Semua Bab 地方支社で、元セフレの部下になりました: Bab 11 - Bab 20

51 Bab

11.逃げ場のない直属関係

会議が終わっても、陸斗の中では何ひとつ終わっていなかった。資料の束が閉じられ、椅子が引かれ、会議室の空気がゆるむ。斎賀は何事もなかったように次の書類を抱えて立ち上がり、水沢はメモをまとめながら、午後の電話の段取りを口にしている。誰も再会の衝撃に取り残されていない。取り残されているのは、陸斗だけだった。窓の外は相変わらず白い曇り空で、春の明るさだけが空へ薄く貼りついている。暖房の残りが少し乾いた空気を作っていて、喉の奥がやけに渇く。会議室の中は特別に暑くも寒くもないのに、陸斗の内側だけが妙に熱を持っていた。成田征司は、もう次の仕事へ視線を向けている。それが腹立たしかった。何事もなかった顔で資料を閉じ、何事もなかった声で指示を出し、何事もなかったように場を整えていく。あの夜を知らない人間にしか見えない顔だった。あるいは、本当に知らないのかもしれない。自分にとっては忘れられない夜でも、相手にとっては数ある一夜のひとつでしかなかったのかもしれない。そう考えるたびに、胸の奥に鈍い熱が溜まっていく。会議室を出る流れに遅れないよう、陸斗も資料を抱えて立ち上がった。足元は普通に動く。返事もできる。歩く速度も乱れていない。外から見れば、少し緊張しているだけの新任社員だろう。そうやって平静を保ててしまうことが、余計に腹立たしい。会議室を出たところで、水沢が振り返った。「三沢さん、そのまま席に戻って大丈夫です。午後の同行資料、あとでまとめて持っていきますね」「ありがとうございます」「昼までに一回、朝比奈フーズの現状だけ目を通しておいてもらえると助かります。部長案件なので」部長案件。その言い方の自然さが、陸斗にはまたきつかった。この支社では、仕事の流れそのものが征司へ繋がっている。誰かが確認を待ち、誰かが資料を上げ、誰かが判断を仰ぐ。その導線の中心にいる男が、あの夜の相手であることは、陸斗以外には何の意味も持たない。だからこそ逃げ場がない。席へ戻る途中、斎賀が別の資料を持ったまま脇を通った。「三沢さん」短く呼ばれて、
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-30
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12.春の朝、机上では届かない

朝、目が覚めた瞬間に、昨日の声がまだ耳の奥に残っていることを、陸斗は認めたくなかった。カーテンの隙間から入る光は明るいというより白く、部屋の中の輪郭だけを冷たく浮かび上がらせていた。四月に入ったはずなのに、新潟の朝はまだ春の柔らかさを十分には持っていない。薄い布越しにも分かる曇天の気配と、窓際に寄るだけで感じる外気の冷えが、ここが東京とは違う場所なのだと、起き抜けの体へ無遠慮に触れてくる。布団から起き上がり、洗面台の前に立つ。鏡に映る顔は、思ったより平静だった。寝不足の色は少しある。それでも、崩れて見えない程度には整っている。そういう顔を作るのがうまくなってしまったことに、朝から軽く腹が立った。昨日、成田征司に姓で呼ばれた。その事実だけが、喉元に小さな棘のように残っている。名前も知らなかった相手に、今は部下として当然のように呼ばれる。その距離のねじれをまだ体が処理しきれていないのに、鏡の中の自分はただ出勤前の会社員の顔をしている。考えるな、と陸斗は思う。考えたところで何も変わらない。今日からは仕事だ。あの男がどう思っているかも、覚えているのかどうかも、今この時点では何ひとつ確かめようがない。ならせめて、自分のやるべきことくらいは普通にこなすべきだ。そう頭では分かっているのに、ネクタイを締める指先が、昨日よりわずかに慎重になる。外へ出ると、風が冷たかった。晴れていればまだ違ったのかもしれないが、空は一面に白く曇っている。青さを隠した光が街の上に薄く広がり、ビルの窓も道路も、どこか温度の低い色をしていた。春の朝のはずなのに、空気は軽くない。コートの襟元へ入ってくる風は細く鋭く、歩き出した足元からじわじわと体温を奪っていく。駅までの道は、昨日よりほんの少しだけ見慣れたはずだった。信号の位置、朝早くから開いている店、通勤の流れ。けれど、まだ自分の街にはなっていない。何を見ても、借りものの景色の中を歩いているような感覚がある。ここで働くことになった現実だけが先に決まり、生活のほうはまだ後ろからついてきていない。支社の建物が見えてくる頃には、手のひらが少し冷えていた。自動ドアが開き、外気とは違う室内
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-01
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13.荷物の向こうに人がいる

