LOGIN「え……?」
そんなはずない。私はいつだって、教室の後ろや校庭の隅を血眼になって探し、父の姿がないことを確認しては絶望して泣いていたのだ。母に聞いても、「お父さんはお仕事が忙しいから」と寂しそうに笑うだけだった。「行っていたんだよ。ただ、どんな顔をして会えばいいか分からないからと……気付かれないように、こっそりとな」智哉さんの口から語られた真実は、あまりにも不器用で、悲しいほどに父親らしいものだった。「どうしてそんなこと……」遠くから隠れて見ていただなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。気付かれないように見ているだけでは、私にとっては来ていないのと同じことだ。少しでも顔を見せて、頭を撫でてくれれば、私はそれだけでどれほど救われたか分からないのに。「確か……お前が小学生の頃だったか。母親に、『自分はお父さんに愛されていない、家族より仕事の方が好きなんだ』と泣いて訴えているのを、偶然聞いて今まで、どんなに不器用な態度であっても必ず私の側に寄り添ってくれていた彼が、今はまるで汚らわしい異物を排除するかのように冷え切った瞳で私を見下ろしている。ドレスに染み込んだ雨水の冷たさよりも、彼から放たれる拒絶のオーラの方が何倍も冷たかった。「どうしてそんなことを言うんですか……」私の悲痛な問いかけにも、智哉さんはピクリとも表情を変えなかった。彼の手から力なく垂れ下がった黒い傘に、大粒の雨が当たっては空しく弾け飛んでいる。彼は、自分がずぶ濡れになっていることなど全く意に介していない様子で、ただ私という存在をこの場から一刻も早く遠ざけることだけを目的としているようだった。「俺の言葉が聞こえないのか。今すぐ帰れと言っている」私は雨水で重くなったドレスの裾を引きずりながら、彼との距離をさらに半歩だけ詰め、真っ向から突きつけた。「今日が、お義母様のお誕生日だからですか……?」その言葉を口にした瞬間、智哉さんの広い背中が大きくビクッと跳ねた。彼の瞳が鋭く細められ、私を射抜くような強い視線が向けられた。「……お前には、関係のないことだ」そう低く吐き捨てると、智哉さんは私との会話をこれ以上続ける気はないというように、強引に私の横を通り抜けようと歩みを進めた。私は振り返りざまに手を伸ばし、彼の大きな右手を両手でギュッと力強く掴み取った。「どうして……っ! どうしてそうやって突き放すんですか!」濡れて氷のように冷たくなっていた彼の手のひらを握りしめ、私は泣き叫ぶような声で抗議した。契約結婚の条件として、必要以上の干渉はしないと約束していたはずの私が、彼に直接触れてまで引き留めるなど、完全にルール違反の越権行為だ。けれど、彼の手はひどく冷たくて、そして微かに震えていた。この震えを放っておくことなど、私にできるはずがない。智哉さんは私の顔を睨みつけると、その繋がれた手を振り払おうと、低い声で警告した。「……離せ」言葉こそ鋭く危険
進路を大きく変更し、車が郊外の広大な霊園へと向かい始めてからすでに三十分が経過した。黒崎さんの的確な運転のおかげで道は順調だったけれど、窓の外の天候は悪化の一途を辿っていて、叩きつけるような大粒の雨が容赦なく車体を打ち据えている。「…智哉さん、まだ霊園にいらっしゃるでしょうか」私の不安げな問いかけに対し、黒崎さんはワイパーの速度を一段階上げながら、静かに首を縦に振った。「ええ。例年通りであれば、朝早くから訪れ、日暮れまでずっとお母様の墓前で話し込んでおられます。ですので、お会いできるはずです」黒崎さんの言葉を聞いて、私の胸の奥がさらにギュッと締め付けられた。彼は忙しい身でありながら、今日という日だけはすべての時間を亡き母のために捧げている。やがて車は、整備された巨大な霊園の入り口を抜け、敷地内へとゆっくりと進んでいく。