All Chapters of 愛人の死に耐えられなかった夫、お前が死ねばよかったのにと言い残し自死ー妻は回帰したー: Chapter 131 - Chapter 140

140 Chapters

第131話

一方、夏目家を出た淳子は、軽い足取りで愛する人の住む家へと向かっていた。トランクに軽く荷物をまとめた彼女は、電車に乗り、隣町にある彼の家へと急いでいた。(ようやく、ようやく彼と一緒になれるんだわ……!)夏目家を追い出されたことを、彼女はもはや何とも思っていなかった。今心の中を埋め尽くすのは、ただ愛しき人と一緒になれるという喜び。由利や洋介はもちろん、あれほど溺愛していた紫苑ですら、今の淳子にとってはどうでもいい。淳子は結局のところ、子供よりも男が大切な人間だった。彼女は自身の行いを全て洋介のせいにして正当化していたが、元々性格が歪んでいたのだ。そんな彼女であれば、たとえ愛する人の子だったとしても愛せないのではないだろうか。「――聡!」彼女は事前に持っていた合鍵を使い、最愛の彼の家の扉を開けた。淳子と彼は、夏目家から少し離れたところにある小さなアパートで半同棲状態だった。洋介が仕事から戻る夜は夏目家に帰り、昼間は彼と暮らすアパートにいた。彼は夜勤が多い人であるため、昼は家にいることが多い。今日も絶対にあのアパートで自分を待っているはずだと、彼女は確信していた。突然家を訪れた淳子に、彼は驚いていた。「じゅ、淳子……どうしてここに……!?」「私ね、夫と離婚したの!だから一緒になりましょう、聡!」「り、離婚!?冗談だろう!?」突如彼女の口から飛び出した離婚という二文字に、彼は衝撃を受けていた。当然だろう、彼らの不適切な関係は今に始まったことではなく、なんと二十年にも及ぶ。二十年間ずっと離婚しなかった女が突然離婚したと言い出したのだから、信じられないのも無理はない。淳子は驚く彼に思いきり抱き着いた。「聡ったら、私が夫と離婚したのがそんなに嬉しいのね?仕方ないわ、私もあの人と離婚できるとは思ってなかったから」「……淳子、本当なのか?」淳子は彼の目をじっと見つめ、もちろんよと頷いた。見れば見るほど、彼女がかつて愛した彼によく似ている。(もし、あの人が年を取ったらこんな感じなんだろうな……)淳子は何も言わず、愛する人の面影を感じさせる彼を抱きしめた。特に秀でたところのない彼を愛する理由は歪んでいたが、本気の恋であることに変わりはない。淳子はこの日だけをずっと待ち望んでいた。しかし、洋介が自分を手放すわけがないと心のどこかで諦めていた。突然
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第132話

子供ができる――と言った彼の目からは、ほんの僅かに喜びのような感情が見て取れた。洋介の子を妊娠したときの淳子とは似ても似つかない、希望に満ちた瞳。それではまるで、彼がこれから生まれてくる子の誕生を心から喜んでいるようではないか。いや、実際にその感情は間違ってはいないのだろう。――ただ、淳子が信じたくなかっただけだ。「子供ってどういうこと?一体誰に子供ができたというのよ?」「恋人だよ。数年前に付き合い始めた二十代後半の女の子なんだけど……」「恋人ですって……?」淳子は恋人と聞き、ショックを受けた。自分にとって愛するのは彼だけで、彼もまた自分だけを愛しているのだと信じて疑わなかったからだ。そんな彼に別の恋人がいるとは、初耳だった。淳子は彼を問い詰めた。「ちょっと待ってよ、聡。あなたの恋人は私なはずでしょう?どうして他に女なんて作るのよ!ありえないわ!」「恋人だなんて……淳子、君には夫がいるだろう?」彼は淳子の厳しい視線を避けるように、彼女から目を背けた。向き合いたくない、面倒だという感情が伝わってくる。彼はこんな目をする人だったのか。いつも優しかったはずのその顔からは、今は彼女に対する嫌悪感が露わになっていた。「夫はいたけれど……あの人に恋愛感情なんて最初からなかったのよ。それはあなたも知っているはずでしょう?」淳子は洋介と結婚することになった経緯を、聡に全て話していた。彼は彼女の悲惨な過去を同情し、涙までしてくれた。「ああ、知っているよ」「知っていて、どうしてそんなに酷いことができるというの!?他に女がいるなんて知らなかった!あなた、私の気持ちを利用したのね!?」彼女のその言葉に、聡はゆっくりと首を横に振った。騙されたのかと思っていたが、それは淳子の勘違いだった。――そのとき、彼女は彼の本当の気持ちをようやく知ることとなった。「君の気持ちを利用したわけじゃないよ。俺も出会った頃は君のことを愛していたし、本気で幸せにしたいと思っていた。でも、次第にその気持ちは冷めていった」「ど、どうしてよ!?私が年老いたから、若い女に走ったってわけ!?」聡はその問いに対しても違う――とキッパリ言い切った。「俺はもう限界なんだよ。夫とはいつか離婚するからと言い続けて二十年――君は言葉だけで俺を縛り付けておいて、一切夫との関係を終わらせようとし
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第133話

