All Chapters of 捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで: Chapter 71 - Chapter 80

99 Chapters

第71話

あの最悪な夜から、智哉さんは私と一切の口を利かなくなってしまった。私が彼の逆鱗に触れるような、取り返しのつかない何かをしてしまったのは確実なのに。それが何なのかがどうしても分からない。智哉さんはご自身の父親を深く尊敬していて、親を侮辱するような私の態度がどうしても許せなかったのだろうか。それとも、他の言葉に彼だけの地雷が埋まっていたのだろうか。考えれば考えるほど思考は泥沼にハマり、冷え切った邸宅の重苦しい空気に耐えられなくなった私は、逃げるように家の近くの喫茶店へと足を運んでいた。冷めたコーヒーの表面を見つめながら、私は無意識のうちに独り言を呟いていた。「分からない…」「何が分からないの?」私の目の前、テーブルを挟んだ向かい側の席に、朝倉さんがゆったりと腰を下ろした。ここは智哉さんの家から歩いてこられる距離にある、ごく普通の静かな喫茶店だ。外の世界の空気を吸いたいと、私がほんの少しだけ羽を伸ばすために選んだこのささやかな逃避場所に、なぜ彼が現れるのか。「……っ、どうして、あなたがここにいるんですか」息を呑み、硬直する私の顔を面白そうに眺めながら、彼は勝手にメニュー表を引き寄せる。「いやぁ、本当に奇遇だね。こんなところで会えるなんて思わなかったよ」そんな都合のいい言葉で、この異常な事態を片付けられるはずがない。「本当に、ただの偶然なんですか」私の刺々しい追及を受け、朝倉さんは大袈裟に目を見開いてみせた。そして、まるで罪のない善人が理不尽な疑いをかけられて傷ついたかのように、わざとらしく眉尻を下げてみせる。「……嫌だなぁ。もしかして俺のこと疑ってる?」そう言うとテーブルの上に両肘を突き、両手で顎を支えるようにして私の顔を覗き込んでくる。智哉さんの警告がなくても、異常な接触の頻度を考えれば、誰だって疑念を抱くはずだ。「疑いたくもなります。私が外に出るたびに、まるで監視でもしているかのようにあなたに遭遇するんですか
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第72話

彼にとって、智哉さんのような冷酷な人間に無償の愛を向ける人間の存在など、到底理解できないバグのようなものなのだろう。「もし君が求めているのがお金や地位なんだとしたら、俺にもたっぷりあるよ?」その言葉の裏にあるのは、「智哉を捨てて俺に乗り換えろ」という露骨な誘いだった。けれど私の心の奥底には、彼に反論する資格がない事実も存在していた。なぜなら、私自身が多額の借金の肩代わりという「お金」を理由にして、智哉さんと契約結婚を結んでいる身だから。「……私は、お金や地位のために彼のそばにいるわけではありません」私のきっぱりとした否定の言葉を聞いても、朝倉さんは痛痒を感じた様子すら見せなかった。むしろ、私が強がりで智哉さんを庇っているのだと確信しているかのように、ますます面白そうに目を輝かせている。彼は両手をテーブルの上で組み、少しだけ身を乗り出して私との距離を詰めると、智哉さんという人間を見下すような言葉を投げつけてきた。「えー、嘘だぁ。あいつにはお金と地位くらいしか取り柄がないでしょ?」長年、智哉さんを激しく憎み、ライバル視してあらゆる手段で彼の足を引っ張ってきた男。彼にとっての智哉さんは、ただ冷酷に利益を追求するだけの、血の通っていない機械のような存在にしか見えていないのだろう。そうかもしれない。冷徹で、他人を信じず、常に損得勘定で動く人間。だけど、彼にしかない確かな体温と優しさがある。「そんなことありません。智哉さんには……彼にしかない、不器用な優しさがあります」私の言葉を聞き、朝倉さんはまるで世界で一番滑稽な冗談を聞いたかのように、肩を揺らしてクスクスと笑い始めた。「あいつが優しいなんて、もっとマシな嘘つきなよ」嘘…か。相手の弱点を探るためだけにしか他人を見ないから、智哉さんが必死に隠し持っている人間らしい弱さや温もりに一生気づくことができないんだ。私は彼への軽蔑を込めて、冷ややかに言い放った。「あなたは智哉さんの本質をちっとも分かっていないんですね」私のその冷たい指摘は、彼のプライドを微かに傷つけたようだった。ピクッと彼の眉の端が跳ね上がり、先程までの余裕ぶった笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ不快感がよぎったのを見逃さなかった。「うん、分かんない。…ねえ、あんな堅物と一緒にいても息が詰まるだけでしょ? 俺の方がずっと優しくて、君を楽しく
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第73話