窓ガラスに張り付いて外の景色を必死に探していると、ふと、通路をゆっくりと歩いてくる長身の男性のシルエットが視界に飛び込んできた。完璧な仕立ての黒いスーツ姿。間違いない、智哉さんだ。しかし、彼のその異様な姿を視認した瞬間、私の心臓はドクンと大きく跳ね上がった。「あ……っ」彼の手には、立派な黒い傘がしっかりと握りしめられている。それなのに、彼はその傘を差そうともせず、ただ力なく手に提げたまま土砂降りの雨の真っ只中を無防備に歩いていた。髪は無惨に濡れそぼって額に張り付き、高級なスーツは雨水を吸って重たく体にまとわりついている。まるで、自分自身に罰を与えているかのような、あまりにも痛々しく孤独な姿。それを見た瞬間、私はもう自分自身の理性を保つことができなかった。「く、黒崎さん……っ、車を止めてください!」私が半狂乱のような声で叫んだのと同時に、黒崎さんがハッと息を呑んでブレーキペダルを踏み込んだ。キュッと鈍い音を立てて車が停車すると、私は乱暴にドアのハンドルを引いた。ただ一刻も早く、彼をあの冷たい雨の中から引きずり出さなければならないという
車内に流れる重苦しい沈黙を破るように、黒崎さんがハンドルを握る手にギュッと力を込め、スピーカー越しの会長に向かって謝罪を口にした。 「事前のご連絡を怠り、申し訳ございません、会長」その謝罪に対し、電話の向こうのお義父様は、すべてを包み込むような温かく落ち着いた声で、彼の苦労を労うように言葉を返した。 「いや、気にすることはないさ。智哉の頼みなら仕方がない。こちらも、仕事中にいきなり電話をして悪かったね」 お義父様のその穏やかで懐の深い言葉が、余計に私の胸の罪悪感を激しく刺激してくる。 もし最初から今日がどういう日かを知っていれば、私は絶対に智哉さんを一人にはしなかった。 「いえ、とんでもございません。それでは、失礼いたします」 ステアリングのボタンが押され、ピッと短い電子音が鳴ると共に、車内のディスプレイは再び無機質なカーナビの画面へと切り替わる。 通話が切れた後の車内には、外で荒れ狂う雨の音と、規則的にフロントガラスを拭うワイパーの動作音だけが聞こえた。 乾ききった喉を必死に動かし、前を向いたまま沈黙を保つ黒崎さんの背中へ向けて、震える声で問いただした。 「あの、もしかして今日って……智哉さんのお母様の、お誕生日だったんですか……?」 彼は雨の打ちつける前方から視線を外すことなく、ハンドルの上で指先を微かに動かしている。彼としても、智哉さんが意図的に私に隠していた個人的な事情を、自分の口からあっさりと認めてしまって良いものか迷っているのだろう。しかし、すでに会長の電話によってすべてを知ってしまった私に対して、今さら白を切ることは不可能だと悟ったようだ。 車内に深く、ひどく重い溜息が微かに漏れる。 そしてルームミラー越しに私の顔をちらりと確認すると、真実を口にした。 「……ええ。お亡くなりになった、智哉様のお母様のお誕生日でございます」 「私……外せない用事があるとおっしゃるから、てっきり会社での重要な仕事なのだとばかり……。そんな大切な日だったなんてことも知らずに、智哉さんに甘えてばかりで……っ」 そう零すと、堪えきれなくなった涙がポロリとこぼれ落ち、膝の上で強く握りしめていたサファイアブルーのドレスの生地に冷たいシミを作った。 しゃくり上げそうになるのを必死に堪え、私は両手で顔を覆って小さくうずくまった。そんな私をなだめるよ
