All Chapters of 愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 義妹という設定(1)

「実花」 恒一の声を耳にした瞬間、実花の視界がぐらりと揺れた。ほんの少し前まで鮮明だった社交会の景色が、一気に遠ざかっていく。 前世の記憶が溢れ出ようとしていることに気づいたときには、遅かった。 次の瞬間には、シャンデリアの光がぼやけ、音楽も笑い声も消えていた。 人の気配が薄れる。 藍色のドレスの重みすら感じなくなる。 代わりに浮かび上がってくるのは、忘れたくても忘れられなかった前世の光景。同じ白い光の下にあった、静かで冷たいダイニング。 実花の視界の中で恒一は、実花を観ることなく美鈴だけを見ている。 義兄妹だから大事にしているだけだと言われ続けた。 夫を信じなければいけない。疑ってはいけない。疑うことは、与えられたものに満足しできない『卑しい行為』だと諭された。 愛されていると信じることでしか、一ノ瀬恒一の妻でいられなかった。 妻でいることに以前の実花は固執していたと言ってもいい。 「良い妻になれ」 そう言った父親と恒一が、実花にとって振りむいてほしかった。だからその言葉は、命令であると同時に、実花の存在意義だった。 だから実花は努力した。 父親と恒一に認めてもらうために学び、働き、笑い続けた。 「家族だから」 「義妹だから」 妻も家族のはずではないのか。 妻よりも義妹を大事にするのか。 そう言いたい気持ちを抑え続けたのは――『家族』という存在に固執したから。家族という単語は、実花にとって呪いのようなものであり、唯一求めた「愛されていないこと」に希望を持たせる『救い』だった。 恒一と美鈴の「義兄妹だから」を信じた―――その結果がどうなったのか、いまの実花はもう知っている。 . (私の人生って、なんだったのかしらね) 現実へ引き戻される感覚の中で、実花は静かに息を吐いた。 そして目の前にいる恒一を見て、実花はゆっくりと呼吸を整えた。震える指先を誰にも見せるつもりはなく、強く握ってその震えを抑えようとしたが、不意に力が抜けた。 (過去に傷ついたこの光景が助けになるとは……) 実花の視線が向いた先にあるのは、恒一の腕へ絡む美鈴の腕。隙間がないほどくっつきあい、胸を押しつけるような美鈴の姿勢はあからさまで、隠していない。実花がそれを目にしても『いつも通りでいる』と確
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第12話 義妹という設定(2)

視界の端で、美鈴の顔がわずかに勝利へ歪むのが見えた。その口元が、堪えきれないように上がる。実花はそれを見て、自分まで口角が上がりそうになるのを必死に抑えた。きっと美鈴は思ったのだろう。――勝った、と。藤宮実花は結局、いつも通り空気を読んで頭を下げる。場を壊さないために自分が折れる。そう信じ切っている顔だった。その思い込みが滑稽で、いっそ哀れだった。前世の実花なら、その期待通りに動いていただろう。場を乱さず、空気を守り、恋慕している恒一の顔を潰さないために、自分が謝罪して終わらせていた―――だが今は違う。「ふあ……」静まり返った会場に、実花が欠伸を噛み殺したような声が響いた。その瞬間、空気が変わる。藤宮実花が、この状況で欠伸をした。つい先ほどまで漂っていた緊張感とは違う種類のざわめきが、静寂の中へ波紋のように広がっていく。誰かが息を呑み、誰かが目を見開く。  「今、欠伸をした?」  「この場で?」そんな無言の驚きが、会場中を駆け巡った。実花はそんな周囲の反応を、内心では冷静に観察していた。こんなにも人は、“想定外”に弱いことを知った。社交界の人間は、台本通りのやり取りを好む。その中で彼らは藤宮実花には、“従順で大人しい令嬢”という役柄を期待していた。その役者が突然、台本を無視したのだから空気が揺れるのも当然だった。·実花は頬へそっと手を添え、小さく眉を下げてみせる。“困っている”という演技。もちろん実際には欠片も困っていない。わざとした欠伸だったから。