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第4話

Author: 夏野萌
咲和は苦笑いを浮かべた。「わざと聞き耳を立ててたんじゃないよ。ただ偶然通りがかっただけで。あなたやあなたのご家族に迷惑をかけて、本当にごめんなさい。

この結婚、そもそもが間違いだったの。私たちは住む世界が違うし、あなたには守りたい人がいて、私にもプライドがある。あなたの両親も私を受け入れられないみたいだし、私も自分を犠牲にするのは嫌。だから……私たちここまでにしようよ」

将暉は黒い瞳でじっと咲和を見つめ、唇を真一文字に結んだまま言葉を発しなかった。

二人は静かに見つめ合う。

「私の実家のことも、私自身のことも、正直あなたには釣り合ってないと思う。でも、この世のどこかには、ちゃんと私に見合う人がいるはずだから……無理にあなたの世界に合わせることはしたくないの」と咲和は笑った。

「瑠璃さんと幸せになってね」

それでも将暉は黙ったままだった。

咲和もそれ以上は言わず、笑みを浮かべたまま背を向け、自室へ戻ろうとした。

「瑠璃……彼女は横山家の末娘だった。5歳の時に迷子になった。それも、俺が目を離したせいで……」突然、将暉が口を開いた。

咲和は驚いて振り返る。

将暉もじっと咲和を見つめていた。「もしまだ生きているのなら、俺たちと同じくらいの年齢になっていると思う」

「ごめんなさい。そんなこととは知ら……」咲和は思わず謝った。

「気にするな」将暉が咲和の言葉を遮る。「それに、俺たちの間に釣り合う釣り合わないなんか関係ない。俺がいたらなかっただけだ。申し訳ないと思っている」

「あなたのせいじゃないから。私の問題なの」

「君のせいではない」将暉が短く息を吐くと、いつもの冷静な表情に戻った。「離婚の手続きは弁護士にちゃんとさせるから。財産分与も明確にするし、心配するな」

「そこまでしなくていいよ」と咲和は微笑んで断った。「もともと私には関係のないお金だから」

将暉は何も言わず、咲和から少し距離を置いて彼女を静かに見つめていた。その瞳には、まるで深い夜の泉のような冷たさがあった。

咲和はその視線に耐えきれず、自分の後ろを指差して「じゃあ、私は部屋に戻るから……」と言った。

すると将暉が突然一歩踏み出し、強く咲和を抱きしめた。

「元気でな」耳元でそう小さく呟くと、すぐに離れ、一度も振り返ることなく立ち去った。

咲和はぼんやりと彼が去った後の背中を見ていた。灯りに伸びたその背中は以前と変わらず逞しかったが、どこか迷いのない冷たさを感じさせた。

それもまた、いつもの将暉だった。

咲和は笑みを浮かべたが、目から溢れる涙は止まらない。

泣き止もうとしても一切止まらず、喉の奥が苦しくなる。

咲和は顔を上げて涙を無理やり引っ込ませる。部屋に戻ると将暉の連絡先を消去し、留学の準備という忙しい日々が始まった。

運が良く、申請してから30日ほどでビザが下りた。

出国前日、咲和は実家に立ち寄った。

家に入ると、兄の吉田仁(よしだ じん)がソファでゲームに興じていた。

仁は咲和の6歳上で、見た目も良くいい大学も出ていた。しかし、母の吉田千佳(よしだ ちか)が一人息子である彼を過剰に甘やかした結果、すっかり自立できない大人になってしまったのだった。

辛いとすぐ諦めてしまう仁は、仕事を転々としては言い訳を並べた。職場が自分の価値に見合わないだとか、上司が自分を理解できないだとか……結局はいつも他人のせいにしてしまう。

大卒から7、8年、独立したいと言い続けては何一つ成功せず、両親の老後資金まで使い込んでいた。結局は今日もこうして、家でだらだらと過ごしているのだった。

咲和の帰宅に気づいていない仁を横目に、台所で食事の準備をしていた母の千佳が手についた水気を払いながら現れた。「咲和?今日は一人?将暉君は一緒じゃないの?」

ゲームをしていた仁も顔を上げ、自然と咲和の背後に視線を向ける。「将暉は?」

将暉の姿がないと分かると、今度は「喧嘩でもしたのか?」と聞いてきた。

咲和は「ううん」と短く返した。

「じゃあ、忙しいのか?」仁はテーブルにかけていた足を下ろす。「なあ、例の件は伝えてくれたか?リゾートホテルの工事案件を回してくれってやつ。外注するなら俺に仕事をくれたほうが無駄にならなくていいだろ?身内に金が回るんだからさ」

千佳も会話に加わってくる。「それから澄波ヶ丘の別荘のことも言ってくれた?あの湖畔の別荘、日当たりも広さも最高なの。すごく人気で不動産屋から何度も催促が来てて。今週手付金を入れないと他へ回されちゃうのよ」