「チャラいか。俺はただ、自分の気持ちに正直に生きてるだけなんだけどな」彼に反発して感情を乱すことすら、今の私には無駄な労力に思えた。「……そうですか」私の冷ややかな返しを聞いて、朝倉さんは気を悪くするどころか、ますます面白そうに目を細めて肩を揺らした。思い通りにならないおもちゃほど、壊しがいがある。そんな歓喜が瞳の奥でギラギラと渦巻いているのが分かった。「あははっ、冷たいなぁ。俺の言葉、絶対1ミリも信じてないでしょ?」自分の気持ちに正直に生きる。それは一見美しい言葉のように聞こえるけれど、この人が言うと別の意味合いを持つ。それはつまり、己の欲望を最優先し、その過程で他人がどう傷つこうが知ったことではないという自己中心的な身勝手さの裏返しでしかないのだから。常に周囲の顔色を伺い、誰かに迷惑をかけないように他人の気持ちを推し量って生きてきた私からすれば、他者を踏み台にしてでも自分の快楽を追求する彼の思考回路は、同じ人間のものとは思えないものだった。「私には到底理解できない生き方ですから」私の決定的な拒絶の言葉を聞いて、朝倉さんの瞳の奥で何かが嫌な光を放った。彼は私が引いた明確な境界線を不躾に乗り越えるように、テーブルの上に両肘をついてさらに前のめりになる。「へぇ……? それってつまり、ひよりちゃんは自分のためじゃなくて、誰かのために生きてるってこと?」その指摘は、私自身の生き方の不器用さを鋭く突いていた。莫大な借金を肩代わりしてもらうため、自分の自由を売り渡し、智哉さんとの契約結婚を受け入れた私。自分自身の幸せや欲求よりも、状況に流され、誰かの都合に合わせることでしか自分の居場所を見つけられなかった。けれど、それをこの男に自己犠牲だと嘲笑われる筋合いはない。「誰かのために自己犠牲を払っている、という意味ではありません。ただ、自分以外の誰かのことを思いやって生きるのが、人間として当然のことだと言っているんです」私の言葉を聞いた途端、朝倉さんはまるで待ち構えていたかのように、パチンと指を鳴らした。「なるほどねぇ。……それじゃあ、ひよりちゃんが智哉と一緒にいるのも、誰かのためなの?」私たちの間に愛など存在しないという事実を、この男はどこまで勘付いているのだろうか。契約結婚という最大の秘密が暴かれれば、智哉さんは決定的なダメージを負ってしまう
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第74話

