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第5話

Author: 夏野萌
決して咲和の記憶力が良かったわけではない。ただ小さい頃から千佳がよく、咲和に小言を言いながら冷たく当たっていたからだった。

「お父さんがあんたなんか拾ってこなかったら、とっくに飢え死にしてたんだからね。食べるものも住むところも与えて、さらには学校に通わせてやってるんだから、感謝くらいしたらどうなの?こんなにしてやったんだ。少しは家の役に立つことぐらいしてもらいたいよ」

毎日そうやって言い聞かされていれば、知りたくなくとも知ってしまうというものだ。

小さい頃は、なぜ他の子の両親は子供を愛しているのに、自分には愛してくれる両親がいないのだろう、と悩んだこともあった。

しかし大人になった今、分かった気がする。身内との縁が薄いこともあるのだ。両親と子供にしろ、あるいは夫と妻にしろ……だからもう、咲和は一人で生きていく覚悟を決めていた。

幸い、育ての父である吉田翼(よしだ つばさ)は、咲和に優しくしてくれた。

そして、彼こそが咲和を拾ってくれた人物であり、高熱で倒れた咲和が意識を取り戻したとき、最初に見た顔でもあった。

当時の出来事はあまり覚えていない。ただ荒れた山道で一人、それも冬の寒い中、ひどい空腹で震えながら、毎日不安で仕方なかったことだけはなんとなく覚えている。

目覚めた時、抱きしめてくれたのが翼だった。彼に親しみを感じた一方で、ずっと何かに怯えていて彼から離れなかった。結局家族も見つからず、可哀想に思った翼がそのまま養子に迎えてくれたのだった。

当時の彼らの暮らしは余裕がなく、千佳は子供が一人増えることを拒否していたが、最後は翼の頑固さに折れる形で、咲和を引き取ることを受け入れた。

翼は一度たりとも千佳に何かを強く言ったことはなかったが、咲和を家に置くことは初めて主張した。だが、家族を養うためずっと家から離れた土地で働いていたため、咲和は翼から本当の父親のような愛情は受けられなかったが、それでも咲和は、翼のことを心から尊敬し、感謝もしていた。

今回帰ってきたのは、留学前に翼に会っておきたかったからなのだ。国を離れてしまったら、今のように気軽に会いに帰ることもできなくなる。

咲和から思ったような返答が得られなかった千佳は、腹を立てているようで、台所から食器を叩きつけるような音が聞こえてきた。

「何してるんだ?」ドアの向こうから翼の声が聞こえた。

「あなたが拾ってきた大事な娘が帰ってきたの。どれだけ私たちが大変な思いをして、育ててやったかわかってるのかしら?もし、私たちがいなければ今頃どこかの工場で働いてるのがいいところなのに、将暉君みたいな人と結婚できるまでにしてやったのよ?

なのに、今じゃ調子に乗って、私たちのこと見下してるんだから!だから、少しぐらい家を助けてくれてもいいじゃないって言ってやったの」

翼の声が弾む。「咲和が帰ってきたのか?」

その声と同時に、ドアをノックする音が聞こえた。

咲和がドアを開けると、翼が立っていた。

「お父さん」と小さく声をかけた。

翼は中に入り、声を落として言う。「母さんの言うことは気にするな。ただ言いたいだけだから」

咲和は静かにうなずいた。「うん」

「どうして突然一人で帰ってきたんだ?将暉はいないのか?」

咲和は少し迷ったが、正直に伝えた。「将暉とは……離婚したの」

「離婚?」翼の表情がすぐさま険しくなる。「どうして離婚なんか……」

「合わなかったの」

翼が眉をひそめた。「もしかして……母さんや、仁のせいか?」

咲和は首を振る。「でも、これからあの人たちが将暉に迷惑をかけそうになったら止めてくれる?」

翼は戸惑っていた。決してやりたくないわけではない。ただこの家では千佳と翼に逆らえず、説得する力もなかったのだ。

彼の立場を理解している咲和は微笑んだ。「大丈夫。私から言っておくから。今日はただ会いに来ただけなの。実は、海外の大学院に合格して、明日出発するんだ。2年間は戻れないと思うから、体を大事にしてね」

