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第2話

Author: 夏野萌
将暉はそのまま家に向かった。

就業時間中に家へ帰るなんて、これが初めてだった。

掃除の行き届いた部屋からは、咲和の気配が無くなっている。ただテーブルの上に、咲和の部分がすでに記入された離婚届と離婚協議書が一緒に置かれていた……

将暉は歩み寄り、それを手に取ってみた。

離婚協議書の内容は非常に単純だった。咲和は何も求めておらず、結婚前と同じ身軽な状態に戻ることだけを望んでいる。

最後のページには、すでに彼女の署名があった。

彼女の字はとてもきれいで、どこか芸術的な美しささえ感じさせる。

将暉はその署名をぼんやりと見つめていた。

どれくらいの時間が経っただろうか。突然、玄関から物音がしたのだ。

将暉は勢いよく振り返る。

扉を開けて入ってきた久美子は、急に振り返った将暉に驚いた。

「どうかしたの?」久美子が将暉に問いかける。すると、将暉の顔からは期待の色が消え、無感情ないつもの表情へと戻っていった。

「なんでもない」と将暉は淡々と答え、「どうしてここへ?」と久美子に聞き返した。

「咲和さんが家で退屈しているかと思って、話し相手に来たのよ」久美子は微笑みながら将暉に近づく。「あなたこそ、今日はどうしてこんな早くに帰ってきたの?咲和さんに何かあった?」

久美子は心配そうに眉を顰め、奥の部屋へ目をやった。

「別に何もない」と将暉は言い、久美子に向き直った。「よく来ているのか?」

「そんなことないわ。たまに来る程度よ」

しかし、久美子が気まずそうに目を逸らした。それを見た将暉の眉がわずかに寄る。

久美子はバツの悪さを隠すように、将暉の手元の書類に話題を変えた。「それ、何なの?」

久美子がその書類に手を伸ばしかけた瞬間、将暉は素早く書類を自分の方へと引き寄せた。

「何でもない」と、将暉は静かに言う。「これから、用がなければ来ないでくれ。咲和にも仕事があるんだから。時間ができたら、こっちから顔を見に行くからさ」

「あの子に一体……」と口を開いた久美子だったが、言葉を飲み込み「わかった」とだけ答えた。本当は、「あの子にそんな忙しい仕事があるわけないじゃない」と言いたかったのだ。

それでも、やはり小言を漏らさずにはいられなかった。「もう1年以上も待っているのに、なかなか赤ちゃんができないじゃない。どこか悪いところでもあるんじゃないの?ちゃんと検査してもらったほうがいいわ。一生子供ができないなんてことになったら大変だから」

「俺が、子供はいらないって言ったんだ」

久美子が驚いたように将暉を見つめる。

将暉は淡々と言った。「今日はもう帰ったほうがいい。それと、これから用事がなければ来ないようにしてくれ」

久美子は反論しかけたが、将暉の冷ややかな目を見て黙り込み、そのまま背を向けて去っていった。

ドアが閉まる音を聞いた将暉は、再び咲和の存在感が消えた部屋を見回す。そして、大きく息をつくと、携帯を取り出して秘書の純一に電話をかけた。「純一。陣内弁護士の予約をとってくれるか?離婚の件を処理しなきゃいけないんだ」

「え?」純一は呆然とした。昨日、自分に咲和を送り届けさせたばかりなのに。それに、これといって喧嘩している様子もなかったのだが、一体どうしたのだろう。

しかし、将暉は純一の返事も待たずに電話を切り、離婚届と離婚協議書をテーブルに叩きつけて家を飛び出した。

……

咲和は郊外の小さなマンションに戻っていた。

結婚前に自分で買ったマンションで、決して広くはないが、一人で住むには十分だった。

しかしこの空間こそが、かつて将暉と一夜を過ごし、子供を授かって、互いに逃げられない運命が始まった場所なのだ。

咲和は親友である橋本綾(はしもと あや)にどうしてもと言われ、渋々高校の同窓会に出席したのだった。

そして、その同窓会には、いつもなら絶対に顔を出さないはずの将暉まで出席していたのだ。

将暉と咲和は卒業後、一切連絡など取っていなかった。それに、共通のSNSグループもなく、再会する機会もなく、二人は互いにとって「高校の同級生」という存在に過ぎなかった。

