Todos os capítulos de 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Capítulo 141 - Capítulo 150

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第141話 もう綾香の仕事じゃないよ

『でもさ、最低な元旦那と咲子さんの関係は、もう綾香の仕事じゃないよ』仕事。その言葉が、少し胸に刺さる。私は昔から、何でも役割にしてきた。妻だから。娘だから。医師だから。ちゃんとしている人間だから。求められた役割を外れないことが、自分の価値だと思っていた。でも、そうしているうちに、自分が何をしたいのか分からなくなった。『私も、そう思った』『うん』『でも、まだ少し心が痛かった』『そりゃ痛いよ』美香はすぐに言った。『だってあの最低な元旦那、綾香の結婚記念日に咲子さん連れて帰ってきた男でしょ』その言葉に、胸が小さく軋む。『うん』『普通にかなり異常だからね』美香の声は、静かだった。怒鳴るわけではない。でも、はっきりしていた。『しかも、外ではそう見えないのが厄介なんだよ』私は顔を上げる。美香はカップを置いて、少しだけ身を乗り出した。『最低なあの人さ、外から見ると分かりにくいんだよね』『……うん』『見た目はいいし、外ヅラはいいし、頭もいいし、仕事もできる。』 『家柄もある。表面的には、ものすごく感じいいじゃん』私は何も言えなかった。その通りだった。優は、外では完璧だった。誰に対しても礼儀正しくて。少し冷たいけれど、品があって。相手が何を言われたいのか、すぐに分かる人だった。だから、周りは優を疑わない。私でさえ、何度も思った。私が我慢すれば、きっといつかうまくいく。この人に選ばれた私は、間違っていない。そう思いたかった。『結婚してた時の話もさ』美香は続ける。『普通の人に言ったら、信じられないと思う。あの人が? ってなるタイプ』『……うん』『でも、綾香は中にいたから分かるんだよね』中にいた。その言葉に、息が詰まる。そうだ。私は、外から見える優ではなく、家の中の優を見ていた。咲子には感情を使うのに、私には使わない優。私が傷つくことを想像しない優。それなのに、外では完璧に振る舞える優。『たぶんね』美香は、少し言葉を選ぶように視線を落とした。『綾香が自分で選択肢を持てなかった時に、さ』 『客観的に全部持ってる人と結婚した自分、っていう安心感を探すしかなかったのかもね』胸の奥を、まっすぐ刺された気がした。私は、すぐには返事ができなかった。優を好きだった。それは嘘ではない
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第142話 選択肢が多い

『離婚して、家を出て、優のことで傷ついて』 『仕事も生活も立て直してる途中でしょ。』 『その中で、近くにいて、守ってくれて、話を聞いてくれて』 『甘いことも言ってくれる大人の男がいたら』美香は少し肩をすくめる。『そりゃ、惹かれる前提になるじゃん』私は何も言えなかった。綾瀬先生のことを、そういうふうに見たくはなかった。でも、完全に否定もできなかった。先生は、いつも近くにいてくれた。私が揺れる時に、必要な言葉をくれた。私が自分を見失いそうになると、立ち止まる場所をくれた。それは救いだった。だからこそ、その救いに恋をしているのかもしれない。『それが悪いって言ってるんじゃないよ』美香はすぐに続けた。『救われた相手を好きになることだってあるし、それが本物じゃないとは思わない』『うん』『でも、綾香はこれからもっと色んな人を見て、選べる人だよ』その言葉に、私はゆっくり顔を上げた。美香は、少しだけ笑った。『バツイチ独身はモテるって言うし』『それ、本当?』『知らない。でも言うじゃん』思わず笑ってしまった。美香も笑う。『それに、綾香は美人なんだから。』 『医師で、ちゃんとしてて、今は一人で立とうとしてる。』 『これからもっといい出会いだって普通にあるよ』美人。そう言われることが、最近は増えた気がする。昔から言われることはあったが、素直に受け取るには、まだ慣れない。でも、美香の言い方は軽くなくて。私を励ますためだけでもなくて。本当に、そう見てくれているのだと思った。『だからさ』美香は、カップを持ち上げながら言った。『綾瀬先生だけ見て、すぐ決めなくてもいいと思う』胸の中で、何かが揺れた。それは反発ではなかった。寂しさでもない。少しだけ、怖さに近い。綾瀬先生を特別だと思っている。でも、まだ自分が何を選ぼうとしているのか、ちゃんと分かっていない。それを認めるのは、少し怖かった。『他の人にも目を向けてみたら?』美香は、穏やかに言った。『恋愛って決めなくていいから。』 『ただ、綾香が誰といる時にどう感じるのか、比べる材料を持つだけでもいいと思う』私は、紅茶の表面を見つめた。比べる。選ぶ。決める。全部、苦手だった。でも、もう誰かに決められるだけの場所へは戻りたくない。『……考え
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第143話 知らない選択肢

