All Chapters of 捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

長い一日が終わり、私は夜の静寂に包まれた自室のベッドへと、ふわりと丁寧な手つきで下ろされた。智哉さんは今日一日、本当に私が一歩も歩かなくて済むように徹底的に私を抱え上げて屋敷中を移動した。ダイニングでの食事からリビングのソファへの移動、果ては洗面所まで、過保護すぎるほどに面倒を見てくれた。ようやく柔らかいマットレスに背中を預け、シーツを肩まで掛けられた私を見届けると、智哉さんはほんの少しだけ疲労の滲む息を吐いた。「じゃあ、ゆっくり休め」その一言を残し、彼はすぐに踵を返して寝室の扉へと向かおうとした。その広く頼もしい背中が離れていくのを見た瞬間、咄嗟に身を乗り出した。痛む足のことも忘れ、シーツから半分身を乗り出すようにして腕を伸ばし、彼の仕立ての良いシャツの袖口をギュッと掴んだ。「あ、と、智哉さん……っ」私が焦ったような上ずった声で彼の名前を呼ぶと、智哉さんはピタリと足を止めて振り返った。「あ、すみません……」私は咄嗟に摑んでしまった指先をゆっくりと離し、彼の漆黒の瞳を見つめ返した。「その、今日は一日、何から何まで本当にありがとうございましたと、きちんとお礼を言いたくて」私が深々と頭を下げて心からの感謝を伝えると、智哉さんはほんの数秒だけ黙り込んだ。「気にするな。明日もまた、お前が起きる頃に迎えに来る」その言葉の意味するところはつまり、明日も今日と同じように、朝から晩まで私を抱え上げて屋敷中を移動させるつもりだということだ。確かに私の足はまだ痛むけど、いくらなんでもそれはやりすぎだ。今日の夕方も、彼はお風呂場まで私を抱えて入ってこようとした。私が泣きそうになりながら「ここからは自分でできますから!」と扉を閉めたものの、彼は「足が滑ったらどうする気だ」と本気で不満そうにしていた。女として見られていないからこそできる行動なのだと理解してはいるものの、やはりこれ以上の過保護は私の心臓が持たない。「あ、ありがたいのですが……その、明日も今日みたいに、どこへ行くにもずっと私を抱えようとしなくて大丈夫です」私が顔を真っ赤にして猛抗議をすると、智哉さんはピクリと片眉を上げた。彼は私の意図が全く理解できないとでも言うように、少しだけ怪訝な顔をして私の顔を覗き込んでくる。「なんだ。俺に抱えられるのは嫌か?」その問に、私はぐっと言葉に詰まった。
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第142話

寝室のドレッサーの前で、私は佐々木さんに丁寧に髪を梳かしてもらっていた。 柔らかいブラシが頭皮を滑る心地よい感覚に身を委ねていると、鏡越しに彼女の優しげな微笑みと目が合う。 あれからあっという間に数日が経過し、智哉さんの過保護なまでの手厚いケアと、佐々木さんの完璧なサポートのおかげで、あれほど酷かった足の怪我は嘘のように綺麗に完治していた。 「いよいよ、明日は初めての婦人会ですね」 「はい。智哉さんと佐々木さんのおかげで、足もすっかり良くなりました。ありがとうございます」 私が心からの感謝を込めてそう答えると、佐々木さんは「それは何よりです」と嬉しそうに目を細めた。 もしあのまま私が無理をして歩き続けていたら、明日の本番には間に合っていなかっただろつ。 「仕立て上がったドレスも、本当に見惚れてしまうほどお似合いでしたよ」 あの日、結局仕立て屋さんと私が必死に折衷案を探り、選んだのはそのどちらでもない、深いサファイアブルーのドレスだった。 控えめでありながらも、動くたびに上質なシルクが上品な光沢を放ち、私の肌の色を美しく引き立ててくれる絶妙な色合い。 智哉さんも完成したドレスを見た時、少しだけ不満げに鼻を鳴らしつつも、その瞳にははっきりとした感嘆の色が浮かんでいたのを覚えている。 「ありがとうございます。智哉さんの希望した色にはできませんでしたけど、私にとって一番のお気に入りです」 私が心から嬉しそうにそう呟くと、佐々木さんはクスクスと笑い声を漏らした。 「ただ……あいにく、明日はお昼頃から強い雨が降る予報となっております。お足元には十分にお気をつけください」 雨という単語を聞いた瞬間、私の心臓がほんの少しだけ嫌な音を立てて跳ねた。 どうしてだろう、私が一人でパーティーに行く日は、決まっていつも冷たい雨が降る。
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第143話