扉が開いた瞬間、空気の質が変わった。冷たい、というより、温度の低いものが何層も重なっている感じだった。外の四月の風とも違う。搬入口から出入りした冷気、コンクリートの床に溜まった朝の冷たさ、奥の冷蔵区画から漏れてくる乾いた低温、その上に段ボールと梱包テープの匂い、濡れたパレットの木の匂い、薄い油の気配が混じっている。耳に入ってくるのは機械の一定の駆動音と、台車の車輪が床を擦る音と、少し離れた事務所で鳴る電話の保留音だった。資料で読んだ単語なら知っている、と陸斗は思った。物流、品質対応、納品確認、温度管理。けれど目の前にあるものは、そのどれか一つではなかった。荷札の貼られた段ボールが積み上がり、ラベルの色で便が分かれ、誰かが伝票の束を片手に走り、別の誰かが声だけで数量確認をしている。情報が、書類の上みたいに順番に並んでくれない。斎賀は一度も立ち止まらず、事務所の奥へ向かった。「久住さん」呼ばれて顔を上げた男が、まず目についた。体格が大きい。太っているわけではなく、長年この場所の荷物と空気の中で働いてきた体だった。防寒ベストの下にワイシャツとネクタイを着ているが、袖の上げ方も、ペンの差し方も、机に片手を置く重さも、本社の人間とは違う。年齢は四十代半ばほどだろうか。顔に疲れはある。けれど目だけは妙に速かった。電話の受話器を肩に挟んだまま、机の上の伝票、斎賀の持つファイル、その後ろに立つ陸斗まで、一息で見ている。「はいはい、分かってる。十一時半の便には間に合わせる。ただ、そのまま積むな。温度ロガー見てからだ」電話口の相手へそう言ってから、久住は受話器を置いた。「本社から来たの、こいつか」斎賀が短く頷く。「三沢です」陸斗は頭を下げた。「今日から地域開発で」「久住。品質と物流」それだけだった。歓迎の言葉も愛想もない。ただ名乗り返しただけなのに、ここではそれで十分らしい。久住はすでに次の紙へ手を伸ばしながら、斎賀に言った。「朝比奈、現物まだ見てないだろ」「今からです」「じゃあ先にこっちだ。冷凍
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-02
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14.数字の外へ出る