日にちが変わるか変わらないかという深夜。壁の時計が秒針を刻む音だけがやけに大きく聞こえる冷え切った邸宅に、重厚な玄関のドアが開く微かな電子音が響いた。「おかえりなさい」「…あぁ」彼は怪我をしていない左手でネクタイの結び目を荒々しく緩めながら、私との間に見えない高い壁を築くようにして、広いリビングを無言で通り抜けようとする。「あの……」私の躊躇いがちな呼び止めにも、智哉さんの足が止まることはなかった。彼は冷たいフローリングの上を靴下で滑るように歩き続け、私という存在を完全に無視して自室へ直行しようとしている。「疲れている。……話なら後にしてくれ」彼の肩のラインが苛立ちで微かに強張り、左手が乱暴に自室のドアノブを掴む。胸の奥がチクッと痛んだけれど、私はその痛みを無視して彼との距離を数歩だけ縮めた。そして背を向けたままの彼に向かって、もう一度、今度は少しだけ語気を強めて声を張った。「私と話したくないのは分かっています。でも、どうしても今すぐ耳に入れておくべき事実があるので」私の強引な宣言を聞いても、智哉さんはドアノブを掴んだまま、 何も答えなかった。でも、完全に無視して部屋に入ることもできたはずなのに微かに動きを止めたのは、私の声にただならぬ緊張感が含まれていたからかもしれない。「今日、朝倉さんに会いました」その言葉に彼はドアノブから手を離し、こちらを振り返った。その瞳には、鋭く研ぎ澄まされた刃のような殺気が宿っていた。「…外に出たのか」「はい。家のすぐ近くの喫茶店です。会ったというより…向こうが私の行動を読んで、偶然を装って接触してきたんだと思います」私の言葉を聞いて、智哉さんは小さく舌打ちをした。朝倉さんが私の行動を監視し、私が智哉さんの保護下から離れる一瞬の隙を突いてピンポイントで接触してきたという事実。それは、彼の執念深さと情報収集能力がいかに異常であるかを証明するものだった。智哉さんは左手で自分の前髪を乱暴にかき上げ、深い苛立ちを露わにした。「……それで」彼のその短い促しは、私に一切の感情論を許さず、正確な事実だけを報告せよという要求だった。私は深く深呼吸をして、喫茶店での会話を思い起こす。朝倉さんが私と智哉さんの関係性にヒビが入っていることを見抜いていたこと。そして何より、私たちが契約で結ばれた偽物の夫婦であり
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第75話

外の世界には朝倉さんが待っているだろうし、私は当分この広い邸宅から一歩も外に出ないことを心に決めていた。 薄暗いリビングのソファで膝を抱え、ただ無為に時間が過ぎるのを待っていたその時だった。ピンポーン無機質なインターホンの電子音に、ビクッと大きく跳ね、そのまま石のように硬直した。智哉さんは仕事でまだ帰らない時間。秘書の彼なら鍵を持っている。だとすれば…まさか、朝倉さんがついにこの家まで突き止めて押しかけてきたのだろうか。冷たい汗が背中を伝う。私は恐る恐るモニターへと近づいた。画面に映っていたのは、品の良さそうなスーツを着た見知らぬ男性だった。全く見覚えのない相手に戸惑いながらも、私は警戒心を解かずに通話ボタンを押した。「どちら様でしょうか」私のひどく強張った問いかけに対し、モニターの向こうの男性は穏やかな笑みを浮かべた。白髪の混じった髪を綺麗に撫でつけ、仕立ての良いスーツを上品に着こなすその姿には、どこか近寄りがたいほどの品格と、長い年月を経て培われた深い知性が漂っている。不審者ではないという直感が働く一方で、彼がなぜこの厳重なセキュリティに守られた智哉さんの邸宅の前に立っているのか、全く理由が思い当たらない。私が次の言葉を待っていると、男性はスピーカー越しに親しげな温もりを含んだ声で私の名前を呼んだ。「ひよりさん、かな?」自分の名前を正確に呼ばれた瞬間、心臓は再びドクンと嫌な音を立てた。この邸宅の場所はもちろん、私がここに住んでいることすら、外部の人間には徹底的に秘匿されているはず。「どうして私の名前をご存知なんですか」私の明らかな警戒と怯えを感じ取ったのだろう。男性は困ったように眉尻を下げ、「これは失礼した」とでも言うように小さく息をついた。「いや、驚かせてしまって本当に申し訳ない。実は、智哉に何度か一度会わせてくれと頼んでいたんだが、一向に首を縦に振ってくれなくてね。仕方なく直接訪ねてきてしまったというわけなんだ」智哉さんが、意図的に私に会わせないようにしていた人物。「えっと…」「あぁ。私は智哉の父親だよ」その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、私の呼吸は完全に停止した。智哉さんの、「お、お義父様……!?」私が狼狽のあまり間抜けな声を上げてしまっても気を悪くするどころか、フフッと上品な笑い声を漏らした。その笑い
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第76話

