All Chapters of 俺が去った日、元妻はすべてを失った: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

会社の資金調達が成功したあと、社長である妻――畑結衣(はた ゆい)は、全社会議で俺――長谷川蒼(はせがわ そう)との関係を公表するはずだった。それなのに、新入社員として入ってきた彼女の大学の後輩、木戸明人(きど あきと)が突然その場に現れ、得意げにこう言い放った。「こんなに早く僕との関係を公にするなんて、社長は僕のことを甘やかしすぎじゃないですか?」結衣はそれを否定するどころか、微笑みながら明人を会社の重要プロジェクトにねじ込んで、箔をつけようとした。その場にいた全社員から割れんばかりの拍手が巻き起こって、二人はお似合いだと褒めそやした。長年の同僚が、無言の俺を見てわざわざ小声で耳打ちしてくる。「お前、いつも上手く立ち回るだろ。ここは早く気の利いたことでも言っとけよ」俺は騒ぐことも怒ることもなく、プロジェクト責任者の社員証を明人に渡した。「ただプロジェクトに参加するだけじゃ、君の立場に合わないだろ。この『プロジェクト責任者』のポジション、二人への交際祝いとして譲ってやる」俺が社員証を明人に渡すのを見て、会議室での全員が驚きで目を丸くした。無理もない。ここ数年、俺はこのプロジェクトのために寝食を忘れ、低血糖で何度か倒れそうになるまで働き詰めていたからだ。だがすぐに、同僚たちが拍手し始めると、室内の熱気は最高潮に達した。「太っ腹!」、「さすが社長を長年支えてきたベテラン!」と歓声が上がる。ただ一人、結衣だけは険しい顔つきで、唇を真一文字に結んで、俺をじっと睨みつけている。その気まずそうな様子が、俺にはただ滑稽に見えた。結衣は社内恋愛を極端に嫌っていた。極秘結婚して7年、俺がずっと公表しようと頼み込んでも、彼女は頑なに拒み続けてきた。今回の資金調達で、ようやく彼女が折れてくれたというのに、まさか最後にあっさりと明人に横取りされるとは。今となっては、彼女が公表したがっていようがいまいが、俺にはもうどうでもいい。「それじゃ、他に用がないなら俺はこれで。みんな、楽しんでください」結衣の返事を待たず、さっさと会議室を後にした。今回の資金調達が成功したのは、俺が手掛けるプロジェクトが順調で将来性があり、提携先から追加投資を引き出せたからだ。このプロジェクトのコア特許は俺の持ち物で、会社に尽くしてきたからこそ
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第2話

明人は卑屈な口調で、まるで俺に怒鳴られたかのように、ビクビクしながら社員証をこちらへ差し出した。すると結衣が小走りで近づいてきて、持っていたバッグをフロントガラスに叩きつけた。ガンッ、と鈍い音が響く。彼女は声を荒げて怒鳴りつけた。「明人が話しかけてるのに、車から降りようともしないの?万が一轢いちゃったらどうするつもり?これ、立派なパワハラよ!」俺は口元を歪めて鼻で笑う。車の窓を開けて、責任者のポジションはもういらないからあいつにくれてやる、と言おうとした。明人は俺が本気で社員証を取り返すと思ったのか、目に焦りの色を浮かべ、ストラップを指にきつく絡ませてぐいっと引っ込めた。次の瞬間、明人は突然腰をかがめてみぞおちを押さえ、青ざめた顔で「胃が痛い……」と虫の息でつぶやいた。なんとも大げさな三文芝居だが、あいにく、これがドンピシャで効く相手がいる。結衣は俺を責め立てるのも忘れて、慌てて明人に駆け寄って体を支えながら、バッグから胃薬を取り出して飲ませている。彼女はパニックになりながら、俺に向かって叫んだ。「ぼーっとしてないで手伝ってよ!車出して、明人を病院へ連れて行くの」心の中で盛大に呆れながら、そのまま車を出して立ち去ろうとした。だが、結衣は車の前に立ちはだかり、俺を睨みつける。彼女の言うことを聞かないなら、車に轢かれても構わないというような態度だ。笑わせるな。