佐々木さんに完璧に着付けとメイクを施してもらい、深いサファイアブルーのドレスに身を包んだ私は、少しの緊張と共に重厚な玄関の扉を開けた。外は天気予報通りの冷たい雨が降りしきり、灰色の空がどんよりと街を覆っている。エントランスには高級車が止まっていて、その後部座席のドアの傍らには、ピンと張られた黒い大きな傘を手にした見覚えのあるスーツ姿の男性が立っていた。「お久しぶりです。本日は雨の中、お迎えをありがとうございます」私の声に気付いた秘書は、傘の柄をしっかりと握ったまま、深く一礼をした。「お久しぶりでございます、ひより様。お怪我の具合はもうよろしいのでしょうか」彼の表情はいつも通りに感情の読めない冷静なものだが、私の姿を見て、すぐに傘を差し掛けるように歩み寄ってきてくれた。「はい、おかげさまで足はすっかり良くなりました」彼の丁寧なエスコートのおかげで、私はドレスの裾を少しも濡らすことなく、革の匂いが漂う広々とした後部座席に滑り込むことができた。シートに腰を落ち着けると、彼も素早く運転席へと乗り込み、音もなく静かに車を発進させる。窓の外では雨足が徐々に強まり、ガラスを叩く規則的な音が車内に響いていた。「こうしてお話しするのも久しぶりですよね。最近はお姿をお見かけしませんでしたが、お元気でしたか?」私の問いかけに対し、前方の濡れた路面から視線を外すことなく淡々とした声で返答をした。「ええ、元気にやっておりました。ただ、少し急ぎの仕事が入りまして。その処理に、予想以上の時間を取られておりました」私を責めるようではなかったが、その急ぎの仕事の元凶が間違いなく私であることは明らかだった。智哉さんが家で私に過保護なまでの世話を焼いている間、彼は会社で一人、社長不在の穴を埋めるために活躍を強いられていたに違いない。「私が怪我をしてしまったばかりに、迷惑をかけしてしまって本当に申し訳ありません」私の謝罪の声を聞いて、黒崎さんはルームミラー越しに少しだけ困ったような笑みを浮かべた。「ひより様が考えていらっしゃるようなことではありませんよ。智哉様より他に頼まれていたことがありました」「そう、ですか」口ではそう言ってくれているけど、きっと私のせいだろう。「本日は、ひより様を会場まで確実に、そして安全にお送りするよう智哉様より厳命を受けております。道中、
寝室のドレッサーの前で、私は佐々木さんに丁寧に髪を梳かしてもらっていた。 柔らかいブラシが頭皮を滑る心地よい感覚に身を委ねていると、鏡越しに彼女の優しげな微笑みと目が合う。 あれからあっという間に数日が経過し、智哉さんの過保護なまでの手厚いケアと、佐々木さんの完璧なサポートのおかげで、あれほど酷かった足の怪我は嘘のように綺麗に完治していた。 「いよいよ、明日は初めての婦人会ですね」 「はい。智哉さんと佐々木さんのおかげで、足もすっかり良くなりました。ありがとうございます」 私が心からの感謝を込めてそう答えると、佐々木さんは「それは何よりです」と嬉しそうに目を細めた。 もしあのまま私が無理をして歩き続けていたら、明日の本番には間に合っていなかっただろつ。 「仕立て上がったドレスも、本当に見惚れてしまうほどお似合いでしたよ」 あの日、結局仕立て屋さんと私が必死に折衷案を探り、選んだのはそのどちらでもない、深いサファイアブルーのドレスだった。 控えめでありながらも、動くたびに上質なシルクが上品な光沢を放ち、私の肌の色を美しく引き立ててくれる絶妙な色合い。 智哉さんも完成したドレスを見た時、少しだけ不満げに鼻を鳴らしつつも、その瞳にははっきりとした感嘆の色が浮かんでいたのを覚えている。 「ありがとうございます。智哉さんの希望した色にはできませんでしたけど、私にとって一番のお気に入りです」 私が心から嬉しそうにそう呟くと、佐々木さんはクスクスと笑い声を漏らした。 「ただ……あいにく、明日はお昼頃から強い雨が降る予報となっております。お足元には十分にお気をつけください」 雨という単語を聞いた瞬間、私の心臓がほんの少しだけ嫌な音を立てて跳ねた。 どうしてだろう、私が一人でパーティーに行く日は、決まっていつも冷たい雨が降る。
