All Chapters of 別れたはずの御曹司元夫が、なぜか私を手放してくれない: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

市川咲和(いちかわ さわ)は秘書の案内で、市川将暉(いちかわ まさき)のオフィスに向かった。結婚して2年になるが、彼の会社を訪れるのは今日が初めてだった。「社長はまだ会議中ですので、こちらで少々お待ちいただけますか?」秘書はそう言いながら、温かいお茶を出してくれた。「ありがとうございます」と咲和は礼を言ってソファーに腰を下ろす。オフィスには、窓から明るい光が差し込んでいた。灰色と白を基調としたシンプルかつ上品な空間で、いかにも将暉の好みという感じがした。秘書もそっと咲和の様子をうかがっていた。見たところまだ若く、ゆるくカールした長い髪が肩にやわらかく流れている。真ん中で分けられた前髪は、軽くカーブを描きながら耳元に自然に落ちていて、どこか大人しい、控えめで素直な雰囲気をまとっていた。派手さはないが、清楚で透明感のある美しさで、口数も多くない。秘書は、咲和が将暉の妻であるという事実がまだ信じられなかった。いつも冷静で誰にも心を開かず、人とは一定の距離を保つ将暉が、まさか結婚していたとは。将暉が誰かに優しく接する姿など、想像もつかなかったのだ。廊下の騒がしさが、秘書を現実に引き戻す。「会議が終わったようです」秘書は、慌ただしく言った。「少々お待ちください。様子を見てまいりますので」咲和は、秘書が向かったドアの先へと視線を向けた。ドアの方に背の高い男が現れる。誰かと議論をしているようで、少し首をかしげていた。逆光の中に浮かぶ彫りの深い横顔から、彼が真剣に仕事に打ち込んでいることが分かる。そんな彼の隣にいたのは……その華やかな笑顔を目にした瞬間、咲和の体は凍りつき、自然と立ち上がっていた。将暉もソファーの前に立つ咲和に気づくと、少しだけ表情を強張らせ、眉間に皺を寄せた。「なんでここにいるんだ?」将暉と話していた女性も、咲和を見て固まる。咲和は笑顔を作り、将暉を見ると、手に持っていた封筒を差し出した。「これ……」「あなたのお母さ……」と言いかけたが、「お義母さんから預かってきたの」と言い換えた。将暉の母は、咲和が家で「暇をしている」のが気に入らないらしい。それに、咲和もそんな姑と一緒の空間にいるのが嫌だったので、外出する丁度いい口実が見つかったと、書類を届けにきたのだった。将暉がそれを受け
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第2話

将暉はそのまま家に向かった。就業時間中に家へ帰るなんて、これが初めてだった。掃除の行き届いた部屋からは、咲和の気配が無くなっている。ただテーブルの上に、咲和の部分がすでに記入された離婚届と離婚協議書が一緒に置かれていた……将暉は歩み寄り、それを手に取ってみた。離婚協議書の内容は非常に単純だった。咲和は何も求めておらず、結婚前と同じ身軽な状態に戻ることだけを望んでいる。最後のページには、すでに彼女の署名があった。彼女の字はとてもきれいで、どこか芸術的な美しささえ感じさせる。将暉はその署名をぼんやりと見つめていた。どれくらいの時間が経っただろうか。突然、玄関から物音がしたのだ。将暉は勢いよく振り返る。扉を開けて入ってきた久美子は、急に振り返った将暉に驚いた。「どうかしたの?」久美子が将暉に問いかける。すると、将暉の顔からは期待の色が消え、無感情ないつもの表情へと戻っていった。「なんでもない」と将暉は淡々と答え、「どうしてここへ?」と久美子に聞き返した。「咲和さんが家で退屈しているかと思って、話し相手に来たのよ」久美子は微笑みながら将暉に近づく。「あなたこそ、今日はどうしてこんな早くに帰ってきたの?咲和さんに何かあった?」久美子は心配そうに眉を顰め、奥の部屋へ目をやった。「別に何もない」と将暉は言い、久美子に向き直った。「よく来ているのか?」「そんなことないわ。たまに来る程度よ」しかし、久美子が気まずそうに目を逸らした。