私は、選べる。会わない人を選べる。会いたい人を選べる。そして。まだ知らない誰かと会ってみることも、選べる。その自由は、少し怖くて。でも、思っていたよりもずっと、静かに胸を広げていった。美香はカップに残った紅茶を見ながら、少しだけ言いにくそうな顔をした。その表情に、私は気づく。『何?』『怒らないで聞いてくれる?』その一言で、嫌な予感がした。美香がこういう前置きをする時は、だいたい私に黙って何かを進めている。私は少しだけ眉を寄せた。『内容による』『じゃあ半分だけ怒っていい』『もう怒る前提なんだ』美香は、気まずそうに笑った。それから、スマートフォンを手に取る。『実はさ、太一くんの知り合いで、綾香に会いたいって言ってる人がいる』私は一瞬、意味が分からなかった。太一くんというのは、美香の彼氏だ。美香とはもう長く付き合っていて、私も何度か会ったことがある。穏やかで、人の話をちゃんと聞く人だった。美香の勢いを、笑いながら受け止めているような人。だから、太一くんの知り合いと聞いて、少しだけ警戒が緩みそうになる。けれど。それとこれとは話が別だった。『……私に?』『うん』『なんで?』『写真を見たから』『写真?』声が少し低くなった。美香はすぐに手を合わせる。『ごめん。勝手に見せた』『勝手に何してるの』思わずそのまま言った。美香は、予想していたのか、素直に頭を下げる。『本当にごめん。でも変な流れじゃないの。太一くんとご飯してた時に、最近綾香が一人暮らし始めて少し落ち着いてきたって話をしてて』『そこで写真を見せる必要ある?』『ないです』『美香』『はい。反省してます』そう言いながら、美香の顔には完全な反省だけではないものがあった。少し、楽しそうでもある。私はため息をついた。『それで?』『その場に太一くんの仕事関係の人がいてね。中小企業の社長さんなんだけど、すごく感じのいい人で』『社長さん』『って言っても、偉そうなタイプじゃないよ。地方の食品とか飲食店向けの商品とかを扱ってる会社の人。最近は自社ブランドもやってるみたい』美香は、私の表情を見ながら慎重に言葉を選んでいた。『年は三十代後半。離婚歴なし。仕事はちゃんとしてる。話し方も穏やか。少なくとも、最初から距離詰めてくるタイプではない』『そ
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第144話 一回だけなら

