All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話:最悪な結婚記念日

四回目の結婚記念日。その夜、夫は初恋の女を連れて帰ってきた。テーブルの上の料理は、すっかり冷めていた。優が好きだったレストランの味を再現した料理。小さな白い花束。栓を開けないままのワイン。四時間前に送ったメッセージには、「既読」の二文字だけが残っている。返信は来ない。それ自体は、もう珍しいことではなかった。慣れてしまったことが、一番嫌だった。私は諦めきれずに、もう一度時計を見る。午後十時を過ぎていた。本当なら、七時には帰ってくるはずだった。料理を温め直す気にもなれず、スマホを手に取る。何気なく開いたSNSで、指が止まった。『今年もありがとう♡』投稿者は、白川咲子。——優の初恋の人だ。そして、今も関係の続いている恋人。写真に顔は写っていない。けれど、画面の端に映り込んだ腕時計を見た瞬間、呼吸が止まった。見間違えるはずがない。結婚祝いに、私が優へ贈った時計だった。胸の奥が、すうっと冷えていく。ああ。今日も、そっちなんだ。結婚記念日よりも。妻よりも。咲子と過ごす時間を選んだんだ。……知っていた。この結婚が、父親同士の事情から始まった、期限付きの契約だということも。結婚する前、優は私にはっきり言った。「誤解しないでほしい」「咲子との関係は終わらない」「結婚は五年だけ。お互い、割り切ろう」それでも、私は優が好きだった。頭が良くて。自信に満ちていて。誰に対しても堂々としている。冷たく見えるのに、ときどき不意に優しい。そんな優を、いつか私だけが知ることができるのではないかと思っていた。時間を重ねれば。ほんの少しでも、私を妻として見てくれる日が来るかもしれない。そんな期待を、四年間も捨てられなかった。午後十時半。玄関のロックが外れる音がした。ようやく帰ってきた。そう思って立ち上がった瞬間、身体が凍りつく。「ただいま」優の隣には、当たり前のように咲子が立っていた。「こんばんは、綾香さん」咲子は、まるで自分の家へ帰ってきたような顔で笑っている。綺麗で、可憐を絵に描いたような人。昔から何も変わらない。優がずっと好きな女。「……なんで」喉が詰まり、うまく声が出なかった。優はネクタイを緩めながら、当然のように言う。「咲子が終電逃したら困るし、今日も泊まらせる」一瞬、意味が理解
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第2話:それ、普通じゃない

青山駅前のカフェに着くと、みかが窓際の席から大きく手を振っていた。派手な金髪のボブは、混んだ店内でもすぐに見つかる。「綾香、こっち」香山みか。高校一年の頃からの親友で、私が唯一、本音を話せる相手だった。向かいの席に座った瞬間、みかの表情が固まる。「……待って」私の顔をじっと見たあと、眉を寄せた。「何、その顔。ひどすぎるんだけど」私は苦笑した。「そんなに?」「大学の時、彼氏に振られた次の日よりひどい」その言葉に、なぜか少し笑ってしまった。笑えたことに、自分でも驚く。「今日、結婚記念日だったんだよね」みかの動きが止まった。「……え?」私はコーヒーカップへ視線を落とした。そして。冷めた料理のことも。咲子のSNSに、優の腕時計が映っていたことも。愛人を連れて帰ってきて、今夜も泊まらせると言われたことも話した。最後に。結婚記念日だと伝えた私に、優が返した言葉も。「だから?」すべてを聞き終えると、みかは二秒ほど黙った。「……最低だね」声は静かだった。けれど、次第に表情が険しくなっていく。「いや、最低どころじゃない」少し身を乗り出し、声を落とした。「綾香、それ普通じゃないからね」胸の奥が、わずかに痛む。「でも、最初から言われてたし」自分でも、また同じ言葉を口にしていると思った。「咲子さんとは別れないって」「五年だけの結婚だって」みかは信じられないものを見るように、私を見つめた。