆の前で、園田家の令嬢を婚約者として紹介するのを、その目で見ていろ」「どうしてそんな残酷なことが言えるの…?あなたは少しでも心が痛まないの?」愛した人
last update最終更新日 : 2026-04-20
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第3話

この日が、とうとう訪れてしまった。私はパーティー会場の端で、ワインを片手に静かに佇んでいた。煌びやかなシャンデリアの光が眩しく、笑い声とグラスの音が絶え間なく響く中、心だけが冷たく孤立している。扉が開いた瞬間、亮介が園田家の令嬢を伴って登場する。その姿はまるで見せつけるための演出のようで、私の胸を鋭く抉った。周囲から「お似合いだわ」という声が漏れ聞こえ、華やかな祝福の空気が広がる。この場にいること自体が罰なのだと、痛感せずにはいられなかった。「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。皆さまに改めてご報告申し上げます。私どもはこのたび、婚約いたしました」その言葉が響いた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。彼の声は堂々としていて、会場の人々は笑顔で拍手を送る。けれど私にとっては、愛した人が自分ではない誰かと未来を誇らしげに語る残酷な宣告にしか聞こえなかった。ワインの赤がグラスの中で揺れ、涙を押し殺す心の波が重なって見える。私はただ端に立ち尽くし、声を失ったままその場に釘付けにされていた。「皆さま、本日はこのように温かくお迎えいただき、心より感謝申し上げます。まだ未熟な私ではございますが、彼と共に歩む未来を大切に育んでまいりたいと存じます。どうか今後ともご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」彼女の言葉は柔らかく、控えめで、場にふさわしい華やかさを帯びていた。周囲はさらに拍手を重ね、祝福の空気が広がる。未来への希望を語っているだけなのに、私にはその未来が永遠に閉ざされたことを突きつけるものだった。「彼女は聡明で気品に満ち、これからの人生を共に歩むにふさわしい方でございます。どうか温かくお見守りいただき、今後とも変わらぬご厚情を賜れれば幸いに存じます」彼の言葉は誇らしげで、この選択に満足しているようだった。ワインの赤が揺れるたび、涙が込み上げ、喉が詰まるような苦しみが広がっていった。「そこの方、ワインをお願いできますか」その言葉は、場の空気に溶け込むように丁寧で穏やかだった。「…かしこまりました」その声が響いた瞬間、私の心臓は強く締め付けられた。華やかな笑い声と拍手が絶え間なく続く会場の中で、私だけが凍りつく。「え…」思わず声が漏れた。信じられない光景が目の前に広がっている。どうしてお母さんが、そんな格
last update最終更新日 : 2026-04-20
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第4話

「どうして私が…それより、どうして私の名前────」 言葉を最後まで続けることはできなかった。 胸の奥から湧き上がる疑問と恐怖を、声にしようとした瞬間、彼の腕が私の腰を強く引き寄せた。 近すぎる距離に心臓が跳ねる。抗う間もなく、彼の唇が私に重なった。 問いかけは宙に消え、答えを知る前に沈黙が支配する。 彼は唇を離すと、ただ静かに微笑んだ。その笑みは優しさとも冷たさとも取れる曖昧なものだった。 「何をしている……!」 鋭い声が会場に響き渡り、空気が一瞬で張り詰めた。 激怒した亮介が、迷いなくこちらへ詰め寄ってくる。 「何って、見れば分かるだろ?」 そして周囲に聞こえないように、低い声で囁く。 「嫉妬なんて、惨めだぞ」 その言葉を浴びせられた瞬間、亮介の顔が怒りで歪んだ。 「……なんだと!?」 激情に駆られた亮介は、思わず彼の胸倉を掴む。 「おっと。俺に手を出す前に、親父さんが俺を敵に回す覚悟があるか聞いてみろ」 亮介が父親の方を見ると、父親は鋭い声で制した。 「やめろ、亮介」 その一言には、場を収める威厳と、軽率な行動を許さない強い圧力が込められていた。 亮介は父親の制止の声に一瞬ためらったが、ゆっくりと手を離した。 その仕草には、怒りと屈辱、そして父親の威圧に従わざるを得ない葛藤が滲んでいた。 彼は余裕の笑みを浮かべたまま、何も言わずに亮介を見下ろす。 「息子が無礼を働きました。申し訳ございません」 その声は震えていて、普段の威厳ある姿とは違い、必死に場を取り繕ってい
last update最終更新日 : 2026-04-21
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第5話

妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約、未来ではなく一年という期限。そんなものを受け入れたら、自分の心はどうなるのだろう。「……そんな結婚、私にはできません」震える声で言葉を絞り出す。視線を合わせることもできず、ただ俯いたまま必死に拒絶の意思を示した。「お前の母親の借金は、俺が代わりに返済しよう。新しい身分も、遠くへ逃げるのに十分な金も用意する」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締め付けられるように痛んだ。新しい身分、逃げるためのお金。それは甘美な提案でありながら、私を彼の掌に縛り付ける条件でもある。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。「どうして母の借金のことを…?」震える声で問い返す。母が抱えていた借金の存在は、つい先日、知ったばかりの事実だった。私がまだ整理しきれていない現実を、彼はまるで当然のように突きつけてくる。彼の瞳は揺らがず、まるで全てを見透かしているかのように静かに私を見据えていた。「俺に知らないことなどない。だからこそ言える。お前には俺が必要だ」冷徹な響きの中に、抗えない力が宿っていた。拒絶したいのに、心の奥でわずかな希望が芽生えてしまう自分が恐ろしかった。「でも、どうして私なんですか…?確かに、私にはあなたが必要なのかもしれません。けれど、あなたなら私以外にももっとふさわしい人がいるはずです。わざわざ助けの必要な私を選ぶ理由
last update最終更新日 : 2026-04-22
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第6話

車に揺られながら実家へと向かう道のりは、やけに長く感じられた。玄関の前に立つと、胸の奥がざわめき、手が震える。ドアノブに触れる指先は冷たく、開ける瞬間をためらう。けれど、深く息を吸い込み、意を決して扉を押し開けた。足を踏み入れると、リビングのソファーに母が座っているのが目に入る。「お母さん…」母の姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。背もたれに身を預ける姿はどこか疲れ切っていて、私の視線を受け止めると小さく肩を震わせた。「ひより…ごめんなさい」母の声は弱々しく、罪悪感に満ちていた。借金のこと、働いていたこと。すべてを抱え込み、私に打ち明けられなかった苦しみがその一言に凝縮されているように感じられた。私は胸が締めつけられるような痛みを覚え、母の孤独を思い知らされる。「どうしてあそこに、それより、どうして亮介にお金を借りたの」問いかけながらも、声は震えていた。責めたい気持ちより理解したい気持ちの方が強かった。「それは…あの時は、大金が必要だったの。でも、どうして亮介くんが他の令嬢と婚約を?」母の答えは苦しげで、過去の事情を思い返すように途切れ途切れだった。必要に迫られての選択だったことは理解できる。だけど、よりにもよって亮介に頼むなんて…。きっと耳障りのいい言葉に惑わされて、騙されてしまったんだ。「……私も分からない。理由なんて教えてくれなかった」私との関係をただの遊びだと思っていたことは分かっているけど、それを母に伝えることはできなかった。母をさらに傷つけることになるから。「それなら一体なんのために…」その声には、深い戸惑いと悲しみが滲んでいた。「え?」私は思わず声を漏らした。母の問いかけは予想外で、心の準備ができていなかった。「お父さんがいれば、こんなことには…。力になれなく
last update最終更新日 : 2026-04-23
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第7話

