愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました のすべてのチャプター: チャプター 131 - チャプター 140

238 チャプター

第131話:聞き上手な人

食事が進むにつれて、最初の緊張は少しずつほどけていった。綾瀬先生は、よく話す人だと思っていた。軽くて、冗談がうまくて、場の空気を掴むのが早い。実際、その通りだった。でも、向かい合って話していると、それだけではないことが分かる。この人は、聞くのが上手い。質問の仕方がうまい。踏み込みすぎず、でも流しすぎない。こちらが言葉に詰まると、少し待つ。それが、あまりにも自然だった。『どんな子どもだったの?』スープの器を置いたタイミングで、彼が聞いた。私は少しだけ考える。『おとなしかったと思います』『意外、ではないかな』『意外じゃないんですね』『うん』『今も、外に出す前に一回中で考える人だから』その言い方に、少しだけ胸が動く。見られている。『子どもの頃から、そうだったと思います』『我慢してた?』問いは静かだった。私は少しだけ視線を落とした。『我慢、というより』『そうするのが普通だと思っていました』綾瀬先生は、すぐには何も言わなかった。その沈黙が、続きを促しているようで、でも強制ではなかった。私は、少しだけ口を開く。『父の周りには、いつも人がいて』『家の中でも、外でも、失礼がないようにと言われていました』『相手が何を望んでいるのか、先に考える癖がついていたのかもしれません』言葉にしながら、自分でも少し苦くなる。癖。それは優しさではなく、癖だったのかもしれない。失敗しないための。誰かを困らせないための。でも、その癖が今も残っている。自分を傷つけた人にさえ、相手の事情や痛みを考えてしまう。『元旦那さんの怪我も?』不意に言われて、私は顔を上げた。『気にしてるでしょ』私はすぐには答えられなかった。『……気にはなります』認めた瞬間、胸の奥が重くなる。『でも、戻りたいとかそういう話ではないんです』先に言ってしまった。それは、誰に向けた言い訳なのだろう。『うん』彼は短く頷いた。『それは分かってる』その言い方に、胸が少しだけ揺れる。『でも』『あそこまでされた相手に、まだ怪我の経過を気にするのは』『白松先生やっぱり、やりすぎだと思うよ』少し間が空いた。『もっと突き放してもいいし』『むしろ、その方が自然な時もある』私は視線を落とした。分かっている。自分でも、何度もそう思った。でも完
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第132話:大丈夫じゃない私

店を出ると、午後の光は少しやわらかくなっていた。食事の前より、肩の力が抜けている。綾瀬先生は、店の前で少し空を見上げた。『少し歩く?』『はい』自然にそう答えていた。駅とは反対側に、公園がある。私たちは、並んで歩いた。食事の時より、少しだけ距離が近い。でも、近すぎない。その距離が、今の私にはちょうどよかった。しばらく歩いてから、私はふと口を開いた。『さっきの話なんですけど』綾瀬先生が、少しだけこちらを見る。『うん』『優が怪我をした時のことです』口にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。あの日のことは、まだ自分の中に引っかかっていた。本当なら、私が駆けつける理由なんてなかった。それなのに私は、手当てをした。必要とされたような気がして。放っておけないと思って。『私、やっぱりおかしかったと思います』『何が?』先生はすぐに否定しなかった。そのことが、少しありがたかった。『元夫が、愛人と揉めて怪我をして』自分で言っていて、改めて異常な出来事だと思う。『その後にまで、私が手当てするなんて』喉の奥が重くなる。『私、本当に都合が良すぎますよね』先生はすぐには答えなかった。足音だけが、土の道に小さく響く。慰めを急がないその沈黙が、私にはかえって優しかった。『優が悪いとか、咲子さんがどうとか、そういう話の前に』『うん』『私が、すぐ行ってしまったことが』私は視線を落とした。『自分でも、少し怖いんです』言い終えたあと、思わず先生の顔を見た。怒っただろうか。呆れただろうか。そう考えた瞬間、先生が小さく息を吐いた。『綾香ちゃん』『……はい』『今、俺の顔色を見たでしょ』心臓が跳ねた。『……すみません』『謝らなくていい』先生の声は低かった。でも、冷たくはなかった。『ただ、その癖は、少しずつ直した方がいい』『癖……』『相手がどう思ったかを先に見て、自分が悪かったことにしようとする癖』言葉が、静かに刺さった。私は何も返せなかった。先生は、責めるようには言わない。けれど、見逃すようにも言わない。『俺は、正直に言えば嫉妬してる』あまりにまっすぐ言われて、息が止まった。『嫉妬……』『するよ』先生は隠さなかった。『元旦那さんが怪我をしたからって、綾香ちゃんが会いに行って、手当てまでしたのは
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第133話:自分で距離を選ぶ