「契約結婚だからって、何をしてもいいわけじゃないでしょ」「結婚記念日に愛人を連れて帰ってきて、自分の妻に出ていかせるなんて普通じゃない」言い返せなかった。正確には。言い返すための言葉が、もう残っていなかった。「綾香」みかが、今度ははっきりと言った。「あんた、完全に感覚が麻痺してるよ」胸の奥を、鋭いものが通った。そうかもしれない。優が帰らない夜にも慣れた。咲子が家にいることにも慣れた。夫婦らしい会話がないことも。一人で食事をすることも。少しずつ我慢しているうちに、それが普通だと思うようになっていた。そうしなければ、四年間もあの家にはいられなかった。「……私ね」気づけば、口が動いていた。カップを持つ指先へ視線を落とす。「一回くらい、選んでほしかった」みかは何も言わなかった。その沈黙が、かえって苦
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第3話:妙に距離が近い男

「返信しなよ。このタイミングなんだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「無理でしょ」私はすぐに首を振る。「学会で二度会っただけだし、そんなに親しいわけじゃないから」もう一度、画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。この前の学会ぶりです。急だけど、今少し話せたりする?』どうして今日なのだろう。夫が愛人を家へ連れて帰ってきた日に。四回目の結婚記念日に。偶然にしては、あまりにもタイミングがよすぎる。「普通に『どうしました?』でいいじゃん」「でも、急に連絡してくるような距離じゃないし」「だから、理由を聞くんでしょ」みかは当然のように言った。それでも、指は動かなかった。私はまだ既婚者だ。半年後には離婚する。そう口にしたばかりなのに、まだその現実すら受け止めきれていない。誰かに期待して、また傷つくのはもう十分だった。「ほら、貸して」みかが手を伸ばす。「ちょっと、待って」止めるより早く、スマホを奪われた。「みか!」「はいはい。任せなさい」素早く文字を打ち、そのまま送信する。『こんばんは。どうされましたか?』「……最悪」「感謝してよ。自分じゃ送れなかったくせに」みかは悪びれる様子もなく、カフェラテへ口をつけた。「人生って、こういう時に急に動くんだよね」「動かないよ」深く息を吐く。何も始まるはずがない。私は離婚の準備を始めようとしているだけだ。恋愛をしたいわけでも。誰かに救ってほしいわけでもない。ただ。あの家から出られるようになりたい。その時、スマホの画面に既読がついた。驚くほど早かった。数秒後。すぐに返信が届く。【綾瀬隼人】『よかった。今、もしかして青山います?』「……え?」思わず声が漏れた。みかが身を乗り出す。さらに通知が続く。『東郷先生らしい人を見た気がして。すごく暗い顔で歩いてたから、気になって』指先が止まった。暗い顔。私がどんな顔で家を出たのか。自分ではわかっていなかった。けれど、学会で二度会っただけの人には気づかれた。四年間一緒に暮らしてきた夫は。私がどんな顔で帰りを待っていたのか、一度も気づかなかったのに。みかの表情が、少しだけ真剣になる。「綾香」「何?」「その人、ちゃんとあんたを見てるっぽいじゃん」胸の奥が、かすかに揺れた。
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第4話:離婚、手伝ってあげる

