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第7話

Author: 夏野萌
会議中の将暉は、携帯を手元に置いていた。着信音が聞こえたので画面をちらりと見ると、久美子からのメッセージが目に入り、視線が一瞬止まった。

報告中だったのは純一で、彼は空気を読むのが得意だった。すぐに報告をやめ、好奇心から将暉の携帯を覗き見る。しかし、将暉がすぐに携帯を伏せ、顔を上げたため、「咲和」という二文字しか見ることができなかった。

顔を上げた将暉と目が合ったため、純一はドキリとした。叱られるかと思ったが、将暉は冷ややかな目で見て一言言っただけだった。「続けろ」

純一は戸惑いつつも設計案の続きを説明する。しかし報告が終わるや否や、将暉が眉間に皺を寄せた。

「こんなひどい企画案、誰が通したんだ?」その声は小さかったが、会議室を一瞬で凍らせるのには十分すぎるほどだった。

純一は何か言いたそうな目で、将暉をちらりと見る。

しかし、答えが得られない将暉は、他のメンバーを見渡した。

皆俯いて考え込んでいるふりをして、指名されないように祈っていた。

「誰も答えないのか?」

誰も声を出せない。

そこにいる皆が、助けを求める目でこっそり純一を見る。

秘書長兼副社長だった純一は、いつも汚れ役を買っていたのだが、最近は特にその傾向が強い。

鈍感な人でも気づくほど最近の将暉はおかしかった。決して短気になったわけではないのだが、ただ理由もなく不機嫌で、仕事には厳しく、その視線が凍りつくように冷たいのだ。

そして何より、忘れっぽくなっていて、常に上の空のようだった。

皆の視線を浴びる純一のプレッシャーは半端ではない。普段の火の粉ならかぶれるが、今回は厳しすぎる……

純一は必死に気配を消したが、将暉の目は結局、皆と同じように純一に向いた。

「みんながお前を見ているんだ。上杉副社長、代表して答えろ」将暉はモニターの企画案を指差す。「こんなひどい企画、誰が通した?」

純一はもうどうしたらいいか分からなかった。

とんだ役回りだ。

将暉が純一を見る。「上杉副社長?」

純一は覚悟を決めて答えた。「私には……わかりません」

本当のことを言う勇気などなかった。

将暉は純一をちらりと見て、また他の人に視線を戻す。

皆再び俯き、熟考するふりをした。

「山下部長、答えてくれるか?」将暉は適当に名指しをする。

指名された山下部長は怯えながら純一を見て、純一に責任を押し付けた。「こ、このプロジェクトは上杉副社長の担当ですので……」

将暉の目はまた純一に戻る。「上杉副社長」

純一は必死にメモを取るふりをする仲間たちを睨み、また将暉を渋々と見た。

「はっきり言え」

純一は歯を食いしばって答える。「社長です。社長が通した案です」

そして、小声で付け加えることも忘れない。「昨日の夜に」

会議室がしんと静まり返った。

純一がこっそり将暉の顔を見ると、その端正な顔が珍しく呆然としていた。

将暉は背後の設計図にもう一度目を向ける。

純一は慎重に口を開いた。「社長、この数日……少し様子が変ですが、どこか具合でも悪いんですか?」

「いや」将暉の表情はすでにいつもの冷たいものに戻っていた。「悪い。私の不注意だ。企画案はもう一度練り直してくれ。今日はこれで終わりにする」

そう言い残した将暉は、机の上の携帯を掴んで部屋を出た。

扉が閉まった瞬間、会議室に安堵の空気が流れる。

皆が次々と純一に親指を立てる。

「最強だ」

純一は指で一人ひとりを指しながら言った。「普段は俺が面倒を見てやっているというのに、いざというときはすぐ俺を前に押し出すのだな?本当に、誰一人として義理というものがないよ」

「社長の怒りを食い止められるのは副社長しかいないからさ」

「お疲れ、副社長。今度飯でも奢るよ」

……

そう笑いながらも、彼らは不安を感じていた。「でも社長、何かあったのかな?最近ずっと変だからさ……」

「そうだよね。しかも急に上の空になるし」

「俺も思った。家で何かあったんじゃないの?」

……

ゴシップを求めた視線がまた純一に向く。

「社長に何かあるわけがないだろ」純一は適当にはぐらかす。「社長も疲れてるんだよ。多分、残業続きで集中力が続かないんだろうさ」

そう言いながら資料をまとめ、笑って皆を送り出してから純一も自分のオフィスへと戻った。

純一のオフィスは将暉の社長室の外側にあり、オフィス内にはほかにも数人の秘書がいた。さっきまで和やかに仕事の話をしていた彼らだったが、将暉が通りかかった瞬間、全員がぴしっと姿勢を正し、背筋を伸ばして、余計な視線を向けないように神経を張り詰めた。