聡が出て行ったあと、淳子はアパートに一人取り残された。彼女は床にへたり込むように座っていた。その瞳には、少し前までたしかに宿っていた希望がすっかり消えていた。この状況で希望を抱けというほうが難しいだろう。ついさっき、彼女は最愛の男性に捨てられた。「どうして……どうしてなの……」一人になった部屋で、淳子は何度も繰り返し呟いた。彼の本音を聞いたあとでも、彼女はまだ振られてしまったことを信じられずにいた。いつも彼女を心から愛し、大切にしていたはずだった聡が自分を捨てるとは思ってもいなかった。「ああ……聡……」このアパートはかつて、二人で一緒に暮らすために彼が購入したものだった。出て行ったということは、少なくともこの場所は淳子に与えるという意味だろうか。淳子は聡に新しい恋人がいたということも全く知らなかった。そういえば、たしかにここ数年は夜の営みを求められることがなくなったし、彼が家にいないことも増えていた。他に女ができたことが理由だとは、淳子も想像していなかった。「アイツ……何年もの間私を裏切っていたのね……」愛は憎しみへと変わり、彼女は自分を制御することができなかった。洋介との離婚も済ませてしまった今、淳子に失うものなど何もない。彼女はあらゆる手を使い、聡に接触しようとした。彼の新しい住居や恋人を調べ上げ、そう遠くはないアパートに二人で暮らしているということを突き止めた。その頃、聡は既に恋人と結婚し、既婚者になっていた。その座に収まるのは他でもない自分だったはずが、いつの間にか彼の横には別の女がいる。――その瞬間、二人の姿が、あの日見た元恋人夫婦と重なった。淳子は彼の妻の膨らんだお腹を見た瞬間、彼らの前に飛び出していた。驚く彼女を守るように淳子の前に立ちはだかった彼。淳子はそんな彼の様子など気にも留めず、罵詈雑言を浴びせた。「あなたの夫は最低な男よ!二十年にも渡って不倫していたんだから!」「……何を言ってるんですか?」彼女は聡の過去の行いを今の妻にバラした。彼女と淳子と同時に交際していたことも全て。妻は信じられないようにショックを受けていた。そんな彼らを見た淳子の心は満たされた。泣き出してしまった妻を慰めるように、その胸に抱きしめる彼の姿。彼は憎しみを込めた瞳を淳子に向けた。「淳子……いい加減にしないか……」「元はと言えば
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第134話

