LOGIN東京本社で“正しさ”を貫いた結果、新潟支社へ飛ばされた三沢陸斗。そこで直属の上司として現れたのは、忘れたくても忘れられない、あの一夜の相手・成田征司だった。 だが征司は何も知らない顔で、完璧な上司として振る舞う。屈辱と反発を抱えながらも、陸斗は地方の現場で仕事の本当の重みを知り、冷たいはずの男の静かな庇護に揺さぶられていく。 すれ違ったまま再会した二人が、仕事と傷を通してもう一度向き合う、再会オフィスBL。
View More金曜の夜の東京は、どこまでも明るかった。
再開発されたばかりの街区を囲うガラスの壁面は、夜になっても昼の名残を手放さない。高層ビルの低層階にはまだ人の気配が満ち、エントランスの白い床には、行き交うスーツ姿の影が硬質な光の中に薄く映っていた。遅い時間だというのに、ロビーの空気は整いすぎていて、温度まで管理されているようだった。少し甘いルームフレグランスの匂いと、磨かれた床の乾いた清潔さが、ここが“ちゃんとしている人間”のための場所だと無言で告げている。
その自動扉を抜けたとき、三沢陸斗はようやく背中に入っていた力を少しだけ抜いた。
もっとも、抜いたつもりになっただけで、実際には肩のあたりに張りついた緊張はほとんど落ちていなかった。ネクタイの結び目はきれいな形を保っているのに、喉元には一日中締めつけられていた痕のような鈍い圧迫感が残っている。会食の席ではうまく笑った。先輩の話にも適度に相槌を打ち、部長の何気ない冗談には柔らかく笑い、グラスが空きかければすぐに気づいたふりをした。新人として正解に近い振る舞いを、ひとつも外さなかったはずだった。
けれどビルの外へ出た瞬間、口角だけで持ち上げていた笑顔は、あっさり落ちた。
夜気はまだ春の名残を残しているのに、都会の空気らしくどこか乾いていて、頬に当たると紙で撫でられるような感触があった。大通りにはタクシーのライトが途切れず流れ、信号待ちの人々は皆、それぞれに行く場所が決まっている顔をしている。見上げれば、ガラス張りの高層階にはまだいくつもの執務室の灯りが残っていた。ついさっきまでそこにいたのだと思うと、胸の奥に細い疲労が刺さる。
本社に配属されて、まだ日が浅い。
それでも周囲は、もう彼を“新人だから仕方ない”とは見てくれなかった。期待されているという言い方はきれいだ。だが実際には、隙を見せる猶予が最初から少ないということでもある。資料の理解が早いこと、受け答えが整っていること、空気を読めること。そういう扱いやすい長所が先に見つかれば見つかるほど、その次に失望される余地も大きくなる。
陸斗はそれを、配属から数週間で嫌というほど覚えた。
誰かに露骨に責められたわけではない。むしろ皆、驚くほど親切だった。
「三沢くん、飲み込み早いね」
「助かるよ、気が利くし」
「その感じなら、すぐ戦力になるんじゃないか」
その言葉のひとつひとつは、間違いなく好意のあるものだった。だからこそ厄介だった。褒められるたびに、次もそうでいなければいけない気がした。失敗しても許される新人ではなく、最初から期待に応える前提で見られる新人。その立場は、思っていたより息が詰まる。
駅へ向かう人の波から少し外れ、陸斗は歩道の端に寄った。街路樹の若い葉が、上から落ちるビルの灯りを受けて白っぽく光っている。スマートフォンを取り出して画面を見る。通知は溜まっていなかった。同期のグループチャットには、さっき別れたばかりの誰かがもう次の飲みの写真を上げている。絵文字の並ぶ軽い会話は、少し前まで自分もそこに混ざっていたはずなのに、今は妙に遠かった。
家に帰れば、ひとりだ。
