その日の夕方。須藤グループ本社では、役員会議が予定より長引いていた。重苦しい空気。誰もが慎重に言葉を選んでいる。「監査部の確認が終わるまでは、 一部案件を保留にした方がいいのでは」「しかし、ここで動きを止めれば余計に不安を招きます」「取引先側もかなり敏感になっていますからね……」遠回しな言葉ばかりだった。だが、本音は見えている。——責任を被りたくない。弘人は無言で資料を閉じた。「監査は確認段階だ。 騒ぎすぎる必要はない」低く言い切る。その声に、室内は一度静かになった。しかし以前のような絶対的な空気ではない。役員たちは視線を交わし、どこか探るような沈黙を残している。弘人はそれを敏感に感じ取っていた。会議終了後。廊下へ出た瞬間、役員たちの会話がぴたりと止まる。弘人は何も言わず歩き去った。背中に刺さる視線だけが残る。◇◆◇夜。帰宅した弘人は、珍しくすぐに書斎へ向かわなかった。ネクタイを緩めながらリビングへ入る。キッチンでは麻衣子が夕食の準備をしていた。出汁の香りが静かに広がっている。「おかえりなさい」いつも通りの声。弘人は一瞬だけ足を止めた。「ああ」短く返す。それだけのやり取り。麻衣子は鍋の火加減を調整しながら、淡々と味噌を溶いていく。弘人はその背中をぼんやり見ていた。昔から、麻衣子はこうしていた。自分がどれだけ遅く帰っても、文句一つ言わず、食事を用意していた。当たり前のように。ふと、奇妙な感覚が胸を掠める。&mdash
続きを読む