午後、支社を出るときも、空の色はまだ晴れ切らなかった。白っぽい曇り空が低く広がり、四月のはずの光を薄く鈍らせている。午前中よりは少しだけ風がやわらいでいたが、やはり軽くはない。コートの前を閉じるほどではなくても、外気はまだ春より冬の名残に近い感触を残していた。午前の物流拠点でのやり取りが、陸斗の中にまだざらついたまま残っている。荷物だけ見んな。久住に言われたその一言は、思った以上に深く引っかかっていた。伝票、ラベル、納期、温度管理。そうした項目は資料の中に整理されている。整理されているはずなのに、実際の現場では、そのどれもが人の動きや判断の順番に絡みついていた。理解したとはまだ言えない。ただ、自分が見ていた“正しそうな判断”が、あの場所ではあまりに薄かったことだけは否応なく突きつけられた。それでも、陸斗の中にはまだ机上の理屈へ戻ろうとする癖が残っていた。朝比奈フーズ。その名前を頭の中でなぞれば、数字と条件と販路の組み合わせとして、まだどこか整然と見えてしまう。冷凍惣菜。地場原料の加工。OEM。県外展開の余地。伸ばし方を考える余白。そんなふうに組み直せば、理解しやすい。理解しやすい形へ戻してしまいたい気持ちが、まだ自分の中にある。だが、午前の件がその整い方を少しだけ信用できなくしていた。社用車の後部座席へ乗り込むと、斎賀が運転席に座り、征司は助手席へ入った。陸斗は一瞬だけ眉を寄せる。二人きりではない、それだけで少しだけ息はしやすい。それでもこの並びは落ち着かなかった。征司の横顔が、斜め前にずっと見えてしまう。エンジンがかかり、車が支社の駐車場を静かに出る。車窓を流れていく新潟の午後は、東京の再開発エリアとはやはり違っていた。空が近い。道が広い。建物の密度はそこそこあるのに、全部が同じ速度で光っている感じがない。生活の匂いが道路のあちこちへ混ざっている。住宅、配送車、小さな工場、少し古い事務所、春先のまだ薄い樹木。都市でありながら、土地の広さと季節の残り方がむき出しだ。「朝比奈フーズ、初めてですよね」運転しながら、斎賀がバックミラー越し
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-03
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15.成田部長の仕事

朝比奈フーズの打ち合わせ室は、工場の中より少しだけ暖かかった。暖房を切るにはまだ早い時期なのだろう。壁際に置かれた古い空調機が低く鳴り、乾いた空気を静かに吐いている。窓の向こうには白っぽい曇り空が広がり、午後の光はあるのに、景色の色温度は低いままだった。工場側からかすかに機械の振動が伝わってきて、会議室のテーブルの上の紙を、ごくわずかに落ち着かないものにしている。陸斗は椅子に浅く腰掛け、目の前の資料へ視線を落としていた。午前に見た荷物と伝票と電話の流れが、まだ頭のどこかに残っている。冷えた床の感触も、久住の低く太い声も、荷物の向こうに人がいるのだと知ってしまったときの鈍い痛みも、完全には薄れていなかった。なのに午後はもう次の段階へ進んでいる。原料も設備も季節のブレも抱えた会社が、今度は会議室で条件と予定の話をしている。その切り替わりの速さに、陸斗のほうだけがまだ追いつけていない気がした。向かいには湊が座っている。工場の中で見たときより、今のほうが表情はやや硬い。親しみやすい顔立ちなのに、実務の席に着くとその目元は途端に軽さを失う。隣には社長がいて、少し離れた位置に現場責任者らしい年配の男性が座っていた。斎賀は陸斗の隣にいて、征司はテーブルの上座でも下座でもない、ちょうど話の中心が自然に集まりやすい位置に座っている。最初は静かな確認から始まった。朝比奈フーズ側が現状の生産状況を共有し、斎賀が支社側の確認事項を挟む。数量、納期、包装仕様、切り替えラインの負担、温度管理の条件。どれも陸斗が資料で読んできた言葉だ。けれど工場を見たあとでは、同じ単語の響き方が午前よりずっと重い。「現行の二SKUに加えて、県外向けの新規分を今月内に乗せる話ですよね」湊が資料をめくりながら言った。「やれなくはないです。ただ、その場合、包材の切り替え頻度が上がるので、今のラインだと歩留まりが読みにくくなります」社長が続ける。「特に今の時期は原料がまだ落ち着いていませんから。春先は毎年ぶれますが、今年は特に少し読みにくい」斎賀が淡々と頷いた。「支社としては、首都圏の導線を止めたくないんです
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-04
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16.本社の理屈、支社の手触り

