All Chapters of 捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで: Chapter 61 - Chapter 70

99 Chapters

第61話

「俺のものを、あんな出来損ないの男に横取りされてやる趣味などない」 智哉さんの薄い唇から放たれた「もの」という、たった二文字の冷酷な単語。それが私の胸の奥深くに深々と突き刺さり、決して解けない呪いのように脳内で何度も反響を繰り返した。 私は彼にとって、血の通ったひとりの感情を持つ人間ですらなかったのだ。莫大な借金という鎖と引き換えに買い取られた、ただの都合のいい便利な道具であり、彼の見栄を張るための所有物。 「もの……」 悲痛な声で、掠れるように震える唇から無意識に零れ落ちた呟き。 頭の片隅では、契約を交わしたあの日からとっくに理解していたはずの現実だったのに、彼の口から突きつけられたその残酷な事実は、私の心に辛うじて残っていた最後の自尊心を無残なまでに打ち砕いていった。 傷ついた私の顔を至近距離で見下ろしながらも、智哉さんの表情には一切の同情も、言葉が過ぎたという後悔の念も微塵も浮かばなかった。 「そうだ。俺が婚約者としてお前を選び、この隣に置いたその日から、お前の時間も、人間関係も、立ち振る舞いも、そのすべてが俺の徹底した管理下にある」 断言する彼の口から、私をこの場に縛り付けている最大の要因であるはずの借金やお金という言葉はただの一度も出てこなかった。彼にとって、私を都合の良い所有物として扱うために、わざわざそんな無粋で現実的な事情を持ち出して脅す必要すら初めからない。 「お前のちっぽけな意志や、誰かを信じたい甘い感情など、俺の前では塵ほどの意味も持たない。俺が手放さないと言っている以上、お前はただ黙って従えばいい。二度と、あんな出来損ないの男に目を向けるような安い真似はするな。分かったな」 「……確かに、彼と二人きりになったこと自体は私の落ち度です。契約上、あなたとの関係性に疑いを持たれるような軽率な行為だったというのも、おっしゃる通りだと思います」 私の脳裏には、『甲乙は常に甲との関係を最優先し、関係の信憑性を損なうおそれのあ
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第62話

「……いくらなんでも、流石にやりすぎだと思いませんか」智哉さんから命じられた冷酷な「一週間外出禁止」というペナルティが発効してから数日が過ぎた。私はリビングのソファに深く腰を沈め、目の前に静かに控えている人影に向けて深いため息とともに恨み言をこぼした。私の視線の先にいるのは、智哉さんの有能な秘書。彼が仕事に出ている間、文字通りの「見張り」として一日中私に付きっきりで監視の目を光らせている。「これも全ては────」私の微かな抗議を含んだ問いかけに対しても、彼は表情一つ変えることはなかった。「……私のため。なんですよね」口元に力のない笑みを浮かべた私は、膝の上で両手をきつく握り締めた。確かに、亮介の時は助かった。けど、今回は私のためと言うより、自分の、智哉さん自身のためのように感じる。「先日の一件もございますし、いつまたあの朝倉様が、よからぬ思惑でひより様に接触を図ってくるか分かりませんから」秘書は私の自嘲めいた呟きを気にする素振りも見せず、淡々と冷酷な事実だけを述べていく。外部の危険から私を隔離するという名目の裏で、彼らが朝倉さんという存在をどれほど強く警戒しているかが、その短い言葉からありありと伝わってきた。彼は智哉さんの意向を正確に代弁しているだけなのだろうけど。「……ええ、分かっています。私に落ち度があったのですから、一週間外出禁止というペナルティ自体は、理解できます」私は伏せていた目をゆっくりと上げ、苦しげに言葉を絞り出した。頭ではそう理解しようと努めている。「でも、いくらなんでも秘書のあなたを一日中、見張りとして配置するなんて……。そこまでされるということは、智哉さんに全く信用されていないということですよね」どうしても納得がいかないのは、この異常なまでの厳戒態勢。外出を禁じるだけならまだしも、わざわざ多忙なはずの社長秘書を私の監視役として常駐させるなど、あまりにも常軌を逸している。それは単に外部からの接触を防ぐためとい
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第63話

