その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく、そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算されたような配置は、美しくあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。この光景に、実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。足を踏み入れ、正しさを求める場所に着くたび、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。その場所は本来、妻である実花を歓迎しているはずだった。法的に、実花は恒一の妻と定められていた。妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。しかし現実は、その役割にいるとは到底思えない形で存在していた。恒一の隣には、当然のように別の女性が座っているからだ。·「最近、少し痩せたんじゃないか」その言葉は、あまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。恒一の視線の先にいたのは、一ノ瀬美鈴だった。美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女、形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。義妹を可愛がっている。それは事実だが、それで説明がつけにくいほど二人の距離は近い。あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。そして恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑みは全て美鈴に向けられる。義妹なのだから当然。それでは、妻である実花にそんな当然はあったのか―――なかった。恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑みの欠片も実花に向くことはな
Last Updated : 2026-05-09 Read more