公園の奥へ進むと、人の声が少し遠くなった。私たちは、さっきよりもゆっくり歩いていた。『それから』綾瀬先生が、少しだけ視線を前に戻したまま言った。『聞かれたことに、全部答えなくていい』『……』『俺の私生活の話でもそう』私は顔を上げた。『先生の?』『うん』先生は、まだ点いていない街灯の方を見ながら続けた。『綾香ちゃんが気になって、俺に何か聞くことがあるとして』『……』『俺が言いたくないことは、言わない』その言い方は冷たくなかった。ただ、とても自然だった。『それでいいんですか』思わず聞いてしまった。先生は少し笑う。『いいんだよ』『でも』『でも、じゃなくて』先生がこちらを見る。『言いたくないことを言わないのは、相手を拒絶することとは違う』『……』『まだ言えないこと。今は言わなくていいこと。自分の中で整理してから話したいこと』『……』『そういうものは、誰にでもある』先生の声は穏やかだった。でも、その言葉は私の中に深く沈んでいった。聞かれたら答えなければいけない。頼まれたら応えなければいけない。不機嫌にされたら、自分が悪いのだと思っていた。でも、それは全部、同じ癖なのかもしれない。自分の境界線を、相手の反応に合わせて下げてしまう癖。『だから、綾香ちゃんも、聞かれたからって全部言わなくていい』『……』『大丈夫かと聞かれて、本当は大丈夫じゃないなら、大丈夫って言わなくていい』心臓が、小さく跳ねた。『私、そんなに言ってますか』『言ってる』先生は即答した。『あと、怒ってますか、も』私は、思わず口を閉じた。思い当たることが、ありすぎた。私は何度も聞いていた。大丈夫ですか。怒ってますか。それは気遣いの言葉だと思っていた。でも本当は、自分が相手の不機嫌に耐えられないから、先に謝る準備をしていただけなのかもしれない。『そういう口癖って、ちゃんと思考に影響するよ』『思考に』『うん』先生は穏やかに続ける。『大丈夫ですか、ってすぐ聞くと、自分の気持ちより相手が大丈夫かどうかを先に確認する癖が強くなる』『……』『怒ってますか、ってすぐ聞くと、相手の怒りを自分が処理しなきゃいけないものみたいに感じやすくなる』息が、浅くなった。そんなふうに考えたことはなかった。ただ、口から出ていた。で
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第134話:公園のコーヒー

