LOGIN東京本社で“正しさ”を貫いた結果、新潟支社へ飛ばされた三沢陸斗。そこで直属の上司として現れたのは、忘れたくても忘れられない、あの一夜の相手・成田征司だった。 だが征司は何も知らない顔で、完璧な上司として振る舞う。屈辱と反発を抱えながらも、陸斗は地方の現場で仕事の本当の重みを知り、冷たいはずの男の静かな庇護に揺さぶられていく。 すれ違ったまま再会した二人が、仕事と傷を通してもう一度向き合う、再会オフィスBL。
View More笑いの余韻は、意外なくらい長く部屋に残った。さっきまでクッションを抱えてソファの端へ逃げていた陸斗は、ようやく少しだけ身体の力を抜いたものの、頬の熱だけはまだ引かないままだった。征司の前では隠しようがないと分かっていても、今さら平然とした顔に戻ることはできない。食後のテーブルの上には空いたグラスと、つまみの袋と、途中で食べるのをやめたナッツの小皿が置きっぱなしになっている。テレビの音はいつの間にか小さくなり、窓の隙間から入る四月の夜気が、火照った肌にだけやさしく触れていた。征司はソファにもたれたまま、まだ少し笑みの名残を口元に残している。その顔を見るだけで、陸斗はまた恨めしくなる。「……そんなに面白いですか」「面白いというより」「より、何ですか」「可愛い」あまりにも迷いなく言われて、陸斗は反射でクッションを抱き直した。「部長」「ん」「そういうの、急に言わないでください」「急じゃないだろ」「急です。十分急です」征司はそこでまた小さく笑ったが、さっきみたいにからかう色はもう薄い。その笑いが静かに落ちたあと、部屋の空気も少しずつ深くなっていくのが分かった。春の夜は、冬みたいに鋭くない。けれどやわらかいだけでもなくて、何かを隠すには少し冷たい。笑ったあとの沈黙は重くないのに、ふとした拍子に相手の視線だけがくっきり見える。陸斗はクッションを膝に置いたまま、テーブルの端に視線を落とした。気まずいわけではない。ただ、さっきの「忘れるわけないだろ」が、思った以上に深く残っている。あの夜は、忘れられるような夜ではなかった。その言葉の意味を、胸の奥がまだゆっくり受け取り続けていた。何か言ったほうがいいのかもしれない。そう思うのに、下手なことを言えば今のやわらかい静けさを壊しそうで、陸斗は口を開けずにいた。沈黙は続く。けれど以前の自分なら耐えられなかったはずのその時間が、今はただ少し熱を持って流れていくだけだった。征司がグラスをテーブルに置く。氷が小さく音
食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ
食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」
四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ
会議が終わっても、陸斗の中では何ひとつ終わっていなかった。資料の束が閉じられ、椅子が引かれ、会議室の空気がゆるむ。斎賀は何事もなかったように次の書類を抱えて立ち上がり、水沢はメモをまとめながら、午後の電話の段取りを口にしている。誰も再会の衝撃に取り残されていない。取り残されているのは、陸斗だけだった。窓の外は相変わらず白い曇り空で、春の明るさだけが空へ薄く貼りついている。暖房の残りが少し乾いた空気を作っていて、喉の奥がやけに渇く。会議室の中は特別に暑くも寒くもないのに、陸斗の内側だけが妙に熱を持っていた。成田征司は、もう次の仕事へ視線を向け
「部長、戻られました」その一言が落ちた瞬間、会議室の空気がほんの少しだけ締まった。誰かが手元の資料を揃える。椅子の脚が床を擦る音が短く鳴って止む。さっきまで執務室のほうから聞こえていた電話の声も、ここまで来ると遠い。曇り空の白い光が窓に薄く貼りつき、会議室の空気を平板に照らしている。春の午前の明るさのはずなのに、色温度は低いままだった。暖房の名残が少しだけ室内に残っていて、それがかえって喉の奥を乾かせる。陸斗は資料の束を手にしたまま、自分でも分からないうちに背筋を伸ばしていた。理由のある緊張ではなかった。まだ顔を見てもいない
席に着いてしばらくしても、陸斗はまだこの職場の流れの中へ自分が入れていないことを、嫌というほど思い知らされていた。パソコンは立ち上がっている。支給された内線表も、フロア図も、今日の簡単な流れを書いた書類も机の上に並んでいる。名刺は左手側、筆記具は右、資料は手前から読む順に揃えた。整えすぎだと自分でも思う。思うのに、そうしていないと落ち着かない。手元の角度だけでも正しておかなければ、自分だけがこの場で浮いている感覚に耐えられなかった。曇り空の光が窓から白く差し込んでいる。春の明るさではあるのに、空気の色はどこか冷たい。フロアの照明と混じったそ
自動ドアが開いた瞬間、外の冷たさとは別の空気が頬に触れた。暖かい、というほどではない。春先の朝を相手に、暖房を完全に切るにはまだ少し早い、そんな中途半端な温度だ。外から入ってきたばかりの冷気と、室内に溜まった乾いたぬくもりが混ざり合い、境目の曖昧な空気になっている。東京本社のロビーみたいな、管理された清潔さはない。その代わり、人が実際に働いている場所の匂いがした。紙とインク、湯を沸かしたあとの金属の気配、届いたばかりの荷物の段ボール、朝いちばんのコーヒーの薄い香り。そういうものが、わずかに入り混じっている。正面に受付らしいカウンターはあるが、本社ほど厳格で