佐々木さんに完璧に着付けとメイクを施してもらい、深いサファイアブルーのドレスに身を包んだ私は、少しの緊張と共に重厚な玄関の扉を開けた。外は天気予報通りの冷たい雨が降りしきり、灰色の空がどんよりと街を覆っている。エントランスには高級車が止まっていて、その後部座席のドアの傍らには、ピンと張られた黒い大きな傘を手にした見覚えのあるスーツ姿の男性が立っていた。「お久しぶりです。本日は雨の中、お迎えをありがとうございます」私の声に気付いた秘書は、傘の柄をしっかりと握ったまま、深く一礼をした。「お久しぶりでございます、ひより様。お怪我の具合はもうよろしいのでしょうか」彼の表情はいつも通りに感情の読めない冷静なものだが、私の姿を見て、すぐに傘を差し掛けるように歩み寄ってきてくれた。「はい、おかげさまで足はすっかり良くなりました」彼の丁寧なエスコートのおかげで、私はドレスの裾を少しも濡らすことなく、革の匂いが漂う広々とした後部座席に滑り込むことができた。シートに腰を落ち着けると、彼も素早く運転席へと乗り込み、音もなく静かに車を発進させる。窓の外では雨足が徐々に強まり、ガラスを叩く規則的な音が車内に響いていた。「こうしてお話しするのも久しぶりですよね。最近はお姿をお見かけしませんでしたが、お元気でしたか?」私の問いかけに対し、前方の濡れた路面から視線を外すことなく淡々とした声で返答をした。「ええ、元気にやっておりました。ただ、少し急ぎの仕事が入りまして。その処理に、予想以上の時間を取られておりました」私を責めるようではなかったが、その急ぎの仕事の元凶が間違いなく私であることは明らかだった。智哉さんが家で私に過保護なまでの世話を焼いている間、彼は会社で一人、社長不在の穴を埋めるために活躍を強いられていたに違いない。「私が怪我をしてしまったばかりに、迷惑をかけしてしまって本当に申し訳ありません」私の謝罪の声を聞いて、黒崎さんはルームミラー越しに少しだけ困ったような笑みを浮かべた。「ひより様が考えていらっしゃるようなことではありませんよ。智哉様より他に頼まれていたことがありました」「そう、ですか」口ではそう言ってくれているけど、きっと私のせいだろう。「本日は、ひより様を会場まで確実に、そして安全にお送りするよう智哉様より厳命を受けております。道中、
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第144話

車内に流れる重苦しい沈黙を破るように、黒崎さんがハンドルを握る手にギュッと力を込め、スピーカー越しの会長に向かって謝罪を口にした。 「事前のご連絡を怠り、申し訳ございません、会長」その謝罪に対し、電話の向こうのお義父様は、すべてを包み込むような温かく落ち着いた声で、彼の苦労を労うように言葉を返した。 「いや、気にすることはないさ。智哉の頼みなら仕方がない。こちらも、仕事中にいきなり電話をして悪かったね」 お義父様のその穏やかで懐の深い言葉が、余計に私の胸の罪悪感を激しく刺激してくる。 もし最初から今日がどういう日かを知っていれば、私は絶対に智哉さんを一人にはしなかった。 「いえ、とんでもございません。それでは、失礼いたします」 ステアリングのボタンが押され、ピッと短い電子音が鳴ると共に、車内のディスプレイは再び無機質なカーナビの画面へと切り替わる。 通話が切れた後の車内には、外で荒れ狂う雨の音と、規則的にフロントガラスを拭うワイパーの動作音だけが聞こえた。 乾ききった喉を必死に動かし、前を向いたまま沈黙を保つ黒崎さんの背中へ向けて、震える声で問いただした。 「あの、もしかして今日って……智哉さんのお母様の、お誕生日だったんですか……?」 彼は雨の打ちつける前方から視線を外すことなく、ハンドルの上で指先を微かに動かしている。彼としても、智哉さんが意図的に私に隠していた個人的な事情を、自分の口からあっさりと認めてしまって良いものか迷っているのだろう。しかし、すでに会長の電話によってすべてを知ってしまった私に対して、今さら白を切ることは不可能だと悟ったようだ。 車内に深く、ひどく重い溜息が微かに漏れる。 そしてルームミラー越しに私の顔をちらりと確認すると、真実を口にした。 「……ええ。お亡くなりになった、智哉様のお母様のお誕生日でございます」 「私……外せない用事があるとおっしゃるから、てっきり会社での重要な仕事なのだとばかり……。そんな大切な日だったなんてことも知らずに、智哉さんに甘えてばかりで……っ」 そう零すと、堪えきれなくなった涙がポロリとこぼれ落ち、膝の上で強く握りしめていたサファイアブルーのドレスの生地に冷たいシミを作った。 しゃくり上げそうになるのを必死に堪え、私は両手で顔を覆って小さくうずくまった。そんな私をなだめるよ
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第145話