「……それ、旦那さんですか?」綾瀬先生の視線が、伏せきれなかったスマホの画面へ落ちる。私は反射的に手を重ねた。「……違います」ほとんど条件反射だった。自分の家に帰るかどうかさえ、愛人の都合で決められる妻。そんな惨めな自分を、知られたくなかった。数秒の沈黙。綾瀬先生が、少し困ったように笑う。「いや、それはちょっと無理あるよね」隣で、みかが吹き出した。「先生、正解です」「みか」止めようとしたけれど、もう遅かった。みかは私の制止を無視して、綾瀬先生へ向き直る。「この人の旦那、本当に最低なんですよ」「結婚記念日のディナーをすっぽかして、愛人を連れて帰ってきたんです」「しかも、その愛人を今夜も泊まらせるって」みかは、私のスマホを指差した。「それで、妻には『嫌なら帰らなくていい』ですよ」カフェの雑音が、妙に遠く聞こえた。綾瀬先生の表情から、笑みが消える。「……愛人?」低い声だった。驚いているというより、声の温度が一気に下がったように聞こえた。私は視線を落とす。「……契約結婚なんです」誰に向けた説明なのか、自分でもわからなかった。「最初から、そういう約束で」「優には好きな人がいて」「五年が過ぎたら、離婚することになっていて」言葉を重ねるほど、自分へ言い聞かせているような気がした。「だから、別に——」続きは出なかった。別に、平気。別に、傷ついていない。そんなはずはない。契約だったとしても、私は四年間ずっと傷ついていた。優を好きだった。いつか、ほんの少しでも選ばれる日が来るかもしれないと思っていた。けれど。一度も、その日は来なかった。綾瀬先生は、黙って私を見ていた。同情するような目ではない。哀れむような表情でもない。ただ、私の言葉をそのまま受け止めている。それが、少しだけ落ち着かなかった。しばらくして。綾瀬先生が、小さく息を吐いた。「東郷先生」落ち着いた声だった。「契約結婚だったとしても」言葉を選ぶように、一度視線を落とす。それから、まっすぐ私を見た。「普通に傷ついていいやつだから」時間が止まったような気がした。その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。傷ついていい。そんなことを言われたのは、初めてだった。私はずっと。契約なのだから、仕方がないと思っていた。最初からわかっ
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第5話:逃げる準備

「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生の言葉が、ずっと頭から離れなかった。逃げる。その言葉で、曖昧だった未来が急に形を持った。家を出る。この結婚を終わらせる。自分の力で暮らせるようになる。それでも私は、なぜか逃げる側の自分に罪悪感を覚えていた。傷つけられたのは、私の方なのに。「……でも」気づけば、口が動いていた。テーブルの上のカップへ視線を落とす。「あと半年で終わるので」「それまで我慢すれば——」「無理だと思うな」返事は、驚くほど早かった。思わず顔を上げる。綾瀬先生は笑っていなかった。さっきまでの軽い空気もない。真剣な目で、まっすぐ私を見ている。「東郷先生」少しだけ言葉を選ぶように、視線を落とす。それから静かに続けた。「そんな顔しててさ」「あと半年も耐えたら、たぶん心が壊れちゃうよ」胸が大きく跳ねた。心が壊れる。そんなふうに言われると思わなかった。私は反射的に笑おうとした。大丈夫です。いつもなら、そう言えた。平気なふりをして。何でもない顔をして。そうしている方が、周りを困らせずに済んだから。けれど。口元が、うまく動かなかった。綾瀬先生の目が、本当にそう思っている目だったからだ。みかも、隣で大きく頷く。「本当にそう」心配を隠そうともせず、私を見る。「綾香、自分で思ってるより危ないからね」「最近、ちゃんと寝てる?」返事ができなかった。最近は、眠れない夜が増えた。ようやく眠れても、朝が来るのが怖い。食事も、ほとんど喉を通らない。それでも私は、毎日自分へ言い聞かせてきた。あと半年。契約なのだから仕方ない。もう少しだけ我慢すればいい。そうやって、自分の苦しさを見ないふりをしていた。認めてしまえば。本当に、もう戻れなくなる気がしたから。「……大げさだよ」何とか笑おうとする。けれど、声は自分でもわかるほど弱かった。みかは笑わなかった。綾瀬先生も、何も言わない。その沈黙の中で。初めて、自分でも認めてしまった。私は、もう限界に近い。綾瀬先生が、テーブルの上へ一枚の名刺を置いた。「無理にとは言わない」声は穏やかだった。「でも、仕事に戻りたくなったら連絡して」名刺には、綾瀬クリニックの名前が印刷されている。その下に、手書きで携帯番号が添えられていた。『困ったら