騒ぎを引き起こした淳子は周囲の人々により通報され、駆け付けた警察によって捕まってしまった。彼女は悪いのは全て聡だと責任を彼に押し付けたが、手を上げるところを全員が見てしまっている。言い逃れはできず、彼女は警察署に連行されてしまった。「どうして……どうして私がこんな目に遭わないといけないのよ……全てアイツのせいよ……」淳子は留置場で身柄を拘束され、聡を呪い続けた。彼女は聡を平手打ちし、彼に何度も追撃を加えた。さらには止めようとする妻も突き飛ばし、子供は危うく流産するところだったという。あの一件で聡は病院送りとなったと聞いたが、いい気味だ。彼に怪我を負わせることができたというだけでも、淳子の心は楽になった。――そう、全て私を裏切ったあの男がいけないんだわ。報いを受けるのは当然のこと。結局、不起訴となって釈放された彼女は元いた家に戻った。聡と共に長い年月を過ごしたアパートの一室。彼を憎んでいた彼女だったが、ここへ来ると様々な思い出が蘇ってくる。彼のことをこの世界にいる誰よりも愛していた。たとえ夫がいようとも、淳子は彼を想い続けていた。彼女にとって聡は、血の繋がった由利や紫苑よりもずっとずっと大切な存在だったのだ。未だに、彼に拒絶されたことが信じられない自分がいる。何かの間違いではないのかと、まだ心のどこかで彼が戻ってくるのを期待してしまっていた。そんなことあるわけがないという気持ちと、そうであってほしいという気持ち。二つの感情が心の中でごちゃごちゃになり、淳子は自身の気持ちに整理が追い付かなかった。――その結果、淳子はまともな判断ができなくなってしまった。「……そうだわ、きっと彼はあの女に脅されているのよ」そうでもなければ、聡が私を裏切るはずがない。現実を受け止めきれなかった淳子は、激しい思い込みをするようになっていた。あの悪女が聡を脅迫して私から引き離したんだ。彼女は本気でそのような考えを抱くようになった。「……脅されてることがわかったから、すぐにでも彼の元へ行かないと」淳子は立ち上がり、釈放されたばかりであるにもかかわらず、懲りずに彼の元へと向かった。***それからというもの、淳子は元交際相手の聡に対してストーカー紛いの行為を繰り返すようになった。彼の職場は既に知っていたため、退勤するまで外で待ち伏せしたり、家の前をウロついたりも
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第135話

淳子が捕まった頃、由利と紫苑はちょうど自宅でテレビのニュース番組を視聴していた。何気なく見ていた二人だったが、突然出てきたその名前に驚きを隠せなかった。「ストーカーの疑いで坂下淳子容疑者逮捕って……これ、母さんだわ……間違いない……」「そういえば、母さんの旧姓って坂下だったわね」淳子は洋介との離婚が成立しているため、夏目姓から元々の坂下姓になった。顔こそ出てはいなかったが、由利たちには一瞬でそれが母だとわかった。「それも、逮捕されたのはまあまあ近所じゃない。母さんったら、一体何をしていたわけ?」「……どうやら、愛してた不倫相手に捨てられてしまったそうよ」由利の疑問に、紫苑が答えた。母淳子に長年の不倫相手が存在したという事実は、ついこの間知ったことだった。驚く由利とは対照的に、紫苑は母の不倫を知っていたのか、特に衝撃を受けることもなく平然としていた。「紫苑……どうしてそんなこと知ってるの?」「……たまたま噂を耳にしたのよ。近所だし、ここらへんでストーカーしてる女がいるって噂が入ってきたの」「そう……」紫苑は由利と違って近隣住民とも親しくしていた。そんな彼女なら、主婦たちの噂を耳にしていてもおかしくはなかった。「それより姉さん、母さんの裁判に行かない?」「……母さんの裁判?」予想外の提案に、由利は紫苑のほうを向いた。淳子が警察に捕まった今、近いうちに裁判が開かれる。一度目は不起訴となった彼女だが、今度はそうはいかないだろう。ネットの記事によると、女性への殺害予告や家の周りに中傷ビラをばら撒くなどの迷惑行為もしていたみたいだし。(……母さん、そんなことをしていたのね)家を出て行ったと聞いて心配はしていたが、犯罪に手を染めていたとは驚いた。「ええ、父さんは行かないでしょうけど……私たちは最後に母さんに会いに行ってもいいと思うのよ。いくら絶縁されたとはいえ、母さんの娘だっていう事実は変わらないのだし」「そうね……最後だと思って行ってみようかしら」由利は紫苑の提案を受け入れ、母淳子を最後に一目見ることに決めた。***淳子の裁判が開かれ、由利と紫苑はスーツ姿で参加した。ソワソワしながら開廷を待っていると、被告人淳子が扉から中に入ってきた。囚人服を身にまとい、手錠で両手を拘束されている。「母さん……」髪の毛はパサつき、肌はシワと
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第136話

