Semua Bab 地方支社で、元セフレの部下になりました: Bab 41 - Bab 50

51 Bab

41.通ったもの、残ったもの

資料が閉じられる音は、思っていたよりずっと小さかった。誰かが深く息を吐くわけでも、安堵を口にするわけでもない。会議室の空気は、ただ一段だけ重みを失って、次の仕事のほうへ静かに傾いただけだった。包装会社の担当が手元のメモを見ながら段取りを確認し、湊が現場責任者へ短く視線を送り、神谷は修正後の利益試算について淡々と確認事項を口にする。篠宮の笑顔も最後まで大きくは崩れなかったが、その目元にあった余裕の角度だけが、わずかに変わっていた。通ったのだと、陸斗が本当に理解したのは、その場がもう“説得の場”ではなく、“動かすための場”に切り替わったのを見たときだった。誰も拍手をしない。褒めもしない。けれど、さっきまで案だったものが、今は全員の手の中で次の作業へ分解され始めている。高リスク便の指定、仕様変更の限定範囲、除外するSKU、先方への説明順、再試算の期日。紙の上で組んだ線が、それぞれの持ち場へ現実の仕事として流れ込んでいく。それが何より確かだった。「三沢さん、先行変更分の共有版、あとで一度ください」湊が立ち上がり際にそう言った。以前なら、征司に向けていたはずの確認だった。少なくとも、支社側へひとまとめに渡されて終わっていたはずの言葉だ。けれど今は違う。陸斗の作った整理を、陸斗の持ち場として受け取っている。その前提が、短い一言の中に当たり前みたいに置かれていた。「分かりました。朝比奈さん側の現場向けに、順番だけ少し変えた版を先に出します」言いながら、自分の声が落ち着いていることに陸斗は少し遅れて気づいた。喉の奥はまだ乾いているのに、言葉は今までみたいに引っかからない。返事が、ただの受け答えではなく、次の仕事の一歩としてちゃんと前へ出ている。湊は短く頷いた。「そのほうが助かります。現場には先に、どこが変わるかだけ落としたいんで」包装会社の担当も鞄を持ちながら言葉を足す。「うちも限定変更ならライン組めそうです。全面よりずっと現実的ですし。あとは番号管理だけ、支社さん側と詰めさせてください」支社さん側。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-30
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42.春はまだ遠い

朝の光だけが、少しだけ季節を先へ進めていた。路肩に寄せられた雪は、もう降ったばかりの白さではない。車に踏まれ、泥を吸い、ところどころ灰色に濁っている。排水口へ向かう細い水の筋が、まだ冷たいアスファルトの端を黒く濡らしていた。風は冷たいままだった。頬に触れるたびに、ここがまだ冬の内側にあることを思い出させる。それでも空の色だけは、真冬の白さとは少し違っていた。曇り空の向こうに、わずかに色の戻り始めた明るさがある。春と呼ぶには早い。けれど、冬のままだと言い切るにも、少しだけためらう。その中途半端な光が、いまの自分にもよく似ている気がして、陸斗はすぐに考えるのをやめた。支社の自動ドアが開くと、外とは別の乾いた暖かさが頬に当たる。暖房の匂いに、コピー機の熱と、誰かが入れたばかりのコーヒーの香りが混じっていた。電話はもう鳴っている。短い返事。紙の擦れる音。遠くで久住の声が少し大きめに上がり、水沢が書類の束を抱えて小走りに通り過ぎる。斎賀は受話器を肩で挟んだまま、別の相手へ何かを確認していた。いつもの朝だった。本当に、それだけのことなのに、陸斗は自分でも気づかないまま少しだけ息をついた。以前なら、この近さと音の多さに肩が強張った。人の気配が途切れない場所は、それだけで息苦しかった。けれど今は、それぞれの音が何の流れの中にあるのか、自然に分かる。どの電話が急ぎで、どの声が確認で、どの足音がただの移動なのか。理解しようと構えなくても、体のほうが先に拾っている。「おはようございます」水沢が戻りがけにそう言って、封筒を一つ差し出した。「朝比奈さんの午前共有分です。倉庫側の追記、昨夜のうちに入ってました」「ありがとうございます」受け取りながら中を開くと、外装条件の欄と便指定の箇所に付箋が貼られていた。どこを先に見ればいいのか、説明がなくても分かる印のつけ方だった。「包装会社さんの修正見積もりも来てます。斎賀さんが先に見てますけど、三沢さんにも回すって言ってました」それだけ言って、水沢はすぐ別の机へ向かった。三沢さんにも。それはごく普通の共有でしかないのに、陸斗は
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-31
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43.戻れる場所