これはただ、美鈴が先ほど口にした「困ってしまいます」への、ささやかな意趣返しでもあった。「成人を迎えるパーティーで、昨夜はあまり眠れなくて。緊張していたのか、夢見も悪かったの」柔らかな声でそう言うと、会場のあちこちから小さな笑い声や同意の声が漏れた。  「ああ、分かるわ」  「私もそうでした」  「本格的に社交会に出るのですからね」どれも理解を示す響きだった。本来なら、人前で欠伸をするなど無作法だ。だが今の実花は、“失礼な女”ではなく、“緊張で眠れなかった初々しい令嬢”として受け取られている。その空気の流れを、実花は敏感に感じ取っていた。そして同時に、別のことにも気づく―――この場には、恒一と美鈴の距離感へ嫌悪や不快感を抱いている者たちが確かに存在している。だからこそ
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第13話 義妹という設定(3)

「緊張するのは仕方がないですよね。こんな大きなパーティーですもの」美鈴は柔らかく微笑みながら言った。その声音は優しく、気遣わしげで、何も知らない者が聞けば“良い義妹”そのものだった。「……そうね、ありがとう」実花も穏やかに返す。声音だけなら、和やかな令嬢同士の会話に聞こえるだろう。だが実花の内心では、まだ続けるのかと小さなため息が落ちていた。普通なら、この程度で会話は終わる。周囲の誰かが別の人物を紹介したり、新しい話題を差し込んだりして、「次の会話」へ流れを変える。それが社交界の暗黙の作法だった。特に、このように空気が張り詰めた場では、誰かが自然に緩衝材になる。その役割を最も自然に果たすのは通常、エスコート役――つまりパートナーだ。しかし、今夜の実花には、そのパートナーがいない。(そうなれば、相手のパートナーが気を利かせるものだけれど……)実花はそう思いながら、視線を逸らして恒一のほうを見ようとした。だが、その瞬間だった。「恒一兄さんって、本当に優しい人なんですよ」それを遮るように、美鈴が自ら話題を振る。(残念……)実花は内心で冷えた声を漏らす。こうして“恒一を褒める流れ”になった以上、自己顕示欲の強い恒一が美鈴を止めるはずがない。むしろ、気分良く聞いているだろう。実花は興味のないまま、仕方なく視線を美鈴へ戻した。だが、その無関心は思った以上に露骨だったらしい。一瞬だけ、美鈴の目が細くなる。空気がぴり、と変わった。ほんの僅かな変化。けれど、それを見逃さない程度には、今の実花は相手を観察していた。(気に入らないのね)前世の実花なら気づかなかっただろう。美鈴は常に笑っていたから。柔らかく、愛らしく、誰からも好かれる“妹”として振る舞っていたから。だが今なら分かる。美鈴は、自分が話題の中心にいることを好む。そして、自分へ向けられる関心が薄れることを嫌う女だ。「こんな大きなパーティーに参加したことはないだろうからって、私を誘ってくれたんです」美鈴は少し恥ずかしそうに笑う。まるで、“慣れない場所へ連れてきてもらった可愛い妹”を演じるように。(でも、それはただのマナー違反)実花は内心で冷静に切り捨てた。そして、その事実を冷静に切り捨てられたことが、自分の中に小さな自信を生む。前世の自分なら恒一のことを優しい人だと思っていた。だが
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第14話 side:一ノ瀬美鈴

【side 一ノ瀬美鈴】実花は何も返さなかった。否定もしない。同意もしない。ただ、静かにそこへ立っている。その沈黙が美鈴の中で組み上げていた計算を少しずつ狂わせていった。(なにこれ、おかしい)美鈴は笑顔を浮かべたまま、胸の奥にじわりと広がる違和感を感じていた。いつもならこうはならない。いつもの藤宮実花ならここで慌てて空気を取り繕う。「そんなつもりでは……」と情けないほど曖昧に笑い、「誤解させてしまってごめんなさい」と自分から頭を下げる。そして最終的には、“仲の良い義兄妹”という設定を実花自身が補強してくれる。そういう女だった。