まだ片づけきれていない段ボールの隅に、クリーニング帰りのシャツがかかったままの部屋。慣れない土地ではないが、帰るたびに生活の輪郭が薄いと感じる部屋。風呂に入って、明日のためにスーツを整え、眠って起きればまた月曜日みたいな顔で働く。その繰り返しを、まだ始まったばかりなのに、もう少しだけ先まで見てしまう。
帰宅するには早かった。けれど、誰かに会いたいわけでもなかった。
それがいちばん厄介だった。
誰かに慰めてほしいのではない。愚痴を言いたいわけでも、酒に付き合ってほしいわけでもない。ただ、自分の中で張りつめたままになっている何かを、少しだけ壊したかった。きちんとしている新人、期待に応える若手、感じのいい後輩。そういうものを全部きれいに着たまま、一度だけ暗い水の中に潜って、息を止めたいような気分だった。
大通りの向こうから笑い声が聞こえた。会社帰りらしい数人組が肩を寄せて信号を渡っていく。誰かが言った冗談に、遅れてもうひとりが吹き出す。明るい音だった。その明るさが、自分にはうまく乗りこなせない乗り物のように感じられる。
陸斗はふと、昼間の会議室を思い出した。ガラス張りの壁の向こうで、先輩たちが資料をめくりながら平然と数字を動かし、リスクや段取りを言葉ひとつで整理していく光景。そこにいる自分は確かに憧れの中にいるはずだった。けれど、憧れの中にいることと、その場に馴染んでいることは別なのだと、このところ何度も思い知らされる。
自分はここでやっていけるのか。
その問いを、陸斗は声に出したことがない。出せば途端に負けた気がするからだ。大丈夫です、やれます、問題ありません。その形に整えた返事を先に覚えてしまったせいで、本音の居場所がなくなっている。
歩き出すと、革靴の先がアスファルトを一定のリズムで打った。まっすぐ駅へ向かえばいいだけなのに、陸斗の足は少しずつ大通りから逸れていく。理由はうまく説明できなかった。ただ、あの明るすぎる通りにいると、自分の顔までガラスに映ってしまいそうで嫌だった。整えた髪、疲れていないふりをした目元、結び目の崩れていないネクタイ。そういう表面だけが、この街ではあまりにも簡単に映ってしまう。
一本、道を曲がる。
それだけで空気が少し変わった。
メインストリートの照明は遠くなり、店の看板の色が急に低くなる。明るさが消えたわけではないのに、光の種類が変わるのだ。白く均一な照明ではなく、赤や青や、意味ありげににじむ色が足元の濡れたような路面に映る。ビル風の乾いた冷たさが薄れ、代わりに人の体温と、食べ物と、酒と、どこか古い排気の匂いが混じった夜気が肌にまとわりついた。
陸斗は足を止めた。
このあたりに来るのは初めてではない。けれど、ひとりで夜に歩くのは初めてだった。会社の誰かと通った飲食店の並ぶ通りから、さらにもう一本細い道へ入る。店の扉はどれも近く、会話や笑い声が壁を通して滲んでくる。見上げれば雑居ビルの看板が重なり合い、知らない店名の文字が積み重なっている。そのどこにも、自分の名前は関係していない気がした。
だから少しだけ、楽だった。
誰も自分を“本社配属の三沢くん”として見ていない。期待の若手でも、感じのいい新人でもない。ただ夜の中を歩く、スーツ姿の男のひとり。その匿名性に、喉の奥がかすかにほどける。
もっとも、その感覚のすぐあとに、別の熱が浮いた。
陸斗は昔から、自分が男を見る目を持っていることを、完全には否定できずにいた。誰かの顔立ちや声や、肩幅の線を、同年代の友人たちとは違う角度で見てしまう瞬間がある。学生の頃は、それを冗談の延長みたいに扱えた。きれいな顔だ、雰囲気がある、そういう言葉に紛らせることもできた。けれど社会人になり、スーツ姿の男たちに囲まれて働くようになってから、その感覚は以前より輪郭を持つようになった。