由利と紫苑は母親から背を向け、裁判所をあとにした。最後の最後まで、母淳子は醜く、最悪な人だった。しかし、最後に罵倒されたおかげか、彼女とすっぱり縁を切ることができるような気がする。やはり、裁判に行って正解だったのかもしれない。家に帰ると、紫苑が待っていた父親に告げた。「――父さん、母さんの裁判に行ってきたわよ」「そうか」父は特別な反応を見せることなく、言葉を返した。母の最後の様子が気になることもないようだ。長年裏切られていたから、そうなるのも当然だろうか。(……父さん、前よりもやつれたわね。ご飯食べれていないのかしら)淳子との離婚がきっかけか、父は以前と比べてかなり老け込んだ。最近は母のことを考えないためかわからないが、夜遅くまで仕事をしている。――それほどまでに、母のことを愛していたんだろう。過去の愛の伝え方が正しいとはとても言えないけれど、彼もまた苦しんでいるのはたしかだった。因果応報だと言われてしまえば、その通りかもしれない。当然、由利も紫苑も、父の母への仕打ちを正当化することはできない。母はとても辛い結婚生活だっただろう。彼女の苦しみを考えると、なぜかとてもやるせない気持ちになった。刑務所に行くことになってしまったけれど、彼女を壊したのは紛れもなく父やまともに取り合わなかった警察だったわけで。そのことを知ったせいか、由利は淳子だけを責めることができなかった。そして、そんな二人から生まれたのは、とても複雑だった。きっと母親と二度と会うことはない。しかし、彼女の存在は由利にとって永遠に心に刻み付けられるだろう。(どのようなことがあろうとも、前を向いて生きていかなければならない)由利は決意を固め、父の前から立ち去った。***母が出て行ってからというもの、夏目家は暗い影を落とした。父親は老け込んでやつれ、碧斗も由利もしばらくは心ここにあらず状態だった。長く時間を共にした家族の一人だっただけに、ショックが大きい。平然としていたのは紫苑くらいだった。「姉さん、そんなに落ち込まないでちょうだい。母さんは姉さんにキツく当たっていたでしょう?私はあんな人、いなくなってせいせいするわ」「紫苑……」ある日の夜、紫苑が由利を慰めるように言った。満面の笑みで紡がれたその言葉は、母親を失って悲しんでいるとは思えなかった。「……あなたは、ど
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第137話

その後、由利は紫苑の意味深な視線を避けるように部屋を出て行った。紫苑はというと、そんな姉の姿を面白そうに眺めていた。半分だけ血の繋がった姉は、いつも彼女を楽しませてくれる。他の人間とは違う、この世でたった一人の姉。昔から、紫苑の世界は由利だけでできていた。かなり歪んだ形ではあったものの、深い愛を抱いているのはたしかだった。そのせいか、紫苑は淳子が家を出て行き、刑務所に入ることになっても特に何とも思わなかった。元々由利を傷付けた女だ。たとえ実の母親だったとしても、気にもならなかった。(母さんがいなくなったから、しばらくは平穏な日々を過ごせそうだわ……)紫苑は部屋のソファにドサッと腰を下ろした。口元には、余裕そうな笑みを浮かべている。嫉妬深い紫苑は、愛する由利の傍に誰も寄せ付けたがらなかった。学生時代に彼女を孤立させたのも、碧斗の裏切りを助長したのも、全ては紫苑の仕業だった。紫苑は由利の周りに人がいる状況が気に入らなくて、彼女の悪い噂を流しては人々を遠ざけた。そして、碧斗には薬を盛って中毒状態にし、まともな判断をできなくさせた。碧斗は薬物を求め、紫苑に夢中になった。当然、由利は気付いてもいないだろう。そして、彼女が知らないことは実はもう一つあった。「姉さんは知りもしないんだろうなぁ……前世であなたを殺したのが”私”だっていうこと」衝撃的な事実を口にした紫苑は、前世の記憶を思い浮かべていた。三度の人生において、紫苑はいつも若くして亡くなっていた。死ぬことは悲しくなかったが、由利に二度と会えないことは耐えられそうになかった。死の間際、紫苑はとあることを心配していた。もし、自分が亡くなったら一人残された由利はどうなるのだろうか。両親は彼女を冷遇し、碧斗も薬で正気ではなかった。彼女には親しい友人もいないし、孤独で苦しむのは目に見えている。そうなったのは全て紫苑のせいではあるが、彼女は由利のためにやったことだと自身の行いを正当化していた。自分が死んだら、由利は一人ぼっちになってしまう。紫苑はそんな彼女の身を案じていた。そして、思わぬ行動に出る。『――お願いがあるの。私が死んだ後、姉さんを殺してくれないかしら?』亡くなる少し前、紫苑はある人物に依頼をしていた。紫苑が殺人を頼んだその人物は、かつて彼女に入れ込んでいた男の一人だった。他人に対する
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第138話