『二人きり?』私が聞くと、美香は首を振った。『違う。そこは私も嫌だから、最初は二対二』『二対二』『私と太一くんも一緒。ご飯だけ。もし途中で嫌なら帰っていい。恋愛って決めなくていい』美香は、少しだけ声を柔らかくした。『ただ、綾香が誰といる時にどう感じるか、少し見てみてもいいんじゃないかなって思った』誰といる時に、どう感じるか。それは、綾瀬先生を試すこととは違うのだろうか。少しだけ、罪悪感があった。先生は、私のことを待ってくれている。近づきたいと言ってくれている。それなのに、別の人と会う。そう考えると、胸がざわつく。でも、綾瀬先生はきっと言う。自分で決めて、と。先生がどう思うかではなく、私がどうしたいかで決めて、と。その想像が、余計に胸を痛くした。『綾瀬先生に悪い気がする』思わず言うと、美香は少しだけ目を細めた。『まだ付き合ってないんでしょ?』『うん』『綾香が先生の気持ちを大事にしたいのは分かる。でも、そこで自分の選択肢を狭めるのは、また前と同じじゃない?』その言葉に、胸が小さく刺さる。また前と同じ。誰かの気持ちを先に見て、自分の選択を小さくする。それは確かに、私がずっとやってきたことだった。『先生に誠実でいたいなら、黙って行くんじゃなくて、ちゃんと自分で決めて、必要なら話せばいいと思う』『話す……』『うん。嘘つく必要はない。でも、許可を取る必要もない』許可。その言葉が胸に残る。私は、いつも誰かに許可を求めていたのかもしれない。父に。優に。家に。そして今、綾瀬先生にまで。そうなりたくはなかった。私は目を伏せる。『……その人、名前は?』美香の表情が少し明るくなった。『加瀬さん』『加瀬さん』『うん。加瀬亮介さん。会社経営してる人。太一くん曰く、仕事はかなりちゃんとしてるけど、偉そうじゃないタイプ』『太一くんの知り合いなら、そんなに変な人ではないよね』『そこは信じていいと思う』美香は少し笑った。『太一くん、変な人を綾香に紹介したら私に殺されるの分かってるから』『怖い』『それくらいでちょうどいい』その言い方に、思わず笑ってしまった。少しだけ空気が軽くなる。私はカップを置いた。まだ迷っている。でも、完全に嫌ではない。自分の世界を広げてみること。先生だけを見つめて、自分
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第145話 綺麗になった人

土曜日。仕事が終わる少し前から、私は少し落ち着かなかった。今日の夜、美香と太一くん、それから加瀬さんと四人で食事をする。二人きりではない。恋愛前提でもない。ただ、自分が誰といる時にどう感じるのかを知るための予定。そう何度も自分に言い聞かせていた。それでも、ロッカーの中に入れておいたワンピースを見るたびに、胸が少しだけそわそわした。淡いグレーのワンピース。派手ではない。でも、仕事用の服よりも柔らかい。袖口が少しだけ揺れて、首元も詰まりすぎていない。朝、家を出る前に何度も迷って、結局それをバッグに入れた。誰かに綺麗だと思われたいというより。自分を雑に扱いたくなかった。結婚していた頃の私は、そういう気持ちを少しずつ手放していた気がする。髪を整えても、優は見ない。リップを塗り直しても、優は気づかない。記念日の料理を作っても、優は帰ってこない。そういうことが続くうちに、私は自分を飾ることまで馬鹿らしくなっていた。でも今日は違う。加瀬さんのため、とは少し違う。美香のためでもない。私は、私のために整えたかった。診察が終わり、白衣を脱ぐ。ロッカールームでワンピースに着替え、鏡の前に立った。少しだけ髪を巻き直す。リップを薄く塗る。耳元に、小さなパールのピアスをつける。たったそれだけで、鏡の中の自分が少し知らない人に見えた。悪くない。そう思えたことに、少し驚いた。ロッカーを出ると、受付のスタッフがちょうど書類を抱えて廊下を歩いていた。私を見た瞬間、目を丸くする。『白松先生、今日すごく雰囲気違いますね』『え』『かわいいです。お出かけですか?』かわいい。その言葉に、反射的に否定しそうになる。そんなことないです。たぶん、いつもの私はそう言う。でも今日は、少しだけ止まった。否定しなくてもいいのかもしれない。『……ありがとうございます』そう返すと、スタッフは嬉しそうに笑った。『先生、いつも綺麗ですけど、今日は柔らかい感じがします』柔らかい。その言葉が、胸に少し残った。すぐ近くにいた看護師さんも、こちらを見て微笑む。『デートですか?』『違います』即答したつもりだったのに、声が少し上ずった。二人が顔を見合わせて笑う。『その反応、怪しいです』『本当に違います』『でも、楽しんできてください』
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第146話 気になるよね、普通に