長い一日が終わり、私は夜の静寂に包まれた自室のベッドへと、ふわりと丁寧な手つきで下ろされた。智哉さんは今日一日、本当に私が一歩も歩かなくて済むように徹底的に私を抱え上げて屋敷中を移動した。ダイニングでの食事からリビングのソファへの移動、果ては洗面所まで、過保護すぎるほどに面倒を見てくれた。ようやく柔らかいマットレスに背中を預け、シーツを肩まで掛けられた私を見届けると、智哉さんはほんの少しだけ疲労の滲む息を吐いた。「じゃあ、ゆっくり休め」その一言を残し、彼はすぐに踵を返して寝室の扉へと向かおうとした。その広く頼もしい背中が離れていくのを見た瞬間、咄嗟に身を乗り出した。痛む足のことも忘れ、シーツから半分身を乗り出すようにして腕を伸ばし、彼の仕立ての良いシャツの袖口をギュッと掴んだ。「あ、と、智哉さん……っ」私が焦ったような上ずった声で彼の名前を呼ぶと、智哉さんはピタリと足を止めて振り返った。「あ、すみません……」私は咄嗟に摑んでしまった指先をゆっくりと離し、彼の漆黒の瞳を見つめ返した。「その、今日は一日、何から何まで本当にありがとうございましたと、きちんとお礼を言いたくて」私が深々と頭を下げて心からの感謝を伝えると、智哉さんはほんの数秒だけ黙り込んだ。「気にするな。明日もまた、お前が起きる頃に迎えに来る」その言葉の意味するところはつまり、明日も今日と同じように、朝から晩まで私を抱え上げて屋敷中を移動させるつもりだということだ。確かに私の足はまだ痛むけど、いくらなんでもそれはやりすぎだ。今日の夕方も、彼はお風呂場まで私を抱えて入ってこようとした。私が泣きそうになりながら「ここからは自分でできますから!」と扉を閉めたものの、彼は「足が滑ったらどうする気だ」と本気で不満そうにしていた。女として見られていないからこそできる行動なのだと理解してはいるものの、やはりこれ以上の過保護は私の心臓が持たない。「あ、ありがたいのですが……その、明日も今日みたいに、どこへ行くにもずっと私を抱えようとしなくて大丈夫です」私が顔を真っ赤にして猛抗議をすると、智哉さんはピクリと片眉を上げた。彼は私の意図が全く理解できないとでも言うように、少しだけ怪訝な顔をして私の顔を覗き込んでくる。「なんだ。俺に抱えられるのは嫌か?」その問に、私はぐっと言葉に詰まった。
翌日、彼は私との契約を守るために弁護士と秘書を伴い、亮介に会いに行った。 私は扉の外で待たされることになり、中で何が行われているのかはまったく分からなかった。 廊下に立ち尽くしながら、時計の針の進みを見つめていた。 中からは声も物音も漏れてこない。 「何を話しているの……」 小さく呟いても、答えは返ってこない。私はただ、扉の前で立ち尽くすしかなかった。 そして、ほんの十分後。 扉が開き、彼が姿を現した。その顔には勝利とも安堵ともつかない影が浮かんでいる。 弁護士が短く頷き、秘書が静かに後ろに控える。 「借金は全て片付けた。だからもう、あいつに従う必要なんてな
車に揺られながら実家へと向かう道のりは、やけに長く感じられた。玄関の前に立つと、胸の奥がざわめき、手が震える。ドアノブに触れる指先は冷たく、開ける瞬間をためらう。けれど、深く息を吸い込み、意を決して扉を押し開けた。足を踏み入れると、リビングのソファーに母が座っているのが目に入る。「お母さん…」母の姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。背もたれに身を預ける姿はどこか疲れ切っていて、私の視線を受け止めると小さく肩を震わせた。
妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約
「どうして私が…それより、どうして私の名前────」 言葉を最後まで続けることはできなかった。 胸の奥から湧き上がる疑問と恐怖を、声にしようとした瞬間、彼の腕が私の腰を強く引き寄せた。 近すぎる距離に心臓が跳ねる。抗う間もなく、彼の唇が私に重なった。 問いかけは宙に消え、答えを知る前に沈黙が支配する。 彼は唇を離すと、ただ静かに微笑んだ。その笑みは優しさとも冷たさとも取れる曖昧なものだった。 「何をしている……