それを肯定してしまうには、まだ材料が足りなかった。
男に惹かれる、と自分の中で言い切るには、どこか怖さがあった。では女が好きなのかと問われても、それもはっきりしない。ただ、誰にも知られないまま一度だけ確かめてみたい、と思ったことはあった。その欲求が好奇心なのか、孤独なのか、あるいはただの疲労なのか、陸斗自身にも分からなかった。
少し前、深夜まで残業した日の帰りに、検索画面を開いたことがある。消しては打ち直した単語の履歴は、結局すべて消した。誰かに見つかるはずもないのに、画面の向こうから自分のほうが見返される気がして怖かった。
今夜、その消したはずの言葉が不意に頭の中へ戻ってくる。
明るい街から外れた先に、そういう場所があることくらい、知らないわけではなかった。匿名で、名前も過去も持ち込まず、ただ一晩だけ何かをやり過ごすための場所。そこでは明日が始まる前に、すべてを切り離せるのだと、半分は噂で、半分はネットの断片で知っていた。
馬鹿だ、と陸斗は思った。
こんな格好で。会食の帰りのまま、まだネクタイも外さず、髪も整えたまま。そんな自分が、そこへ向かおうとしていること自体が、ひどく滑稽だった。けれど滑稽だと思う気持ちの裏に、足を戻せない理由がもう生まれ始めている。
このまま帰って、ベッドに横になっても、きっと眠れない。
今夜の会食で誰が何を言ったか、誰がどう笑ったか、自分がどのタイミングでグラスを置いたか、そんなことばかりを思い返して、うまくやれたはずなのに少しずつ削られていく。そうやって土曜の朝を迎えるくらいなら、いっそ別の疲れ方をしたかった。
誰にも知られず、明日にはなかったことにできる。
その考えが、胸の奥で静かに形を取る。
そうだ、たった一晩だ。誰も自分を知らない場所で、名前も肩書も使わずに済むなら、それは失敗ですらない。後悔したとしても、朝になれば切り離せる。会議室にも、ロビーにも、大通りのガラスにも持ち込まなくていい。何も残らないなら、少しくらい壊れても大丈夫だと、自分に言い聞かせられる。
そう思った瞬間、陸斗は気づいた。
確かめたいのだ。
自分がどこまで平気なのか。男に触れられても何ともないのか、それとも本当に何かが動くのか。そういうことを知りたい気持ちがある。そして同時に、壊したいのだ。きちんとしていなければならない自分を、一度だけ、誰の責任にもならないところで乱したい。
その欲求の混ざり方が、ひどく危うかった。
細い路地の入口で、ふと足元に視線を落とす。革靴はまだ新しく、磨かれたつま先に看板の赤が鈍く映っている。仕事帰りの男の足元だ。昼間の自分から続いている証拠のような靴なのに、その先だけが別の方向へ向かおうとしていることが、妙に可笑しかった。
通りすぎる男がひとり、陸斗をちらりと見た。
露骨ではない、ほんの一瞬の視線だった。けれど、こちらが立ち止まっている理由まで量られた気がして、陸斗は反射的に背筋を伸ばす。逃げたいような、試されているような感覚。胸の奥で、まだ若い体の熱がかすかに上がる。その熱のわりに、手先だけは冷えていた。
路地の先に、目的の場所はあった。
想像していたほど派手ではない。大きな看板が出ているわけでもなく、知らなければ通りすぎるような雑居ビルの一階。その入口の脇にだけ、意味を知る人にだけ分かる程度の控えめな灯りがある。扉は閉じていて、中の様子は見えない。ガラスではなく、外から切り離すための材質でできた扉だった。
陸斗はしばらくその前に立った。
心臓の音がやけに近い。耳元ではなく、シャツの内側で鳴っている感じがする。喉の奥が乾いているのに、唾を飲み込むとその動きまで大きく意識される。自分は何をしようとしているのか、今さらのように遅れて実感が押し寄せた。