進路を大きく変更し、車が郊外の広大な霊園へと向かい始めてからすでに三十分が経過した。黒崎さんの的確な運転のおかげで道は順調だったけれど、窓の外の天候は悪化の一途を辿っていて、叩きつけるような大粒の雨が容赦なく車体を打ち据えている。「…智哉さん、まだ霊園にいらっしゃるでしょうか」私の不安げな問いかけに対し、黒崎さんはワイパーの速度を一段階上げながら、静かに首を縦に振った。「ええ。例年通りであれば、朝早くから訪れ、日暮れまでずっとお母様の墓前で話し込んでおられます。ですので、お会いできるはずです」黒崎さんの言葉を聞いて、私の胸の奥がさらにギュッと締め付けられた。彼は忙しい身でありながら、今日という日だけはすべての時間を亡き母のために捧げている。やがて車は、整備された巨大な霊園の入り口を抜け、敷地内へとゆっくりと進んでいく。窓ガラスに張り付いて外の景色を必死に探していると、ふと、通路をゆっくりと歩いてくる長身の男性のシルエットが視界に飛び込んできた。完璧な仕立ての黒いスーツ姿。間違いない、智哉さんだ。しかし、彼のその異様な姿を視認した瞬間、私の心臓はドクンと大きく跳ね上がった。「あ……っ」彼の手には、立派な黒い傘がしっかりと握りしめられている。それなのに、彼はその傘を差そうともせず、ただ力なく手に提げたまま土砂降りの雨の真っ只中を無防備に歩いていた。髪は無惨に濡れそぼって額に張り付き、高級なスーツは雨水を吸って重たく体にまとわりついている。まるで、自分自身に罰を与えているかのような、あまりにも痛々しく孤独な姿。それを見た瞬間、私はもう自分自身の理性を保つことができなかった。「く、黒崎さん……っ、車を止めてください!」私が半狂乱のような声で叫んだのと同時に、黒崎さんがハッと息を呑んでブレーキペダルを踏み込んだ。キュッと鈍い音を立てて車が停車すると、私は乱暴にドアのハンドルを引いた。ただ一刻も早く、彼をあの冷たい雨の中から引きずり出さなければならないという
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第146話

今まで、どんなに不器用な態度であっても必ず私の側に寄り添ってくれていた彼が、今はまるで汚らわしい異物を排除するかのように冷え切った瞳で私を見下ろしている。ドレスに染み込んだ雨水の冷たさよりも、彼から放たれる拒絶のオーラの方が何倍も冷たかった。「どうしてそんなことを言うんですか……」私の悲痛な問いかけにも、智哉さんはピクリとも表情を変えなかった。彼の手から力なく垂れ下がった黒い傘に、大粒の雨が当たっては空しく弾け飛んでいる。彼は、自分がずぶ濡れになっていることなど全く意に介していない様子で、ただ私という存在をこの場から一刻も早く遠ざけることだけを目的としているようだった。「俺の言葉が聞こえないのか。今すぐ帰れと言っている」私は雨水で重くなったドレスの裾を引きずりながら、彼との距離をさらに半歩だけ詰め、真っ向から突きつけた。「今日が、お義母様のお誕生日だからですか……?」その言葉を口にした瞬間、智哉さんの広い背中が大きくビクッと跳ねた。彼の瞳が鋭く細められ、私を射抜くような強い視線が向けられた。「……お前には、関係のないことだ」そう低く吐き捨てると、智哉さんは私との会話をこれ以上続ける気はないというように、強引に私の横を通り抜けようと歩みを進めた。私は振り返りざまに手を伸ばし、彼の大きな右手を両手でギュッと力強く掴み取った。「どうして……っ! どうしてそうやって突き放すんですか!」濡れて氷のように冷たくなっていた彼の手のひらを握りしめ、私は泣き叫ぶような声で抗議した。契約結婚の条件として、必要以上の干渉はしないと約束していたはずの私が、彼に直接触れてまで引き留めるなど、完全にルール違反の越権行為だ。けれど、彼の手はひどく冷たくて、そして微かに震えていた。この震えを放っておくことなど、私にできるはずがない。智哉さんは私の顔を睨みつけると、その繋がれた手を振り払おうと、低い声で警告した。「……離せ」言葉こそ鋭く危険
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第147話