紫苑が由利の殺害を依頼した相手は毎回同じ人物だった。つまり、由利は三回も全く同じ人に殺害されているということ。普通なら、心が壊れて正気ではいられなくなってしまうだろう。しかし、四度目の彼女はむしろ強くなっていた。一分一秒も由利を見逃すことなく監視していた紫苑は、そのことに一瞬で気が付いた。(姉さんに前世の記憶があることは最近気付いたけど……)彼女が前の世界での出来事を覚えているなんて、思ってもみなかった。正直、そのせいで都合の悪いことは多い。由利は明らかに自分を警戒しているようだし、彼女も動きづらかった。「まぁ、いいわ。どうせ姉さんは私から逃れることなんてできないんだから」紫苑は由利のいなくなった部屋で一人、ニヤリと口角を上げた。―――このとき、彼女は既に次のターゲットに狙いを定めていた。***どうすればこのくだらないループを終わらせることができるのだろうか。淳子が逮捕されてからというもの、由利は同じようなことを永遠と考えるようになった。「…………碧斗」「由利」久々に彼女の部屋を訪れたのは、もうずっと夫婦の営みをしていない夫の碧斗だった。彼もまた、淳子が出て行ったことに大きなショックを受けていた。(都合が良いわね、私にはあんな言葉を平然とぶつけていたというのに)碧斗は由利に近づくと、労うようにその肩に手を置いた。「由利……今は受け入れられないだろう。部屋でゆっくり休んだほうがいい」「……あいにくだけど、家事が溜まっていて、やらないといけないの」淳子がいない今、夏目家では由利以外に家事をする人間はいない。紫苑は病弱でできないし、碧斗も父も料理なんてしたこともないだろう。(……洗濯物もすごい量だし、そろそろ洗濯機を回さないと。それに最近はずっと出前を頼んでばかりだったわ)長らく機能していなかった夏目家を動かせるのは、もはや由利しかいなかった。「由利、無理しないでくれ。家事は俺が代わりにやるから、君は休んでいていいよ」「…………碧斗、あなたが家事をするですって?」信じられない提案だった。おそらく目玉焼きくらいしか作れないであろう彼が、今日の夜ご飯を自分で作ると豪語したのだから、当然だろう。「……本気で言っているの?」「ああ、レシピを見れば、俺も料理くらいはできる。由利、お前は顔色が悪い。最近寝れていないんだろう?家事なんて
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第139話