引き返せる。
まだ間に合う。何も始まっていない。駅へ向かって歩き出せば、それだけで終わる。明日になれば、ただ少し酔って、疲れて、変なことを考えた金曜の夜として処理できる。
だが、その“処理できる”という未来の薄さに、陸斗はかえってうんざりした。
どうせまた同じ顔をして月曜を迎えるのだ。期待される新人として、整った声で返事をし、笑うべき場面で笑う。その繰り返しの中に、この夜の息苦しさまできれいに畳んでしまったら、どこにも逃げ場がない。
逃避だと分かっていた。
好奇心だけではない。衝動だけでもない。疲れているからだ。少し、自暴自棄になっている。そう認めたうえで、それでも扉の前から動けないのは、自分の中の何かがもう決まっているからだった。
手を伸ばす。
指先が扉の金属に触れた瞬間、その冷たさがひどく現実的で、陸斗は短く息を呑んだ。昼間、会議室のドアノブに触れたときの感触と似ているのに、向こう側に待っているものはまるで違う。その差が、妙に可笑しくて、少しだけ笑いそうになる。笑えるような気分ではないのに、そうでもしなければ立っていられなかった。
ネクタイの結び目を指先で少しだけ緩める。
喉の締めつけがわずかに緩み、そこに夜の湿った空気が触れた。オフィス街の乾いた風とは違う、生身の体に近い温度の空気だった。湿り気を帯びた夜は、もう後戻りしなくていいと背中を押してくるようでもあり、今ならまだ引き返せると試してくるようでもある。
扉の前で最後に一度だけ、周囲を見た。
誰もこちらを気にしていない。少なくとも、そう見えた。笑い声は少し離れた店の中から聞こえ、路地の上には看板の色が淡く滲んでいる。大通りの白い明るさは、もうほとんど届いていない。この暗がりは、あちら側の世界からきれいに切り離されている。だからこそ、自分はここへ来てしまったのだと陸斗は思った。
名前も肩書も使わなくていい場所。
誰にも知られず、明日にはなかったことにできる場所。
その前提だけを抱きしめるようにして、陸斗は扉を押した。
店内へ一歩足を踏み入れた瞬間、光が一段落ちる。
外の街とは別の、低く沈んだ暗さが皮膚に触れた。音も、匂いも、視線の流れも、一瞬で変わる。陸斗は喉の奥で小さく息を呑んだ。
来てしまった、とそのとき初めて、はっきり自覚した。
席に着いてしばらくしても、陸斗はまだこの職場の流れの中へ自分が入れていないことを、嫌というほど思い知らされていた。パソコンは立ち上がっている。支給された内線表も、フロア図も、今日の簡単な流れを書いた書類も机の上に並んでいる。名刺は左手側、筆記具は右、資料は手前から読む順に揃えた。整えすぎだと自分でも思う。思うのに、そうしていないと落ち着かない。手元の角度だけでも正しておかなければ、自分だけがこの場で浮いている感覚に耐えられなかった。曇り空の光が窓から白く差し込んでいる。春の明るさではあるのに、空気の色はどこか冷たい。フロアの照明と混じったその白さが、机の上の紙を平たく照らしていた。外の気温は低かったが、室内にはまだ暖房の名残が少しだけ残っている。乾いたぬくもりと、出入り口から入る薄い冷気が混ざって、落ち着かない温度になっていた。その中で、支社の仕事はもう普通に動いている。誰かが電話で納期を確認し、別の誰かが伝票の束を片手に通りすぎる。営業らしい男が、急ぎの資料を抱えてコピー機の前に立ち、事務の席からは受発注の確認らしい数字が短く飛ぶ。東京本社より部署の境目が曖昧だ。営業だけ、事務だけ、物流だけ、と綺麗に切り分けられている感じがない。紙の流れも、人の動きも、同じ場所で近く混ざっている。そのぶん、自分がまだどこにも接続されていないこともよく分かった。