それを見た将暉の眉がわずかに寄る。久美子はバツの悪さを隠すように、将暉の手元の書類に話題を変えた。「それ、何なの?」久美子がその書類に手を伸ばしかけた瞬間、将暉は素早く書類を自分の方へと引き寄せた。「何でもない」と、将暉は静かに言う。「これから、用がなければ来ないでくれ。咲和にも仕事があるんだから。時間ができたら、こっちから顔を見に行くからさ」「あの子に一体……」と口を開いた久美子だったが、言葉を飲み込み「わかった」とだけ答えた。本当は、「あの子にそんな忙しい仕事があるわけないじゃない」と言いたかったのだ。それでも、やはり小言を漏らさずにはいられなかった。「もう1年以上も待っているのに、なかなか赤ちゃんができないじゃない。どこか悪いところでもあるんじゃないの?ちゃんと検
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第3話

純一は何と言ったらいいのか分からなかった。将暉が言った。「仕事は忙しくないのか?」純一は慌てて答える。「忙しいです!とても忙しいです」しかし、暗くなった窓の外に視線を移すと、やはり我慢できずに口を開いた。「社長。実は不動産仲介会社との約束がありまして……それに、もう退社時間を過ぎていますので、私は先に上がらせていただいてもいいですか?」将暉はパソコン画面の時計に目をやる。すでに七時を回っていた。軽くうなずく。「ああ」「ありがとうございます」そう言い捨てた純一は、慌ただしく片付けを済ませ会社を飛び出した。社長室のドアが閉まると、将暉はやっと顔を上げた。ドアに一瞬目を向けたあと、夜闇が広がる窓の外へ視線を移す。多くの人が家へ帰ってくる時間帯なのだろう。遠くのマンションにも明かりが灯り始めていた。将暉は、帰宅時にはついている家の灯りや、ソファで絵を描いていた咲和の姿をふと思い出す。咲和の顔が浮かんだ瞬間、将暉の表情がさっと冷たいものになった。再びパソコンの画面へ視線を戻し、キーボードに手をかける。仕事の続きをしようとしたが、一文字打っただけで、止まってしまった。かつては情熱を捧げられたはずのデザインや資料が、今は何の意味も持たないように思えたのだった。将暉はキーボードをパソコンの下に押し仕舞うと、立ち上がってジャケットを羽織った。デスクの上の車のキーをつかみ、そのまま部屋を出る。車に乗り込むと、昂ぶっていた気持ちがゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。将暉は小さく息を吐き、ゆっくりと車を発進させた。外ではたくさんの車が行き交い、街が色鮮やかに輝いている。しかし、いくら適当に車を走らせ続けても、将暉は家に帰る気になれなかった。咲和のマンションの前を通ったとき、「咲和さん、家を売るらしいです」という純一の言葉が不意に胸をかすめた。無意識にマンションの入り口へと視線を向ける。運命か偶然か、ちょうどマンションから出てきた咲和と目が合った。咲和の足が一瞬止まる。しかし、将暉が咲和を見る視線は、どこか淡々としたものだった。咲和がぎこちない笑みを浮かべる。将暉は冷ややかな顔で視線を逸らした。咲和は少し気まずげに自嘲気味な笑いを漏らし、その場を去ろうとした。だが、将暉に呼び止められた。「外出か?」
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第4話

咲和は苦笑いを浮かべた。「わざと聞き耳を立ててたんじゃないよ。ただ偶然通りがかっただけで。あなたやあなたのご家族に迷惑をかけて、本当にごめんなさい。この結婚、そもそもが間違いだったの。私たちは住む世界が違うし、あなたには守りたい人がいて、私にもプライドがある。あなたの両親も私を受け入れられないみたいだし、私も自分を犠牲にするのは嫌。だから……私たちここまでにしようよ」将暉は黒い瞳でじっと咲和を見つめ、唇を真一文字に結んだまま言葉を発しなかった。二人は静かに見つめ合う。「私の実家のことも、私自身のことも、正直あなたには釣り合ってないと思う。