夜の街並みが、助手席の窓ガラスを滑るように後方へと流れていく。外の喧騒が完全に遮断された密室空間には、タイヤがアスファルトを擦る微かな音と、落ち着いたジャズのBGMだけが流れていた。外出しているという後ろめたさと、これから一体何を話されるのかという不安で、身体がガチガチに強張っている。そんな私を一瞥すると、お義父様は前方の道路から視線を外すことなく、ひどく穏やかで温かみのある声で労いの言葉をかけてくれた。「いやぁ、急がせてしまってすまないね。女の子の身支度なのだから、もっとゆっくり時間をかけてくれてもよかったのに」その声には、智哉さんのような他者を威圧するプレッシャーや、人を寄せ付けない冷たさは微塵も含まれていなかった。そこにあったのは、休日に自分の娘をドライブに連れ出す父親のような、自然で包み込むような優しさだけ。けれど、いくら相手が温厚に振る舞ってくれていても、私にとっては絶対に粗相があってはならない、智哉さんの父親なのだ。少しでも失礼のないようにと背筋をピンと伸ばし、助手席で小さく頭を下げながら、努めて丁寧な声で返答した。「いえ、とんでもありません。お義父様をお待たせする訳にはいきませんので……お気遣いいただきありがとうございます」私の固く畏まった返答を聞いて、お義父様はフフッと上品に笑った。車は赤信号で静かに停車し、街灯のオレンジ色の光が、お義父様の目尻の深い皺と穏やかな横顔をふわりと照らす。「今日は、君と話したいことがたくさんあるんだよ」その言葉に、私の思考は一瞬だけピタリと停止した。結婚に至るまでの馴れ初めや、智哉さんの普段の生活ぶりについて詳しく聞きたいという意味なのだろうか。それとも、智哉さんが私を彼に会わせたがらなかった本当の理由について、何か重大な秘密を打ち明けようとしているのか。あるいは、私が智哉さんを騙して金銭目的で近づいた悪女だと疑い、それを直接糾弾するために呼び出したのだろうか。「私と、話したいこと……ですか?」私の戸惑いを含んだ声に気づいたのか、お義父様は一瞬だけ私の方をちらりと見やり、すぐにまた前を向いて苦笑いのようなものを浮かべた。「あぁ、すまない。少し言い方が悪かったかな。ただ、息子の婚約者と言うよりも、ひよりちゃん自身のことをもっと知りたいと思っているんだよ」息子の婚約者だからこそ私に関心がある
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第77話

お義父様の運転する高級車が滑り込むようにして停車したのは、閑静な高級住宅街の一角にひっそりと佇む、黒塀に囲まれた純和風の料亭の前だった。看板すら出ていない隠れ家のような外観だったが、私はその入り口のしつらえを見た瞬間、息を呑んだ。ここは以前、テレビの特集で「日本で最も予約が困難な店」として紹介されていた超高級店だ。政財界の重鎮や大物芸能人ですら、一年先の予約枠を奪い合うと言われている、完全紹介制の伝説的な料亭。車を降り、和服姿の仲居さんたちに深々と頭を下げられて出迎えられながら、私は現実感が完全に消失していくのを感じた。石畳を踏む自分の足元がおぼつかなくなるほどの緊張を抱え、私は震える声で隣を歩くお義父様に問いかけた。「あの、ここって、一年先まで予約が取れないと言われているお店ですよね…」私の驚愕に満ちた問いかけに対し、お義父様はひどくあっけらかんとしたトーンで答えた。「おや、そうなのかい?今朝電話を入れたら、すんなりと席を用意してもらえたんだがね」一年先まで予約が埋まっているはずの超人気店に、今日、電話一本で席を用意させる。それがどれほど異常な権力と財力を意味しているのか、彼自身は全く頓着していないようだった。仲居さんに案内されて私たちが通されたのは、美しい枯山水の中庭を独占できる、最も奥まった場所にある特別仕様のVIP専用個室だった。ふすまが静かに閉められ、完璧な防音空間の中に私たち二人だけが取り残された。相手は智哉さんの父親であり、雲の上の存在だ。智哉さんから拒絶されている今、私にできる唯一の恩返しは、彼の大切な秘密を守り抜くことだけ。私は冷や汗で湿った両手を膝の上で重ね、背筋を限界までピンと伸ばした。「本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます。本来であれば、私の方からご挨拶に伺わなければならない立場なのに……申し訳ありません」私のあまりにもガチガチに緊張した様子と、張り詰めた声色を見て、お義父様は困ったように目尻を下げ、フフッと
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第78話

