愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

155 チャプター

第1話 気づかない振り

その夜の記憶は、実花(みか)の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がる。忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。◇◇◇実花が夫の一ノ瀬恒一(いちのせ こういち)と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中。季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算されたような配置は、美しくあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。足を踏み入れ、正しさだけが許される場所につく。そのたびに、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。その場所は、本来なら妻である実花を歓迎するはずだった。法的に実花は恒一の妻と定められていた。妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。しかし現実は、その役割にいるとは到底思えない形で存在していた。恒一の隣には当然のように別の女性が座っているからだ。·「最近、少し痩せたんじゃないか」その言葉はあまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。恒一の視線の先にいたのは、一ノ瀬美鈴(みすず)だった。美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女。形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。恒一は義妹だから可愛がっているという。だが。義妹――それでは説明がつかないほど、二人の距離は近い。あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑み。全てが美鈴に向けられる。義妹なのだから当然。それでは、妻である実花にそんな当然はあったのか。――なかった。恒一の優しさも微笑みも、欠片すら実花に向くこと
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第2話 許すということ

「美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、最初から用意されていた言葉のように自然だった。迷いも、逡巡もない。恒一が実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる。その困り方すら、整えられている。自分がどう振る舞えば、恒一に最も大事にされる存在として成立するか。それを計算した振る舞い。「この前置いていった服をとりあえず着ればいい」「でも……」「明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一の宥めるような声。その声音には、こうするのが当然というような親密さが滲んでいた。「嬉しい」これで決まった。あまりにも迷いのない流れ。この全てが、最初から完成された台本だからだ。先ほどまでの茶番の続きだ。実花を責めるための導線を作る。そして実花の不出来を詫びる形で恒一が美鈴に償いを提案し、最終的に二人が一緒に過ごす。二人が一緒に。ただ、それを正当化するためだけに実花はいる。二人は義理の兄妹である。そう証明するためだけの『妻』なのだ。いつもそうだ。前回は、実花が作った料理を食べて体調を崩したと美鈴が言い出した。断る余地を奪う形で、恒一は美鈴をこの屋敷に泊めた。体調不良は、実花を断罪するのに便利な言葉だった。この屋敷に使用人は常駐していない。新婚夫婦の邪魔になるから。そんな理由で、恒一が遠ざけた。新婚夫婦水入らず。そのはずなのに、美鈴は例外。美鈴だけは、夫婦水入らずの生活に当たり前のように入り込む。週に数日。時には、それ以上。気がつけば当然のように滞在している。そして、当然のように恒一の隣にいる。実花に許可を取るなど形だけ。最初から、反対できないようになっている。実花は微笑みを崩さないように唇の端に力を入れた。それは、もはや習慣に近い。少しでも歪めば、この空間はすぐに別の形へ崩れてしまう。不満を訴えても意味はない。実花に向くのは苛立ちだけ。全て無駄。だから飲み込む。言葉も、違和感も、喉の奥に押し戻す。そして、心の中でだけ繰り返す。――私たちは家族なのだから。その言葉は慰めではない。正当化でもない。ただ自分の立ち位置、存在してよいものだと思うための理由。実花は今夜もその細い糸のような理由にしがみつく。そうすることでしか、
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第3話 人生をやり直せるなら