私は繋いだ両手にさらに力を込め、雨音を切り裂くように必死に頭を振って叫んだ。「そんなわけないじゃないですか!お義母様がお亡くなりになったのはご病気のせいで……お父さんは、不運な事故だったんです! 決して、智哉さんのせいなんかじゃありません……!」私がどれだけ言葉を尽くして事実を突きつけても、彼が長年抱え込んできた深い絶望の闇は、そう簡単に晴れるものではなかった。「いや……俺が新薬開発に縋らなければ、拓真さんは今も生きていたはずだ」私は彼が一人で耐え続けてきた地獄の深さに胸を締め付けられ、震える唇を開いた。「もしかして、今までずっとそんなふうに自分を責め続けていたんですか……?」彼にとって、私は恩人の遺した大切な娘であり、同時に自分の罪を永遠に突きつけてくる鏡のような存在だった。だからこそ、今日という日だけは私を遠ざけようとしたのだろう。「俺は、ただの人殺────────」「馬鹿なこと言わないでください……っ!」私の痛切な叫びが雨空に響き渡ると、智哉さんが微かに息を呑むのが分かった。私の中で、悲しみよりも先に強烈な怒りが沸き起こった。それは私自身に向けられたものでも、彼に向けられたものでもなく、彼をこんなにも長い間縛り付け、苦しめ続けてきた過去の理不尽な運命に対する怒りだった。「お父さんは、誰かに縋られたからって嫌々自分の命を削るような、そんな弱い人じゃありません! 自分の意志で、お義母様を救いたいと心から願っていたはずです!」彼はずっと自分が無理をさせたせいだと、己の幼い頃の懇願が父を死に追いやったのだと信じ込んで生きてきたのだろう。自分のエゴが恩人を殺したのだと。けれど、それは父という人間を根本から見誤っている。研究に没頭していた父は、決して他人の強要だけで動くような人ではなかった。困っている人を放っておけず、誰かの笑顔のために自分の知識と人生を捧げられる、優しくて強い人だった。「お父さんがお義母様の薬を必死に作ろうとしたのは……大切なお母様を助けたいって必死に願
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第148話

私を引き剥がそうとする力は全く働かず、数秒の永遠にも似た空白の後、微かに震える彼の両腕が私の背中へと力強く回された。 雨水を吸って重くなったドレスごと私をすっぽりと包み込むように、ひどく苦しげに抱きしめ返してくる。 「……残酷だな、お前は」 私の耳元に落ちたその声は、かつてないほど掠れ、ひび割れていた。 「私が何か気に障ることを…」 残酷という言葉とは裏腹に、私の背中を抱く彼の大きな手にはギリッと強い力が込められていて、まるですがりつくような、ひどく切実で必死な力がこもっていた。 「俺が何年も手放せなかった罰を、そんな言葉で…いとも簡単に奪って……」 声の語尾がひどく情けなく震え、子供のように弱々しい音を立てた。 「元々あなたに罰なんて必要なかったんですよ」 彼は私の肩に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らさないように必死に奥歯を噛み締めていた。 「そんなふうにお前の口から肯定されてしまったら。俺はもう、自分を責めることすら、できなくなるだろうが」 これからは、自分自身を許し、前を向いて生きていかなければならない。 遅すぎるぐらいだけど。 「えぇ、是非そうしてください」 私たちは降りしきる雨の中、互いの存在を確かめ合うように強く抱きしめ合っていた。けれど、精神的な救済がどれほど温かいものであっても、物理的な環境の過酷さが変わるわけではない。静寂と安堵の時間が流れる中、彼の大きな身体がビクッと大きく跳ねたかと思うと、雨音を破って、ひどく間の抜けた音が響き渡った。 「へっくしゅ……っ」 智哉さんの盛大なクシャミ。その音を聞いて、深い感情の海から一気に冷酷な現実世界へと引き戻された。 「あっ、智哉さん、冷え切ってますし、ひとまず車に……」
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第149話