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第6話:知らない名前

「……誰、それ?」優の視線は、私ではなく。手の中のスマホへ向けられていた。正確には。画面に表示された名前へ。【綾瀬隼人】たった四文字。それだけなのに、優は視線を逸らさなかった。こんなことは初めてだった。私が誰と会っているのか。誰から連絡が来たのか。優が気にしたことなど、一度もない。「……知り合いだよ」できるだけ何でもないように答える。けれど、優は納得したようには見えなかった。「男?」胸の奥が、わずかにざわつく。今さら。そんなことを聞くんだ。「学会で会った先生」「医者?」「うん」短いやり取り。それで終わると思った。優も、一度は興味を失ったように視線を外したから。けれど。すぐに、またスマホへ目を戻す。「こんな時間に連絡来るんだ」独り言のような言い方だった。私は少し眉を寄せる。「病院関係なら、珍しくないでしょ」思ったより、声に棘が混じった。優が私を気遣ったわけではない。四年間、何も聞かなかった人に。今さら干渉されることが、妙に腹立たしかった。優はわずかに眉を寄せた。そして。何でもないことのように言う。「仕事に戻るわけじゃないんだし」胸の奥が冷えた。やっぱり。優が気にしているのは。私が何を考えているのかではない。自分の知らないところで。妻という役割が動き始めたことなのだ。「まだ決めてないよ」そう返すと。優の表情が、ほんの少しだけ変わった。「何を?」「仕事に戻るかどうか」優は黙る。一瞬だけ。本当に、わずかな間だった。けれど。その沈黙に、妙な違和感が残った。「……そう」結局、それだけだった。いつものように。興味がないふりをする声。「会食のこと、忘れないでね」優はそれだけ言うと、寝室へ向かった。私の仕事より。知らない男より。最後には、やはり外から見える夫婦の形へ戻る。その背中を見送りながら。胸の奥に、小さな疑問だけが残った。どうして。仕事に戻るかもしれないと伝えた瞬間。あの人は、黙ったのだろう。***翌朝。目を覚ますと、家の中は静かだった。優はもう仕事へ出たのだろう。そう思いながら、リビングへ向かう。けれど。ソファに座っていたのは、優ではなかった。「あ、おはよう」咲子だった。優の大きなシャツを着て。飲みかけのコーヒーを前に置
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第7話:初めての逃げ道

「……行かなきゃダメなの?」優の言葉に、部屋の空気が止まった。そんなことを聞かれるとは思わず、私はしばらく答えられなかった。「……え?」聞き返すと、優はすぐに視線を逸らした。「別に」いつもの面倒そうな表情を浮かべる。「最近、変な勧誘も多いし」心配していると言うには、あまりにも雑だった。けれど。本当にどうでもいいなら、わざわざ口にする必要もない。その中途半端な関心が、妙に胸へ引っかかった。咲子さんが、小さく笑う。「優って、そういうところ心配性だよね」昔から優を知っている人の声だった。私の知らない優を、当然のように語る声。優は否定しなかった。私は二人を見ないように、バッグの紐を握る。「病院を見学するだけだから」できるだけ平静に言った。「働くかどうかも、まだ決めてないし」優は何も答えない。ただ、わずかに眉を寄せた。「ふーん」それだけだった。けれど。玄関へ向かう足取りが、ほんの少しだけ遅くなる。そんな小さな変化に。まだ心が反応してしまう自分が、嫌だった。***夕方。指定された場所は、表参道から少し離れた住宅街だった。大通りの喧騒を抜けると、空気が急に静かになる。低層のマンション。小さなカフェ。歩道沿いに並ぶ、手入れされた植え込み。本当にこの辺りで合っているのか確かめようと、スマホを見る。【綾瀬隼人】『着いた?