そして、咲和はバッグからカードを取り出す。「これに少しお金が入っているから使って。足りなくなったらまた言ってくれればいいから」

翼はすぐさま押し返した。「お前だって出費が多いだろうに。自分で持っていきなさい。こっちは足りてるから」

「大丈夫。私の分は私でちゃんとあるから」と、咲和はそのカードを翼の手元に戻す。

ただ、翼は咲和が明日旅立ってしまうということにショックを受けていた。「それにしても、なぜこんなに急に行ってしまうんだ?国内でも勉強できるだろうに、何でまた海外なんかに……」

「少し環境を変えて、そのついでに世界も見てみたくなったの。心配しないで。2年間なんてあっという間だから」咲和は翼を安心させるために、努めて明るく言った。

「しかも建築に関しては世界で4番目の名門大学なの。そんな大学に受かるなんて、すごく運が良かったと思わない?」

その言葉に翼はようやく安心したのか、誇らしげに微笑む。「それはいいことだ。お前は子供の頃から立派になると思っていたんだよ」

咲和も微笑み返した。

すると、「咲和ちゃん!」と幼い女の子の声が聞こえた。2歳になる吉田萌(よしだ もえ)が、駆け寄ってきて咲和の脚に抱きつく。

咲和はかがみこんで萌を抱き上げた。「萌、ママとお出かけしてたの?」

萌は元気に頷き、後ろからついてきた母の吉田凪(よしだ なぎ)に視線を向ける。

凪は咲和の兄である仁の妻であり、仁の高校時代の同級生だった。二人は大学卒業後すぐに結婚し、2年前に萌を授かったのだ。

凪は才色兼備な女性で、保険の営業から実績を重ね、今ではセールスディレクターという役職まで登り詰めていた。だから、年収はかなり良かったのだが、その給料はすべて仁が始める怪しげな事業に溶けていってしまう。

しかし、凪自身は気にも留めていないようで、文句も言わずに働き続け、子供の世話をしている。

咲和は何故、凪がそこまで仁に惚れ込んでいるのか分からなかった。もしかしたら、仁には凪をうまくその気にさせる魅力があるのかもしれない。

凪とは特に親しい間柄ではなかったが、咲和を見た凪は咲和に声をかけた。「咲和さん、帰ってきてたんですね」

咲和は自分にまとわりついてくる萌の顔を、つつきながら「ええ」と答える。

そこへ千佳が入ってきて、嫌味たっぷりに言い放った。「子供がそんなに好きなら早く自分で産んだらいいのに。あんまりのろのろしてると、外で他の女との子をつくられても知らないからね。最後に泣きを見るのは自分だよ」

千佳はさらに小声で付け加える。「まったく何を考えてたんだか。若かったとはいえ、お腹の子供も守れないなんて。もしあれが産まれていたら、こんなに誰かに頭を下げることもなかっただろうにさ」

咲和の顔から笑みが消えた。「お母さん、将暉とはもう離婚したの。もう彼に関わらないで」

千佳と仁が凍りつく。「何だって?」

咲和はそれ以上は何も言わず、荷物をまとめに帰らなければいけないと告げ、二人に挨拶を済ませてからその場を後にした。

残された二人はまだ状況が飲み込めていなかった。

「まじかよ?急に離婚だなんて」

翼がため息をつく。「本当だよ。あの子は明日にも旅立つから」

仁は眉をひそめた。「どこへ?」

「2年間の留学に行くそうだ」

顰められた仁の眉がさらに深くなったが、それ以上は言わなかった。しかし、仁は後先考えない性格ゆえ、我慢しきれず翌日には、市川グループの本社へと足を運んでいた。

会社の受付で仁は告げる。「将暉を呼んでくれ」

受付嬢は笑顔で対応した。「ご予約はございますか?」

「あいつは妹の旦那だ。アポなんかいるか?」

そう言って仁はエレベーターの方へ向かった。

「お客様。大変申し訳ありませんが、一度確認してからでもよろしいでしょうか?」

それでも仁が無視して乗り込もうとしたので、警備員が仁の行く手を阻む。「大変申し訳ありませんが、社内に入るのには予約が必要なんです」

「だから、ここの社長は俺の妹の旦那だって言ってるだろ!内線でつないでくれればいいんだよ!」

仁はいら立ちを隠さず、なおも強引に押し入ろうとした。だが警備員も職務上、そう簡単に通すわけにはいかず、双方がにらみ合ったまま一歩も引かない。そんな膠着状態の中、ちょうど純一が外から戻ってきて、ひと目で騒ぎになっていることに気づいた。

