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第3話

Author: 夏野萌
純一は何と言ったらいいのか分からなかった。

将暉が言った。「仕事は忙しくないのか?」

純一は慌てて答える。「忙しいです!とても忙しいです」

しかし、暗くなった窓の外に視線を移すと、やはり我慢できずに口を開いた。「社長。実は不動産仲介会社との約束がありまして……それに、もう退社時間を過ぎていますので、私は先に上がらせていただいてもいいですか?」

将暉はパソコン画面の時計に目をやる。すでに七時を回っていた。

軽くうなずく。「ああ」

「ありがとうございます」そう言い捨てた純一は、慌ただしく片付けを済ませ会社を飛び出した。

社長室のドアが閉まると、将暉はやっと顔を上げた。ドアに一瞬目を向けたあと、夜闇が広がる窓の外へ視線を移す。

多くの人が家へ帰ってくる時間帯なのだろう。遠くのマンションにも明かりが灯り始めていた。

将暉は、帰宅時にはついている家の灯りや、ソファで絵を描いていた咲和の姿をふと思い出す。

咲和の顔が浮かんだ瞬間、将暉の表情がさっと冷たいものになった。再びパソコンの画面へ視線を戻し、キーボードに手をかける。仕事の続きをしようとしたが、一文字打っただけで、止まってしまった。

かつては情熱を捧げられたはずのデザインや資料が、今は何の意味も持たないように思えたのだった。

将暉はキーボードをパソコンの下に押し仕舞うと、立ち上がってジャケットを羽織った。デスクの上の車のキーをつかみ、そのまま部屋を出る。

車に乗り込むと、昂ぶっていた気持ちがゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。

将暉は小さく息を吐き、ゆっくりと車を発進させた。

外ではたくさんの車が行き交い、街が色鮮やかに輝いている。しかし、いくら適当に車を走らせ続けても、将暉は家に帰る気になれなかった。

咲和のマンションの前を通ったとき、「咲和さん、家を売るらしいです」という純一の言葉が不意に胸をかすめた。

無意識にマンションの入り口へと視線を向ける。

運命か偶然か、ちょうどマンションから出てきた咲和と目が合った。咲和の足が一瞬止まる。

しかし、将暉が咲和を見る視線は、どこか淡々としたものだった。

咲和がぎこちない笑みを浮かべる。

将暉は冷ややかな顔で視線を逸らした。

咲和は少し気まずげに自嘲気味な笑いを漏らし、その場を去ろうとした。

だが、将暉に呼び止められた。「外出か?」

その声は、いつも通り静かで落ち着いたものだった。

咲和は驚いたように彼を見て、うなずく。「うん。買い物に」

将暉は一度うなずいただけで、それ以上は何も言わなかった。

これがここ二年間の、二人の日常だった。

咲和も会話を続けようとはせず、軽く微笑んでから歩みを進めようとした。

しかし、再び将暉が咲和に声をかける。「晩ごはんは食べたか?」

咲和は小さくうなずいた。「うん。もう食べたよ」

返ってきたのは同じく短い相槌だけだったが、なぜか将暉はその場から立ち去ろうとしない。

将暉がなぜここにいるのか不思議ではあったが、咲和はあえて問い詰めることはせずに、笑みだけ浮かべ、再び歩みを進めた。

将暉は咲和を追うこともなかったが、その場から立ち去ることもなかった。

咲和はカーブミラーで、将暉の車がまだそのまま停まっているのを目にした。不思議そうに眉をひそめると、そのまま近くのスーパーへと入っていく。

洗面所の電球が切れたので、新しいものに替えに来たのだ。

買い物を終えて戻ると、将暉の車はまだその場にあった。

二人はまた顔を合わせることとなった。

咲和と将暉はお互いが嫌いになって、離婚を選んだわけではない。だから、将暉を完全に無視することもできないが、今までの結婚生活はまるで他人のようだったため、親しげに話しかけることもできず、口角を少しだけ上げ、会釈をすることにした。

将暉は無表情なまま彼女をじっと見つめている。静かではあったが、息が詰まるほどのプレッシャーを感じた。

咲和が車を通り過ぎようとすると、将暉が車を降り、後ろをついて歩き出した。

咲和は理解できなかった。

しかし、将暉は何も言わずに、ただ静かに咲和について階段を上がっていく。

部屋の前で、咲和はたまらず振り返った。「な……何か用?」

将暉は「別に」と返した。

咲和は黙り込む。

将暉は言った。「何か食べるものはあるか?」

一瞬、何と返したらいいのか分からなかった咲和だが、一言だけこう言った。「あのさ、私たち離婚したんだよ?」

しかし、将暉は平然としている。「元同級生が飯を食べに来るくらい、いいだろ?」

咲和は言い返せず、渋々鍵を開けた。

咲和が持つ電球に気づいた将暉が、眉を寄せる。「電球が切れたのか?」

咲和はうなずいた。「うん。洗面所の電球が切れたの」

将暉が手を伸ばした。「俺がやるよ」

「いいよ、自分でできるから……」

しかし、彼女が断り終える前に、将暉はさっさとそれを取り上げた。

手慣れた様子で椅子を持ってきて、洗面所の下へ置く。

背の高い将暉にとっては、椅子の上に立つだけで楽に作業ができる位置だった。

感電を心配した咲和は、「まず電源を切るから」と言ってブレーカーを落とした。部屋が闇に包まれる。

咲和は携帯のライトで将暉の手元を照らしてあげた。「見える?」

「ああ」そう短く答えると、彼はあっという間に古い球を取り外していた。

将暉が慣れた手つきで電球を取り替える。その迷いのない動作に、咲和は思わず見惚れた。下から覗き込む彫りの深い彼の横顔には影が濃く広がり、真剣な眼差しには魅力があった。