俺が接待の酒で胃潰瘍になり、トイレにこもって吐血していた時、結衣は気にも留めず「胃薬でも飲んでおけば」と言い放ったのに。今、明人が仮病を使っているだけで、いつもは冷静な彼女が取り乱して、命がけで庇っている。仕方なく二人を病院へ送り届けた。病院で、医者から明人に異常はないと聞いて、結衣はホッと胸をなでおろして深い安堵のため息をついた。二人のお涙頂戴の茶番を見ているのも馬鹿らしくなり、踵を返して帰ろうとする。すると結衣が急いで廊下まで追いかけてきて、俺の腕を掴んだ。思わず眉を寄せた。また、可愛い明人を病気にさせたって文句を言われるのかと思った。だが次の瞬間、結衣はその社員証を俺の首にかけ直し、スーツのシワまで直してきた。そして、小さな声でこう言う。「明人が冗談好きなのは知ってるでしょ。関係を公表するチャンスなんていくらでもあるんだから、
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第3話

でも、結衣のそばにいて、当時の夢を叶えるために、ずっとその誘いを断り続けていた。電話の向こうで、人事担当者は自社の福利厚生や給与の良さ、そして俺のような人材をどれほど歓迎しているかを熱く語っている。話しているうちに、いつの間にか車は自宅の前に着いていた。一時間にも及ぶ通話履歴を見て、スマホを握る手にぐっと力が入る。あの頃、結衣のために、手の届くところにあった役員の座を捨て、彼女と一緒にゼロから起業した。長年会社のために駆け回り、心身ともにとっくに限界は超えていた。何もないところから二人で頑張って、ようやくすべてを手に入れたというのに、結衣の心はいつの間にかどこかへ行ってしまった。これからは、自分のためだけに生きたい。少し考えたあと、プロジェクトの提携先にもメッセージを送って、責任者が変わることを伝えた。先方は俺を信頼してこのプロジェクトに投資し、今回の大規模な資金調達にも手を貸してくれたのだ。俺が辞める以上、当然伝えておく義務がある。メッセージを送信し終えると、明日の航空券を予約して荷造りを始めた。クローゼットの一番下からコートを取り出したとき、その下敷きになっていたアルバムが偶然開いて、結衣と撮ったツーショットが目に飛び込んできた。それはちょうど8年前、結衣と付き合い始めたばかりの頃の写真だった。二人ともまだ幼さが残って、肩を寄せるだけで照れくさそうにしている。アルバムを拾い上げてページをめくった。そういえば、これらの写真はすべて結衣が「日々の記録を残したい」、「苦労したことも全部写真に残して、後でちゃんとお返しするから」と言って、自ら進んで撮りたがったものだ。俺と結衣は苦楽を共にして、カツカツの生活を送ってきた。狭いアパートで身を寄せ合いながら、海賊版の映画を見たこともあった。大晦日の夜、たった一切れの肉を譲り合ったこともあった。だが、そんな貧しい日々も、当時の俺にとっては幸せそのもので、前に進む原動力だった。次第に、写真に写る服は高価になり、背景も豪華になっていったが、写真の数自体はどんどん減っていった。数日に一枚から、月に一枚、そして一年に一枚へ。明人が現れてからは、新しい写真は一枚も増えていない。結衣と俺の接点は、次第に上司と部下の業務連絡だけになっていった。いつからだろうか。俺が
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第4話

電話を切ってすぐ、結衣からメッセージが届く。【接待があるから、夕飯は一緒に食べられない】その短い一言が、やけに珍しく感じる。結衣はこれまでわざわざ報告なんてせず、いつも平気ですっぽかしていたからだ。だが、その理由はすぐにわかることになる。ついさっき、明人がインスタのストーリーを更新していたのだ。写真の中では、結衣がうつむき加減でステーキを切り分けている。背景を見ると、まさに俺が予約していたあのレストランだ。添えられたコメントはこうだ。【社長は美人で優しくて、切り分けてくれたステーキは格別の味!】偶然とは恐ろしい。