『……先生』『好きな人が、今日みたいな格好で別の男に会いに行くって聞いたら』先生は少しだけ肩をすくめた。『気になるよね、普通に』開き直ったような言い方だった。でも、軽くはない。その奥にある熱が、ちゃんと見える。『今日の綾香ちゃん、すごく綺麗だし』私は息を止めた。先生の目が、また少しだけ私を映す。髪。ワンピース。耳元。頬。その視線に触れられているわけではないのに、肌が小さく反応する。『だから、正直面白くないけどさ』先生ははっきり言った。『でも、それは俺の気持ちであって、綾香ちゃんの選択を縛る理由にはならないから』その言葉は、甘くて。でも、毅然としていた。好きだと言う。嫉妬していると言う。綺麗だと言う。それでも、私を止めない。その全部を同じ場所に置ける人なのだと思った。『だから、ちゃんと行っておいで』先生は言った。『楽しかったなら、楽しかったでいい』『……いいんですか』聞いた瞬間、しまったと思った。また許可を求める言い方になってしまった。先生もそれに気づいたのだと思う。少しだけ目元を緩める。『俺がいいかどうかじゃないでしょ』『……はい』『でも、綾香ちゃんが楽しそうに帰ってきたら、たぶん俺は普通に嫉妬する』思わず顔を上げる。先生は、少しだけ笑った。『それも俺の問題』その笑い方が、ずるかった。端正な顔が、ふっと柔らかくほどける。さっきまでの硬さが少しだけ消えて、目元に甘さが滲む。私はその瞬間、思ってしまった。この人の笑顔が好きだ。たぶん、かなり。胸の奥が熱くなる。私はバッグの持ち手を握り直した。『帰ったら、連絡します』『うん』先生は頷いた。『返信は綾香ちゃん次第でいい』それから少しだけ、声を柔らかくする。『でも、遅くなりすぎないこと』『そこは言うんですね』『言うよ』先生は真顔で言った。『心配はするから』その言葉が、少しだけ可笑しくて。少しだけ甘くて。私は笑ってしまった。先生の表情も、また柔らかくなる。その笑顔を見ていると、廊下の空気まで少し静かになる気がした。私は、そのまま行ってしまうのが少しだけ惜しくなった。でも、今日は自分で決めた予定がある。そのことをなかったことにはしたくない。『先生』『うん』『明後日』声が少し震えた。でも、止めな
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第147話 初めましての会

店に着いたのは、約束の時間より五分ほど前だった。それなのに、入口の前で足が止まる。ガラス越しに見える店内は、思っていたより落ち着いていた。木のカウンター。低い照明。奥には半個室のような席がいくつかある。美香が選ぶ店にしては、少し大人っぽい。私はバッグの持ち手を握り直した。怖いことをしに来たわけではない。美香と太一くんもいる。二人きりではない。恋愛前提でもない。ただ、会ってみるだけ。そう何度も自分に言い聞かせる。けれど、胸の奥は少し落ち着かなかった。誰かに紹介される。誰かに見られる。誰かと話して、自分がどう感じるかを知る。たったそれだけのことが、今の私には少し大きかった。結婚していた頃の私は、外の選択肢を見ることをほとんど諦めていた。優が咲子を選んでいることを知っていても。私の方を見ていないことを分かっていても。妻という場所にいれば、まだ自分の人生は壊れていない。どこかでそう思おうとしていた。だから今、こうして別の誰かに会いに来ていることが、不思議だった。自分の足で来た。それなのに、まだ少しだけ慣れない。スマートフォンが震える。美香からだった。『奥の席』『入って右』その文面に少しだけ息を吐いて、私は店の扉を開けた。『いらっしゃいませ』店員に案内され、奥へ進む。すぐに美香が私に気づいた。『綾香、こっち』美香の隣には太一くんがいた。太一くんは、美香の彼氏だ。もう何度か会ったことがある。穏やかで、余計なことを言わない人。美香の勢いを、笑いながら受け止めているような人だった。私を見ると、太一くんが軽く手を上げる。『綾香ちゃん、久しぶり』『お久しぶりです』その声を聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。完全な知らない場所ではない。そう思えた。そして、その向かいに座っていた男性が立ち上がった。『はじめまして。加瀬陽平です』柔らかい声だった。三十代後半くらいだろうか。濃いグレーのジャケットに、黒のニット。社長と聞いて少し身構えていたけれど、派手な印象はない。目元が穏やかで、立ち上がる動作も自然だった。押してくる感じがない。それだけで、少し安心した。『白松綾香です。今日はありがとうございます』『こちらこそ。急にすみません』加瀬さんは、少し困ったように笑った。『美香さんから、
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第148話 世間が狭すぎる