自分の感情よりもその場の空気を優先する女。恒一の機嫌を損ねることを何より恐れている女。だから美鈴は楽だった。少し恒一と距離を詰めれば、実花は怯える。少し意味深な言葉を落とせば、勝手に傷ついてくれる。そうやって実花は苦しむほど陰気になり、明るい女が好みの恒一は実花を忌避する。実花を嫌い、美鈴を庇う。その構図が美鈴に優越感を与えていた。(なんなの……)それなのに今日は違う。実花は動かない。ただ静かに美鈴を見ている。その視線に、以前のような焦りも怯えもない。まるで感情を削ぎ落としたような目だった。その目を向けられていると美鈴のほうが落ち着かなくなる。自分の笑顔がわずかに引き攣っていることを美鈴自身が感じていた。(……なに、この感じ)押しても引いても反応がない。いや、違う。反応がないこと自体が“反応”なのだと美鈴は気づく。実花は黙ることで、この場の主導権を握ろうとしている―――美鈴はぞわりとした感覚を覚えた。今までの実花は、分かりやすかった。傷つけば顔に出る。困れば目を伏せる。謝罪するときは唇が震える。だから扱いやすかった。けれど今の実花は、何を考えているのか読めない。読めない相手は不気味だった。特に、美鈴のように相手の反応を読んで優位に立つように動く人間にとって、それは恐怖に近かった。(違う……落ち着いて)美鈴は内心で自分に言い聞かせる。ここで焦る必要はない。自分には、いつも通りの方法がある。最も確実で、最も慣れたやり方。美鈴はゆっくりと視線を実花から外し、隣に立つ恒一を見上げた。「恒一兄さん」声色を変える。少しだけ弱く。少しだけ困ったように。庇護欲を刺激する声音。
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第15話 伸びてきた手

実花は、その一連の流れを驚くほど冷静に見ていた。まるで遠くから演劇を見るような感覚だった。そして、その冷静さの中で、前世を含めてずっと気づかなかったことに気づく―――恒一も、美鈴も、愛し合っているわけではない。実花はその事実を、妙に淡々と理解していた。少なくとも、実花が欲しいと願っていた“愛”は、あの二人の間にはどこにも存在していない。男と女として相手を慈しむ愛情も。家族として相手を守ろうとする愛情も。そこにはなかった。では何があるのか。実花はぼんやりと考える。依存。所有欲。優越感。役割。そんな言葉ばかりが頭に浮かぶ。そして同時に思う―――前世でも、最初からそうだったのではないか、と。(前の私は、この人に『愛』を求めてしまった)男と女としての愛情。家族としての愛情。自分だけを見てくれる特別な感情。それを恒一はくれる人なのだと、以前の実花は本気で信じていた。だから恒一のどんな態度も、肯定的に受け取っていた。自信に満ちた振る舞いも。相手を管理するように細められた視線も。以前は「頼もしい」と感じていたそれらが、今では「傲慢」にしか見えない。そこに感情はない。ただ、恒一の中には“理想の構造”が存在しているだけだ。そこへ人を当てはめている。儚げに自分へ依存する義妹。その義妹を守ることで、自分を“正しい男”に見せるヒーロー役。そして、その構図を成立させるために必要な悪役―――それが、実花だった。(この人は、私のなにもかも気に入らなかったのね……)そう思った瞬間、胸の奥に苦いものが広がった。だが、それは悲しみではなかった。むしろ呆れに近い。関心を買いたくて媚びるように尽くした姿。努力した結果を褒めてほしくて、必死に追いすがった姿。思い返すだけで、顔から火が出そうになる。滑稽ですらない。ただただ、痛々しくて、恥ずかしかった。(……我ながら、嫌になるくらい必死だったわね)愛されたかった。必要とされたかった。捨てられたくなかった―――ただそれだけだったのに。そのために、どれだけ自分を削ったのか。どれだけ「嫌だ」という感情を飲み込んだのか。今になってようやく理解する。あれは愛ではなく、恐怖だった。孤独になることへの恐怖。誰にも必要とされないことへの恐怖。だから必死に、恒一へ縋りついていた。(もう絶対に、誰かの評価のために生きたりはしない)実花は