支配人が言っていた「他のお客様」というのは、この二人のことだったらしい。なぜ接待だと嘘をついたのか問いただす気にもなれないし、少しも悲しいとは思わない。今の俺は驚くほど凪いでいて、ただぐっすり眠りたかった。シャワーを浴びてベッドに入って、そのままここ数年で一番深い眠りに落ちた。しかし真夜中、寝室の電気が突然パッと点いて、その眩しさで目が覚める。まばたきをしてようやく強い光に目が慣れると、ベッドの脇に結衣が立っている。彼女は目を丸くして、信じられないという顔で声を荒げた。「蒼、寝てたわけ?」寝ぼけ眼でスマホの画面を見ると、もう深夜3時。こんな時間に帰ってきたのか。以前なら、明人が少しでも胃が痛いと言えば、結衣は一晩中看病していたはずだが、今の彼女はひどく機嫌が悪そうで、仏頂面で文句を言ってくる。「蒼、私がこんなに遅く帰ってきたのに、心配のメッセージもなければ起きて待ってもいないなんて、あんまりじゃない?」俺があんまりだって?心の中で呆れ返る。以前、結衣の身を案じて電話をかけた時は、「監視してるの?信用してないわけね」とキレられた。夜中に帰りを待ち、夜食を作り、風呂の準備までしたときには、「暇だから眠れないのね、もっと仕事を増やしてあげる」と言われた。こうして世話を焼くのをやめても、結局文句を言われる。女心と秋の空とはよく言ったものだ。適当に返事した。電気を消して再び寝ようとする。すると結衣が俺を小突いて、骨抜きになったみたいに寄りかかってきた。「蒼、今日すごく疲れたの。お風呂の準備、してくれないの?」結衣から、明人が愛用しているメンズ香水の匂いがふわりと漂ってくる。
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第05話

結衣は俺の手首を両手で包み込むようにして、しげしげと眺めてから、とても満足そうに言う。「いいわね、サイズもぴったり。落ち着いた雰囲気で上品だわ」その時計は雑誌で見たことがある。今年の新作で、数千万は下らない代物だ。手を引っ込めようとする前に、結衣はあっさりと時計を外して、ハンカチで念入りに拭き始めた。箱に戻しながら、ぼそっと呟く。「蒼と明人の手首の太さが同じくらいで良かった。あんたに合うなら、きっと明人も気に入るはずよ」うつむく結衣のつむじを見下ろしながら、皮肉な気分になる。そりゃそうだ、高級時計が好きなのは明人の方だし、結衣が今さら俺を気にかけるはずがない。結衣はコートを羽織って、箱を手にすると、足取り軽く外へ向かおうとする。俺はスッと腕を伸ばして行く手を遮った。昨日プリントアウトしておいた書類を差し出す。「結衣、この書類にサインしてくれ」結衣は眉をひそめて不機嫌そうに言う。「会社に着いてからにしてよ」さらに書類を彼女の前に突き出す。「仕事じゃない。大事な話だ。時間は取らせないから」結衣は大きく息をついて、不満げな顔で書類をひったくる。「面倒なことばっかり押し付けて……」そうぼやきながら書類に視線を落とした瞬間、言葉がピタリと止まる。それは離婚届なのだ。一瞬呆然としたあと、結衣は離婚届を靴箱の上に叩きつけた。鼻で笑った。「蒼、何かと思えば離婚?プロジェクトを一つこなしたくらいで、随分と偉くなったつもり?こっちは忙しいの。あんたのちっぽけなワガママに付き合ってる暇はないわ」もう一度、離婚届を差し出して冷静に告げる。「ワガママじゃない。結衣、お前を自由にしてやるよ。これで明人と堂々と付き合えるだろ」結衣は険しい顔つきになって、俺の手から離婚届をひったくってグシャグシャに丸めた。それでも気が済まないのか、ビリビリと破り捨てる。紙切れが雪のように床に舞い散る。結衣は俺を指差して、冷ややかな目を向ける。「ヤキモチじゃないって、よく言えるわね。警告しておくけど、二度と離婚なんて騒ぐんじゃないわよ。私が明人の世話を焼くのは、昔の私たちに似てるからよ。才能を伸ばしてあげたいだけ。あんたが色眼鏡で人を見るから、何でも下品に見えるのよ。折を見て私たちの関係を公表しようと思ってたのに……