あの夜のことは、忘れられない。ただ、変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目が曖昧なまま、鈍く痛む頭を押さえながら実花は起き上がった。また、声が聞こえた。夢ではない。不審に思って、実花は寝室からゆっくりと廊下へ出た。隣の部屋、恒一の寝室の扉を開けた。恒一はいなかった。実花は声のするほうに向かった。冷えた床の感触が足裏から伝わってくる。意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。それでも、声のするほうへ向かい続けた。意志というより、反射に近かった。何が起きているのか。それを考える前に、身体が勝手に動いていた。.客間の前で、何が起きているのか理解した。すぐに分かった。何の声か。何の音か。胸の奥が冷たく沈んだ。「もっとぉ……」美鈴の甲高い声は快感を訴え、甘えるように揺れていた。応える恒一の唸り声は、理性を削ぎ落とされた獣のようだった。実花の知る『夫』という存在から遠い響きだった。.実花は持っていたスマートフォンを起動させた。よく冷静に行動できたと、今でも実花は信じられない。実花を突き動かしたのは恐怖なのか。それとも怒りなのか。その判断は不要だった。異様なほど思考が冴えていることが重要だった。指先が震えているのに、操作だけは正確だった。二人の様子を動画に収めた。衝動的だった。証拠を残さなければいけない。そんな目的を理解したときには、録画が始まっていた。濡れた肌がぶつかり合う打擲音が、スマートフォンの電子音を消した。どの音も非現実的で。小さな画面の中で絡み合う夫と義妹の姿は、別の世界の出来事のように見えた。二人がいつも言い訳に使っていた「義兄妹」。それが白々しいほど、二人は男と女だった。「あんんっ……激しっ!」ただ、この時点では夫の不貞でしかなかった。だが。「待って、お腹の赤ちゃんがっ!」耳に飛び込んできた美鈴の言葉。それは、実花が想定していた裏切りの範囲を踏み越えていた。「赤ん坊だって、父親と母親が仲が良いほうが嬉しいだろっ」美鈴は妊娠していた。恒一の子どもを。「ほらっ、もっと声を出せ」恒一の声は笑っていた。「だめっ! お義姉さんが起きちゃうぅ……あんっ!」実花を気遣う台詞。それと真逆の、目の前の光景。「大丈夫だって。いつも通り睡眠薬を飲ませている」「で、も
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第4話 やり直せる

最初、自分がどこにいるのか分からなかった。柔らかい感触に包まれていた。手が触れたのは、上質なシーツだった。布地は肌に吸いつくように滑らかだった。微かに甘い、落ち着いたこの香りがなければ、病院に運ばれたと思っただろう。でも、この香りは違う。ゆっくりと視線を巡らせる。ここは見慣れた――懐かしく感じる自分の昔の部屋。窓の外を見る。そこには手入れされた庭園が広がっていた。剪定された樹木。計算された配置の花々。まるで絵画のような均整を保つ庭。記憶にある、かつて見慣れたその景色。(私……本邸に、運ばれたの?)階段から落ちたはず。でも、痛みの記憶はない。落ちる途中で気を失ったのだろうか。(おかしい……)なぜなら、痛みがない。階段から落ちたはずだ。落ちれば、死んでもおかしくない高さ。生きているのは、運が良かったと言える。でも、痛みがないことはおかしい。動かしても、痛くない。痛いどころか。(何か、とても元気な気がする)長く眠り続けていたのか。奇妙なほどに、身体の内側から力を感じる。実花はゆっくりと体を起こした。痛くない。ベッドから足を下ろす。絨毯の感触を確かめるように、そっと一歩踏み出した。痛くない。柔らかく沈み込む繊維の感触が伝わってくるだけ。はっきりと理解する――なんともない。どうしてか。理由を探すため、姿見に向かう。その前に立ち、そこに映った自分の姿に実花は息を呑んだ。長い黒髪。丁寧に手入れされ、光を受けて滑らかに揺れている。肌は透けるように白い。頬には健康的な血色がある。瞳には疲弊も絶望もない。諦めきった空虚さもない。静かな光を宿した目がこちらを見ていた。若い。(いえ、あまりにも若すぎるわ)最後に見た自分を実花は覚えている。二十八歳という年齢にはとても見えなかった。若さを擦り減らした、老けた姿をしていた。それなのに今は逆だ。十歳以上若返ったかのように、生き生きとしている。実花は息を止めた。単なる寝起きの錯覚ではない。これは、『よく寝た』では説明できない現象だ。「もしかして……時間が、戻った?」小説やドラマのような、荒唐無稽なこと。でも、それを口にした瞬間、現実として自分の中に落ちてきた気がした。声に出したことで、曖昧だった違和感が輪郭を持ったのだ。記憶は途切
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第5話 私が選ぶ色