朝比奈フーズから支社へ戻るころには、午後の光はさらに白く薄まっていた。晴れていればまだ違ったのかもしれない。だが新潟の四月の空は、今日も結局、春らしい明るさだけを上から落として、その下の空気までは軽くしてくれない。車を降りた瞬間、外気は午前よりわずかに緩んでいるはずなのに、頬に触れる感触はまだ冷たかった。工場の中にあった原料と蒸気と包装資材の匂いが、ふと衣服の繊維に残っている気がして、陸斗はコートの前を無意識に整えた。朝比奈で見たものが、まだ頭の中で収まりきっていない。原料の水分の違いひとつで火入れが変わり、火入れが変わればラインがずれ、ラインがずれれば人の配置も納期も変わる。資料の上では、歩留まりや処理能力や利益率として並んでいた数字の裏に、それだけ多くの現実が重なっていることを、今日だけで何度も見せつけられた。久住の言葉も、湊の視線も、征司の短い声も、その全部がまだ胸の内に引っかかっている。それでも支社へ入れば、そんなこととは無関係に仕事はもう次へ進んでいた。自動ドアが開いた瞬間、乾いた室内の空気と、電話の音と、人の短い会話が一度に耳へ入る。誰かがコピー機の前で紙を揃え、別の誰かが荷物の受け取りに出る。水沢は総務の席のほうへ早足で向かい、斎賀は戻ってすぐ別件の書類を受け取っていた。現場から帰ってきた人間に休止線を引いてくれるほど、この支社の時間は優しくない。征司はすでに部長席の近くで別件の電話に入っていた。低い声が、少し離れた位置から短く落ちる。「その条件だと先に現場が詰まる。数字はあとで見る」たったそれだけで、相手が何を言っているのかまで想像できる気がして、陸斗は視線を逸らした。見たくないのに耳が拾う。そのことにまた腹が立つ。自席へ戻り、鞄を置き、朝比奈の資料を机へ出す。紙の端を揃え、メモ帳を開き、ペンを右へ寄せる。手元だけはいつもどおり整っていく。整えながら、少しずつ別の考えが頭の中で形になり始めていた。朝比奈の件は、現場のしんどさをただ受け止めるだけでは終わらない。どこかで本社へ説明し、条件を通し、販路として成立させる必要がある。そのためには、現場の事情を見た上で、それでも通る
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-05
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17.少しだけ、見方が変わる

夕方が近づくにつれて、支社の音は少しずつ低くなっていった。昼間はあれほど絶え間なく鳴っていた電話も、一本ごとの間が伸びる。コピー機の吐き出す紙の音はまだ聞こえるが、ひっきりなしではない。誰かが日報らしい書類をまとめ、別の誰かが伝票の束を指で弾きながら数を合わせている。声はある。人の気配も消えてはいない。けれど、朝から昼にかけての押し流されるような速度とは違い、仕事が今日という一日の終わり方へ向かって整えられていく空気があった。窓の外は、四月の夕方にしては白かった。晴れ切らないまま日が落ちかけていて、空は淡く明るいのに冷たい。新潟へ来てから何度も見ているはずの色なのに、今日のその白さは少しだけ違って見えた。単にどんよりしているのではなく、空気の層の中に、まだ冬の名残が薄く残っているような色だった。陸斗は自席でパソコンの画面を見たまま、しばらく手を止めていた。頭が疲れている。だが、本社にいた頃の疲れ方とは違った。東京本社で一日を終えた夜は、いつも頭の内側だけが熱を持っていた。会議室の白い光、言葉の選び方、誰が何を言わなかったか、誰の責任がどこへ流れたか。そういうものが神経の表面をこすり続けて、帰るころには顔の内側にまで疲労が張りついている感じがした。今日はそれに加えて、別の疲れがあった。工場の中の温度。冷えた床。原料の匂い。包装資材のざらついた手触り。物流拠点で見た荷物の列と、保留音の鳴る電話。社用車のシートに沈んだ体の重み。仕事が頭の中だけではなく、体にまで触れてきた一日だった。シャツの内側にまで、現場の空気がまだ少し残っている気がする。それが新鮮だとは思わない。ただ、厄介だった。午前の物流対応、午後の朝比奈フーズ、打ち合わせ室の張りつめた空気、久住のぶっきらぼうな一言、斎賀の短い否定、征司の低い声。バラバラだったものが、今になって勝手につながっていく。会議資料の中ではそれぞれ独立した項目に見えていたものが、現場ではどこかひとつでも順番を誤れば別のものまで歪ませる。それを一度見てしまったせいで、もう前みたいに綺麗な整理の中へ戻れない気がする。画面上には、朝比奈の条件整理のために開いたファイルが並んでいた。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-06
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18.夏の終わりの引き継ぎ