私は勧められるがままに杯を重ね、高級な切子のグラスに注がれた冷酒を水のように一気に喉の奥へと流し込んだ。喉から胃にかけてカッと熱いものが落ちていく感覚が、極度の緊張で冷え切っていた身体を内側からじんわりと温めてくれる。「おぉ、いい飲みっぷりだね」ふわりと視界が揺れ、頬に微かな熱が帯びてきたのを自覚した時、正面に座るお義父様がひどく嬉しそうに目を細めた。自分が無意識のうちにかなりのハイペースで杯を干していたことに気づき、私はハッとして慌てて手元の切子グラスをテーブルに置いた。酔いが回ってきているとはいえ、相手はあの篠原智哉を育て上げた、底知れない権力を持つ財界の重鎮。ここで醜態を晒すわけにはいかないと、私はほんの少しだけ緩みかけていた頬を両手で軽く叩き、必死に理性を総動員して居住まいを正した。「きょ、恐縮です……。お酒がとても美味しくて、ついペースが上がってしまいました」その瞬間、私の全身を巡っていたアルコールの熱が、スッと音を立てて冷えていく。心臓がドクンと大きく跳ね、思考が完全に停止する。お義父様は手元のグラスを軽く揺らしながら、中に入った氷がカランと鳴る音を懐かしむように聞き入っていた。「……君のお父さんともね、よくこうして夜遅くまで酒を酌み交わしたものだよ」仕事ばかりで家に寄り付かず、最後はあっけなく事故でこの世を去ってしまった父。私にとって父親という存在は、常に背中を向けている遠い存在であり、彼の交友関係など何一つ知らなかった。それがまさか、篠原家という強大な一族とこんなにも密接に繋がっていたなんて。「私の、父と…? あの、先ほどの車の中での話の続きですが……お義父様は、どうして私のことをご存知なのでしょうか?」乾いた唇から漏れ出た私の声は、ひどく掠れて震えていた。 私の切実な問いかけを受け、お義父様は静かに目を伏せ、一つ大きなため息をついた。「……君のお父さんはね、我が医療グループの薬開発者だったんだよ」その言葉が持つ重みに、私は呼吸の
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第79話