外にいるんだけど』顔を上げると、すぐにわかった。黒いシャツの上に白衣を羽織り、長い髪を後ろで束ねた男。学会やカフェで会った時とは、少し印象が違う。同じ人なのに。白衣を着ているだけで、立っている空気が変わって見えた。「東郷先生」綾瀬先生が軽く手を上げる。「ちゃんと来た。偉い」あまりにも真面目に言うので、思わず笑ってしまった。すると。綾瀬先生が、少しだけ目を細める。「……やっと笑ったね」心臓が、小さく跳ねた。すぐに視線を逸らす。「子ども扱いしないでください」「してないよ」軽く笑ったあと、少しだけ声を落とす。「逃げずに来たの、普通にすごいと思ってる」その一言だけが、妙に真剣だった。何と返せばいいかわからず。私は黙ったまま、クリニックの入り口へ視線を向けた。***綾瀬クリニックは、想像していたよりも落ち着いた場所だった。白を基調にした受付。柔らかな照明
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第8話:帰りたくない

けれど、次の瞬間。ガラスの向こうに立っていた男が、ゆっくりとこちらに背を向けた。耳にスマホを当てたまま、街灯の下へ歩いていく。明かりの中に浮かび上がった横顔を見て、私はようやく気づいた。優じゃない。背格好がよく似ていただけの、見知らぬ男だった。「……違った」張り詰めていた息が、一気に抜ける。激しく鳴っていた心臓も、少しずつ静まっていった。どうして私は。優が、ここまで追いかけてきたと思ったのだろう。あの人が。私のために来るはずなんてないのに。そうわかっていたはずなのに。ほんの一瞬。期待してしまった。けれど。そんなはずはなかった。優は、私が泣いていても気づかなかった。体調を崩しても。帰りが遅くなっても。迎えに来たことなど、一度もない。私のために動く人ではない。それが。四年間で知った現実だった。「知り合い?」すぐ前から、綾瀬先生の声が聞こえた。彼はまだ、私を庇うように立っている。「……いえ。見間違いでした」そう答えると、綾瀬先生はもう一度だけ窓の外へ視線を向けた。そして、私の隣へ戻る。「そっか」何事もなかったような声だった。けれど、その表情にはまだ、わずかな警戒が残っていた。私は手の中のスマホへ視線を落とす。【優】『……今、誰といるの?』短い文。何度見返しても、違和感だけが残った。今まで。そんなことを聞かれたことは、一度もない。四年も一緒にいれば、わかる。優は、私を見ていなかった。見なくても、困らなかっただけだ。それなのに。私が優の知らない場所へ動き始めた途端。誰といるのかを確かめようとしている。ただ。自分の知らないところで、妻が動き始めたことが気に入らないだけかもしれない。考えている間に。綾瀬先生が、率直に聞いた。「旦那さん?」私は少し迷ってから、小さく頷く。「……はい」綾瀬先生は、それ以上何も聞かなかった。ただ、私の顔を見て。小さく息を吐いた。「……帰りたくないって顔してるよ」図星だった。胸の奥が、小さく痛む。笑おうとしたけれど、うまくできなかった。帰りたくない。優と咲子さんがいる家に。帰れば。また、二人の空気の中で。私だけが妻の役割を演じることになる。けれど。帰らない理由もない。「……大丈夫です」苦笑いを浮かべる。「帰ります」
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第9話:お迎え