「……亮介は、ただの契約結婚だと疑っているのでしょうか」もし亮介が私たちの契約結婚という秘密の確証を得て、それを盾に…。「彼なりに、どうにかしてひより様と智哉様のご関係の粗探しをし、付け入る隙を見つけようと必死なのだと思いますよ」私の震える問いかけに対し、秘書は感情の読めない声で淡々と答えた。彼にとって、東条亮介という男の浅はかな企みなど、取るに足らない小悪党の悪あがき程度にしか見えていないのだろう。「ところで……その使用人が亮介と繋がっていることに、どうして気がついたんですか?」ふと湧き上がった素朴な疑問を、私は恐る恐る口にした。そもそも、家政婦が外の人間と個人的に連絡を取っているだけなら、それほど簡単に発覚するものではない。彼女も買収された側の人間として、バレないように細心の注意を払っていたはずなのに、一体何がきっかけでその裏切りが露見したのだろうか。「彼女の挙動にいくつか不審な点が見受けられましたので、私が少しばかり問い詰めたところすぐに白状いたしました」秘書は瞳を微かに細め、まるで事務手続きの報告でもするかのように平然と言ってのけた。けれど、彼の口から出た少しばかり問い詰めたという控えめな言葉の裏にある恐ろしさを、私は直感的に感じ取っていた。ただ言葉で優しく問いただしただけで、買収された人間があっさりと口を割るはずがない。「その使用人の方は、ここに勤めて何年くらいだったんですか?」「おおよそ、二年といったところですね」秘書の口から告げられたその数字に、私は思わず小さく息を呑んだ。二年。それは決して短い期間ではない。毎日顔を合わせ、生活の基盤となる食事や清掃を任せてきた人間が、ある日突然お金の力で裏切り者へと寝返る。人の心はお金でいとも簡単に買われてしまう。「二年もですか。そんなに長く勤めていた方に、そんなふうに裏切られてしまうなんて……」私の口から自然とこぼれ落ちた言葉は、どこか虚ろな響きを帯びていた。
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第64話

秘書の口から紡がれた思いがけないほど温かい言葉に、私は瞬きを繰り返した。泣き出してしまいそうなほど心が揺さぶられたけれど、私はグッと奥歯を噛み締め決して涙をこぼさないように深く息を吸い込んだ。「……なんだか、ずっと止めていた息がようやく吸えるようになった気がします。私は、身を守るために疑うことはしても、人を信じることを諦めたくはありません」声の中には、自分でも驚くほど不思議と一本の芯が通ったような力強さが宿っていた。「ええ。それがひより様の良いところだと、私も思いますので」人を信じること、情を捨てきれないこと。智哉さんであれば「愚かしい隙だ」と冷笑し、徹底的に矯正しようとするであろう私のその甘さを、彼は間違いではないと明確に肯定してくれた。この狂った箱庭の中で与えられたその言葉は、何よりも強いお守りのように私の胸の奥にすとんと落ちていった。「あの……最後にもう一つだけ、伺ってもいいですか?」「……私にお答えできることでしたら」慎重に言葉を選ぶ彼に対し、私は小さく息を吸い込み、核心に触れる問いを口にした。「もし答えられないなら、無理には聞きません。ただ……智哉さんと朝倉さんは、以前から何か深い因縁があるのでしょうか?」秘書の眼鏡の奥の瞳が、わずかに、けれどはっきりと鋭さを増した。室内を満たしていた空気が、ピンと張り詰める。「……なぜ、そう思われたのですか?」探るような、ひどく静かな声。私は膝の上で両手を軽く組み直し、あの日、朝倉さんの前で見せた智哉さんの異常なまでの威圧感と怒りを思い出しながら言葉を紡いだ。「智哉さんが他人を信じず、常に疑いの目を持っているのは、今に始まったことではありません。……でも、朝倉さんに対するあの激しい拒絶と敵意は、単なる警戒の域を完全に越えているように見えました」ただのビジネスの競合相手や、気に食わない人間に対する態度ではなかった。あの時の智哉さんは、苛烈で、どこか焦りす
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第65話