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第16話 藤宮家と東国家(1)

視界が陰った瞬間、実花が最初に感じたのは仄かな体温だった。ほんのわずかに漂う熱。人の存在を強く意識させる距離感。そして次に鼻先を掠めたのは、鋭すぎず甘すぎもしないシトラスの香り。清潔で、それでいて不思議なほど印象に残る香り。そして、実花の周りの変化を些細だと感じるほど、それ以上に大きな変化が起きた。実花の周囲だけではなく、会場全体の空気が目に見えない何かによって塗り替えられたような感覚。ざわめきが止まる。音楽が遠のく。誰かが息を呑む気配すら際立つほどの静けさ。変わる―――それは単なる比喩ではなく本当に“重さ”が変わった。今までこの場を支配していた軽薄な社交界の空気が一瞬で別物になった。.実花は思わず目を見開き、そして別の意味で息を飲んだ。「……っ」呼吸が止まる。視線の先。そこに立っている男を見た瞬間。実花の頭の中を埋め尽くしたのは、「なぜ」と「どうして」だった。―――なぜ、この男性がここにいるのか。―――どうして、自分を庇うように前へ立っているのか。東国 光也。その名前が遅れて記憶の奥底から浮かび上がる。東国財閥の後継者候補の一人。冷酷無慈悲、合理主義、情を介さない男。社交界でそんな評判ばかりが囁かれている男。.東国財閥と藤宮グループの格は、ほぼ同格と言っていい。だが両家の関係は古くから独特だった。敵対もしない。親交も深めない。互いの領域へ必要以上に踏み込まない。“つかず離れず”、その距離感を言葉通り保ち続けてきた。礼儀として、パーティーや式典のたびに招待状だけは送り合う。けれど双方とも欠席の返事が来ることを前提にしていた。形式だけの交流、それが東国と藤宮だった。だから今回も、藤宮家が東国家へ招待状を送ったであろうことは実花にも理解できる。だが―――東国光也が実際に来ることだけはあり得ない。興味本位で覗いてみたとか、暇だから立ち寄ったとか。そんな言葉は東国光也には似合わない。実花の心臓がどくりと鳴った。(前世にも、彼はいただろうか)実花は必死に記憶を探る。だが、残念なほど思い出せない。前世の自分は恒一しか見ていなかった。恒一の機嫌。恒一の視線。恒一の言葉。そればかりに必死で、他の招待客の記憶などほとんど残っていない。(でも、流石にこの
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第17話 藤宮家と東国家(2)

「何をしている」東国光也の声は平坦だった。怒鳴っているわけではない。声量も大きくない。けれど、もしその声音を薄い硝子に閉じ込めて叩き割ったなら、中から灼熱の何かが噴き出すのではないかと思わせるほど熱を孕む。苛立ちではない。それよりももっと激しいものを、理性で押し潰しているような低さだった。東国光也はただそこに立っているだけだった。恒一の腕を掴んでいるわけでもない。声を荒げているわけでもないのに、実花には見えた。巨大な手が恒一の喉元を静かに押さえつけるように、東国光也は恒一の逃げ場を塞いでいるようにこの場を制圧していた。(……静かだ)信じられないほど静かだった。その静けさこそが異様だった。社交界の人間たちは言葉で空気を支配する。笑顔で牽制し、遠回しな言葉で優位を取る。だが東国光也は違う。彼に言葉など不要。そこにいるだけで、それが意志として存在しているようだった。.「今、何をしようとしていた」淡々とした問いだった。だがそれは質問ではない―――確認だった。恒一の行動、その意図、その正当性。それら全てを精査しようとする声音。恒一の声を“管理者”の声だとするならば、東国光也の声は罪を裁定する側のものだった。まるで神の代理人。そんな言葉が脳裏を過ぎるほど、厳かで、冷徹で、容赦がなかった。会場の空気が完全に凍りつく。誰も動けず、グラスを持つ手すら止まっていた。息を吸う音さえこの場では無礼になるような、そんな緊張感。シャンデリアの光だけが不自然なほど明るい。その光の下で、恒一の目がわずかに細くなる。だが次の瞬間、実花は見た。