八月の終わりの朝は、まだ夏の顔をしていた。日差しは強い。アスファルトも、駅前のガラスも、朝から白く熱を返している。けれど、歩き出してしばらくすると、頬を撫でる風の中にほんの少しだけ乾いたものが混じっているのが分かった。真夏の、肌にまとわりつくような湿気ではない。熱を抱えたまま、どこかで季節が次へ移ろうとしている気配だった。陸斗は駅へ向かう人の流れに混じりながら、ネクタイの結び目へ無意識に指を触れた。この土地の朝にも、春よりはだいぶ慣れた。信号の位置も、どの時間にどの店が開くかも、駅前を抜ける風の通り方も、もう身体が覚え始めている。だからといって、ここが自分の居場所になったとはまだ思えない。ただ、毎朝ここを通る人間としての輪郭だけが、少しずつ馴染んできただけだ。支社の自動ドアが開くと、外の熱とは別の空気が迎えた。電話の音。コピー機の低い駆動音。誰かが荷物の受領印を探し、誰かが短い声で納期を確認している。春のころはただ雑多で、近くて、息苦しいだけに思えたその朝の気配が、今はもう少し分かるものになっていた。どこで誰の仕事がつながり、誰がどの流れを止めないように動いているのか、前よりは見える。水沢が総務の席の近くで書類を抱えたまま、誰かに確認を返している。斎賀はもう外出用のファイルを手元に揃えていて、久住の声が物流側の奥で一度だけ大きく響いた。相変わらず洗練されてはいないし、言葉も柔らかくはない。だが、それぞれが自分の持ち場を落とさずに回していることだけは、今は分かる。自席へ着くと、机の上に朝比奈フーズ関連のファイルが置かれていた。競合比較、県外向け販路の整理、現行パッケージの見え方、リニューアル候補の仮メモ。表紙を見ただけで、胸の奥が小さく強張る。これまでの自分なら、こういう資料は“横で見るもの”だった。工場を見て、物流の流れを覚えて、現場の言葉を聞いて、それを理解するところまでが自分の役割だと思っていた。けれど今日は違うらしい。斜め向かいの席で、水沢がファイルを閉じながらこちらへ視線を向けた。「朝比奈さんの件、本格的に動きますね」軽い言い方だった。世間
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-07
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19.工場の言葉を覚える