高く澄んだクリスタルのグラスが微かに触れ合う音と、銀色のカトラリーが磁器の皿を擦る上品な音だけが、広大で豪奢なダイニングルームに響いていた。私は目の前に並べられた色鮮やかなフレンチのフルコースを前にしても全く食欲が湧かず、ただ視線を彷徨わせていた。何度も息を呑み、迷うように彼へと視線を向けては逸らす。そんな私の不審な挙動に、彼が気づかないはずがなかった。完璧な所作で肉を切り分けていた智哉さんの手が、ピタリと止まる。「……なんださっきから」心臓が大きく跳ねた。シャンデリアの眩い光に照らされた彼の顔は彫刻のように美しく、そして底知れぬほどに冷酷だった。「……いえ、あの」私の煮え切らない態度が、彼の最も嫌悪するものの一つであることを私は痛いほど知っていた。智哉さんは無言のまま、手にしていたナイフとフォークを皿の両脇に音もなく置くと、背もたれに体を預け腕を組んだ。「言いたいことがあるならはっきりと言え。目障りだ」逃げられない。彼の漆黒の瞳に囚われ、私は覚悟を決めるしかなかった。小さく、けれど深く息を吸い込み、震える手をテーブルの下でさらに強く握りしめる。「……解雇された使用人の方のお話を聞きました。その、亮介が……彼女を使って私達の動向を探っていたと」身構えていた私の耳に届いたのは、拍子抜けするほど平坦で何の感情もこもっていない声だった。恐る恐る顔を上げると、智哉さんは組んでいた腕を解き、テーブルの上に置かれたワイングラスを優雅な手つきで持ち上げた。「あぁ、あの件か。秘書に聞いたんだな」「私が無理を言って聞き出したんです。口止めされていないなら大丈夫だろうと」必死の形相で訴える私を、智哉さんはワイングラスを口元に運んだまま、冷ややかでどこか面白がるような目で観察していた。私が誰かを庇い感情を露わにする姿そのものが、彼にとっては奇妙な見世物なのかもしれない。ゆっくりとワインを一
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第66話

窓から斜めに差し込む夕陽が、リビングの冷たい大理石の床を鮮やかな茜色に染め上げていた。一週間に及んだ安全確保という名目の軟禁生活が、この日暮れとともにようやく終わろうとしている。「明日からは、もう外へ出ても構わないんですよね」「ええ。この一週間、窮屈な生活にご不便をおかけしました」一切の淀みなく紡がれたその声には、任務を無事に完遂した安堵のようなものがほんの僅かに滲んでいるように聞こえた。外に出てもいいと言われたところで、今の私には行く宛てなんてどこにもない。私は心の中でひっそりと、形だけの自由を手に入れた自分自身を自嘲していた。息の詰まるこの邸宅から抜け出し、気を許して気軽に誘えるような友人は悲しいことに一人もいない。私が微かに視線を落として黙り込んでいると、秘書の彼は手元のタブレットの画面をスワイプし、再び淡々とした事務的なトーンで口を開いた。「空席となっていた使用人の件ですが。来週から、新しい者がこちらに赴任することに決まりました」「…そうですか」「今度の者は、社長自らがより厳格な身辺調査と適性検査を行った上で選定したベテランです。奥様にご不便をおかけするような事態には決してなりません」秘書は誇りすら感じさせる声で付け加えた。裏切りを何よりも憎み、他者を決して信用しようとしない智哉さんらしい徹底ぶりだ。きっと新しい家政婦さんも、分厚い秘密保持契約でがんじがらめに縛り上げられた、彼にとっての安全で無害な駒の一人に過ぎないのだろう。人が入れ替わったからといって、この無機質な邸宅が人間の体温を持つような温かい場所に変わるわけではない。「智哉さんが厳重に選んだ方なら安心ですね」 「それと…重々ご承知のこととは思いますが────」「もし朝倉さんが訪ねてきても、絶対にこの家の中に入れるな。ですよね?」私が先回りしてそう告げると、秘書の彼はわずかに目を細めただけで、肯定も否定もせずにただ静かに私の言葉を聞き入れていた。
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第67話