「何事ですか?」

警備員が報告する。「実は、社長の奥様の兄だと名乗る人物が、中に入ろうとしておりまして……」

純一は疑いの目で目の前の男を見つめた。しかし、いくら見ても、この男は咲和と似ても似つかない。

それを悟った仁が言った。

「咲和は俺の妹だ!信じられないならあいつに聞いてみろ」

少し考えた後、純一は警備員に言った。「通してあげてください」

警備員が道を空ける。

「な?言っただろ?」と仁は言い捨てた。

純一と仁はそのまま最上階の社長室へ向かった。

「少々外でお待ちいただけますか?社長に声をかけてきますので」

純一が社長室の扉を叩く。「社長」

「入れ」将暉の声がした。

純一が扉を開けるより先に、仁が押し入るように部屋に入った。

「おい将暉。咲和と離婚したのか?」

純一は衝撃を受けた。まさか、社長にそんな口を利く奴がいるとは……

将暉が純一に視線を向けた。

純一は冷や汗を流しながら答える。「お、お客様が強引に……」

しかし、仁はあっけらかんと続けた。「まあ、とにかく心配なんだよ」

そして将暉に向かって言う。「それにしても、二人ともどうしたんだと?急に離婚したと思ったら、咲和のやつ、明日にはここからいなくなっちまうなんてさ」

純一は将暉のマウスの動きが一瞬止まるのを見逃さなかった。

しかし、将暉は相変わらず冷静だった。「何か用か?」

仁の勢いが少しなくなる。「いや、別に用事ってことでもないんだけど、離婚って聞いたから心配になったんだよ」

「俺たちは大丈夫だ」

仁が息を吐く。「なら良かったよ。まあ、夫婦喧嘩なんてよくあることだからな。女なんて、少し機嫌を取ってやればいいんだよ」

将暉は何も言わない。

「そういえば例のリゾート開発の件……」

将暉が仁を冷たく見る。「その件は俺の管轄外だ」

仁は苦笑いを浮かべながら言った。「そうか……」

気まずさから両手をこすり合わせる。

あっけらかんとした、誰とでも親しくなれる性格の仁だったが、将暉の威圧感を前に初めて窮屈さを感じていた。

不憫に思った将暉が、声を緩めて問いかける。「そういえば、お義母さんは澄波ヶ丘の別荘を探しているらしいな?」

「あ、ああ……咲和が戻ってきても住む場所がないから、大きな家が必要になって。頭金でも借りられないかと……いや、今の言葉は忘れてくれ」

将暉が頷いた。「後で、純一に手配させる」

その時、部屋に入ってきた久美子がその会話を聞き、仁をちらりと見た。

仁は一気に来たばかりの頃の調子を取り戻した。「流石だな。やはり将暉は器が違うよ!」

しかし、久美子が露骨に顔をしかめたのを、将暉は見逃さなかった。

将暉は久美子の方を向く。「何か用か?」

久美子は表情をさっと戻した。「純一を探しに来たの。明日は運転手が休みだから、純一に空港まで送ってもらいたくて」

久美子は純一に視線を向ける。

純一が頷いた。「畏まりました。奥様」

「詳しい時間は、また後で送るから」

去り際に久美子は仁を値踏みするように見て、何か言いたそうではあったが、結局は口にしなかった。

「母さん。とりあえず出て行ってくれ」と将暉が冷たく命じる。「それと、もし用があるなら、次からは声をかけてくれるか?」

久美子は頷いたものの、複雑な表情で立ち去っていった。

仁が不思議そうに聞く。「親子仲が悪いのか?」

「別に」と淡々とした返事が返ってきた。

しかし、仁は気にする風でもなく、感謝を表すように言った。「じゃあ、別荘の件、よろしく頼むよ」

将暉は小さく頷き、手元の資料へ目を落とした。

仁は最後に付け加える。「本当に咲和が明日行っちまうのかはわからないけど、やり直せるチャンスはあるからな。お前なら大丈夫だ」

将暉の手が一瞬止まった。しかし、平静を取り繕って書類を眺める。

異変に気付かない仁は、上機嫌で去っていった。

将暉はしばらく黙っていたが、また新たに資料を手に取ったかと思えば、ざっと見ただけですぐに元に戻し、窓の外を見ながら眉間を揉んだ。

それを見ていた純一が様子をうかがうように声をかける。「社長。明日の九条会長との会議、時間を変更しますか?」

将暉の動きが止まった。しかし、将暉は目を開け、いつもの冷静な表情で答えた。

「いや。そのままでいい」
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