本社にいた頃なら、異動初日でも、まずは誰に挨拶し、どの会議室へ行き、何の説明を受けるかがもっと滑らかに決まっていた。整えられた導線があって、その流れに乗っていれば、とりあえず新人なり異動者なりの位置には収まれた。ここは違う。もちろん放置されているわけではない。必要な書類も揃っているし、水沢も感じよく案内してくれた。けれど、馴染ませるためのレールのようなものはない。席に着いた瞬間から、ここでどう動く人間かを見られている。そんな感覚が、静かにまとわりついて離れなかった。「その件、成田部長の確認待ちです」少し離れた席から、誰かの声が聞こえた。陸斗は反射的に顔を上げる。年配の男性社員が、電話の受話器を肩に挟んだまま、手元のメモへ赤ペンを走らせていた。声は
自動ドアが開いた瞬間、外の冷たさとは別の空気が頬に触れた。暖かい、というほどではない。春先の朝を相手に、暖房を完全に切るにはまだ少し早い、そんな中途半端な温度だ。外から入ってきたばかりの冷気と、室内に溜まった乾いたぬくもりが混ざり合い、境目の曖昧な空気になっている。東京本社のロビーみたいな、管理された清潔さはない。その代わり、人が実際に働いている場所の匂いがした。紙とインク、湯を沸かしたあとの金属の気配、届いたばかりの荷物の段ボール、朝いちばんのコーヒーの薄い香り。そういうものが、わずかに入り混じっている。正面に受付らしいカウンターはあるが、本社ほど厳格ではない。人を止めるための場所というより、誰が来たかをすぐに把握するための位置にあるだけのように見えた。その向こうには事務スペースが続いている。電話の音が短く鳴り、コピー機が用紙を吐き出し、誰かが低い声で納期の確認をしている。別の場所では、荷物を受け取ったらしい社員が軽く礼を言っていた。どの音も大きくない。だが静かすぎることもなく、仕事と人の気配が近いまま混ざっている。陸斗は一歩中へ入り、その空気に包まれた。広さの問題ではないと思う。東京本社はもっと人が多く、もっと音もあった。それでもあちらは、人と人との間に透明な仕切りが何枚も立っているような感じがした。視線も声も整えられていて、誰もが必要以上には踏み込まない。その整い方が、かえって冷たかった。ここは逆だ。物理的な距離より先に、人の視線と仕事の流れが近い。誰が入ってきたか、どんな顔をしているか、何を持っているか。そういうものが、会話の端や視線の流れの中で自然に拾われていく場所なのだと、立った瞬間に分かった。見られている、と陸斗は思う。露骨ではない。誰もあからさまにじろじろ見るわけではないし、足を止めてこちらを窺うような真似もしない。ただ、それぞれが手元の仕事を続けながら、一度は陸斗の存在を目に入れている。その自然さが余計に居心地悪かった。陸斗は鞄を持ち直し、軽く息を吸ってからカウンターへ近づいた。その動作ひとつにも、自分で分かるくらい気を使っている。歩幅、姿勢、口元の形。慌てて見えないように、けれど気取って見えないよう
新幹線が減速しはじめると、窓の外の景色が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめた。東京を出たときから、空の色は少しずつ変わっていた。晴れているわけではないのに明るさだけはある、あの乾いた白さではない。もっと低く、鈍く、湿り気を含んだ白だ。遠くに見える建物の色も、駅へ近づくにつれて少しずつ沈んでいく。四月に入ったばかりのはずなのに、春の軽さより、冬の名残のほうがまだ街に近い気がした。車窓に自分の顔がうっすら映る。眠れていない目だった。昨夜は早めにベッドへ入ったはずなのに、実際にはほとんど眠れなかった。