どれくらいの時間が経過しただろうか。周囲を包み込むのは冷たい雨音と、彼から伝わってくる力強い心臓の鼓動だけだった。私の肩に顔を埋めたまま、智哉さんはただ静かに、深く息を吐き出しながら私を抱きしめ続けている。彼はずぶ濡れのままで、これ以上この雨の中に立ち尽くしていたら、本当に倒れてしまう。私は名残惜しさを感じつつも、彼の広い背中を撫でていた手を止め、優しく声をかけた。「智哉さん。そろそろ、車に戻りましょうか」私が耳元でそう囁きかけると、智哉さんの大きな身体がピクリと動いた。けれど、彼は私の腰に回している腕の力をさらに一段階強め、私の首筋にすりすりと額を擦り付けてきた。まるで、まだ動きたくないと駄々をこねる大きな子供のように、彼は声も出さずに小さく首を横に振って見せる。その可愛らしい行動に、心の中でクスッと笑ってしまったけれど、彼の身体の冷え具合は冗談抜きで深刻だ。私は彼の背中をぽんと軽く叩き、もう少しだけ現実的な言葉で彼を諭そうと試みた。「いくらなんでも、ずぶ濡れのままでは限界ですよ。絶対に寒いはずです」私が理詰めで彼の体調を案じても、智哉さんは頑として動こうとしなかった。「このままここにいたら、私まで風邪を引いてしまいますよ……?」その言葉を口にした瞬間、私の腰に巻き付いていた腕が弾かれたようにビクッと解け、智哉さんの身体が私から離れた。勢いよく上げられた彼の顔は水滴で濡れそぼっており、ほんのりと目元が赤く染まっていた。「寒気がするのか」目を大きく見開き、ひどく焦った様子で私を問い詰める彼の姿がおかしくて、そしてどうしようもなく嬉しかった。「いえ。今はまだ大丈夫です」私が笑いながら否定しても、智哉さんの焦りは完全には収まらなかった。彼は眉間に深い皺を寄せたまま、自身の大きく冷たい手のひらを、私の首筋にそっと添えてきた。「……ひどく冷え切っているじゃないか。すまない。お前にまで無理をさせた」
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第150話

冷え切っていた私たちの身体を、暖房の心地よい温風が優しく包み込む。 運転席の黒崎さんが、ミラー越しに安堵の表情を浮かべながら、後部座席の私たちにふかふかの乾いたバスタオルを何枚か手渡してくれた。髪からもスーツからもボタボタと雨水をしたたらせているというのに、智哉さんは受け取ったタオルを迷うことなく私の頭からバサリと被せ、自然な手つきで私の濡れた髪を拭き始めた。 彼の大きな手が、タオルの上から私の頭を優しく撫でるように動く。 「と、智哉さん、私のことは大丈夫ですから、まずはご自身の身体と髪を拭いてください」 私は自分の頭を拭いてくれている彼の手をそっと制止した。 「俺のことはいい。お前と違って、俺はこれくらいで風邪なんて引かない」 ひどく真面目な顔で自分は健康だと言い張る彼の言葉に、私は思わず眉根を寄せてしまった。 「なんですか、その根拠のない自信は」 いくら彼が体力に自信があるとはいえ、氷水のような雨に打たれ続けて無事で済む人間などいるはずがない。 「事実だろう。少し目を離せばすぐに怪我をしたり熱を出したりする、手のかかるお前の方を優先するのは当然だ」 確かに、彼に迷惑をかけてばかりなのは事実だ。けれど、だからといって彼が自分自身を犠牲にしていい理由にはならない。 私は強い決意を持って、頭に乗せられていたタオルをガバッと奪い取った。 「私が嫌なんです」 今度は私が彼の濡れた前髪にタオルを押し当て、少し乱暴に彼の髪を拭き始めた。 智哉さんは完全に虚を突かれたように固まってしまった。普段、誰かに世話を焼かれることのない彼にとって、髪をわしゃわしゃと拭かれるという行為は想定外だったのだろう。 数秒遅れて自身の状況を理解した彼は、慌てた様子で私の手首を掴んだ。 「もういい、自
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