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第06話

「インターンからやり直して、会社の規則でも一から学び直しなさい!」明人はわざとらしくふりをして、結衣の袖を引っ張って小声でなだめる。「社長、それはちょっと……プロジェクトももうすぐ終わりますし、長谷川さんだっていろいろ苦労してきたんですから」結衣は俺を上から下までジロリと見て、傲慢に鼻で笑う。「こんな器の小さい男、君の足元にも及ばないわ。ただこいつがだらしないだけよ!これからは明人がそのプロジェクトを引き継ぎなさい。君こそがの責任者よ」明人は強欲な顔を隠しきれないまま、口先だけで辞退する。「社長、やっぱりマズいですよ。僕なんてまだ若いですし、経験も浅いのに……」その場にいた古参社員たちは、結衣の俺への不満を察して、次々と同調する。「さすが社長、お見事です。長谷川くんはちょっと調子に乗ってましたからね。昨日は残業もしないし、今日は遅刻ですし。ここはきっちり指導しないと!」「私も木戸部長は才能があると思ってましたよ。長谷川くんも経験はあるでしょうが、やっぱり若手の勢いには敵いませんね」結衣は眉をわずかに吊り上げ、不本意そうな顔を作りながら高慢に言い放つ。「もし心を入れ替えて頑張るなら、仕方なく会社に残してあげても……」こいつらの茶番にはもう付き合いきれない。結衣の言葉を遮って、淡々と告げる。「悪いが社長、何か勘違いしてるようです。俺は退職手続きをしに会社に来たんです」結衣は呆然として、素っ頓狂な声を上げる。「は?」人事の担当者が近づいて、彼女の耳元で何かを囁く。結衣の顔色はますます険しくなって、眉間に深いシワが刻まれる。「長谷川、あんたって本当に面倒な男ね!退職だのなんだのって騒いで、嫌味まで言って。忘れてないよね?会社は資金調達に成功して、もうすぐ上場するのよ!上場したら全社員に特別ボーナスを出すつもりよ。ここは誰もが喉から手が出るほど入りたい優良企業なんだから!」俺はただ、冷めた目で結衣を見つめる。「わかってますよ、社長。とにかく早く退職届を受理してください。じゃないと、労基に訴えますから」周りは顔を見合わせて、状況が飲み込めずにざわついている。結衣は両手を強く握りしめて、爪が手のひらに深く食い込んでいる。痛みなど感じていないかのように、首をすくめず強気を装う。「いいわよ
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第07話

その言葉が出た瞬間、その場にいた全社員が息を呑んで、一斉に結衣を見た。明人は結衣の腕を掴んで、不安そうに言う。「社長、契約違反ってどういうことですか?どうしよう、うちの会社数日前に契約をいくつも結んだばかりなのに、今出資を引き揚げられたら資金繰りが……」結衣は眉をひそめ、明人の手の甲を軽く握って、心配いらないと慰める。社長としての冷静さを保とうとしながら、鋭い視線で問い返した。「うちのどこが契約違反だというんですか?」代表は契約書を取り出して、事務的にある条項を指し示す。「畑社長当初の契約では、長谷川くんをプロジェクトの専任責任者とすることが条件でした。現在、その長谷川くんが外れるというのであれば、まず違約金として一億円をお支払いいただく必要があります。我が社の社長は大変お怒りでして、出資の引き揚げを要求しています」ピンと伸びていた結衣の背筋がわずかに崩れる。彼女は何度も俺をちらりと見ながら、必死に平静を装って言った。「何かの誤解です。長谷川が退職するはずがありません。ご安心ください、すぐ本人に説明させます」彼女は必死に俺へ目配せをする。俺はただ、冷たく笑う。「もう航空券を買ってあるんです。退職手続きが終わり次第、そのまま空港に向かいます」ガシャン!結衣はよろめいて、誰かのマグカップに手をぶつけて床に落とした。目を見開いたまま俺に詰め寄って、肩を掴んで揺さぶる。「嘘よ!どこへ行く気!?」俺は表情を変えず、さりげなくその手を払いのける。