今夜のためのドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見える色。それは、藤宮家の令嬢らしさを示すために選ばれたもの。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える。前世の実花は、この色を何も思わずまとった。一ノ瀬恒一の好みに合うだろう、そう思って着ていた。誇らしささえあったかもしれない。だが、こうして見るとその淡い紫はまったく違う意味があるように思える。なぜなら。「……似合わないわね」実花の容姿に合わない色。それを喜んで着ていた以前の自分はどれだけ滑稽だったか。そんな実花を、恒一や美鈴はどう見ていたのか。これは、清楚であることを示していない。これは従順の象徴だった。良い娘であること。良い妻になること。そうしていれば、守ってもらえるのか。いや、実際にそれらは実花を守らなかった。守るどころか、それらは枷だった。優しさで色を付けただけの鎖。実花は目を閉じる。「変わるのよ」ゆっくりと目を開く。変わる。この言葉は、誰に聞かせるためではない。部屋の空気に落ちるように響いただけだったが、頭の中で何かが切り替わる音がした。従順な藤宮実花。そんなものは、もうここにはない。(これ以外のドレスは……)クローゼットに入る。中を見渡す。並んでいるドレスはどれも似たような色調ばかり。白、薄桃色、淡い水色。期待に沿うために作られた色。父が望むのは藤宮の娘としての正解。一ノ瀬恒一が望むのは従順で、愚かな妻。実花は小さく息を吐いた。(馬鹿な私)自分はこれまで選ばれることだけを目的に生きてきた。それが分かるドレスたち。あまりにも滑稽で、空しかった。.「お嬢様?」ヘアメイクのために隣室で控えていた使用人たちが顔を出した。「ドレスに何か不備がありましたか?」「あの……他のドレスはないかしら」「……え?」「この色はちょっと……他に、ないかしら?」「お嬢様?」使用人たちが驚くのは当然だろう。この淡紫のドレスは、実花自身が悩み抜いて選んだという記憶がある。ギリギリまで悩んで決めたドレス。実花自身が他を望むなど、誰も想像していなかったはずだ。実花は彼女たちの戸惑いを感じながら、静かに口を開いた。「変わり……たいの」その一言に、部屋の空気がわずかに揺れる。
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第6話 鏡の中の私

「今日は髪をまとめて、首を見せてみたらいかがでしょう」そう声をかけた使用人にとっては、何気ない提案だっただろう。だが、実花にとっては奇妙な重みを持っていた。前の生の記憶がよみがえる。恒一は実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言った。女らしさを捨てて、男と張り合おうとしている。そんな、女性を見下すような言い方をしていた。その言葉を、愚かにも正解として受け取ってきた。だから、実花は一度も髪を結い上げなかった。それが恒一に好かれるための、正しい髪型だと信じていた。だが、いまはもう違う。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。呼吸の間に、わずかに迷いが挟まった。「お願い」恒一の好みに逆らおうとしている。胸の奥に緊張が走った。だが使用人たちは、その緊張を、自分で選んだ装いに自信が持てないためだと考えたようだった。「首元のアクセサリーは、少し大きめのものにしてみてはいかがでしょう」「視線が上に集まって、全体の印象も変わりますわ」実花が頷くと、使用人たちが一斉に動き始めた。「耳元はどういたしましょう」「一粒のシンプルなものも上品ですが、今日は揺れるタイプの方が映えるかもしれませんわ」「藍色のドレスですし、主張しすぎるとバランスが……」「いえ、むしろ少しだけ動きを出したほうが」「そうね、今の雰囲気に合うかもしれないわ」使用人たちの手で、実花の新しい姿が形作られていく。それは命令でも作業でもない。誰か一人の正解を押し付けるのではなく、複数の視点が重なり合って形を作っていく。まるで舞台を組み立てているような熱量。その中心に自分がいるという事実が、実花にはまだうまく理解できない。ただ、不思議と拒絶したいとは思わなかった。むしろ耳を澄ませてさえいる自分に気づく。どんなものが似合うのか。どんな姿を、自分が望んでいるのか。少しずつ、分かり始めていた。誰かの理想像として塗り固められるのではない。誰かの所有物として形を決められるのでもない。自分の手の中に、自分らしさが転がり込んできた気がした。·鏡の中で、自分がゆっくりと変わっていく。髪は丁寧にまとめられ、うなじが静かに現れる。下ろしているよりも大人っぽく見えて、そう見える自分が好きになった。藍色のドレスは光を受けるたびに色味が
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第7話 父、藤宮実篤

扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が、部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤(さねあつ)。藤宮一族の頂点に立つ男。彼は、いつだって場の支配者となる。誰かと会話をしていても。笑みを浮かべていても。その場の空気は最終的に、彼のものになる。逆らえない。逆らうことを考える前に自然と従ってしまう。実篤は、そうさせる種類の男だった。 ◇◇◇父の視線がまっすぐ向けられた。次の瞬間。その目がわずかに見開かれた。「その格好は、何だ」低く押し殺された声。怒鳴っているわけではない。だが、その静かさが不快感を際立たせている。眉間に深く刻まれた皺。今の自分の姿を歓迎していないことを、実花は即座に理解する。(……でも)不思議なほど、動揺はなかった。これが前の世なら。この視線だけで、心臓が縮み上がっていただろう。父に失望されることが怖くて。嫌われることが怖くて。自分が間違っているのだと、反射的にそう思ったに違いない。「それを、選んだのか?」正気を疑うような声音。非難が滲んでいるように聞こえる。――いつも通りに、戻れ。――いま、すぐに。言葉にはしていないが、そんな命令が聞こえた気がした。軽く深呼吸をする。一度だけ、目を伏せる。そして、ゆっくりと、父を見る。前の生にはなかった瞬間。もし、これが前の生であったなら。このとき自分がどうしたかは、容易に想像がつく。――申し訳ありません。謝罪していただろう。そして。――分かりました。いつも通りになっていたはず。「申し訳ありません」と「分かりました」これが、実花にとって父との会話のほとんどだった。彼が実花に話しかけるときは、何か不備があったときだけ。だから。まずは、「申し訳ありません」。そして、不備を修正をするため、父との会話は指示で終わる。自分に求められるのは「分かりました」と、承諾だけ。意見は不要。感情も不要。ただ正しく従うこと。それだけが求められていた。(でも、もう違う)『それを、選んだのか?』それへの答えは。(申し訳ありません、ではなく)「はい」深
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第8話 熱を帯びる

従順。静か。逆らわない。そんな人形のような娘。そんな認識が、父親の中で崩れていることが実花には分かった。その視線が、自分の着ているドレスに移った。深い藍色のドレスが、部屋の照明を受けて静かに揺れている。藍色。かつての実花なら、決して選ばなかった色。それを纏う自分の姿は見慣れないが、似合っていると、不思議なほど……。(しっくりとくる)長い眠りから目が覚めたような感覚だった。「私にとって、藤宮家の娘であることは誇りです」父の視線が向けられる。「私も、藤宮の品格を落としたくありません」父に反抗したいわけではない。ただ、実花自身にも意思があることを認めてほしかった。.藤宮の、箱庭のような環境で育った自覚はある。藤宮の価値観しか知らないと言ってもいい。でも、それを恥と感じたことはない。藤宮が世界の中心などと思っているわけではないのだから。実花は、世界が広いことを知っている。藤宮以外の世界があることも知っている。だが、それが実花の世界でないだけ。実花の世界の中心が藤宮というだけ。格式。伝統。これらを、実花は大事にしてきた。愛している。捨てたいわけがない。ただ、大事なものに、自分自身も含めたいだけ。(だからこそ)「もう、似合わないことはやめたいと思います」「……似合わない?」掠れた父の声は、理解していないようだった。「これまで着ていた色です……あと、デザインも……多分」実花は、そっと目を逸らす。藤宮実花として立ちたいと言っても、実花は自分の見る目に自信がなかった。服だけではない。人を見る目にも。「このドレスは私に似合うと、目も技術も優れ、なおかつ、藤宮家の品格もよく理解している方が選んだものです。飾りも、髪も、メイクも、全部です」父の目が変わるのが分かった。これは、わがままや反抗ではない。意見だと理解してくれた。実花はそう直感した。「お父様も、外商の西野さんを信頼なさっているでしょう?」深い藍色のドレスのスカートを軽く摘む。「あの西野さんが、成人を迎える私のために選んでくださったドレスです。これが、藤宮の品格を損なうものとは思いません」父は何も言わなかった。黙っている。だが、言葉を探している沈黙だと分かる。実花は言葉を重ねる。「ここにいる誰もが、藤宮の品格を理解してくださって
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第9話 視線の中の自分