だが、その張り詰めた空気も、入ってきたのが純一だと分かると一気に緩む。皆こっそり胸をなで下ろし、ほっと息をついた。

純一は笑いながら書類を手に、近くにいた数人の頭を軽くコツンと叩いた。「まったく、調子いいんだから」

皆、将暉を怖がっていたし、純一も例外ではなかった。

別に将暉の気性が荒いというわけではない。むしろ彼は、めったに怒らないタイプだった。仕事一筋のいわゆるワーカホリックだが、それをそのまま部下に押しつけることはない。

社員への配慮も行き届いていて、待遇も同業他社より良かった。それに、理不尽に怒鳴ることもなければ、報酬を削るようなこともない。客観的に見れば、かなり良い上司だと言える。

ただ、おそらくその圧倒的な存在感のせいだろう。普段からきっちりしていて冷静、滅多に笑顔を見せないタイプでもあるため、たとえ怒らなくても、彼がいるだけで場の空気は自然と引き締まる。誰も緊張感を解けなかった。

人の上に立つ者は大体こうなのであろう、と思いながら純一はガラス越しに将暉を眺めた。

椅子に深く座り込み、携帯を机の端に投げた将暉。ひどく不機嫌なのが見て取れる。

原因はさっき見かけた「咲和」という二文字にあるのだろう。

純一は何度か咲和に会ったことがあった。彼女は綺麗で、控えめな女性だった。声も柔らかくて癒やされた印象がある。礼儀正しいうえに、千佳のような傲慢さもないため、接しやすかった。

将暉の離婚の手続きも純一が弁護士と進めているため、大まかな事情も知っている。

しかし、なぜ離婚するのか未だに分からなかった。

将暉に異変が現れたのは、咲和が家を売ると知った頃からで、そこからどんどんおかしくなり、今では自分で承認した企画案すら覚えていないほど。

純一と将暉はプライベートの話もする。だが、男女関係についてだけは一切語らなかった。

純一は咲和とあまり親しくなかったが、将暉と咲和の仲は安定していたように感じていた。あからさまな不仲も感じず、泥沼の離婚をするような仲でもないはずなのだ。

数日前、将暉から咲和を本屋に送れと指示を受けたとき、二人の間に違和感はなかった。

しかし、次の日には離婚処理の依頼されたのだった。

社長室の中の将暉は沈黙ののち、再び机の端へと投げられた携帯を手に取った。久美子からのラインを開き、写真を見る。カウンターでぼんやりしている咲和と、彼女を熱い眼差しで見つめる樹が写っていた。

一瞬動きが止まり、写真の中の二人を凝視する。

暗がりで撮影されたものだったが、細部まではっきりと写っていた。

そして、男だからわかることがあった。樹が咲和に向ける視線は、一時的な興味からくるものではない。それは……心の底から愛する女を見る男の目。

しかし、将暉は樹を知らなかったし、咲和と一緒にいる時も会ったことがなかった。

では、咲和が……?

将暉の長い指が携帯に置かれたまま止まる。そう言えば、自分は咲和の携帯すらまともに覗いたことがなかった。

純一には将暉が何を見ているのか分からなかったが、携帯を見つめる将暉の目が、氷のように冷えていくのははっきりと感じ取れた。ぱっと見は平穏そのものだが、そこには嵐の前の静けさのような恐怖がある。

純一に荒れ狂うかと心配されていた将暉だったが、そっと写真の画面を戻し、返信を打った。「俺が紹介した男だ。余計な心配はいらない」

携帯の画面を消すと、すぐに携帯を机の端まで投げ、「純一!」と声をかけた。

「はい」純一は慌てて将暉のところまで行き、仕事モードに切り替える。「社長。どうされましたか?」

「九条会長との予定は何時だ?もう来ているか?」

「会議は十分後で、九条会長はすでに会議室でお待ちになっていらっしゃいます」

「分かった」将暉は会議の資料を持って立ち上がった。「一緒に来い」

「かしこまりました」

しかし、純一は机に残された携帯がやはり気になってしまい、慎重に聞いた。「社長。もし急用があるようなら、私が代わりに……」

「大丈夫だ」と将暉は淡々と言い放ち、先へ歩いて行った。

取り残された携帯を見て、純一はため息をつくしかなかった。
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