「いや、君を責めているわけじゃないんだ。ただ…君のような才能ある娘が、なぜ東条の懐へと入っていったのか。私はずっと引っかかっているんだよ」それはもっと泥臭くて、情けなくて、自分でも目を背けたくなるような、私自身の薄暗い感情だった。「ただ…自分に自信がなかっただけなんです」自分の口から飛び出したその言葉は、あまりにも滑稽だった。父に少しでも振り向いてほしくて、彼と同じ医療薬の研究という道を選んだ。けれど大学で専門的な知識を学べば学ぶほど、私に突きつけられたのは自分には何もないという残酷な現実だった。「父と同じ道に進んだものの、学べば学ぶほど自分には父のような才能も、すべてを懸けるような情熱もないんだと思い知らされ…。だから、業界の頂点である篠原グループを目指すことすら恐れ多くて逃げ出してしまったんです」父のように、寝食を忘れて一つのことに狂気的に没頭できるような才能も情熱も、私の中には存在しなかった。業界の絶対的な頂点であり、天才たちが集う篠原グループ。そこを目指すことは、自分の凡庸さを完全に証明してしまうようで、たまらなく恐ろしかった。自分なんかがトップの舞台で通用するはずがない。そんな強烈な劣等感と恐怖が、私の足を進むべき道から遠ざけていた。「そんな時に東条グループから内定をもらって、ここなら自分の実力に見合っているかもしれないと、無意識のうちに父の影から逃げるような選択をしてしまいました」絶対的な頂点である篠原グループほどのプレッシャーはなく、少しだけ手の届きそうな場所に思えたその会社は、逃げ場所を探していた私の目にはひどく魅力的な選択肢として映ってしまった。お義父様はテーブルの上で両手を静かに組み、深く、重々しい溜息を一つ吐いた。「君のように優秀な才能を持った子が自信を持てずにいたなんて、本当に残念でならないよ。我社を志望してくれさえすれば…」もしあの時、私がほんの少しの勇気を持って篠原グループの門を叩いていれば。けれど、東条グループにいた時から、私はただの足手まといだった。嫌な記憶が頭をかすり、私は急いで頭を強く横に振った。「私は…いえ。私の至らなさはともかくとして、父が残した研究が少しでも助けになっていたのなら、娘としてそれ以上嬉しいことはありません」私が無理に作った作り笑いは、きっとひどく歪で無様なものだっただろう。そ
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第80話

「私の父が、人生を懸けて研究していた薬というのは、もしかして…」膝の上で固く握りしめた両手にはじっとりと嫌な汗が滲み、指先は氷のように冷たくなっている。頭の中では、かつて自分が吐き捨てた数々の残酷な言葉が、呪いのようにぐるぐると渦巻いていた。「あぁ。亡き妻の、難病を治すためのものだったんだ」確かな重みを持って紡がれたその言葉は、私の頭を鈍器で殴りつけるほどの衝撃を持っていた。難病の再生医療薬。それは決して顔も知らない誰かのための新薬開発などではなく、智哉さんの最愛の母親の命を繋ぎ止めるための、彼ら家族にとっての文字通り最後の希望だった。その希望を、私はあの日…。何も知らない怒りに任せて罵倒したあの時、智哉さんがどれほどの絶望と、怒りを味わったのか。想像するだけで胸が激しく締め付けられる。私は声を発することはおろか、瞬きすら忘れたかのように、ただぼう然と虚空を見つめることしかできなかった。「……っ、あぁ」喉の奥から、言葉にならない掠れた嗚咽が漏れ出た。両手で顔を覆い隠すように俯くと、後悔という名のどす黒い感情が全身の血液に乗って駆け巡り、私を内側から食い破りそうになる。私が憎んでいたのは、私を顧みなかった父の仕事だったはずなのに、その剣先は無関係な人の心を真っ向から刺し貫いていた。「大丈夫かい? 顔色がひどく青ざめているが」気遣うような、ひどく温かで穏やかな声色が響き、私はビクッと肩を震わせた。罪悪感で顔を上げることもできず、ただ必死に呼吸を整えようと深く息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たすと、ほんの少しだけ理性が戻ってきた。これ以上、この人の前で取り乱すわけにはいかない。「申し訳ありません。あまりにも突然の事実で、少し動揺してしまって」なんとか取り繕ったものの、私の声は酷く上ずり、手はまだ微かに震えていた。そんな私の不審な様子を、彼は咎めることもなく事情を理解しているかのようにゆっくりと何度か頷いた。「私はてっきり、あの子が君にすべてを話しているものとばかり思っていたよ」智哉さんは何も話してはくれなかった。私が父親の研究を心底憎んでいることを知っていたからなのか。それとも、あんな残酷な言葉を吐いた私に対して、真実を告げる価値すら無いと見限っていたからなのか。振り返ればもらうばかりで、彼が抱える深い悲しみに寄り添おうとし
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