しかし、それは咲和と将暉の二人だけに限ったことではない。

将暉が高校卒業後、将暉についてそれとなく同級生に聞いていた咲和だったが、誰も彼がどこに行って、何をしているのかなど知らなかった。

そんな数年ぶりの再会だったからこそ、咲和は驚きと緊張で胸がいっぱいになった。十代の頃の恋心が込み上げてくる。しかし、それを告げる勇気もなく、将暉と肩が触れそうな距離で座っていた時などは、会話をするだけでも精一杯で、緊張でどうにかなりそうだった。

緊張を隠すために、咲和は自然と酒を飲むペースが早くなった。

それに、将暉にとっては気まぐれだったのだろうが、帰り際、なんと咲和を送ると申し出てくれたのだった。

一人暮らしのマンションへ送り届けてもらった時、咲和は酔ってはいたが意識がなくなるほどではなかった。ただ、足元が少々おぼつかなくなっていた。

咲和はそのワンルームしかない小さな部屋の玄関に入った途端、置きっぱなしにしていた靴に足を取られ、つまずいてしまった。転びそうになったその瞬間、将暉が素早く手を伸ばして咲和を引き止める。

そして、勢いのまま、咲和は彼の胸の中へと引き寄せられたのだった。まだ部屋の明かりはつけていない。将暉も少し酔いが回っていて……それがアルコールのせいなのか、それとも夜の気配のせいなのか定かではないが、ふたりの視線が、暗がりの中でふっとぶつかった。

夜は深く、ここには将暉と咲和の二人だけ。さらに、相手は咲和が想いを寄せ続けていた相手だった。絡み合ったその視線は、外されることなく、互いに絡みつくような視線のまま……ふたりの吐息が、ゆっくりと近づいていったのだった。

本来の咲和は、こんな一夜の関係を許すほど軽い女ではない。しかしあの夜は、将暉の奥深くを見つめる瞳に飲み込まれてしまったのだ。

なぜなら、ずっと咲和が憧れ続けてきた人の瞳だったから。

その夜、二人はひたすらに求め合った。それは、初々しさがありながらも、熱のこもった情熱的な夜だった。

そして意外なことに、将暉もこういうことに不慣れだったらしい。

将暉の家庭環境やその見た目からすれば、浮いた噂が途絶えないだろうと想像していたのだが……

しかしこの2年間、将暉と共に暮らしてきて理解できた。あの男は仕事に全てを捧げ、恋愛を楽しむ心のゆとりがないだけだったのだ。

それに、厳しい家庭の教育により、自制的な生活習慣を身につけていた。

だから、あの夜の出来事は、将暉にとって人生唯一の「例外」に違いない。

それは、咲和にとっても同じだった。

咲和には本来、明確な人生計画があった。

咲和は大学で建築デザインを学んでいて、その才能は自他共に認めるものだった。さらに学ぶために、S国連邦工科大学への留学を決めていたのだが、あの一夜が全ての計画を狂わせた。

まさか自分が妊娠してしまうとは……

あの夜、ふたりは避妊をしなかった。しかも、あまりにも羽目を外しすぎたせいで、翌朝はふたりとも起きるのが遅くなってしまったうえに、咲和は面接へ急がなければならず、病院に行って緊急避妊薬を処方してもらう時間もなかったのだ。

それに、心のどこかで「安全日だから大丈夫かもしれない」と甘く考えていたのもある。しかし、結局はそのままできてしまったのだった。

妊娠が分かった時、咲和はどうしたらいいか分からなくなった。

しかし、将暉は「結婚して産もう」と言ってくれたのだった。

その時は、あの夜からすでに半月以上も過ぎていた。それに、連絡すら取っていなかったのに、偶然病院で将暉と再会したのは何かの縁だったのか……

あわてて検査結果を隠した咲和だったが、時すでに遅し。

将暉が咲和の手を掴んだ。

「見せて」

落ち着いた響きだが、断らせない威圧感があった。

咲和は渋々診断書を渡した。

じっと検査結果を見つめていた将暉が口を開く。「どうするつもりなんだ?」

咲和はただ首を横に振ることしかできなかった。なぜなら、この子供をどうするかなど考えてもいなかったし、一瞬で自分の人生計画が狂ってしまい、本当にどうしたらいいのか分からなかったのだ。