翌日、彼は私との契約を守るために弁護士と秘書を伴い、亮介に会いに行った。 私は扉の外で待たされることになり、中で何が行われているのかはまったく分からなかった。 廊下に立ち尽くしながら、時計の針の進みを見つめていた。 中からは声も物音も漏れてこない。 「何を話しているの……」 小さく呟いても、答えは返ってこない。私はただ、扉の前で立ち尽くすしかなかった。 そして、ほんの十分後。 扉が開き、彼が姿を現した。その顔には勝利とも安堵ともつかない影が浮かんでいる。 弁護士が短く頷き、秘書が静かに後ろに控える。 「借金は全て片付けた。だからもう、あいつに従う必要なんてない」 その言葉が告げられた瞬間、私は息を呑んだ。 何をどうして、どんな交渉があったのか。知る由もない。ただ、重苦しい鎖が外れる音だけが心に響いていた。 その足で、彼の別荘に向かうことになった。 リムジンの後部座席。広いはずの空間なのに、彼が隣にいるだけで息苦しいほどの圧迫感があった。 窓の外を流れる街の灯りは遠く、まるで別世界のもののように見える。 彼は黙したまま腕を組んで座っていたが、やがてゆっくりと顔をこちらへ向けた。 鋭い視線に射抜かれ、心臓が跳ねる。 そして指先が顎に触れ、なぞるように動いた。 冷たく支配的な仕草なのに、意に反して胸の奥が熱を帯び、羞恥が波のように押し寄せる。 「……怖いか?」 低く響く声が車内の静けさを破る。口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。 「怖い……わけじゃない。ただ……」 言葉を探す私の声は震えていた。 彼はわずかに口元を歪め、挑発するような笑みを浮かべる。 「ならいい。お前は俺のものだ。忘れるな」 その言葉に心臓が跳ね、視線を逸らす。 けれど彼は逃がさないように顎を軽く持ち上げ、目を合わせさせる。 「芝居は最後までやり切れ。途中で降りることは許さない」 彼の声は低く、しかし確信に満ちていた。 私はただ、息を詰めるしかなかった。 車は静かに走り続け、やがてリムジンが静かに停まった。 ドアが開かれると夜の冷たい空気が頬を撫で、私は震える足で外へ降りた。 見上げれば、山頂にそびえる邸宅が闇の中に浮かび上がっている。 重厚な門、広い石畳、そして威圧的な
last update最終更新日 : 2026-04-24
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第8話

「甲と乙は、以下の条件に従うことをここに誓約する。第一条。乙は契約期間中、甲の婚約者として振る舞い、公の場では甲の指示に従うものとする」契約結婚の秘密を外に漏らしてはいけないこと。彼が私の生活を保障して住居や食事を与えること。契約期間が一年で満了と同時に終わること。そして、彼以外の人と親しくしてはいけないことなどが書かれていた。特におかしなことが書かれているわけでもないし、引っかかる部分も…「え…?」思わず声が漏れた。「あ、あの、この…要求って…」「契約に書いてある通りだ」書いてある通りって…『乙は契約期間中、甲が求める親密な振る舞いに応じるものとする。これには、公の場での身体的接触や二人きりの場での交流を含むが、それに限られない。乙はいついかなる時も甲の性的要求に応じなければならない』それって、あの時みたいに…。頭の中に、あの瞬間の記憶が鮮やかに蘇る。近すぎる距離、触れた唇の感触、心臓が跳ねる音。「言ったはずだ。俺に必要なのは形式だと」「私は……」声を出しかけて、そこで言葉を止めた。胸の奥に、忘れたくても忘れられない記憶が疼く。あの苦い過去。思い出すだけで体が強張り、喉が塞がれる。 「従えないなら、ここで終わりだ。俺は無駄に時間を費やす気はない」彼が契約書を取り上げようとした瞬間、私思わず手を伸ばしてそれを掴んだ。震える指でペンを走らせ、名前を書き込む。「……生半可な気持ちでここに来たわけじゃないです」声は震えていたが、確かな決意が滲んでいた。過去の苦い記憶に縛られながらも、契約を失う恐怖と、ここで立ち止まれないという思いが私を突き動かしていた。「…いいだろう。その言葉を忘れるな」低い声を残し、彼はサイン済みの書類を手にして部屋を出ていった。重苦しい沈黙が落ちる。息を整える間もなく、扉が再び開く。
last update最終更新日 : 2026-04-25
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第9話