朝の光が、ほんの少しだけやわらかくなっていた。それでも外へ出れば、頬に触れる空気はまだ冷たい。路肩には溶け残った雪が灰色の塊みたいに寄せられ、その脇を雪解けの水が細く流れていた。夜のあいだに凍っていたらしい水たまりが、踏むと薄い膜を割るように鈍く鳴る。空は白く、低い。春と呼ぶにはまだ遠い色だったが、真冬の硬さだけはもう少しほどけている。支社へ向かう道を歩きながら、陸斗はコートのポケットの中で指先を丸めた。年が明けてからこっち、仕事の流れは少しずつ落ち着きを取り戻していた。朝比奈フーズの案件はまだ完全に着地したわけではないが、少なくとも今は、崩れるかどうかだけを見張っていた頃とは違う。毎日どこかで細かい調整は続いている。それでも、前みたいに今日一日で全部が壊れるかもしれない、という張りつめ方ではない。そのぶん、自分の中に残っているものの輪郭が、前より見えやすくなってしまった。支社の自動ドアが開くと、暖房の少し乾いた空気と、コピー機の熱、それに誰かが淹れたばかりのコーヒーの匂いが混ざって流れてきた。電話の音。紙の擦れる音。水沢の足音。遠くで久住の声が少し大きく上がり、斎賀が短い返事を返す。その全部が、もう馴染みの音になっていることに、陸斗は最近ようやく気づき始めていた。以前なら、ただ雑多で、近くて、息苦しいだけだった。今は、誰が何を回している音なのかが分かる。理解しようと身構えなくても、体のほうが先に拾っている。「おはようございます」水沢がすれ違いざまにそう言って、小さく会釈した。「おはようございます」返すと、水沢はそのまま二歩進んでから、思い出したように振り返った。「三沢さん、十時から面談入ってましたよね。会議室二、空けてあります」「……あ、はい」「多分、人事の件だと思います。資料、机に置いておきました」それだけ言って、水沢はまた別の机へ向かった。ごく普通の事務連絡のはずなのに、陸斗は一瞬だけ足を止めた。十時からの面談。昨日の夕方にも予定表へ入っているのは見ていた。人事確認、とだけ書
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-01
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44.欲しかったはずのもの

面談のあとで渡された薄い資料の束は、鞄の中に入れてしまえば見えなくなるはずだった。それなのに、その紙の重さだけが、午後に入ってもずっと肩のあたりへ残っていた。机に向かってメールを返しているときも、朝比奈フーズから上がってきた確認事項に目を通しているときも、頭の奥では別の言葉が途切れずに反復している。本社復帰。来期体制。今の経験を活かして。必要としている。どれも、以前の自分なら喉の奥で何度もなぞったに違いない言葉だった。むしろ、自分のほうが先に欲しがっていた言葉だと言っていい。だからこそ、簡単には消えてくれない。画面に映る表計算の数字を追いながら、陸斗は一度だけ手を止めた。カーソルが同じセルの上で明滅している。背後ではコピー機が一枚ずつ紙を吐き出し、どこかで電話の保留音が鳴っていた。誰かが給湯スペースでポットの蓋を開ける音がして、水沢の足音がその横を通る。支社の午後は、真冬ほどの張りつめ方ではないにせよ、いつも一定の速度で回っている。その流れの中に、自分の席も、資料も、返すべきメールも、もう自然に組み込まれている。それが今さら妙に重かった。「三沢さん、朝比奈さん向けの更新版、先方へ投げる前に一回だけ見ます?」横から水沢が声をかけてきた。いつもの調子だった。仕事の区切りを確認するだけの、ごく普通の声だ。「はい。あと五分で形にします」「じゃあ、私は包装会社側の文面だけ整えておきますね」それだけ言って、水沢はまた自分の机へ戻った。踏み込んでこない。その距離の取り方がありがたくて、少しだけ情けない。支社の人間は、必要なときに必要な分だけ声をかける。慰めも、探りも、余計な励ましもない。そういうところに何度も助けられてきたことを、陸斗は最近ようやく認め始めていた。認めたところで、じゃあこの場所に馴染んだと言い切れるほど素直でもない。だが少なくとも、ここで交わされる声の温度が、自分の働き方の一部になっているのは確かだった。本社にいた頃の自分は、こういう音を欲しがっていただろうかと、ふと思う。多分、欲しがってい
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-02
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45.選ぶのはお前だ