VIP専用病棟の最上階。重厚な扉を押し開けた瞬間、鼻を突くツンとした消毒液の匂いが、肺の奥まで冷たく入り込んできた。無機質で広々とした個室の中心に置かれた白いベッド。そこには、身を横たえた智哉さんの姿が。右腕には痛々しいほど真っ白で分厚いギプスが巻かれ、首のあたりにも擦り傷の手当てがされている。呼吸の仕方を忘れたように息を呑み、足元が縺れそうになるのを必死に堪えながら、私は彼の元と駆け寄った。「智哉さん……!」私の悲痛な叫び声を聞き、目を閉じていた智哉さんがゆっくりと瞼を開けた。「どうしてお前がここに……」秘書は智哉さんのベッドの傍らで深く頭を下げ、苦渋の色を滲ませながら、自らの落ち度を報告しようと口を開いた。「申し訳ございません、社長。私が」秘書の彼がその先の言葉を紡ぐ前に、私は彼を庇うようにして半歩前へ飛び出した。「私が無理を言ってお願いしたんです。今すぐ会いに行かせて欲しいと」私の決死の訴えを聞いても、智哉さんの表情から険しさが消えることはなかった。「お前はまだ家にいなけ──────」リスクを理解した上で、私はここに来た。彼に怒られるのは当然の報いだった。けれど、彼がいくら正論を並べて私を責め立てようと、私の視線はどうしても彼の右腕に巻かれた分厚いギプスから離れなかった。痛々しく固定されたその腕が、彼が決して無敵の存在ではないのだという現実を残酷なまでに突きつけてくる。「そんなことより、腕は大丈夫なんですか」私の悲痛な問いかけに対し、智哉さんは呆れたように小さく息を吐き出した。「騒ぐな。ただの骨折だと……そう伝えたはずだが?」彼は私から視線を外し、部屋の隅に控えている秘書の方へと鋭い眼光を向けた。「ええ、何度もそのようにお伝えして引き止めたのですが」「事故に遭ったって聞いて…いてもたってもいられなくて…
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第68話

信じられないほど密着したこの状況に、私の頭は完全に真っ白になってしまった。「智哉さん、近いです…っ」私が慌てて身を捩り、彼から離れようともがくと、背中に回された彼の腕の力がさらに強まった。「動くな。傷に響く」そう言いながらも、私を抱きしめる彼の腕からは全く力が抜ける気配がなかった。「あ、すみません。……じゃなくて!」私がまだ少し混乱したまま言葉を濁していると、智哉さんは私の背中を包み込んでいた手をゆっくりと動かし、子供をあやすかのようにポン、ポンと叩き始めた。それは、常に完璧で冷酷な彼からは想像もつかないほど、優しくて温かい行為だった。「俺はちゃんと生きてる。……だから、そんなに震えるな」「心配……します。心配しますよ、当たり前じゃないですか」 私の抗議を受け止めながら、智哉さんは静かに息を吐き出した。彼の胸の上下運動が心地よく伝わってくる。「俺は案外しぶといんだ」その言葉に含まれた奇妙な力強さに、私は彼の胸元から少しだけ顔を上げた。「え……?」私が不思議そうに問い返すと、智哉さんは視線を真っ直ぐ前へ向けたまま、私に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。「簡単に死んだりはしない。お前が思っているよりずっと、長く生きるってことだ」その言葉を聞いて、彼がなぜ私のパニックの理由を瞬時に理解し、なぜ急に不器用な慰めを与えてくれているのか、点と点が線で繋がった。「もしかして……いえ、もしかしなくても。私の父のこと、調べられたんですよね」私の核心を突く問いに対し、智哉さんは明確な肯定も否定もしなかった。徹底した身辺調査。彼は自分の領域に入れる人間の背景を隅々まで調べ上げる。それが彼のやり方だ。「……さぁな」私の父が不慮の交通事故で命を落とし、それが私の人生を大きく狂わせる引き金になったことも、彼はとっくの昔に把握していたのだ。「それで、
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第69話