誕生日パーティーが始まった。それは、前の生と同じように華やかだった。天井には巨大なシャンデリア。計算された光量が、磨き上げられた床で反射している。光る床を人々が歩くたび、ドレスの裾と靴音が動きと音を加えていく。香水の甘い香り。低く抑えられた笑い声。グラスの触れ合う繊細な音色。それらすべてが混ざり合って、パーティー特有の騒がしい静けさを作り出していた。誰も大声を出さない。だが、ここでは無数の感情が渦巻いている。値踏み。探り合い。牽制。打算。嫉妬。表面だけを見れば優雅な夜会。しかし、ここは戦場だった。足を踏み入れた瞬間、実花はそれを肌で感じ取った。「藤宮の令嬢だ」誰かが小さく呟く。その声を合図にしたように、多くの視線が一斉に実花へ向けられた。好奇。観察。興味。これから本格的に社交界へ姿を見せることになる藤宮家の一人娘。その視線には、探りを入れる者が多い。だが、中には実花をすでに知る者たちもいる。彼らから感じるのは。(私への違和感)その違和感は、これまでの実花なら選ばなかったであろうドレスだろう。だからこそ、わざとドレスの裾を揺らすように歩く。藍色のドレスが照明を受ける。そのたびに、深い海のような色彩が波打つ。会場の空気がわずかにざわめいた。「……おい」「あれ、本当に藤宮実花か?」「雰囲気が違う」「いつもはもっと、こう、白くて……儚い感じだったよな?」囁き声があちこちから漏れる。(いつも、か)実花は、従順で、誰かに庇護されることを前提にした少女。その「誰か」は父や恒一で。淡い色のドレスに身を包み、彼らの隣で静かに微笑む。儚い、は気を使った表現。目立たない、地味だと言いたいのだろう。(ほとんどが戸惑いで……嘲笑は少しだけ)実花はすべてを冷静に観察していた。前の生のときにはなかった余裕があった。だから、今になって分かる。前の生で、このあと実花が彼らに受け入れられたのは、従順で無害だったから。扱いやすい。空気を乱さない。そんな実花に周囲は安心していた。(あとは、一ノ瀬恒一の好みのドレスを着て媚びを売る女……かしら)嘲笑を含んだ視線を向けてくる女性たち。実花は彼女たちを見る。恒一の好みだからと、似合わない服を着ていた自分。それを恥じていた自分だったが、今はもう違う。
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第10話 遅れてきた婚約者

入口に立っていたのは、一ノ瀬恒一だった。 その姿を視界に捉えた瞬間。実花の胸に浮かんだのは、痛みや恨みではなく、懐かしさでもない。強い違和感があった。 (……こんな人だったかしら) 誰かが「一ノ瀬恒一だ」と呟いた。それがなければ、実花は本当に彼が一ノ瀬恒一だと認識できなかったかもしれない。 十年前だから、印象が違うのか。(違う……)変わったのは恒一ではない。変わったのは実花だった。 前の生では、恒一は実花の好きな人だった。恋情越しに恒一を見ていた。だから、恒一の全てが特別なものに見えていた。 けれど今、その恋情はない。視線の先で、恒一は会場の視線を集めていた。そして、それを当然のように受け止めている。藤宮家が主催する社交会なのに、自分が主役であるかのように振る舞っている。前の生では、そんな恒一が誰よりも輝いて見えたかもしれない。でも今は、演出にしか見えない。(そうだった) 恒一は、いつも少し遅れて現れていた。それは、意図した登場だったのだ。人は待たされることで、無意識に相手を「待つ価値のある存在」だと認識する。恒一はそれを利用していた。(私よりもあとに登場することで)自分は実花よりも上なのだと思わせる。 前世の実花は、その演出に気づきもしなかった。いや、正確には気づこうとしなかったのだ。 仕事を頑張っていたから遅れたのだと信じていた。忙しい中でも、自分のために来てくれたのだと、疑いなく喜んでいた。その“信じ込み”が、今となっては滑稽ですらある。 実花は静かに恒一を見つめる。 完璧に仕立てられたスーツ。乱れ一つない髪。社交界の中心に立つことを前提として磨き上げられた外見。 確かに恒一は整っている、スマートだ。以前の実花が、他の多くの女性たちが彼に視線を向ける理由も分かる。 だが今の実花には、そのすべてが“作られた表面”にしか見えなかった。 彼の笑顔は、人を安心させるために計算された角度で浮かび、視線の配り方も、歩幅も、声の抑揚も、すべてが「好まれる男」という完成形を演じているようだった。 実花の目は、恒一を一瞥しただけですぐ横へ逸れる。彼は一人ではなかった。その隣には――一ノ瀬美鈴がいた。 柔らかな笑み。控えめな仕草。そこにいることが当然であることを前提とした立ち振る舞い。 その細い腰へ添えられた
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