人が減ったあとの支社は、昼間とは別の建物みたいだった。コピー機はもう止まり、電話も鳴らない。暖房の乾いた匂いと、誰かが飲み残したコーヒーの薄い香りだけが、広い執務室のあちこちへ残っている。窓の外は黒い。街灯に照らされた雪解けの水が、駐車場の端で鈍く光っていた。昼間に少し緩んだ空気も、夜になるとまだ冬の手触りへ戻る。陸斗は自席で一度だけ深く息を吐いた。画面には開いたままのメールがある。朝比奈フーズ向けの確認事項も、包装会社の返答待ちの一覧も、まだ途中だ。やるべき仕事は残っている。なのに、それより先に片づけなければならないことが、ずっと胸の奥で引っかかっていた。本社復帰の打診。面談室で聞いた言葉は、日が暮れても薄くならなかった。むしろこうして人が減り、音が減り、仕事の勢いが少し落ちたぶんだけ、輪郭を増している。戻れる。しかも、以前の自分なら、迷う理由なんてひとつもなかった形で。それなのに今は、鞄の中の資料の重さみたいに、その話がただ重いだけで、少しも軽くなってくれない。視線を上げると、部長席の明かりがまだ落ちていなかった。征司はモニターを見ている。片肘を机につき、指先で何かを追うみたいに資料へ視線を落としていた。いつもの姿だった。昼間と同じ、必要なことだけを見て、必要なことだけを片づけていく顔。あの顔を見るたび、最近は少しだけ息が詰まる。雪の夜のことが片づいていないからだけではない。仕事で隣に並ぶようになってからの征司の沈黙や短い一言のほうが、前より深く残るようになってしまったせいだ。だから、本社復帰の話をするなら、今日しかないと思った。これ以上黙っていれば、別の意味で逃げることになる。立ち上がってから部長席へ向かうまでの数歩が、妙に長かった。「……今、少し時間、いいですか」征司が顔を上げた。眼鏡の奥の視線はいつも通り静かだった。「あと十分で切れる」「十分でいいです」答える声が、自分でも少し硬い。征司は短く頷いて、開いていたファイルを閉じた。会議室の隅の
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-03
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46.いてほしい