咲和は少し見入ってしまった。

作業を終えて椅子から降りた将暉とふと目が合い、咲和はあわてて視線を逸らして、一歩後ろに下がった。

将暉の視線は咲和の足元からゆっくりと上がり、彼女の瞳に留まったが、依然として何も語らなかった。

黙り込む将暉との間に流れる気まずい空気。

「じゃあ、電気がつくかどうか確認してくるね」

そう言って、咲和が離れようとすると、急に手首を掴まれた。携帯が手から落ち、付けたままのライトが洗面所をぼんやりと明るくする。

咲和がはっと息を呑んだときには、すでに彼の腕の中に抱き寄せられていた。

彼の片手はすでに腰に回り、もう片方の手で頭を支えている。驚きながら顔を上げると、強く唇を重ねられた。

咲和はとっさに彼を押しのけようとした。

しかし、将暉の腕の力は緩まない。口付けは、更に激しいものとなる。

咲和もまた、それを拒むことはできなかった。

狭い空間の中に、乱れた吐息だけが重なって響く。

将暉はそのまま咲和を壁際に追い詰め、まるで貪り尽くすような熱い口付けを重ねた。

こんな強引で荒々しい彼を咲和は見たことがなかった。その何かに追い詰められているような情熱に、咲和は混乱し思考を奪われる。しかし、この狂いそうな空気を打ち破ったのは、唐突に響き渡った携帯の着信音だった。

将暉の動きがピタリと止まる。将暉は咲和に顔を見られたくないのか、そっと自分の胸に抱き寄せ顔を埋めさせる。

咲和は、彼の荒い呼吸が次第に落ち着いていくのを肌で感じていた。

少し落ち着いたのか、将暉はしゃがみ込み、床に落ちたまま鳴り続けている咲和の携帯を拾い上げた。

「ありがとう」咲和は俯いたままそう小さく言い、隠れるように電話に出る。「もしもし」

将暉は咲和をちらりと見たが、そのままブレーカーの方へ歩いていった。

将暉の背中を見つめる咲和の耳元に、女性が英語で話す声が聞こえてきた。「もしもし、咲和様でしょうか」

咲和は電話に集中する。「はい、そうですけど。どちら様でしょうか?」

「咲和様。この度はS国連邦工科大学の建築学科への合格、誠におめでとうございます」

咲和は一瞬自分の耳を疑ったが、すぐに喜びに包まれた。「本当ですか!?」

喜びから思わず声のボリュームが大きくなってしまった。廊下の将暉が振り返る。

彼女ははっとし、喜びを噛み殺しながらも丁寧にお礼を言って電話を切った。メールを確認すると、確かに合格通知が届いていた。

溢れ出す喜びをなんとか抑え、彼女は恐る恐る将暉のほうを振り返った。

「何かあったのか?」そう言いながら、将暉が電気のスイッチを入れる。

「ううん。仕事の話だった」と咲和は小さく首を振った。

「仕事?」将暉は不審げに眉をひそめる。今まで、咲和が仕事のことでこんなに喜んでいる姿を見たことがなかった。「嘘をついているだろ?」

嘘を見抜かれた咲和は、少し迷ったが本当のことを言うことにした。「留学のこと。S国連邦工科大学に合格したの」

将暉の表情が硬くなる。「留学なんて一朝一夕で決まるものじゃない。いつから準備していたんだ?」

「半年前から」

将暉の表情がさっと冷たくなる。「つまり、半年前から俺と離婚する準備をしていたってことか?」

咲和は口をぎゅっと結び、答えなかった。

咲和は確かにその頃から、確かに離婚について考えてはいた。ただ、それはまだ「芽生え」に過ぎなかった。そして、同じ頃、試してみるくらいの気持ちでこの名門大学の建築学科に出願したのだ。妊娠と結婚で途切れてしまった自分の人生計画を、もう一度やり直したい……そんな思いがあった。

学部生の時から、ずっと夢だった大学院進学。しかし、家庭環境から経済的な支援は望めず、ずっと自分で貯金をし続けていたのだった。

あの同窓会で彼と出会うまでは、貯金も学業も順調に進んでいた。しかし、あの夜を境に、咲和の人生計画は全く違う方向へと向かったのだった。

希望に満ちて仕事に打ち込んでいた新社会人だったはずが、気づけば体調を崩し、毎日の家事に追われ、夫の家族から冷たい扱いを受ける中で、少しずつ自信を失っていた。もう、こんな人生は続けたくない。

咲和の沈黙は肯定ということだ。

将暉は表情を更に冷たいものにし、咲和から視線を外す。

「そうか」そして言った。「おめでとう。頑張れよ」

将暉はそのままドアへと向かった。

「将暉」咲和は無意識に名前を呼んでいた。

彼は立ち止まったが、こちらを振り返りはしない。

「あなたの実家の書斎で、あなたとお義父さんが言い争っているのを聞いたの」咲和は静かに言った。「あの日、私は離婚しようって決めたんだ」

将暉ははっとして、勢いよく振り返る。
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