「……どうでしょうね。今となってはもう、その答えを聞くことすらできませんから」智哉さんが私を慰めるために紡いでくれたその言葉は、冷え切っていた私の心の奥底にじんわりと染み渡り、固く閉ざしていたはずの感情の蓋を大きく揺さぶった。けれど、いくら彼が私の父親の愛情を代弁してくれたところで、その真実を証明する術はもうこの世界のどこにも残されていない。突然の事故は、未来の可能性だけでなく、過去の真意を確かめる機会すらも奪い去ってしまった。だからこそ、期待するのはやめたのだ。もしかしたら愛されていたかもしれないという淡い希望を抱いたまま、二度と会えない現実に打ちのめされるくらいなら、最初から何もなかったと思い込んだ方がずっと楽だった。「お前は、父親のことが嫌いか」その瞳は、私のわずかな表情の変化すらも見逃さないと言わんばかりに、至近距離で私をじっと見据えている。「嫌い、とかではありません。ただ…」嫌いや憎いという激しい感情が持てるほど、私は父親との接点を持っていなかった。嫌いになれるのは、相手が自分に向き合ってくれているという実感があってこそだ。彼に対する感情は憎しみではなく、ただ途方もない空虚さと、寂しさだけだったのだ。「なら、どうして親父と同じ仕事を選んだ? 父親に無関心なら、わざわざ同じ医療薬の研究職になど就く必要はなかったはずだ」父親を何とも思っていない、嫌いでもない。そう言いながら、実際には父親と同じ大学に進み、同じ分野の専門知識を学び、同じ白衣を着る道を選んだ私。「……ただ、どうしても気になったんです。父が私たち家族を放ってまで情熱を注ぎ込んでいた研究という世界が、一体どれほど面白いものなのかって」心の奥底に澱のように溜まっていたひどく幼い本音を、ぽつりぽつりとこぼし始めた。 私はずっと、その見えないライバルのようなものに対して、強烈な嫉妬心と、それと同時に抑えきれない好奇心を抱いていた。父親の目を自分に向けさせることができないのなら、せめて彼が見ていたのと同じ景色を見れば、彼が何を考え、何を愛していたのかが少しでも理解できるのではないか。そんな縋るような思いで、私は気がつけば父親の後を追うように同じ職業を選択していた。「それで? 実際に同じ景色を見て、どうだったんだ」私の泥臭く情けない吐露を、智哉さんは鼻で笑うこともなく、た
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第70話

私が自嘲気味に吐き出したその言葉に対し、智哉さんは私の頬を拭っていた左手の指先をピタリと止めた。「格好悪い?」父親の人生を偉大だったと認めてしまえば、そんな素晴らしい仕事のために切り捨てられた自分という存在が、たまらなく惨めで無価値なものに思えてしまう。だからこそ、私は父親の遺したものを徹底的に貶め、価値のないものだったのだと思い込む必要があった。誰の記憶にも残らず、薬を完成させるという夢も果たせず、ただ家族を不幸にしただけの無駄な人生だったのだと。自分に言い聞かせるように放った私の声は、どうしようもなく震えていた。「自分の人生のすべてを注ぎ込んで研究に没頭した挙句、結局は何一つの成果も成し遂げられないまま、あんなふうにあっけなく事故で死んでしまうなんて……。格好悪いじゃないですか」「……そんなことはない」智哉さんのその強い否定を、私は単なる哀れな遺族に対する気休めの同情だと勘違いしてしまっていた。他人の痛みなど意に介さないはずの彼が、私のために必死に父親を肯定しようとしてくれている。その不器用な優しさが嬉しくもあったが、同時に、これ以上無惨な現実から目を背けたくないという思いが私の口を動かした。父が心血を注いでいたのは、現代医療では治癒が極めて困難とされる特定の難病に対する画期的な再生医療薬だった。莫大な資金と途方もない年月を要し、それでも成功する保証などどこにもない、まさしく茨の道。そんな呪いのような研究に没頭していた父の姿を思い出し、私は自嘲の笑みを深くした。「いいんですよ。難病の再生医療薬の開発なんて……初めから無理な話だったんです。叶いもしない夢物語に憑りつかれていただけなんです」自分を見捨てた父親への怨嗟と、それを理解しようとして結局何も得られなかった自分自身の惨めさ。そのすべてを、バカという陳腐な言葉で一括りに切り捨てた時、私の胸の奥には泥のような暗い快感が広がっていた。父親の人生を愚かだったと嘲笑うことで、私はようやく、愛されなかった過去の自分を慰めることができるのだと錯覚していた。彼がどれほどの思いでその研究に向き合っていたかなど、残された私には知る由もないし、知る価値もない。 ただ家族を犠牲にして破滅していっただけの、独りよがりで滑稽な男だったのだと。私は智哉さんの胸元から顔を上げ、同意を求めるように、引き攣った
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