夜の支社は、昼間よりずっと広く見えた。日中は誰かの声や電話やコピー機の音で埋まっていた空間が、定時を過ぎると急に余白ばかりになる。暖房の残り香と、長く使われた紙の乾いた匂いだけが、机と机のあいだに薄く残っていた。窓の外はもう暗い。駐車場の端に寄せられた雪の山は黒く沈み、その足元で雪解けの水だけが街灯を拾って鈍く光っている。春は近いはずだった。天気予報はそう言い、日中の光も少し前よりやわらかくなっていた。けれど夜になると、空気はまだ容赦なく冷たい。吐く息が白く見えるほどではないが、指先に触れる風は、冬の終わりを簡単には信じさせてくれなかった。陸斗は自席の画面を落として、ゆっくりと息を吐いた。この数日、頭の中のどこかにずっと、あの夜の会話が引っかかっている。選ぶのはお前だ。そう言われた瞬間の痛みは、まだきれいに抜けていない。少しでも引き止めてくれたら楽だった。残れと言ってくれたら、その言葉を言い訳にできた。けれど征司はそうしなかった。今の自分なら、自分で選べるはずだと、逃げ道ごと差し出さずに返してきた。それが信頼だと、頭では分かっている。分かっているからこそ、痛い。誰かのせいにできなくなった選択は、思っていたより重かった。仕事中はそれを忘れていられる。資料を見ていればいい。電話を取ればいい。朝比奈フーズの確認事項を詰めていれば、余計なことを考えずに済む。だが、人が減り、音が減り、夜が深くなると、どうしてもそこへ戻される。自分は、どこで立ちたいのか。戻れる場所がある。それは本気で魅力的だ。昔の自分なら、考えるまでもなかった。なのに今は、その魅力と同じだけ、この支社の机や、現場の声や、雪の中で組み直してきた仕事の手触りが胸に残っている。そして、その中心に征司がいることも、もう見ないふりができない。鞄へ手を伸ばしかけたとき、部長席のほうで椅子が動く音がした。顔を上げると、征司が立っていた。ジャケットを椅子の背へ掛け、袖口を一度だけ直す。その何でもない所作に、陸斗の胸がまた少しだけ狭くなる。最近はこういう些細な動きほど、目に入ってしまう
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-04
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47.残る、選ぶ

朝の空気はまだ冷たかった。三月の終わりだというのに、吐く息は薄く白く、路肩に寄せられた雪はまだ完全には消えていない。けれど真冬の白さとは違っていた。雪解けの水が縁石に沿って細く流れ、夜のあいだに凍りかけたそれが、朝の弱い光の中で少しずつほどけていく。空も、冬の底で見上げていた重い灰色ではなく、どこか奥のほうで色を戻しかけている。春はまだ遠い。けれど、冬だけに閉じていた時間は終わりに向かっている。陸斗はコートの襟を指で整え、しばらく立ち止まって空を見た。胸の奥にあった迷いは、ここ数日で何度も形を変えた。欲しかったはずのものを前にして足が止まったことも、自分でも信じがたかった。以前の自分なら、考えるまでもなかったはずだ。本社へ戻る。東京へ戻る。名誉を取り返す。失敗を上書きする。そういう言葉だけで、十分に救われたと思えただろう。それでも今の自分は、そこへ手を伸ばせない。伸ばせない理由を、最初は征司ひとりに押しつけかけた。あの人がいるから迷うのだと、そう言ってしまえれば楽だった。けれど違うと、ここまでの時間が何度も思い知らせてきた。支社の机。冬の朝のコピー機の音。水沢の足音。斎賀の短い確認。久住の大きな声。朝比奈フーズの工場の匂い。冷凍倉庫の白い息。雪の中を走る便の遅れ。電話越しの、現場が静かに嫌がる温度。そういうものをひとつひとつ知ってしまったあとでは、戻ることはもう、ただ「上」へ戻ることではなくなっていた。今の自分が、どこで立ちたいのか。問うべきはそれだけだと、ようやく腹の底で分かり始めている。陸斗は歩き出した。靴底が薄く濡れた舗道を踏む。まだ刺すような冷たさの残る朝だったが、今日はそれが不思議と嫌ではなかった。決めなければならないことがある朝の空気は、妙に澄んでいる。支社へ入ると、いつもの音が迎えた。コピー機が一度低く唸り、誰かの引いた椅子の脚が床を擦る。水沢がファイルを抱えてカウンターの向こうを横切り、久住の「その便、先に押さえといてくれ」という少し大きめの声が奥から飛ぶ。斎賀が電話口で短く要件だけを切っている。暖房の名残の乾いた空気の中で、もう四月を前にした慌ただしさが
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-05
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48.春の週末、部長の部屋

四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-06
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49.部長と呼ぶ夜

食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-07
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50.忘れてなかったんですか

食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-08
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