「社長、まさか社員の退職後の行き先まで詮索するほど、心が狭いわけじゃないだろ」彼女の胸が激しく上下する。突然俺の腕を強く掴んで歯を食いしばる。「社長室に来て。話があるの!」社長室に入ったとたん、結衣の態度は急に柔らかくなった。ゆっくりと近づいて、俺のネクタイを整えながら、柔らかい声で言う。「もう、蒼ったら。冗談はやめてよ。わかってるでしょ?この出資を失えば、会社は上場できないかもしれないし、最悪資金ショートよ」表面上は落ち着いているが、その指先が絶えず震えている。「わかってるわ。こんな騒ぎを起こして辞めるなんて言い出したのも、昨日私が関係を公表しなかったからでしょ?取引先の代表に、辞めるなんて嘘だってちゃんと言ってくれたら、関係を公表する。ね、いいでしょ
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第08話

「部長は優秀な人材なんだろ?だったら、自分で取引先と交渉してみたらどうだ。向こうもその才能を惜しんで、チャンスをくれるかもしれないぞ」明人は顔色をコロコロと変えながら、怒りを押し殺して作り笑いを浮かべた。「今日社長が言ったのはただの冗談です。気にしないでください。会社には長谷川さんが必要なんです」「明人、こんな奴に頭を下げる必要ないわ」結衣は仏頂面で素早くサインをした。退職願を俺の胸にバシッと叩きつける。「出ていきなさい。もう二度と戻ってこないで!」俺はふっと笑う。「社長のご協力に感謝するよ」取引先の代表がたまらず口を挟む。「畑社長、違約金の件ですが……」「払います!今すぐ振り込み手続きをして!」なぜか、結衣はひどく苛立っている。明人は顔を青ざめさせ、慌てて結衣を引き留める。「結衣さん、このままだとプロジェクトが全部ダメになってしまうんじゃ……」結衣はわざと俺に聞かせるように声を張り上げた。「たかが一部の出資が引き揚げられたくらいでしょ。うちのプロジェクトにはコア特許があるのよ。製品が出れば、投資したい人なんていくらでも現れるわ。その時は、明人が一番の功労者よ!その時になって誰かさんが土下座して頼み込んできても、絶対に会社に戻して威張らせたりなんかしないから」結衣の安っぽい挑発など、どうでもいい。今はただ、早くこの場を立ち去りたかった。だが結衣は、まだ俺と張り合うつもりらしい。俺が自分の書類をまとめるためにオフィスに入ると、彼女はドアの前に立ちはだかり、冷笑を浮かべて言った。「長谷川、よく見なさいよ。それは企業秘密よ。あんたが勝手に持ち出せるものじゃないわ」そう言って歩み寄り、書類をバサッと叩き落とした。紙が足元に散らばる。俺は淡々と結衣を見る。「これは全部、俺の特許だ」結衣は鼻で笑った。「何を寝ぼけたこと言ってるの?それは会社の根幹よ。あんた個人の特許なわけないでしょ」そう言って周りを見回して、同意を求めようとする。だが予想外なことに、その場にいた全員が目をそらして、彼女を直視しようとしない。結衣は息を呑んで、嫌な予感に眉をひそめる。近くの社員を捕まえて問い詰めた。「この特許、どうなってるの?」その社員は震える声で答える。「社長、その特許は確かにすべて、長谷川さん個人の名義
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第09話

書類を拾い集めると、結衣を軽く突き飛ばし、冷たい声で言った。「邪魔だ。今空港に向かわなきゃ。どうしても話があるなら、弁護士を通してくれ」結衣の体はみるみる震え出す。何かを決心したように顔を上げると、その表情には強い意志が浮かんでいた。「行くっていうなら、本当に離婚するわよ」「えっ!長谷川さんが社長の旦那さんだったの?じゃあ、部長は?」「ドロドロすぎる……長谷川さんと部長が知り合いだったなんて。普段は一言も話さないのに」「どうりで昨日の長谷川さん、様子がおかしいと思った。プロジェクト責任者のポジションもあっさり譲るって言ってたし……」周りの社員たちは驚いたあと、ようやく合点がいったという顔をする。明人は少し気まずそうにしながらも、持ち前の図太さで、なんと手を叩き始めた。