جميع فصول : الفصل -الفصل 80

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誰の責任

翌朝。須藤グループ本社。監査部からの追加確認は止まらなかった。経理部。秘書室。営業部。関係部署には次々と問い合わせが届いている。彩花の机の上にも、朝から資料が積み上がっていた。そのとき。内線が鳴る。「はい」『社長室へ』短い呼び出しだった。彩花は小さく息を吐く。最近は呼ばれるたびに胃が痛くなる。 ◇◆◇ 社長室。入室すると、弘人の前には複数の資料が広げられていた。経理部長もいる。空気は重い。「辻本」弘人が資料を差し出す。「この案件だ」彩花は受け取る。そして顔が曇った。また例の案件だった。社長室経由で処理された外部契約。監査部が何度も確認している案件だ。「処理したのはお前だな」弘人が言う。彩花は頷く。「はい」「経緯は」「社長の了承をいただいています」思わずそう答えた。部屋が静かになる。経理部長が視線を伏せる。弘人の表情がわずかに変わった。「了承したのは覚えている」弘人は低く言う。「だが処理内容の確認は担当の仕事だろう」彩花は息を飲んだ。「……え?」「申請内容と実際の処理が違う」弘人は資料を指で叩く。「それを確認するのは誰だ」彩花の顔色が変わる。そんなことを言われるとは思わなかった。今までずっと。弘人のために動いてきた。急げと言われた。優先しろと言われた。
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聞いてほしかった

その日の夜。須藤家。彩花は客室でスマートフォンを見つめていた。何度も弘人とのトーク画面を開く。文字を打つ。消す。また打つ。結局、何も送れない。以前なら違った。少し不安になれば連絡した。会いたいと言えば会えた。話を聞いてほしいと言えば聞いてくれた。少なくとも彩花はそう思っていた。けれど今は違う。監査が始まってから、弘人は仕事ばかりだった。◇◆◇時計を見る。二十二時を過ぎている。それでも書斎の灯りは消えていなかった。彩花は立ち上がる。少しだけ。少しだけ話したかった。それだけだった。廊下を歩く。書斎の前まで来る。ドアは閉まっていた。中から声が聞こえる。電話だ。仕事の話らしい。彩花は立ち止まる。数分。その場で待つ。ようやく声が途切れた。彩花は小さく息を吸う。そしてドアをノックした。「……弘人さん」◇◆◇「入れ」中から声がする。彩花はドアを開けた。書斎には資料が山積みになっていた。デスクの上も。ソファの上も。監査関連の書類だろう。弘人は疲れた顔をしていた。「どうした」彩花は言葉に詰まる。ここまで来たのに。何を言えばいいのか分からない。「少しだけ……」弘人は時計を見る。その仕草だけで胸が痛くなった。「急ぎか?」急ぎか。以前ならそんな聞き方はしなかった。彩花は小さく首を振る。「……ううん」「悪い。今ちょっと立て込んでる」弘人は資料へ視線を戻した。責めているわけではない。本当に忙しいのだろう。それは分かる。分かるのに。◇◆◇「監査のことで……」彩花は思い切って口を開いた。弘人は顔を上げる。「何だ」「私……」そこで言葉が止まる。私だけじゃない。そう言いたかった。弘人も知っていた。弘人も関わっていた。そう言いたかった。けれど。言えなかった。「大丈夫か?」弘人が尋ねる。彩花は反射的に笑った。「大丈夫」嘘だった。でもそう答えるしかなかった。弘人は頷く。「ならいい」その一言で会話は終わった。◇◆◇客室へ戻ったあと。彩花はベッドへ座り込んだ。情けなかった。せっかく話しに行ったのに。結局何も言えなかった。本当は聞いてほしかった。辛いことも。不安なことも。全部。けれど弘人は忙しい。そして何より。今の弘
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期限

午後。いつものカフェ。麻衣子は窓際の席で書類へ目を通していた。向かいには霧島。テーブルには離婚協議に関する資料が並んでいる。財産分与。今後の手続き。必要書類。一つずつ確認は終わりに近づいていた。「こちらは問題ありません」霧島が資料を閉じる。麻衣子は頷いた。「ありがとうございます」「必要なものはほぼ揃っています」事務的な口調だった。だが、それは準備が順調に進んでいるという意味でもあった。 ◇◆◇ 「須藤さん」霧島が次の資料を開く。「そろそろ具体的な日程を決めてもいい頃でしょう」麻衣子は顔を上げた。「日程ですか」「離婚協議の日程です」静かな声だった。だがその言葉の意味は重い。離婚届を渡した日。あのときはまだ先の話だった。けれど今は違う。実際の日付として予定を決める段階まで来ている。麻衣子は資料へ視線を落とした。不安はなかった。迷いもない。ただ少しだけ不思議だった。長い間終わらないと思っていた結婚生活が、こうして終わりへ向かっていることが。「そうですね」自然に言葉が出た。霧島は小さく頷く。それ以上は何も言わなかった。 ◇◆◇ その頃。須藤グループ本社。弘人は役員会議を終えたばかりだった。だが気は休まらない。会議中も監査の話が出た。契約保留。追加説明。取引先対応。どれも良い報告ではない。社長室へ戻る途
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置かれたままの紙