寝返りを打つたび、天井の白さが妙に近く感じられて、頭の中では同じ言葉ばかりが何度も巡っていた。異動。配置転換。現場理解。経験になる。そんなふうに整えられた言葉を、思い出すたびに胃の奥が重くなる。ネクタイの結び目を指先で軽く押さえる。降りる前に結び直したそれは、鏡で見たとおり崩れていない。シャツの襟も、コートの肩も、見た目だけなら問題ない。ひどく疲れているようには見えないだろう。少なくとも、そう見えないように整えてきた。発着を知らせるアナウンスが車内に流れる。平板な声なのに、東京で聞くそれより少し低く響く気がした。陸斗は膝の上に置いた鞄の持ち手を握り直し、ひとつ息を吐いた。本当に来てしまったのだと思う。その感覚は、東京のマンションを出たときより、車内で駅名を見たときより、こうして減速する車体の揺れの中でいちばんはっきりした。もう後戻りはできない。日帰り出張でもなければ、研修でもない。東星マテリアル新潟支社。そこが今日から自分の職場になる。窓の向こうを流れるホームは、東京駅や品川駅のそれとは少し違って見えた。人の数が少ないわけではない。ただ、動きがいくらか緩やかで、音が空へ逃げていく。密集した熱気で押されるような感じがない。その代わり、外の空気の冷たさだけが、ガラス越しにも伝わってくる気がした。ドアが開き、陸斗は立ち上がった。荷物を肩に掛ける。スーツの上からコートを整え、周囲とぶつからないように気をつけながら通路へ出る。そういう動作はもう染みついていた。どんなときでも、まず自分を整えて、人に不快を与えない顔をする。東京本社に配属されてから
薄い光で目が覚めた。夜のあいだは曖昧に沈んでいた室内が、朝になると急に輪郭を持つ。カーテンの隙間から入り込む白んだ光が、ベッドの端も、散らした衣類も、枕の皺も、何ひとつ見逃さない顔で照らしていた。昨夜は柔らかく見えた白いシーツが、朝の光の下ではひどく無機質だ。体温の残りかたまで冷静に示してくるようで、陸斗はしばらく目を開けたまま動けなかった。喉が乾いている。頭はぼんやりしているのに、体の感覚だけが妙に近い。触れられた場所や、息の近さや、あの静かな視線の温度が、思い出そうとしなくても肌の内側から勝手に浮いてくる。熱の名残というより、昨夜の自分を思い出してしまう恥ずかしさのほうが強かった。隣は空いていた。けれど、完全に冷えてはいない。ついさっきまで誰かの重みがあったことを、シーツの皺と、少し残った温度が無言で教えてくる。その気配に、陸斗は胸の奥をきゅっと掴まれたような気がした。浴室のほうから、水音がかすかに聞こえていた。規則的な音だ。蛇口をひねる音、グラスか何かの触れ合う小さな音、そしてまた短い水音。生活の延長みたいなその音が、昨夜の出来事を急に現実へ引き戻す。ここは夢の中ではなく、ホテルの一室で、外ではもう朝が始まりかけている。金曜の夜の勢いも、路地の湿った空気も、暗い店の匿名性も、全部ここで一度終わってしまったのだと、その水音だけで分かる。陸斗は枕へ顔を少し埋めた。こういう朝を迎えるつもりではなかった。いや、そもそも朝までの輪郭をきちんと考えていなかったのかもしれない。昨夜はただ、明日に持ち越さないために踏み込んだのだ。誰にも知られず、明日にはなかったことにできる夜。その条件にしがみついてここまで来た。なのに朝になった今、何ひとつなかったことにできる気がしない。起き上がると、白いシーツがさらりと擦れた。自分の動きだけがやけに大きく聞こえる。床へ落ちたシャツを拾い上げようとして、指先が一瞬止まった。昨夜のままの衣類が、やけに生々しい。ネクタイは椅子の背に掛かっていた。きれいに掛けられていることが、少しだけ腹立たしい。雑に脱ぎ捨てたままのほうが、まだ軽く済んだかもしれないのに。