『陽平、普段はかなりしっかりしてるのに、病院の話になると急に弱くない?』『弱点を早めに出しておいた方が、信用されるかと思って』加瀬さんが軽く返す。場は穏やかだった。美香も、私の様子をちらちら見ながら、安心したように笑っている。私は水のグラスを持ち上げた。悪くない。本当に、悪くない。加瀬さんは感じがいい。話しやすい。こちらに変な期待を押しつけてこない。たぶん、普通に会っていれば、もっと素直に楽しいと思えたのかもしれない。でも。ふとした間に、綾瀬先生の顔が浮かぶ。『好きだからね』『気になるよね、普通に』『明後日、美味しいもの食べに行こう』あの廊下での笑顔。嬉しい、とまっすぐ言ってくれた声。その全部が、まだ胸の中に残っている。私は、自分が思っている以上に、あの人に心を持っていかれているのかもしれない。そう気づいて、少しだけ怖くなった。怖いけれど。嫌ではなかった。『白松さん?』加瀬さんに呼ばれて、私は顔を上げる。『すみません。少し考えごとをしていました』『いえ。疲れていたら言ってくださいね』『ありがとうございます』その言葉も、優しかった。でも、私はまた比べてしまう。綾瀬先生なら、疲れてる?と聞く前に、私の顔を少し見て。それから、答えを待つのだろう。急がずに。私が大丈夫と言いかけるところまで、見ているのだろう。そう思った瞬間、胸がじわりと熱くなった。美香が、そんな私を見逃さなかった。『綾香、顔』『え』『今、完全に違うこと考えてたでしょ』『美香』『はいはい、言いすぎない』太一くんがすぐに美香を止める。加瀬さんは、気を悪くした様子もなく笑った。『それくらい自然でいてもらった方が、僕はありがたいです』その返し方も、よかった。余裕がある。嫌味がない。私は、ちゃんとこの人を見ようと思った。綾瀬先生と比べるためではなく。加瀬さんという人を、ひとりの人として。そう思ったところで、仕事の話が少し深くなった。太一くんが、前に聞いていたらしい案件のことを口にする。『そういえば、例の契約の件、落ち着いたの?』『ああ、かなり』加瀬さんの表情が、少し明るくなった。『最近、弁護士事務所を変えたんです。それで、ずっと困っていたことが一気に整理されて』『それは良かったですね』私が自然に言うと
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第149話 胸騒ぎが、消えない