思わず、足が止まる。こんなこと。初めてだった。一番上のメッセージを開く。【優】『何時頃帰る?』【優】『会食の資料、確認した?』【優】『まだ外?』そこから。少しずつ、文面が変わっていく。【優】『遅くない?』【優】『電話出て』【優】『どこいる?』胸の奥が、ざわつく。最後の通知は。数分前に届いていた。【優】『迎えに行こうか?』時間が、止まった。迎え?優が?信じられなかった。飲み会で遅くなった時も。熱を出した時も。終電を逃した夜も。そんなこと。一度も言われたことがない。さっき。窓の外の人影を優だと思った。私を追いかけてきたのかもしれないと。ほんの一瞬。期待した。けれど。見間違いだった。優が私のために来るはずなんてない。そう。改めて受け入れたばかりだった。それなのに。今になって。迎えに行こうかと聞いている。どういうつもりなのだろう。心配しているのか。それとも。誰といるのか、確かめたいだけなのか。画面を見つめたまま、動けなかった。綾瀬先生が、こちらを見る。「……何?」私は少し迷った。けれど。なぜか、隠したくなかった。スマホを差し出す。綾瀬先生は数秒、画面を見る。そして。少しだけ眉を寄せた。「これ」声が、わずかに低くなる。「旦那さん、いつもこうなの?」私は小さく首を振った。「……初めてです」正直に答える。「こんなの」綾瀬先生は黙った。何かを考えるように。少しだけ視線を遠くへ置く。そして。冷静な声で言った。「じゃあ」少しだけ間を置く。「今日、何かがおかしいんだ」その瞬間。スマホが、また震えた。【優 着信中】暗い夜道に。画面の光だけが、妙に明るい。着信は止まらない。私は、動けなかった。綾瀬先生が、静かに聞く。「……出るの、それ?」単純に気になっている感じで、淡々と聞いてくる。責めるわけでも。急かすわけでもない。ただ、確認するみたいなトーンで。私は少しだけ唇を噛む。……出なきゃ。まだ、私は妻だ。あと半年。そういう約束の中にいる。それに....会食もある。仕事の付き合いもある。完全に壊れるまでは、まだ時間がある。そう思って。ゆっくり通話ボタンを押した。すぐに、優の声が返ってきた。『今どこ?』い
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第10話:少しだけ、息ができた

「……誰、この人」優の声は低かった。視線は、私ではなく。隣に立つ綾瀬先生へ向けられている。綾瀬先生は少しだけ間を置いたあと、自然に会釈した。「綾瀬です」穏やかな声だった。「東郷先生から、復職の相談を受けています」空気が、少しだけ張り詰める。優の眉が、わずかに動いた。「……復職?」初めて聞いたような反応だった。私は小さく息を吸う。「まだ決めてないよ」そう答えると。優の視線が、ようやく私へ向いた。「病院を見学しただけ」「それで、少し考えてみようと思ってる」優は何も言わなかった。ただ。私と綾瀬先生の間へ、視線を一度動かした。綾瀬先生が続ける。「今日はクリニックを見てもらって、条件の話を少ししただけです」あくまで仕事の説明をする口調だった。「東郷先生なら、戻れると思ってるので」胸の奥が、少しだけ温かくなる。戻れる。その言葉を。優ではなく。まだ数回しか会っていない人から聞いている。優はしばらく黙っていた。それから。わずかに硬い声で言う。「妻がお世話になりました」妻。その言葉が、妙に耳へ残った。普段。二人きりの時には、ほとんど意識されない立場。それを。今だけ、確かめるように口にしている。綾瀬先生は、特に反応を変えなかった。「こちらこそ」短く返す。張り合うわけでもない。けれど。引く様子もなかった。その静けさが、かえって優を落ち着かなくさせているように見えた。優の視線が、再び私へ戻る。「帰るよ」短い言葉。当然。私が従うと思っている声だった。反射的に頷きそうになって。止まる。帰れば。咲子さんがいる。夫婦なのに。私の居場所だけがない家へ戻る。さっきまで。ほんの少しだけ、自分の人生を考えられたのに。もう。あの空気の中へ戻らなければならない。その時。綾瀬先生が、静かに口を開いた。「東郷先生」私は顔を上げる。「今日は、少し疲れてると思うので」淡々とした声だった。「帰ったら、ちゃんと休んでください」優へ向けた言葉ではなく。私へ伝える言葉だった。それでも。優の表情が、わずかに動いた。まるで。自分よりも私の状態を知っているように聞こえたのかもしれない。綾瀬先生は、それ以上踏み込まなかった。「条件は、明日送ります」少しだけ笑う。「急いで決めなくて
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