公園の奥へ進むと、小さな売店が見えてきた。綾瀬先生が、私の歩幅に合わせたまま聞いた。『コーヒー飲む?』『はい』『じゃあ、少し座ろうか』先生は自然に売店へ向かった。何かを決める動作に迷いがない。でも、私を急かす感じはなかった。少し前なら、私はそこで反射的に言っていたと思う。大丈夫です。お気遣いなく。先生の時間を取ってしまってすみません。でも、今はその言葉を飲み込んだ。飲み込む、というより。出す前に、一度止めた。私は本当に遠慮したいのか。それとも、迷惑をかけたくないだけなのか。少し考えてから、私は先生の背中を見た。今日は、まだ一緒にいたい。そう思った。その気持ちを、否定しなくてもいいのかもしれない。先生が戻ってきて、紙カップを差し出した。『はい』『ありがとうございます』『どういたしまして』公園のベンチに並んで座る。日曜日の午後。木の葉の隙間から落ちる光が、足元でゆっくり揺れていた。子どもたちの声が遠くで聞こえる。犬の鳴き声。自転車のベル。紙カップを持つ手に、温かさが移る。隣にいる綾瀬先生は、私より少し背もたれに身体を預けていた。リラックスしているように見える。でも、だらしなくはない。この人は、気を抜いていても姿勢が崩れすぎない。育ちなのか、習慣なのか。それとも、見られることに慣れているからなのか。私は横顔を見て、ふと思った。この人のことを、私はまだあまり知らない。知っているのは、クリニックの院長としての顔。患者に向き合う時の声。スタッフに指示を出す時の落ち着き。私の言葉を待ってくれる人。私の癖を、優しくはないけれど乱暴でもない言葉で指摘してくれる人。でも、それ以外の先生を、私は知らない。家のこと。昔のこと。どんな選択をしてきたのか。何を嫌だと思い、何を選んできたのか。聞いてみたい、と思った。けれど、すぐに言葉にはしなかった。さっき先生が言ったからだ。聞かれたことに、全部答えなくていい。俺の私生活の話でもそう。俺が言いたくないことは、言わない。その言葉が、まだ胸に残っていた。私はカップを両手で包んだまま、小さく息を吐いた。『先生』『うん』『聞いていいか分からないことを、聞きそうになりました』先生が、少しだけこちらを見る。『何それ』『先生のことを、
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第135話:茶化したらもったいない

『先生って』私は小さく言った。『すごいですね』『急にざっくり褒めた』『すみません。でも、そう思いました』『ありがとう』先生は素直に受け取った。その受け取り方にも、少しときめく。過剰に謙遜しない。自分を必要以上に大きくも小さくも見せない。ただ、言葉を受け取る。それができる人なのだと思った。『でも、いい人ってわけでもないよ』先生は軽く言った。『投資とかもするし』『投資』『医療系の事業とか。必要だと思えば、結構はっきり動く』少し意外だった。院長で、経営者なのは分かっていた。でも、クリニックの外の先生に、別の顔があるのは新鮮だった。『現場に必要だと思うものは、形になった方がいいから』『……』『いい考えでも、形にする人がいなければ残らないし』先生は、淡々と言った。『お金が絡むと綺麗ごとだけでは済まないこともある』その言葉に、私は少し先生を見た。穏やかな人。聞き上手な人。患者の顔が見える場所を選んだ人。でも、それだけではない。必要だと思えば、はっきり動く。お金も、人も、仕組みも見る。綺麗ごとだけでは物事が動かないことを知っている。知らない一面だった。先生はやっぱり、ただの院長ではない。家の名前に寄りかかっている人でもない。自分で見て、自分で選び、自分で動く人。その輪郭が見えて、胸が少しだけ熱くなった。『先生は』私はカップを見つめながら言った。『院長としてだけじゃなくて』『うん』『人としても、尊敬できるところがあるなって、前から思っていました』言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。急に真面目すぎたかもしれない。綾瀬先生は、私を見た。一瞬、いつもの軽い返しが来るかと思った。でも、彼は少しだけ目を細めて、静かに笑った。『それは、かなり嬉しい』胸が鳴る。その声が、思ったより真剣だったから。『茶化さないんですね』『茶化したらもったいない言葉だったから』また、そういうことを言う。何でもない顔で、こちらの心に触れる言葉を選ぶ。私は視線を逸らした。公園の向こうで、子どもが転びそうになって、父親らしい人が手を伸ばしていた。間に合って、子どもが笑う。その何気ない光景を見ながら、私は少しだけ息を吐いた。『先生、忙しいのに』『うん』『今日はお時間ありがとうございます』先生は、少し
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第136話:逃げられないようにしたい