「実は僕、みんなに誤解されないように、長谷川さんと社長が夫婦だってずっと言いたかったんですよ。やっと公表できてスッキリしました!」結衣の顔色は最悪だ。歯を食いしばりながら言う。「これで満足でしょ!みんなに公表したんだから、飛行機のチケットをキャンセルして!」俺は結衣をじっと見つめる。彼女は、俺がいつか離れていくなんて、考えたこともなかったのだろうか。会社の規模が大きくなったとき、社内恋愛は風紀に良くないと言って、俺を待たせた。会社が安定したら必ず公表するからと、そう言って俺を励ましていた。資金調達に成功したあとも、相変わらず知らん顔で、明人と浮かれていた。それでも彼女は自信満々だった。自分が一言言えば、俺が思い直すはずだと。自嘲気味に笑って、ついでに持ってきた離婚届を取り出す。「離婚するって言うなら、さっさとサインしてくれ」結衣は今度こそ言葉を失った。この世で最もあり得ないものを見たかのように、その場に立ち尽くす。今日俺が本気で彼女との一切の繋がりを断ち切るつもりだと、ようやく理解したのだ。今、その顔にはついに焦りの色が浮かんでいる。結衣が口を開くより先に、明人が慌てて口を挟んだ。「長谷川さん、離婚なんてダメですよ。会社はお二人で築いてきたものじゃないですか。離婚したら、会社はどうなるんですか」明人が俺たちの離婚を止めるのは、自分がおこぼれに預かれなくなるのを恐れているからだと、俺にはわかっている。結衣も頷くしかなく、必死に
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第10話

俺が全く表情を変えないのを見て、結衣の目に失望の色がよぎる。力が抜けたように、彼女は離婚届にサインする。自分の荷物を手に取ると、俺は振り返ることなく会社を後にした。今回は、結衣も追いかけてこなかった。無事に飛行機に乗り込んで、1000キロ離れたIT企業へと向かった。新しい職場では、俺の特許技術はすぐに評価され、重宝された。昇進もして、給料も一気に跳ね上がっていく。あっという間に1ヶ月が過ぎていた。美人の上司――藤原秋穂(ふじわら あきほ)に同行して契約を交わしている最中だというのに、ポケットのスマホが鳴りやまない。「申し訳ありません」と一言断って席を外して、トイレに駆け込んで画面を確認する。意外なことに、結衣からのLINEだった。最後のやり取りは、【夕飯は一緒に食べられない】という連絡が来たときだ。それが今、突然、大量の写真を送りつけてきている。ブランド物の高級時計の写真だ。しばらくして、ようやくメッセージが届く。【間違えて送っちゃった】【好きなのある?ついでに一つ買ってあげるよ】俺は眉をひそめ、【時計には興味ない】とだけ返す。トーク画面はずっと【入力中】のままだが、なかなかメッセージは来ない。スマホをポケットにしまおうとしたそのとき、ようやく次のメッセージが届いた。【勘違いしないで。別にそこまでプレゼントしたいわけじゃないし】意味がわからない。結衣の通知をオフにした。同じ業界にいる以上、今後仕事で関わる可能性もあるから、ブロックまでする必要はない。トイレから出ると、秋穂がそこで待っている。彼女の手にある契約書を見れば、無事に契約が成立したのは一目瞭然だ。俺は少し気まずくなって謝る。「すみません、ちょっと急用で」秋穂はふんわりと笑う。「いいのよ。もしかして、彼女の浮気チェック?」適当にごまかそうかとも思ったが、その必要もないと思い直して、正直に答える。「元妻」「元妻?」秋穂は思わず声を上げて、少し声が大きくなってしまう。慌てて周囲を見回して、小声で聞いてきた。「結婚してたの?業界じゃそんな噂、まったく聞かなかったわよ」それも無理はない。結衣とは7年間、結婚を隠し通してきた。疑われないよう、彼女はいつも俺と距離を取ろうとしていたのだ。同僚から同情の目で見られることもあった。「あ
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