でも、この世のどこかには、ちゃんと私に見合う人がいるはずだから……無理にあなたの世界に合わせることはしたくないの」と咲和は笑った。「瑠璃さんと幸せになってね」それでも将暉は黙ったままだった。咲和もそれ以上は言わず、笑みを浮かべたまま背を向け、自室へ戻ろうとした。「瑠璃……彼女は横山家の末娘だった。5歳の時に迷子になった。それも、俺が目を離したせいで……」突然、将暉が口を開いた。咲和は驚いて振り返る。将暉もじっと咲和を見つめていた。「もしまだ生きているのなら、俺たちと同じくらいの年齢になっていると思う」「ごめんなさい。そんなこととは知ら……」咲和は思わず謝った。「気にするな」将暉が咲和の言葉を遮る。「それに、俺たちの間に釣り合う釣り合わないなんか関係ない。俺がいたらなかっただけだ。申し訳ないと思っている」「あなたのせいじゃないから。私の問題なの」「君のせいではない」将暉が短く息を吐くと、いつもの冷静な表情に戻った。「離婚の手続きは弁護士にちゃんとさせるから。財産分与も明確にするし、心配するな」「そこまでしなくていいよ」と咲和は微笑んで断った。「もともと私には関係のないお金だから」将暉は何も言わず、咲和から少し距離を置いて彼女を静かに見つめていた。その瞳には、まるで深い夜の泉のような冷たさがあった。咲和はその視線に耐えきれず、自分の後ろを指差して「じゃあ、私は部屋に戻るから……」と言った。すると将暉が突然一歩踏み出し、強く咲和を抱きしめた。「元気でな」耳元でそう小さく呟くと、すぐに離れ、一度も振り返ることなく立ち去った。咲和はぼんやりと彼が去った後の背中を見
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第5話

決して咲和の記憶力が良かったわけではない。ただ小さい頃から千佳がよく、咲和に小言を言いながら冷たく当たっていたからだった。「お父さんがあんたなんか拾ってこなかったら、とっくに飢え死にしてたんだからね。食べるものも住むところも与えて、さらには学校に通わせてやってるんだから、感謝くらいしたらどうなの?こんなにしてやったんだ。少しは家の役に立つことぐらいしてもらいたいよ」毎日そうやって言い聞かされていれば、知りたくなくとも知ってしまうというものだ。小さい頃は、なぜ他の子の両親は子供を愛しているのに、自分には愛してくれる両親がいないのだろう、と悩んだこともあった。しかし大人になった今、分かった気がする。身内との縁が薄いこともあるのだ。両親と子供にしろ、あるいは夫と妻にしろ……だからもう、咲和は一人で生きていく覚悟を決めていた。幸い、育ての父である吉田翼(よしだ つばさ)は、咲和に優しくしてくれた。そして、彼こそが咲和を拾ってくれた人物であり、高熱で倒れた咲和が意識を取り戻したとき、最初に見た顔でもあった。当時の出来事はあまり覚えていない。ただ荒れた山道で一人、それも冬の寒い中、ひどい空腹で震えながら、毎日不安で仕方なかったことだけはなんとなく覚えている。目覚めた時、抱きしめてくれたのが翼だった。彼に親しみを感じた一方で、ずっと何かに怯えていて彼から離れなかった。結局家族も見つからず、可哀想に思った翼がそのまま養子に迎えてくれたのだった。当時の彼らの暮らしは余裕がなく、千佳は子供が一人増えることを拒否していたが、最後は翼の頑固さに折れる形で、咲和を引き取ることを受け入れた。翼は一度たりとも千佳に何かを強く言ったことはなかったが、咲和を家に置くことは初めて主張した。だが、家族を養うためずっと家から離れた土地で働いていたため、咲和は翼から本当の父親のような愛情は受けられなかったが、それでも咲和は、翼のことを心から尊敬し、感謝もしていた。今回帰ってきたのは、留学前に翼に会っておきたかったからなのだ。国を離れてしまったら、今のように気軽に会いに帰ることもできなくなる。咲和から思ったような返答が得られなかった千佳は、腹を立てているようで、台所から食器を叩きつけるような音が聞こえてきた。「何してるんだ?」ドアの向こうから翼の声が聞こえた