彼の中で何かが切り替わったのを。  ――ここは藤宮の場だ。  ――自分は藤宮実花の婚約者になる存在だ。その前提。その思い込み。だが彼の中ではそれが確信として、絶対の軸として存在していた。だから態度は崩れない。過剰に下手にも出ない。かといって敵対もしない、あくまで対等。そんな計算が透けて見える態度だった。実花はそれを見ながら、心の底から冷めた気持ちになっていった。.「少し誤解があっただけです」短く、整った返答だった。声音も落ち着いている。聞きようによっては余裕すら感じさせた。だが実花には分かる。この言葉に含まれるのは「お前は部外者だ」という排除。ここは藤宮家の場
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第18話 藤宮家と東国家(3)

東国光也の視線がわずかに細くなった。その変化はほんの小さなものだったのに、なぜか実花には妙に鮮明に見えた。そして次の瞬間、彼の口元に小さな笑みが浮かぶ。冷笑ではない。侮蔑とも違う。獲物を見つけた獣が、予想外の反応に愉快そうに目を細めるような笑みだった。その瞬間、周囲がざわめく。空気が揺れた。東国光也が笑った――それだけで周囲の反応が変わるほど、彼という男の存在感は異質だった。「キレイなだけの大人しい人形かと思ったら、笑えるじゃないか」「……笑え、る?」想定外すぎる言葉に、実花は思わず目を見開く。まさかこの場で、そんな評価を向けられるとは思っていなかった。しかも“笑える”とは何なのか。困惑する実花を見て、東国光也の目がさらに愉快そうに変わる。その視線は周囲の人間と同じ“評価”の目なのに、どこか決定的に違っていた。値踏みではない。観察だ。興味深いものを見つけた人間の目。「戸惑う様は初々しくて、どこか可愛らしいな」あまりにも自然に、あまりにも真っ直ぐに放たれた賞賛に、実花の顔へ熱が集まる。社交界の賛辞など、普通は飾りだ。相手を持ち上げるための社交辞令。だが東国光也は、そういう種類の男ではないはずだった。だからこそ困る。リップサービスだと思って流したいのに、彼がそんな軽薄なことをするとは思えない。その認識が、逆に実花の熱を逃がしてくれなかった。「……なるほど、これは……」東国光也が何かを納得したように呟く。だが、その言葉の続きを遮るように、別の声が割り込んだ。「失礼。まだ私と話している途中のはずでは?」恒一の声だった。低く抑えられているが、その奥に苛立ちが滲んでいる。東国光也はゆっくりと視線を恒一へ戻した。そして静かに口を開く。「ずいぶんと……威勢がいいな」その“間”に、薄い皮肉が滲んでいた。恒一の眉がわずかに動く。だが東国光也は気にした様子もなく、むしろ親切心すら感じさせる口調で続けた。「誤解しないでほしいが、藤宮家を軽く見ているわけではない」一拍。「俺自身、東国の後継者候補の一人にすぎないことは重々承知している」その言葉に、会場の空気がざわめく。(そうだったわ……)実花は記憶を辿る。東国光也は東国家当主の愛人の子だった。東国家の現当主は好色で有名だった。三度離婚し、今の四人目の妻は実花と五歳も変わらない若い女。そ
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第19話 格の違い(1)

 ――― あくまでも婚約者候補。『ほぼ決定』という曖昧さをバッサリと斬り落とした東国光也の言葉で空気が止まる。完全な静寂。東国光也の視線が、その瞬間だけ実花に触れた気がした。だがあまりにも一瞬で、本当に見られたのか分からないほどだった。気づけば彼はもう恒一を見ていた。「藤宮家の問題に口出ししたなら謝罪しよう。但しそれは、ここにいる彼女に対してだ。一ノ瀬家の君に対する謝罪ではないし……そもそも、謝罪する必要はあるかな?」淡々とした事実確認。だが、それは鋭利な刃だった。東国家と一ノ瀬家では家格が違う。庶子であろうと東国光也は東国家の一員。そして一ノ瀬家は、到底その位置には届かない。恒一の目が鋭くなる。「それは……」反論しようと口を開く。だが言葉が続かない。