九月に入っても、朝の陽射しはまだ夏の名残をきちんと持っていた。支社へ向かう道のアスファルトは、朝の早い時間からもう薄く熱を返している。けれど、歩いているうちに頬を撫でる風の中へ、八月までとは違う乾きが混じっているのが分かった。汗を呼ぶ暑さの奥に、ほんの少しだけ抜ける気配がある。真夏の重さが、見えないところでゆっくり削られ始めているような朝だった。陸斗は改札を抜け、駅前の白い光の下を歩きながら、手にしたメモ帳の角を親指でなぞった。昨日の夜、寝る前まで朝比奈フーズの資料を見返していた。競合商品、販路の傾向、売り場での見え方、現行ラインの負荷、包材変更に伴う切り替え時間。数字も言葉も、一応は頭に入れているつもりだった。だがそれで足りると思っていないのは、自分でもよく分かっていた。分からないことが多すぎる。それがまず先にある。ロット、歩留まり、ライン、温度帯、包材、版、便。単語だけならもう聞いた。意味もおおよそは知っている。けれど現場でそれがどう優先され、誰の判断でずれ、どこで止まるのかまでは、まだ身体で掴めていない。資料の上では整理できるのに、現場へ行くと急に自分の知識が薄くなる。その感覚が悔しくて、陸斗は今朝も少し早めに支社へ向かった。支社の朝は、相変わらず最初から動いていた。電話が鳴り、コピー機が低く紙を吐き出し、誰かが荷物の受領印を探している。水沢は総務の席の近くでファイルを抱えたまま、短い確認を二つ同時に処理していた。少し離れた場所では、斎賀が朝比奈関連らしい書類を広げ、久住の声が物流側の奥で一度だけ大きく響く。春のころ、この雑多な近さはただ息苦しかった。今も好きなわけではない。だが、どこで誰が何を回しているかくらいは、前より見えるようになっている。その小さな変化に自分で気づいてしまうことが、少しだけ面倒だった。自席へ着き、パソコンを開く前にメモ帳を取り出す。昨日書き足した項目の横へ、朝確認したいことをいくつか追加した。包材変更の判断はどこで切るか。ライン停止の最小単位。朝比奈側の社内決裁と現場判断の境目。物流へ影響が出るのはどの段階か。書きながら、こんなふうに整理している時間が、まだ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-08
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20.届かない資料、届く順番

九月の午後は、まだ夏の熱をきちんと残していた。支社の窓の外は白く明るいのに、空気の湿りは真夏ほど重くない。日差しは強い。けれど、ビルのあいだを抜ける風の奥に、わずかな乾きが混じり始めている。季節だけが少し先へ進み、体感だけがまだ追いついていないような午後だった。陸斗は会議スペースの端の席で、ノートパソコンと紙の資料を広げたまま、最後の確認をしていた。競合商品の一覧。県外量販向けの売価帯。朝比奈フーズの既存商品の見え方。リニューアル候補の訴求軸。販路ごとの相性。数字の並びも、見せ方の骨格も、きれいに通っている。少なくとも資料としては、かなり整っていると思った。ここまで組み上げる感覚は、久しぶりに手に馴染んだ。本社にいた頃、自分はこういう仕事をしていたのだと、資料を整える手の動きそのものが思い出させる。論点を抽出し、比較し、余分な言葉を削り、相手が判断しやすい形へ組み替える。誰が見ても流れが分かるように、順番と重心を整える。その作業だけを切り出せば、いまだって自分の得意な領域のはずだった。しかも今回は、ただ机の上の数字だけで作ったわけではない。朝比奈の工場も見た。ラインの切り替えの癖も、包材の都合も、原料のぶれも、現場の人間がどこで顔をしかめるのかも、以前よりは分かっている。物流で荷物の向こうに人がいることも知った。なら、前よりはずっと現場に寄った形で作れているはずだと、そう思いたかった。ファイルを閉じる直前に、もう一度だけ表紙を確かめる。朝比奈フーズ 県外向け冷凍惣菜リニューアル案(叩き台)。叩き台、という言葉にしては中身はかなり整っている。そう思う一方で、朝比奈へ持っていく段になって急に不安が増した。支社の中で見返しているうちはよかった。自分の机と支社の空気の中では、資料はたしかに筋が通って見えた。だが、これを外へ持ち出し、朝比奈の事務所で湊の前に置くと考えた途端、整いすぎていることそれ自体が少し怖くなる。自分はまだ、本社の空気を引きずっているのかもしれない。その疑いが、資料を持つ手をわずかに重くした。「行くぞ」斎賀の短い声がして、陸斗は顔
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-09
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