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第6話

咲和の飛行機は午後6時の便だった。そんな咲和を見送るために、綾は忙しい中を空港まで見送りに来ていた。「ねえ、なんで突然離婚したと思ったら、留学なんか行っちゃうの?」多くの人が並ぶチェックインカウンターで、咲和のスーツケースをベルトコンベアに乗せながら、綾が聞いた。綾とは転校先の学校で出会った。高3で同じクラスだったうえに、同じ大学、同じ学部という縁があった。活発な綾とおとなしい咲和。性格は正反対だったが、親友としてずっと仲良くしている。大学卒業後、綾は大学の専門とは関係なく、不動産業界に就職し、商業施設のテナント営業を担当していたため、年中出張ばかりだった。やっと出張が終わって戻ってきたら、いきなり咲和から離婚したことと、修士号を取りに留学することを聞いて、綾は驚いていた。咲和と将暉が電撃結婚したことは、綾も知っていた。あのときは本当に寝耳に水で、完全に不意を突かれた形だった。もともとほとんど接点のない二人で、同窓会で顔を合わせても会話すらほとんどなかったのに。そんな二人が、出会って一か月も経たないうちに突然入籍。それが今度は、何の前触れもなくあっさり離婚してしまったというのだ。綾には二人の関係がどうしても理解できなかった。チェックイン手続き中の咲和は、短く答えた。「ちょっと生活を変えてみたくなってさ」綾は眉を上げた。「今の生活じゃ駄目なの?働かなくていいのに、贅沢な暮らしができる。誰だってうらやむ幸せなのに」「人頼みの生活より、自分で生活したいの。それに、私は将暉のお金が目的で結婚したわけじゃないし」「じゃあ何で?将暉、別に遊び人って感じもしないのに」離婚に至る原因といえば、価値観のすれ違いか、あるいはどちらかの浮気が理由だと綾は思っていた。しかし、咲和たちの様子からはどちらも当てはまらないように思える。「別に将暉が原因ってわけじゃないの。私の問題だから」綾は笑った。「電撃結婚に電撃離婚だね。もしかして、契約結婚だったとか?」「もし契約結婚だとしたら、お互い何かしら利益が無いとだめでしょ?将暉が私と結婚して何か得するようなことでもあった?」「咲和は顔もスタイルもいいし、学歴もあって頭の回転も速い。十分じゃない?」咲和は首を振って言った。「将暉ほどの男なら、もっとふさわしい人がいくらでもいるんだから
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第7話

会議中の将暉は、携帯を手元に置いていた。着信音が聞こえたので画面をちらりと見ると、久美子からのメッセージが目に入り、視線が一瞬止まった。報告中だったのは純一で、彼は空気を読むのが得意だった。すぐに報告をやめ、好奇心から将暉の携帯を覗き見る。しかし、将暉がすぐに携帯を伏せ、顔を上げたため、「咲和」という二文字しか見ることができなかった。顔を上げた将暉と目が合ったため、純一はドキリとした。叱られるかと思ったが、将暉は冷ややかな目で見て一言言っただけだった。「続けろ」純一は戸惑いつつも設計案の続きを説明する。しかし報告が終わるや否や、将暉が眉間に皺を寄せた。「こんなひどい企画案、誰が通したんだ?」その声は小さかったが、会議室を一瞬で凍らせるのには十分すぎるほどだった。純一は何か言いたそうな目で、将暉をちらりと見る。しかし、答えが得られない将暉は、他のメンバーを見渡した。皆俯いて考え込んでいるふりをして、指名されないように祈っていた。「誰も答えないのか?」誰も声を出せない。そこにいる皆が、助けを求める目でこっそり純一を見る。秘書長兼副社長だった純一は、いつも汚れ役を買っていたのだが、最近は特にその傾向が強い。鈍感な人でも気づくほど最近の将暉はおかしかった。決して短気になったわけではないのだが、ただ理由もなく不機嫌で、仕事には厳しく、その視線が凍りつくように冷たいのだ。そして何より、忘れっぽくなっていて、常に上の空のようだった。皆の視線を浴びる純一のプレッシャーは半端ではない。