公園を出る頃には、午後の光が少し傾いていた。木々の影が長く伸びて、歩道の上にゆっくり揺れている。綾瀬先生の車は、少し離れた通りに停まっていた。助手席のドアを開けてもらい、私は小さく頭を下げて乗り込む。シートに座ると、さっきまで外にいた分、車内の静けさが少しだけ濃く感じられた。『シート、大丈夫?』『はい』答えながら、シートベルトに手を伸ばす。カチリ、と小さな音がした。それだけで、急に二人きりの空間になった気がする。公園では、子どもの声や犬の鳴き声があった。ベンチの距離も、歩く速度も、外の空気に紛れていた。けれど車の中は違う。窓の外には街が流れているのに、ここだけが切り離されている。綾瀬先生は、運転席に座ると、少しだけこちらを見た。『疲れた?』『……少しだけ』大丈夫です、と言いかけてやめた。本当に、少し疲れていた。嫌な疲れではない。胸の中に、まだたくさんの言葉が残っているような疲れだった。先生は前を向いたまま、小さく笑った。『ちゃんと言えたね』『子どもみたいに褒めないでください』『褒めたい時は褒めるって言ったでしょ』私は少しだけ肩を揺らした。『そんなに顔に出ていますか』『かなり』『困ります』『俺は助かる』『助かるんですか』『うん』車がゆっくり走り出す。先生は片手をハンドルに置き、赤信号で止まると、もう片方の指先を軽く動かした。何気ない仕草なのに、なぜか目に残る。『見えるから、急に踏み込みすぎなくて済む』その言葉に、私は横を見た。先生は前を向いていた。横顔だけが、午後の光に照らされている。近づきたい人が、近づきすぎないために見ている。そのことが、胸の奥を静かに揺らした。『先生は、本当に距離の取り方が上手ですね』『そう?』『はい』私は少しだけ迷ってから続けた。『近いのに、逃げられる場所も残してくれるので』綾瀬先生は、ほんの少しだけ笑った。『逃げられないようにしたい気持ちもあるけどね』胸が鳴った。あまりにも自然に言われて、返事が遅れる。『……そういうことを、普通に言いますね』『普通に思ってるから』『困ります』『困ってる顔も、けっこう好きだけど』『先生』『ごめん』謝っているのに、声は少し楽しそうだった。でも、軽いだけではない。その奥に、ちゃんと熱がある。私は窓
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第137話:また会いたい

『今言われると、やっぱり困ります』『うん』先生は少し笑った。『でも、困るくらいは許して』許して。その言い方が、胸に残る。押しつけではない。でも、引き下がるわけでもない。この人らしい言い方だった。車が、私のマンションの近くへ入る。見慣れた通りが近づくにつれて、少しだけ名残惜しくなった。帰りたい。でも、終わってほしくない。その両方がある。私は、その気持ちを否定しなかった。綾瀬先生は、マンションの前に車を寄せた。『着いた』『はい』私はシートベルトを外した。でも、すぐにはドアに手が伸びなかった。先生は、私を急かさない。ただ、少しだけこちらを見る。『今日は、どうだった?』その聞き方は静かだった。楽しかったか、ではなく。私が何を感じたのかを待っている。私は膝の上で指を重ねた。『楽しかったです』声は小さかった。でも、嘘ではない。『先生の話も、聞けてよかったです』『うん』『私の話も、ちゃんと聞いてくれて』胸の奥が少し熱くなる。『ありがとうございました』言ってから、すぐに分かった。また、改まった言い方になってしまった。先生が少しだけ眉を上げる。『それ、仕事みたい』やっぱり言われた。私は小さく笑った。『癖です』『じゃあ、言い直して』『え』『今日は?』先生の声は少し楽しそうだった。でも、目は優しかった。私は少しだけ息を吸った。ちゃんと自分に聞く。本当にそう思っているか。気遣いではなく。礼儀でもなく。私は、今日どう感じたのか。『今日は、楽しかったです』言ったあと、頬が熱くなる。でも、前よりは少しだけ言いやすかった。綾瀬先生は、嬉しそうに笑った。『俺も』少しだけ、声が低くなる。『すごく楽しかった』すごく。その言葉が、胸にやわらかく落ちる。車内は、外よりも静かだった。静かだから、心臓の音まで聞こえそうになる。『綾香ちゃん』私はもう一度、先生を見る。『はい』『今日はゆっくり休んで』『……はい』『あと』『はい』『自分のことも、ちゃんと優しく扱って』言葉が、静かに胸の奥へ入ってきた。私は何も返せなかった。ただ、小さく頷く。先生は、それ以上続けなかった。その代わり、少しだけ表情を緩める。『またね、綾香ちゃん』またね。その言葉に、胸がまた小さく鳴
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第138話 また、知らない番号