東国光也はその反応を見て、どこか満足そうに頷いた。「ただ、俺もご先祖様の威光に縋って君を引っ叩くのは気が引ける」「……え?」恒一の戸惑った声。東国光也はそれすら観察対象のように見つめている。「家のことは抜きにして、俺と君で比較するといい。幸いにして年齢も同じ二十八。大学卒業後、俺はいろいろあって社会に出るのが遅れたが、その分はハンデとして君にあげよう」その好戦的な姿勢に、実花は思わずまじまじと彼を見てしまう。前世でも東国光也は冷酷で有能な男として知られていた。だが、こんな風に真正面から人を叩き潰すような男だっただろうか。「俺は東国当主の愛人の子だが、それでも評価されている。海外事業が中心だ。赤字子会社の整理を得意としているせいで冷酷とも言われるが、紛争地域の投資管理を任される程度には有能らしい」淡々と列挙される実績。それは自慢にも聞こえるが、実際に事実だった。実花も前世の知識として知っている。この頃から既にそこまでの成果を出していたのかと思うと、むしろ恐ろしい。「いずれも、結果を出している」短い総括。そして視線を恒一へ戻す。「では君は?」沈黙。東国光也が少しだけ首を傾げる。その仕草が、ひどく挑発的だった。恒一が口を開く。「一ノ瀬家の事業は安定している」「それは結構なことだ」即答。「だが、それは“維持”でしかない。己の力で改革し、拡大しようとは思わないのか?」その言葉が、恒一へ刺さるのが見えた。「藤宮実花の婚約者という立場を利用すれば、拡大はできるかもしれないが
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第20話 格の違い(2)

「……何の騒ぎだ」低く落ちた声は、大きく響いたわけではない。それなのに、その場にいた全員が反射的に背筋を伸ばしていた。会場に広がっていたざわめきが、「藤宮実篤だ」という誰かの呟きを最後に水を打ったように静まり返る。まるで、空間そのものが声の主へ道を譲ったようだった。実花はその声を聞いた瞬間、ようやく父親が会場にいなかったことに気づいた。(そう言えば、前世でも……)ぼんやりと記憶を辿る。確かこの時間、父親は分家の当主たちを集めて別室で話をしていた。表向きは親族間の挨拶と今後の確認。しかし実際は、藤宮家の次代についての擦り合わせ。おそらく―――実花の婚約についての話をしていたのだろう。そんなことを考えている間に、人々が左右に分かれていく。まるで海が割れるみたいだと、実花は他人事のように思った。その中央を、父親を先頭に藤宮一族が歩いてくる。年配の分家当主たち。役員たち。みな一様に威厳と格式を纏っていたが、それでも中心にいる父親の存在感は別格だった。前世でも、何度も見た光景。幼い頃から見慣れていたはずなのに、実花はふと違和感を覚える。(……前より、怖くない)威圧感が消えたわけではない。むしろ圧力は以前と変わらず重い。だが、以前のような絶対性は感じなかった。前世の実花は、父親を間違えない人間だと思っていた。だから恐ろしく、逆らえなかった。けれど今は違う。父親の恒一に対する評価は間違っていた。その事実を知ってしまったから。父親は決して完璧などではなく、失敗もする人間なのだと理解してしまったから。そんな実花の視線の先で、父親の足が止まる。その目が向いた先は―――東国光也だった。その瞬間、父親の表情がほんのわずかに硬くなる。実花はその変化を見逃さなかった。怒りではなく困惑。彼が整えたはずの秩序の中に、予定にない駒が紛れ込んだ時の反応だった。「なぜ……あなたが、ここにいる」呼び方に迷いが滲んでいた。東国と藤宮は、古くから距離を保ってきた家だ。敵対はしない。だが親密にもならない。互いに必要以上に干渉せず、境界線を守る。それが両家の暗黙の了解だった。だから父親は東国光也をどう呼ぶべきか、一瞬迷ったのだろう。「東国さん」では距離が近い。「東国君」では軽い。「光也さん」など論外。だが「あなた」では他人行儀すぎる。その僅かな逡巡だけで、両家の関係性が透けて
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