普段の火の粉ならかぶれるが、今回は厳しすぎる……純一は必死に気配を消したが、将暉の目は結局、皆と同じように純一に向いた。「みんながお前を見ているんだ。上杉副社長、代表して答えろ」将暉はモニターの企画案を指差す。「こんなひどい企画、誰が通した?」純一はもうどうしたらいいか分からなかった。とんだ役回りだ。将暉が純一を見る。「上杉副社長?」純一は覚悟を決めて答えた。「私には……わかりません」本当のことを言う勇気などなかった。将暉は純一をちらりと見て、また他の人に視線を戻す。皆再び俯き、熟考するふりをした。「山下部長、答えてくれるか?」将暉は適当に名指しをする。指名された山下部長は怯えながら純一を見て、純一に責任
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第8話

レストランで、将暉からの返信を見た久美子は眉をひそめた。樹と咲和のほうをちらりと見て、明らかに疑っているようだった。久美子はまた携帯を操作し、将暉へラインを送る。「あなたが紹介したって言うけど、じゃあ名前は?」しかし、将暉からの返信はなかった。返事を待っている久美子は表情を硬くし、思わずまた咲和に目をやった。向かい側に座っていた友人も不思議そうに咲和をちらりと見て言った。「どうしたの?」その友人は咲和とは面識がなく、誰なのか分かっていなかった。久美子は首を振る。「別に、何でもないの」しかし久美子の視線は依然として咲和に向けられているうえに、わざとらしい大きな声と、あまりにも露骨なアピールに咲和は眉をひそめた。反射的に振り向くと、久美子と目が合った。久美子は携帯を手に持ったまま、平然とした態度で咲和を見つめていた。咲和の視線を受けても、淡々とした目つきで見ているだけで、挨拶すらしてこなかった。咲和も挨拶はせず、静かに視線を戻した。樹も何か思うところがあるようで、咲和に尋ねる。「知り合い?」咲和はふっと笑ってうなずいた。「はい」しかし、それ以上の説明はしなかった。咲和のほうから挨拶がなかったことで、久美子の表情はすっかり曇っていた。だが、プライドもあって、あからさまに文句を言うこともできない。おそらく咲和に釘を刺すつもりなのだろう、久美子はスマホを取り出し、将暉にボイスメッセージを送った。【将暉、何でもかんでも咲和さんのことを私に隠さないでちょうだい。仕事が忙しいのは分かるけど、自分の妻のことはちゃんと見ておいた方がいいわよ。咲和さんはもう結婚している身なんだから。もちろん、変なことをする子じゃないとは思ってるけど、知り合いに見られたら、あれこれ言われかねないでしょ?】声をわざと咲和に聞こえるようにして言った。当然、咲和にも聞こえていたが、無視を決め込み、何食わぬ顔でゆっくりとお茶をすする。ラインの向こうの将暉からも、相変わらず返信はなかった。久美子は、普段から年長者としての威厳を保つことに慣れている分、年下の二人にこうも無視されるのが我慢ならなかった。とうとう感情を抑えきれず、席を立って咲和のもとへ歩み寄る。久美子は咲和と樹の間に立ち、さりげなく樹へ一瞥をくれてから、咲和に視線を向けた。「咲和さん
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第9話

咲和は微笑んで断った。「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」しかし、樹はすでに店員を呼んでいた。「どこか行くのか?一緒に行くよ」「本当に大丈夫ですから。ありがとうございます」と、咲和は再び断る。それを冷ややかな目で見ていた久美子は、明らかに不機嫌な表情を浮かべていた。店の外で電話をかけていた綾も、咲和たちが席を立ち始めているのに気づき、電話を切ると、心配そうに歩み寄った。「何かあったの?」「何でもないよ。急用ができて、一旦家に帰らなきゃいけなくなっちゃって」と、咲和は申し訳なさそうに言った。「綾、ごめんね。帰国した時にまた会おう」「そんなの気にしなくていいよ」綾は咲和の肩を抱く。