『最低な元旦那、どこにでも出てくるじゃん』『美香』『ごめん。でも本音』太一くんが、美香を軽くたしなめる。『今、加瀬さんは知らないんだから』『分かってる。だから飲み込んだんじゃん』美香は不満そうに言ってから、私を見た。『言わなくてよかった?』『うん』私は頷いた。『今ここで、元夫だって説明したくなかった』『分かった』美香はすぐに頷いた。その切り替えの早さに、少し救われた。美香は怒ってくれる。でも、私が言わなくていいと言えば、ちゃんと止まってくれる。その距離がありがたかった。『でも、外では本当にそういう評価なんだね』太一くんが、少し言いにくそうに言った。『加瀬さん、かなり信頼してる感じだった』『そうだと思う』私はグラスの水面を見つめた。『優は、外では本当にそういう人だから』仕事ができる。感じがいい。相手が求めているものを読むのが早い。場を乱さない。人に嫌な印象を残さない。それは、嘘ではない。だからこそ、結婚していた時の私の話は、外から見れば信じにくかったのだと思う。『それが厄介なんだよね』美香が低い声で言った。『外から見たら、普通にすごくいい人に見えるから』私は何も返せなかった。しばらくして、加瀬さんが戻ってきた。電話を終えたばかりの少し慌ただしい空気をまといながらも、席に戻る時にはもう穏やかな顔に戻っている。『すみません。少し騒がしくて、外に出ていました』『大丈夫ですよ』太一くんが答える。加瀬さんは席に座りながら、少しだけ申し訳なさそうに私を見る。『今の、東郷先生だったんです』心臓が、また小さく沈む。『さっきの件で電話をいただいて。今外にいて、太一と、その友人の白松綾香さんと食事しているところですって話したら』加瀬さんは少し困ったように笑った。『綾香、と呼ばれていたので、びっくりしました』胸が、静かに冷えた。美香の指が、テーブルの上で止まる。太一くんも、黙ったまま私を見る。加瀬さんは、そこでようやく、口にしたことの重さに気づいたようだった。『あ、すみません。余計なことを』『いえ』私は、声を整えた。『大丈夫です』言ってから、少しだけ唇を結ぶ。また、大丈夫と言った。でも今は、それを訂正しなかった。この場を保つための言葉も、必要な時がある。ただ、自分の痛みをなか
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第150話 黒い車

店を出る頃には、夜の空気が少し冷えていた。食事は、思っていたより楽しかった。加瀬さんは最後まで感じがよかった。話し方は穏やかで、こちらの言葉を急かさない。仕事の話になると、少しだけ目の奥が明るくなる。その温度も悪くなかった。私は、何度か自然に笑った。美香も、太一くんも、途中からは少し安心したように見えた。優の名前が出た時の冷えた空気は、完全には消えなかった。けれど、それでも。私はその場を続けると決めた。優の影に全部を持っていかれたくなかったから。『今日はありがとうございました』店の入口で、私は加瀬さんに頭を下げた。『こちらこそ。楽しかったです』加瀬さんは、少しだけ照れたように笑った。『白松さんとお話しできてよかったです』その言葉は、まっすぐだった。押しつけがましくない。でも、ちゃんと好意がある。私は、その温度を受け取った。『私も、楽しかったです』嘘ではなかった。そう言えたことに、少しだけほっとする。美香が横で小さく私を見る。よかったね、と言いたそうな顔だった。私はそれに、小さく頷いた。その時だった。店の前の通りに、見慣れた車が停まっていることに気づいた。黒い車。艶のある車体。何度も乗ったことがある。結婚していた頃、病院の前や家の前で待っていた車。胸の奥が、急に冷える。車のそばに、優が立っていた。ダークスーツに、黒いコート。仕事帰りなのだろう。それなのに、髪の乱れひとつなく、ネクタイの結び目まできちんとしている。街灯の光が、横顔の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。高い鼻筋。伏せた睫毛。薄く結ばれた唇。夜の外気の中でも、優は少しも崩れていなかった。隙がない。凛としていて。綺麗だった。悔しいほどに。片手には、薄いファイルを持っている。革の書類ケースに挟まれた、資料らしきもの。ブランドの紙袋でも。個人的な贈り物でもない。仕事のための資料。だからこそ、余計に自然だった。優と目が合った。優は、少しだけ口元を緩めた。柔らかく。まるで、ここで会ったことが不自然ではないみたいに。『綾香』その声に、美香の肩がわずかに強張った。太一くんも黙る。加瀬さんは、すぐに姿勢を正した。『東郷先生』優は加瀬さんへ視線を移し、穏やかに会釈した。『加瀬さん。遅い時間にすみません
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