由利が昼寝から目を覚ましたのは、夜だった。明るかった部屋の中が、いつの間にか真っ暗だ。かなりの時間寝てしまっていたらしい。由利は部屋のカーテンを閉め、電気を点けた。ずっと暗闇の中にいたせいか、眩しい光に目が開けられない。「……久しぶりに長く寝たかもしれないわ」おかげで溜まっていた疲れはすっかり取れ、ストレスもかなり軽減したようだった。碧斗が気を利かせてくれたおかげである。ふと室内を見回してみると、テーブルの上にラップをかけた食事が置かれていた。時間が経って冷めてはいるが、一汁三菜と、なかなかに手の込んだ食事だ。「ちょうどお腹も空いていたし……食べようかしら」由利はラップを取り、箸で食事に手を付けた。碧斗が作ったであろう形の悪い玉子焼きを一切れ口に運んだ。「見た目はそんなに良くないけど、結構いけるのね」元々天才肌な碧斗だったが、料理までできるとは何だか意外だ。四度目にして初めて知る彼の意外な一面に、由利は驚きながらも箸を進めた。よほどお腹が空いていたということもあり、由利は十五分ほどで食事を完食した。彼女は食べ終えて空になった皿をまとめ、キッチンまで運んだ。「――由利、起きたのか」「碧斗」下へ降りると、ちょうど碧斗がエプロンを着けて家事をこなしているところだった。初めて見る彼のエプロン姿に、由利は思わず凝視してしまっていた。「美味しかったわ、作ってくれてありがとう」「そうか……喜んでもらえてよかった」由利の言葉に、碧斗は嬉しそうに頬を染めた。「後片付けは私がやるから、もう休んでていいわよ」「いや、そういうわけにはいかない。今日は一日俺がやるって決めたんだから、君のほうが休んでいてくれ」「碧斗……」彼は由利の手から食器を奪い去ると、そのまま洗い物を始めた。由利はそんな夫の姿を、不思議そうに眺めていた。彼女の視線を受け、彼が口を開いた。「……今まで傷付けてしまった分、君のために何かしてあげたいんだ。だから、どうか休んでいてくれないか」「……碧斗」彼がそんなことを考えていたとは、意外だった。ただ、前世ではいつも紫苑のことばかり気にかけていたせいか、由利は彼の言葉を素直に受け取ることができなかった。後悔するには全てが遅すぎるのだ。彼女の心が今さら、彼に戻ることはあり得なかった。「……私を傷付けたっていう自覚はあるのね」「…
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第140話

碧斗の口から飛び出した愛しているという言葉。由利はとても信じられなくて、彼の顔をじっと見つめた。長い間彼を見てきている彼女は、この世の誰よりも碧斗のことをよく知っている自信がある。――だからこそ、嘘をついていないことが一瞬でわかってしまった。(……どうして、今になってそんなことを言うのよ)彼の気持ちには、薄々疑問を抱いたことがあった。しかし、過去の経験から勘違いだと決めつけ、深く考えようとはしなかった。そうすることで、由利の心も楽になった。彼が今さら自分を愛しているなど考えたくなかったし、認めたくもなかった。ただ、今の由利に言えるのは彼の気持ちを否定する言葉だけ。「……碧斗、冗談を言うのはやめてちょうだい」「冗談じゃないよ、由利。俺はお前を……愛しているんだ」再び見せた真剣な瞳。そのまま目を背けようと思ったけれど、どうしてもできなかった。「……一体いつから?そんなの、気付きもしなかったわ」「お前に好意を寄せたのは、初めて出会ったときからだ。お前は気付いていなかっただろうけど……俺はお前と結婚したいと、幼い頃からずっと思っていた」初めて出会ったときから――その一言に、由利はおかしくて笑ってしまいそうになった。度重なる彼の裏切りを、彼女は全て知っていたからだ。――なら、どうして紫苑と関係を持って私を裏切ったりしたの?心が捻くれているせいか、棘のある言葉しか出てこない。愛していると言われると人は嬉しいものだと聞いたが、全くそんな気持ちにはならなかった。困惑と、身勝手な夫に対する怒り。今さら愛を伝えられたところで、由利の心が揺れることはなかった。「碧斗、そんなことを言わないで。あなたが愛しているのは紫苑で、私のことはただ政略結婚の相手に過ぎない。そうでしょう?」「違う……由利、俺は本気でお前のことを愛しているんだ」「じゃあ紫苑は?紫苑のことは遊びだったとでもいうの?」紫苑の話を出すと、碧斗は途端に言葉を詰まらせた。彼が紫苑と関係を持っていたこと。いくら後悔しようと、その事実は変わらなかった。「……ほら、答えられないじゃない。紫苑のことも私のことも、両方愛していると?」「いや……わからないんだ」「……わからないってどういうことよ?」曖昧な返事をする彼に、由利は呆れてものも言えなかった。せめて私の前では、嘘でも私を愛していると言う
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