翌朝。須藤グループ本社。弘人は朝から会議続きだった。監査対応。取引先への説明。役員会議。休む暇もない。社長室へ戻った頃には、昼を過ぎていた。デスクへ腰を下ろす。そのとき。秘書が一枚の資料を差し出した。「こちら、ご確認ください」弘人は受け取る。内容を確認する。契約保留に関する報告書だった。また一件。弘人は眉をひそめる。最近はそんな報告ばかりだ。 ◇◆◇ 午後。社長室。弘人は一人で資料を見ていた。ふと手が止まる。椅子へ深くもたれた。視線が窓の外へ向く。何も考えない時間は久しぶりだった。そのとき。不意にある光景が浮かぶ。ダイニングテーブル。白い封筒。離婚届。麻衣子が差し出したあの日のことだった。弘人は目を閉じる。離婚届はまだ提出されていない。話し合いも終わっていない。だからどこかで、まだ時間があると思っていた。――コンコン。ノック。現実へ引き戻される。「入れ」経理部長だった。追加資料の確認。監査対応。また仕事の話だ。弘人はすぐに意識を切り替えた。今は離婚のことを考えている場合ではない。会社の方が先だった。そう思った。 ◇◆◇ 夜。須藤家。帰宅したのは二十二時過ぎだった。リビングには誰もいない。食事は用意されて
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すれ違い

翌朝。須藤家。弘人がリビングへ下りると、テーブルには朝食が並んでいた。コーヒー。トースト。簡単なサラダ。いつも通りだった。だが席には誰もいない。弘人は時計を見る。まだ早い。気にすることでもない。そう思いながら椅子へ座った。そのとき。廊下の向こうから麻衣子が現れる。外出の準備をしているようだった。「出かけるのか」弘人が尋ねる。麻衣子は足を止めた。「ええ」それだけだった。「仕事?」何気ない質問。麻衣子は少しだけ考える。「そんなところです」曖昧な返事だった。弘人は眉をひそめる。だが深くは聞かなかった。聞く理由もなかった。「そうか」会話は終わる。麻衣子はそのまま玄関へ向かった。ドアが閉まる音がする。弘人はコーヒーを口に運んだ。なぜだろう。ほんの少しだけ引っ掛かった。◇◆◇同じ頃。秘書室。彩花は朝から資料の山に囲まれていた。監査部からの確認。経理部からの問い合わせ。追加資料。終わりが見えない。そのとき。隣の席の秘書が小声で話しているのが聞こえた。「社長、最近ずっと機嫌悪いよね」「監査のせいでしょ」「大変そう」彩花は手を止める。大変。そうだろう。弘人も大変だ。それは分かっている。けれど。自分だって大変だった。むしろ直接対応しているのは自分の方だ。そう思った瞬間。胸の
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正式な依頼

午後。いつものカフェ。麻衣子は窓際の席で資料へ目を通していた。向かいには霧島。テーブルの上には離婚関係の書類が並んでいる。財産関係。預金。保険。不動産。必要な確認はほぼ終わっていた。霧島が最後の資料を閉じる。「これで一通り揃いました」麻衣子は小さく頷いた。「ありがとうございます」「こちらこそ」霧島はそう言ってコーヒーへ手を伸ばす。そして数秒後。静かに口を開いた。「須藤さん」「はい」「準備は整いました」麻衣子は顔を上げる。霧島の表情は変わらない。だが意味は分かっていた。「正式に離婚協議を申し入れる段階です」店内は静かだった。周囲では客たちが思い思いに過ごしている。麻衣子は資料へ視線を落とした。離婚届を渡した日から、考えは変わっていない。弘人との結婚生活を続けるつもりはない。そのために準備を進めてきた。資料を集め。財産を整理し。霧島へ依頼した。今日もその延長線上にある。ただ一つ違うのは。準備が終わったということだった。「進めますか」霧島が確認する。急かすような口調ではない。依頼人の意思を確認しているだけだ。麻衣子は頷いた。「お願いします」自然な返事だった。迷いはない。霧島も小さく頷く。「承知しました」これで終わりではない。むしろここからが本番だ。正式な協議が始まれば、弘人も向き合わざるを得なくなる。少し離れた席では、天野が資料整理をしていた。
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正式な通知