「んっ…」目を覚ますと、窓から差し込む柔らかな朝の光が部屋を満たしていた。いつの間にか眠ってしまったらしい。昨夜見渡したオシャレな空間は、朝の光に照らされてさらに落ち着いた雰囲気を漂わせている。カーテンの隙間から差し込む陽射しが床に模様を描き、静けさの中で時がゆっくりと流れていた。ぼんやりとした頭で手探りにスマホを取り出す。画面に表示された時刻は──「…10時?」思わず声が漏れた。昨日の緊張と疲れが、知らぬ間に深い眠りへと引き込んでいたようだ。そういえば…お母さんに何も言わずにここへ来てしまったから、きっと心配しているだろうな。慌てて連絡を試みるが「接続エラー」の文字が浮かび、メッセージは送れなかった。ため息をつきながらスマホを閉じ、リビングへ向かうと彼がコーヒーを飲んでいた。香ばしい香りが部屋に漂い、落ち着いた空気が流れている。彼は私に気づくと、視線だけをこちらに向ける。 言葉はなく、ただ淡々とした眼差しで私を見ていた。「おはよう…ございます」「おはよう。ここが気に入ったようで何よりだ」彼は鼻で笑うように笑みを浮かべ、淡々とした声で返した。その言葉は皮肉にも聞こえ、私の心をざわつかせる。呑気なものだと言われているような気がするのは私の気のせいだろうか。両手でスマホを握りしめながら、心臓の鼓動が早まるのを必死に抑えようとした。「すみません…。あ、あの。Wi-Fiが使えなくて、連絡できないんですけど、その…」どうしても連絡を取りたい一心で、私は勇気を振り絞り言葉を紡いだ。「こんな山奥でネットが繋がるわけないだろ」その一言は、私の希望を簡単に打ち砕いた。「そう、ですよね」彼はゆっくりと立ち上がり、ソファに置いてあったスーツのジャケットに腕を通した。「俺は今から仕事
last update最終更新日 : 2026-04-26
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第10話

「申し訳ありませんが、私にも期間は知らされていないのです」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなった。期間が分からないということは、ここに閉じ込められている時間がどれほど続くのか、誰も答えを持っていないということ。私は指先をぎゅっと組み合わせ、落ち着こうとするが、心臓の鼓動は早まるばかりだった。「それなら、私がここにいる理由も知らないんですか?」理由さえ分かれば、私はただ待つだけではなく、何か行動を起こせるかもしれない。秘書の顔を探るように見つめるけれど、彼の表情は微動だにしない。「……詳しいことは申し上げられません。ただ、今の状況ではここにいていただくことが最善かと」秘書の言葉は柔らかいが、核心を避けている。私は唇を噛み、心の中で最善という言葉を繰り返す。最善とは誰にとっての最善なのか。私のためなのか、それとも彼のためなのか。「今の状況…?」呟いたとき、自分でもその声が頼りなく聞こえた。曖昧な言葉に、私は何を想像すればいいのだろう。外の世界で何が起きているのか、私には知る術がない。「……いずれ状況が落ち着けば、きっと説明があるはずです」その返答は未来に希望を残すようでいて、今を覆い隠すものでもあった。「そうですか。じゃあ、待つしかないんですね」私は諦めのように言葉を落とす。彼は何も言わず、沈黙が部屋を満たした。「困らせてしまってすみません」彼の表情は変わらず、淡々と「いえ」と返す。私はトーストをひと口かじり、味もわからぬまま咀嚼する。沈黙の中で、パンの乾いた食感だけが現実を繋ぎ止めていた。「それでは、私はこれで失礼いたします。何かございましたら、遠慮なくお申し付けください」秘書がそう告げると、私は反射的に「ありがとうございます」と答えた。彼が去った後、部屋に残るのは私と、電波の繋がらない世界だけ。この閉ざされた場所で、
last update最終更新日 : 2026-04-27
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