「私が咲和の所まで行くから」さらに、綾は時計を指差して、「フライトに遅れないようにね」と付け加えた。咲和は小さく頷いた。「分かってる」咲和の実家は空港から近く、タクシーなら15分もあれば着く。咲和が帰宅すると、仁と千佳がリビングでパンフレットを広げ、どの物件にするかで揉めていた。突然帰宅した咲和に二人はぽかんとした。千佳は不思議そうに壁の時計を見上げる。「今日のお昼の便じゃなかったの?どうしてまだ家に?」咲和は無言のまま、テーブルの上のパンフレットを掴み、そのまま勢いよくビリビリと破った。仁と千佳は突然の行動に呆然として咲和を見つめる。「な、何なの?」咲和は黙って紙くずをゴミ箱に投げ捨てると、二人の方に手を伸ばした。「出して」仁と千佳は顔を見合わせる。「何を?」咲和は言った。「お金!」仁が黙り込む。千佳も目線を逸らした。咲和は静かに二人を睨んだ。「言ったはずだよね?将暉とは離婚したから、もう彼を困らせないでって。それなのに、どうしてこんなことするの?」「でも、将暉がまだ離婚していないって言ったんだぞ?」仁が慌てて弁解する。「それに金もあいつがくれたんだ。俺は強要なんてしていない」しかし、咲和は言った。「あなたたちが会いに行かなければ、彼がお金を渡すわけがないでしょ?」「会いに行ったのは本当だ。でも金を強請りに行ったわけじゃない」仁は気まずそうに頭を掻いた。「借りただけなんだよ。お金ができたらすぐ返すからさ」「どうやって返すの?」言葉を詰まらせた千佳は、しばらくしてからぶつぶつ言った。「
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第10話

「それはだめよ。解約したって手付金は戻ってこないんだから」「じゃあ、勉強代だと思って諦めることね」「あんた、頭おかしいんじゃないの?勉強代に数百万円?お金だって将暉君がくれたんだから、意地なんか張ってなんになるのよ。手元にあるお金が一番大事なの。それに、この程度じゃ慰謝料にも足りないんだから」咲和はもう千佳と言い争いたくなかった。「どんなお金が大事か私にはわからない。でも、自分で苦労して稼いだお金が一番だってことは知ってる。あとね、将暉がどのカードにお金を振り込んだかぐらい、私だって分かってるから。そのカード、今ここで私に渡す?それとも私がカードを停止させる?選んで」大学生になって稼ぎ始めた頃、咲和は翼に仕送りをするつもりだった。しかし、翼は銀行のことがよくわからなかったので、咲和は自分名義のカードを渡しておいたのだ。だが、家の金銭管理をしているのは千佳だったため、いつの間にかそのカードは、金を要求しているのは咲和だと将暉の両親に信じさせつつ、千佳が市川家に金を無心するための道具となっていた。その事実を知った時、咲和は千佳に全額返済させた。千佳は二度と借りないと誓ったが、約束を信じてカードを放置したのが甘かった。まさか、こんなに多額の金額を要求するとは思っていなかったから。案の定、千佳は顔色を変えた。「ここまで苦労して育ててあげたのに、恩返しがこれ?」しかし、咲和は相手にせず、すぐさま銀行に連絡して利用停止の手続きを始める。千佳は慌ててポケットから銀行カードを取り出すと、テーブルに叩きつけた。「本当にこの契約を解除したら、二度とこの家に足を踏み入れさせないからね」咲和はテーブルの上のカードを見て、唇を噛み締めながら、手を伸ばす。「お母さん、ごめんね」咲和は顔を上げた。「手付金はちゃんと返すから。でも、このお金は私たちがもらっていいものじゃないの」千佳は顔を強張らせ、咲和に背を向けた。咲和が黙ったままカードを手に取ると、千佳が突然わめき出した。「咲和!もしそのカードを持って出て行くなら、もう一生うちの敷居は跨がせないからね!」咲和は歩を止めた。騒ぎを聞きつけ、急いで帰ってきた翼が心配そうに咲和を見つめる。「どうしたんだ?」咲和は小さく首を振ったが、翼を見るその目に涙が滲んだ。「お父さん。元気でね」
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