翌日。須藤グループ本社。午前。弘人は社長室で資料を確認していた。監査対応。契約保留。取引先説明。今日もやることは山積みだった。ようやく一段落した頃。机の上のスマートフォンが震える。見慣れない番号だった。弘人は一瞬だけ眉をひそめる。だが通話ボタンを押した。「須藤だ」『お忙しいところ失礼します』落ち着いた男性の声。『弁護士の霧島司郎と申します』弘人の眉がわずかに動く。聞き覚えのある名前だった。どこで聞いたのか。数秒考える。そして思い出した。探偵の報告書だ。麻衣子が会っていた弁護士。『突然のお電話で恐縮ですが』『須藤麻衣子様より正式に依頼を受けております』その瞬間。弘人の表情が止まった。正式に依頼。その言葉の意味は分かる。予想していなかったわけではない。だが。実際に聞かされると話は別だった。『本日、離婚協議を正式に申し入れさせていただきます』霧島の声は変わらない。感情はない。事務的で冷静だ。『詳細につきましては書面を送付いたします』『代理人を立てられる場合はご連絡ください』『日程等につきましては改めて調整させていただきます』必要事項だけを淡々と伝える。弘人はしばらく黙っていた。麻衣子が弁護士と会っている。それは知っていた。だがどこかで現実味がなかった。相談だけかもしれない。気持ちの整理かもしれない。そう思っていた部分もあった。しかし違った。麻衣子は正式に依頼していた。そして離婚協議
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現実

翌朝。須藤グループ本社。弘人は朝から会議に追われていた。監査対応。取引先への説明。役員会議。やるべきことは山積みだ。それでも。頭の片隅には昨日の電話が残っていた。『須藤麻衣子様より正式に依頼を受けております』霧島の声。事務的で感情のない口調。だからこそ現実味があった。 ◇◆◇ 昼過ぎ。会議が終わり、弘人は一人で社長室へ戻った。静かな部屋。椅子へ腰を下ろす。ようやく一息ついたはずなのに、気持ちは落ち着かなかった。机の上には監査資料が積まれている。確認しなければならない。分かっている。それなのに。昨日の電話が何度も頭をよぎる。麻衣子が弁護士へ依頼した。正式に。離婚協議を申し入れた。その事実だけが妙に重かった。探偵の報告書を思い出す。麻衣子が会っていた弁護士。霧島司郎。あの時は、離婚について相談しているのだろうと思った。だが。相談だけではなかった。麻衣子は準備を進めていた。資料を集め。弁護士へ依頼し。正式な手続きへ進んでいた。自分の知らないところで。着実に。弘人は目を閉じる。離婚届を渡された日。あの日の麻衣子の表情が浮かんだ。自分は本気にしなかった。時間が経てば落ち着くと思っていた。だが違った。本気ではなかったのは、自分の方だったのかもしれない。コンコン。ノック。弘人は思考を切り替える。
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最初の相談

翌日。須藤グループ本社。朝から慌ただしかった。監査対応。取引先への説明。役員会議。いつもと変わらない一日。だが弘人の意識はどこか落ち着かなかった。昨日。顧問弁護士から紹介された弁護士の連絡先が届いている。離婚案件を専門とする弁護士。その名前がスマートフォンの画面に残っていた。 ◇◆◇ 昼休み。弘人は会議室を一つ押さえた。誰にも聞かれたくなかった。ドアを閉める。そして電話をかける。数回の呼び出し音。やがて落ち着いた男性の声が聞こえた。『はい』「須藤と申します」弘人は簡潔に名乗る。『伺っております』弁護士はすぐに答えた。「実は……」事情を説明する。離婚協議の申し入れがあったこと。相手方には代理人が付いていること。現時点で把握している内容。弁護士は途中で口を挟まない。最後まで聞いていた。そして静かに言う。『まずは資料を確認させてください』当然の返答だった。『その上で今後の方針を考えましょう』弘人は頷く。「分かりました」『奥様のご要望はまだ不明ですので』『まずは内容を確認してからですね』事務的な口調だった。だが逆に安心した。感情論ではない。仕事と同じだ。状況を整理して対応する。それだけだった。電話を切る。静かな会議室。弘人はしばらく動かなかった。離婚。その言葉にも少し慣れてきた気がする。だ
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遅すぎた問い

その夜。須藤家。弘人は珍しくリビングに残っていた。時計を見る。二十二時過ぎ。仕事はまだ残っている。だが今日は書斎へ向かう気になれなかった。離婚協議。弁護士。監査。頭の中は整理のつかないことばかりだった。やがて。麻衣子がキッチンから戻ってくる。片付けを終えたらしい。弘人はその姿を見た。少しだけ迷う。そして口を開いた。「麻衣子」麻衣子が足を止める。「何でしょう」いつもの落ち着いた声だった。弘人は言葉を探した。本当は聞きたいことがある。たくさんある。だが何から聞けばいいのか分からない。結局。最初に出たのは別の言葉だった。「……弁護士を立てたんだな」麻衣子は驚かなかった。「はい」短い返事。それだけだった。弘人は続きを待つ。だが麻衣子は何も言わない。「本気だったのか」思わず口をついて出る。麻衣子が弘人を見る。静かな視線だった。責めるでもなく。怒るでもなく。ただ見ている。「離婚届を渡した時から変わっていません」穏やかな声だった。その一言で十分だった。弘人は言葉を失う。変わっていない。確かにそうだ。離婚届を渡された。弁護士に相談していた。正式な協議を申し入れた。全部繋がっている。変わっていなかったのは麻衣子だ。変わらないまま進んでいた。「そうか」弘人はそれしか言えなかった。何か言うべ
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