咲和は淡々と答えた。「自分たちで買えばいいでしょ」

「だから、将暉君に少し貸してもらおうと思って……」と、千佳が言葉を続けた。

咲和は千佳を見つめる。「お母さん。一億もする別荘だよ?返せるわけもないのに借りるなんて。それは、買ってくれって言ってるようなもんでしょ?」

千佳は小声で言った。「仁の工事案件が決まれば、ちゃんと返せるじゃない」

「そうだよ。咲和」仁が言った。「大丈夫。お前の金なんかいらないさ。借りたって、利息をつけて返してやる」

咲和は仁をちらりと見た。「どうやって工事なんかするの?経験も人脈も資金もない。名ばかりの会社で何を請け負うつもり?」

咲和が将暉に嫁いで以来、仁は彼女が自分の「金脈」になったと思い込んでいる。

そして、市川グループの不動産事業を嗅ぎつけた彼は、知人からの噂を鵜呑みにして建設会社を設立した。経験すらないくせに、咲和との繋がりを利用して市川グループの工事を掠め取ろうという算段だった。

仁は自分で仕事をする気など毛頭ない。高い金額で契約だけを取り、それを低い金額で別業者へ再委託して差額を儲けにするのが目的なのだ。

その企みを見抜いていた咲和は、兄と将暉が関わらないよう常に牽制してきた。

ただ、仁は自分の意思を持った大人だった。一度や二度は止められても、ずっと抑え込んでおけるものではない。咲和に頼っても無駄だと分かってからは、こっそり将暉のところへ直接行くようになった。そういうところは、千佳とそっくりだった。

しかし、千佳の場合は、仁のように事業などとは考えておらず、ただ将暉の資産そのものを目当てにしていて、咲和の結婚以来、娘が玉の輿に乗ったと近所でも吹聴して回っている。

千佳は、娘婿がいかに有能か、自分たちの家の頼みをどれだけ聞いてくれるかを、ことあるごとに言いふらしていた。

そのせいで、親戚という親戚から、ほとんど縁もないような遠い親類までが押しかけてきて、大小かまわずあれこれ頼み事を持ち込んでくる。金を貸してくれだの、仕事の世話だの、コネを使って人を紹介してほしいだの……そんな話ばかりだった。

しかも千佳は見栄っ張りで、頼られると断れない性分だったので、できるかどうかも考えずにその場で引き受けてしまい、結局は咲和のところへ泣きついてくるのだった。

だが咲和は、そんなやり方に付き合うつもりはなかった。頼み事はすべてきっぱり断っていたのだが、千佳も仁と同じで、咲和に頼っても無駄だと分かると、今度は「義母」の立場を振りかざして、こっそり将暉に直接取り入るようになった。それどころか、将暉の両親まで探し出す始末だった。

何か頼み事をするたびに、決まってこう切り出すのだ。「咲和は言い出しにくいみたいでね、だから私たちが代わりに相談に来たの」だの、「咲和は妊娠したせいで、体まで壊してしまったのよ?それだけ尽くしてきたんだから、少しは考えてくれてもいいんじゃない?」だの……

そんなふうに、情に訴えて相手を縛るような言い方ばかりだった。

咲和は後に、久美子の皮肉めいた言動を通じてすべてを知ることになった。

そのせいで、市川家の両親は咲和を快く思っていなかった。計算高い女で、将暉に嫁いだのをいいことに、実家に甘い汁を吸わせている、そんなふうに見ていたのだ。

咲和としては、そう思われるのも無理はないと理解していた。しかし、将暉が自分をどう思っているのかだけは未だに分からない。なぜなら、彼はこうしたことについて、一度も口にしたことがなかったから。

おそらく、将暉も同様に見下していたことだろう。

何はともあれ、この状況を知った咲和のショックは計り知れなかった。

しかし、兄にはこの感情がわからないらしく、名ばかりの会社と言い放った咲和に激昂した。「名ばかりの会社だって?お前は金持ちと結婚したからって、俺たちのことを見下してるんだろ?だから頼みごとだって、いつも適当に躱しやがって」

千佳の顔色も険しくなる。「咲和!なんて口の利き方なの!私たちが少し頼むくらい良いじゃない。身内は助け合って当然でしょ?私たちだってすねをかじろうってわけじゃないんだから」

「そんなら正々堂々と入札したらいいじゃん」咲和はバッグを置くと「部屋で休むから」と、その場を離れた。

ドアを閉めると、外から千佳が悪態をついているのが聞こえてきた。

「最初にあの子を拾ってきたときから、私は何度も言ったのよ。やめなさい、やめなさいって。お腹を痛めて産んだ子じゃないんだから、いくら育てても懐くわけがないって。なのにあの人は聞きやしないで、どうしても引き取るって言い張って。

結局、私たちが節約に節約を重ねて、必死に育てて、学校まで行かせてやったのに……いざ大きくなって自立したら、貧乏な親になんて見向きもしないんだから」

咲和は無表情のままテーブルの前に腰を下ろした。がらんとした部屋から、ゆっくりと視線をテーブルの上へ移す。そこに置かれたジュエリーボックスをしばらく見つめ、ためらいがちに手を伸ばしてそれを引き寄せた。

箱の中には古めかしくも上質な象牙のネックレスが入っていた。この男物のアクセサリーのようにも見える象牙のネックレスは、幼い頃に誰かが首にかけてくれたという微かな記憶があった。

そして、彼女の幼少期の記憶は、この象牙のネックレスが首にかかっていたことだけだった。

自分が拾われた子であることを、咲和は物心ついた時からずっと知っていた。
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