スマートフォンを伏せても、胸の中にはまだ残っていた。また行きたい。そう送ったのは、私だ。誰かに促されたからではない。先生が喜ぶと思ったからでもない。私が、そう思ったから。その事実だけが、部屋の静けさの中で、少しだけ眩しかった。今日のことを思い出す。公園の道。紙カップの温度。車の中の静けさ。『困るくらいは許して』あの声を思い出すだけで、胸が少し熱くなる。困った。何度も困った。でも、嫌ではなかった。困るのに、離れたいとは思わない。その感覚が、自分でも少し怖くて。けれど、今はまだ、その怖さごと胸の中に置いておきたかった。その時だった。伏せていたスマートフォンが、小さく震えた。綾瀬先生からかと思って、反射的に手を伸ばす。でも、画面に表示されていたのは、知らない番号だった。胸の温度が、すっと下がる。知らない番号。それだけで、なぜか分かった。金曜日と同じ番号。白川咲子。私はしばらく、画面を見つめたまま動けなかった。メッセージを開く。『返事がないのに、何度も連絡してごめんね』 『優の手当てをしてくれたって聞いた』『この前は、私たちの喧嘩に巻き込んですみませんでした』『でも、本当に最近の優が分からなくて……』『綾香さんと、一度だけでいいから直接話したい』たった数行。それだけなのに、部屋の空気が少し冷えた気がした。優。私たちの喧嘩。最近の優。一度だけでいいから。その言葉が、ひとつずつ胸に入ってくる。咲子は、昔からそうだった。遠慮しているようで、遠慮していない。謝っているようで、どこかこちらの領域に踏み込んでくる。そして優のことは、当然のように優と呼ぶ。まるで、それが一番正しい距離みたいに。一度だけ。その言葉ほど、終わらないものはない気がした。一度だけ話せば、何かが変わる。一度だけ聞けば、知らなくてよかったことを知る。一度だけ関われば、またあの二人の関係の中へ引き戻される。私はもう、あの家の中の人間ではない。そう思った瞬間、半年前の結婚記念日が蘇った。六月十日。四回目の結婚記念日。テーブルの上に並べた料理。冷えていく皿。ぬるくなったワイン。既読のまま返ってこないメッセージ。そして、咲子の投稿。『今年もありがとう♡』顔は写っていなかった。でも、映り込んだ腕時計だ
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第139話 私が引いた線