そんな咲和を見て将暉が言った。「結婚して子供を育てるのが最善だと思う。だけど、決めるのは君だから、無理にとは言わない」

「結婚?」

将暉が冗談でも言っているのかと思った咲和は、唖然としながら問い返す。しかし、将暉は真剣な眼差しでうなずいた。

「2日間考えてみてくれ」

ずっと想い続けてきた人と結婚できるなど、想像もしていなかった。

2日間考えた挙句、咲和は将暉と会う約束を取りつけ、「それなら……結婚しよう」と伝えた。その時の将暉は、離婚を受け入れた時と同じく「分かった」と短くうなずいただけだった。

そして、将暉と再会した3日目に、二人は入籍した。

あまりにも普通ではなかったが、順序だけは正当だった。

しかし残念なことに、お腹の子が産声を上げることは無かった。

そして、二人の結婚生活も3年に満たないまま終わりを迎えようとしている。

突然始まり、突然終わる物語。

この二年間は、まるで夢でも見ていたかのようだ。

だからか、この住み慣れた家を見回しても、心の虚しさは隠せない。

あの日、玄関で抱き留められた瞬間の将暉の眼差しが脳裏をよぎるし、あの熱のこもった瞳を思い出せば、今でも胸が締め付けられる。

それが愛だと思い込んでいた。

将暉も同じようにずっと彼女を想っていてくれたからこそ、あの一夜があったのだと信じたかった。

しかし、そうではなかったらしい。将暉にとって、あれはただの酒の勢いにすぎなかったのだ。

事実を思い知らされ、胸がずきりと痛む。

咲和は数日前、将暉と共に将暉の実家へ行った。その時、書斎から、将暉と彼の父親である市川剛志(いちかわ つよし)が言い争う声が聞こえてきたのだった。

「お祖父様はお前をとても可愛がっていて、死ぬまでにお前の結婚を見届けたいと願っていた。それに、あの時のお祖父様は重病を患っていたから、お前も心残りを抱かせたまま逝かせたくなかったんだろ?

だから、あんなに急いで咲和を連れてきた。しかも、ちょうどあの子もお前の子を身ごもっていたし、俺もあれこれ口出しはしなかった。

とにかく、お祖父様は安心して旅立てたんだからな。だが、もう二年も経っているし、結局は子供も駄目だった。それでもまだ、あいつと一生を無駄に過ごすつもりか?」

「俺には俺で考えがあるから、父さんは気にしないで」

「父さんは気にしないで?放っておけるわけがないだろ。酒は飲んでも飲まれるなって言うだろ?なのに、お前は……これまで瑠璃のことがあって、ずっと彼女すら作ろうとしなかったくせに。あんなくだらない同窓会に顔を出したから、酒の勢いで、こんなことに……」

「父さん!」剛志の声に被せるように、将暉が語気を強めて言った。「あれは俺の落ち度だ。咲和は関係ない」

「いつもあの女ばかり庇って。瑠璃が帰ってきたらどうするつもりだ?お前たちはまだ婚約してるんだぞ?」

「あいつはもう帰ってこないから」

咲和ははっきりと感じ取っていた。将暉の声が、わずかに冷たくなったことを……感情を滅多に出さない彼から、何かしらの揺らぎを感じるのは、滅多にないことだった。それだけで分かる。瑠璃という名のその女性が、彼の中で特別な意味を持っているのだと。