私は返信欄を開いた。すぐには打てなかった。強すぎる言葉にしたいわけではない。でも、曖昧にもしたくない。咲子を責めたい気持ちは、ずっと心のどこかにあった。それでも、私は自分の生活を立て直すと決めてから、そんな気持ちは自然となくなっていた。離婚してからは、特に。謝ってほしい、という気持ちと同じで。責めたい、という気持ちは既に昔の感情になっていた。今は、彼女を責めたいわけではない。ただ、私の場所へ入ってこないでほしい。私の心の平穏を、乱さないでほしい。私は、ゆっくり文字を打った。『連絡を頂いていたのにも関わらず、返せてなくて失礼しました』『優の怪我については、その場にいたから最低限の対応をしただけです』そこで一度、手が止まる。最低限。本当にそうだっただろうか。優を気遣う気持ちが、全くなかったとは言えない。でも、それを咲子に説明する必要はない。私は続けた。『ただ、私はもう優の妻ではありません』『結婚生活の中で、あなたの存在によって悩んだことを、離婚後にまで引きずりたくありません』胸が痛んだ。自分で書いた文字なのに、痛い。それでも消さなかった。これは責めるための言葉ではない。私が、自分の痛みをなかったことにしないための言葉だった。『優とのことは、二人で解決してください』『私が直接会って咲子さんと話すことはできません』『今後、私への連絡は控えてください』読み返す。硬い。けれど、それでいい。私は咲子の友人ではない。相談相手でもない。ただ、優が夫婦の家に当然のように連れてきていた人。最悪だった結婚生活の要因になった人だ。私は、彼女と優との間を取り持つ立場でもない。送信ボタンの上に指を置く。心臓が鳴る。少し、手元が震えた。送れば、何かが動く。送らなければ、何かが残る。どちらにしても、完全に楽な選択はない。私は目を閉じた。一度、自分に聞く。これは、私が選んだ距離なのか。答えは、出ていた。私は、送信した。画面に自分のメッセージが並ぶ。急に、部屋が静かになった気がした。返信はすぐには来なかった。私はスマートフォンを伏せる。胸はまだ苦しい。指先もまだ少し冷たい。でも、呼吸はさっきより深かった。私は、会わないと伝えた。もう連絡をしないでほしいと伝えた。優と咲子の関係には、巻き込
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第140話 選べる人

青山のカフェに入った瞬間、少しだけ胸が詰まった。入口のそばの席。窓際の小さなテーブル。奥に続く細い通路。何もかもが同じではない。メニューも、照明も、店員の顔も少しずつ変わっている。それでも、この場所には、半年前の夜の空気がまだ残っている気がした。六月十日。四回目の結婚記念日。私は、あの家から少しでも離れたくてここへ来た。優と咲子が自然に並ぶリビングから。冷えた料理が残るテーブルから。私の知らない紅茶の香りがするキッチンから。とにかく離れたかった。あの家にいる限り、自分が妻ではなく、ただの置物になっていく気がした。息ができなかった。だから、鞄を掴んで外へ出た。どこへ行きたいのかなんて、考えられなかった。ただ、あの二人の声が聞こえない場所へ行きたかった。その時、美香がここにいると言ってくれた。だから私は、このカフェへ来た。あれから、まだ半年しか経っていない。そう思うと、不思議だった。半年前の私は、離婚届を出すことも。一人で暮らす部屋を持つことも。咲子からの連絡に、会えないと返すことも。綾瀬先生に、また行きたいですと自分から送ることも。何ひとつ、想像できなかった。たった半年。それだけの時間で、帰る家が変わった。待つ相手が変わった。戻らないと決めた場所ができた。そして、会いたいと思う人ができた。その事実が、少しだけ怖い。でも、確かに私を前へ進ませている気がした。『綾香』名前を呼ばれて、顔を上げる。美香が、奥の席で手を振っていた。私は小さく息を吐いて、そちらへ向かう。『久しぶり』『久しぶりってほどでもないけどね』美香はそう言いながら、私の顔をじっと見た。それから、少しだけ目を細める。『顔、変わったね』『え?』『悪い意味じゃないよ』美香は、手元のカップを軽く持ち上げた。『前より、ちゃんと戻ってきた感じがする』その言葉に、胸の奥が少し緩む。戻ってきた。私は、本当に戻ってきているのだろうか。自分ではまだ、よく分からない。一人暮らしを始めた。離婚した。優とは距離を取ろうとしている。咲子にも、会えないと返した。綾瀬先生には、また会いたいと思っている。ひとつひとつは起きている。でも、それが私をどこへ連れていくのかは、まだ見えていない。『一人暮らしどう?』美香が聞いた。
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