初めて横山瑠璃(よこやま るり)という名を聞いた時、咲和は呆然としてしまった。

言葉にできない心の違和感を感じるが、不思議なことにその名前に対する嫌悪感はなかった。

別に、それが誰なのか確かめようとは思わない。自分と将暉の間の問題は彼女ではないのだから。

自分はただ、将暉の祖父を安心させるために、都合よく現れた存在でしかなかった。

彼の祖父が他界し、子供も流れてしまった今、自分を将暉に縛り続ける必要などどこにもない。

咲和は分かっていた。自分が何も言わなければ、将暉はこのまま自分との変わらぬ日常を続けただろう。

しかし、これ以上続ける意味が自分にはない。

これは、自分の望んでいた夫婦の形ではないのだから。

咲和が望んでいたのは、お互い愛し合える夫婦関係だった。裕福である必要はない。ただ、思いやりがあって温もりをくれ、平凡な日々を一緒に、穏やかで満ち足りたものにしていけるそんな男性と夫婦になりたいのだ。

心の中に別の誰かを抱えたまま、自分に対して「責任」でしか、一緒にいない男ではない。

今回離婚を切り出したのも、半年前から悩みに悩み続け、迷いながらも出した結論だった。

それに、将暉がその決断を受け入れたのも、予期通りだ。

きっと彼も重荷が自ら離婚を切り出してくれ、ほっと胸を撫でおろしていることだろう。

まだ心に穴が開いたような痛みがあるが、ようやく自分を解放できたという安堵もわずかに感じていた。

しばらくしてから携帯を手に取ると、かつて家を探す時に担当してくれた不動産屋に電話を入れた。「以前はお世話になりました。市川です。エラン・ヒルズの物件を売却したいのですが、ご対応いただけますか?」

礼儀正しく綺麗な女性だという印象もあり、担当者は咲和のことをよく覚えていた。

「もちろんです」と快諾する。「より広いお部屋をお探しですか?」

「ええ、まあ……」と、咲和は適当にごまかした。「では、よろしくお願いします」

……

その物件情報がネットに出ると、ちょうど会社近くへの引っ越しを考えていた純一が偶然それを見つけた。

咲和の物件は将暉のオフィスにも近く、検索結果にすぐに出てきたのだった。

将暉と咲和が結婚した当初、純一も引っ越しを手伝うために、何度か足を運んでいた。小綺麗にまとめられた部屋は、かなり印象に残っており、純一は一目でそれが咲和の部屋だと分かった。

純一ははっと固まり、反射的に働いている将暉に視線を向ける。

将暉の指示で離婚の手続きを進めている純一は、彼ら二人の現状を理解していた。

しかし、関係は良好そうに見えたし、別れる理由などないはずなのだが……

二人の間に何があったのか、全く解せない。

それに、あの日突然会議室から飛び出したこと以外、将暉に普段と変わった様子はない。

強いて言えば、以前よりも将暉の残業時間が長くなったことぐらいだろう。オフィスを家のようにして、仕事への要求も以前より厳しくなっていた。

将暉が通ったあとは、まるで氷が張っていくように冷え、皆息を潜めて仕事をしている。

少なからず、この離婚から何か感じることがあるのかもしれない。

だから、このことを報告すべきか純一は迷っていた。なぜなら、咲和が物件を売却するということは「ここから出ていく」と宣告しているようなものなのだから。

人というものは、関係修復の余地が少しでもある限り留まるはずだ。だから、離れるということは、もうこの先を考えていないということ……

純一はこんな緊張の中で働きたくはなかった。

葛藤で思考を止め、一点を見つめていた純一。

そんな純一の視線に気づいた将暉が声をかける。「何か用か?」

「あ、いいえ……なんでもありません」純一ははっと我に返った。

「じゃあ、なんでずっと俺のことを見てたんだ?」

「その……」

「言いたいことがあれば、はっきり言え」

純一は覚悟を決め、携帯を将暉に見せる。「咲和さん、家を売るらしいです。ということは……」

マウスを握っていた将暉の手がピタリと止まった。純一は将暉が何か言うのかと思ったが、将暉は何も言わずに静かに視線を画面に戻しただけだった。

「それで?」静かで淡々とした一言が返ってくる。
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