All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話 引き止めない人

翌朝。クリニックへ着くと、いつもと変わらない一日が始まった。受付ではスタッフが予約表を確認し、待合室には診療開始を待つ患者が少しずつ増えていく。私は白衣へ着替え、前日に届いていた検査結果へ目を通した。昨日、見学した病院の光景が、まだ頭の中に残っている。自然光の入る待合室。患者が治療の選択肢を整理するための相談窓口。医師だけではなく、看護師や薬剤師、相談員が同じ研究へ参加する環境。そして、診療科長から言われた言葉。本気で考えたいなら、相談できる人はこの病院にもいます。今のクリニックへ不満があるわけではない。患者との距離が近く、日々の診療へ丁寧に向き合える今の環境があったからこそ。大学病院にいた頃には見えなかった疑問を持つことができた。それでも私は、真帆の病院で働いてみたいと思った。その気持ちは、一晩眠っても変わっていなかった。診療開始の時間が近づき、私はカルテを開いた。今日は隼人くんと話す。昨夜、互いに会いたいと伝えた。けれど院内では、まず仕事として整理しなければならないことがある。転職の可能性。兼務という選択肢。勤務日数や外来の引き継ぎ。恋人としての感情だけで話せることではなかった。廊下から聞こえた足音に、思わず顔を上げる。開いていた診察室の前を、隼人くんが通り過ぎた。一瞬だけ、視線が重なる。「おはようございます」「おはよう、白松先生」いつも通りの声だった。足を止めることもなく、隼人くんは隣の診察室へ入っていく。昨夜のメッセージを思い出している様子は見えない。それでいいはずなのに、胸の奥には、ほんの少しだけ距離を感じた。今は仕事中だから。そう自分へ言い聞かせ、私は最初の患者を呼び入れた。***午前の診療が終わる頃には、仕事へ集中していたこともあって。朝から感じていた落ち着かなさは少し薄れていた。最後の患者を見送り、カルテを閉じたところで、院内の内線が鳴る。『白松先生、少し時間ある?』隼人くんの声だった。「はい」『院長室へ来てもらってもいい?』「分かりました」受話器を置き、昨日病院でもらった資料をバッグから取り出す。院長室のドアを叩くと、中から落ち着いた声が返った。「どうぞ」入ると、隼人くんはデスクの上に広げていた書類を片づけ、向かいの椅子を示した。白衣を着たまま、眼鏡をか
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第232話 カフェにしよう

「週一日の勤務が診療体制として成立するかは、患者数やほかの医師の配置を含めて検討が必要になる」「綾香ちゃんが残りたいと言ったから、そのまま認めるわけにはいかない」「分かっています」恋人だから特別に残すとも。離れたくないから認めないとも言わない。院長として必要な判断をしようとしている。それは、私が望んでいることだった。「もし転職するなら、いつ頃を考えてる?」「まだ正式な話をしていないので、分かりません」「ただ、急に辞めるつもりはありません」「引き継ぎもありますし、担当している患者さんのこともあるので」「うん」隼人くんは頷いた。「患者さんには、白松先生が決めるまで何も話さない」「スタッフにも」「ありがとうございます」「正式に話が進んだ段階で、院長として改めて相談して」「はい」必要な確認が一つずつ終わっていく。話している内容は、転職する可能性がある勤務医と、現在の勤務先の院長のものだった。感情の入り込む余地はない。隼人くんは、私を引き止めない。不利な条件を示すことも。兼務を餌にして、今のクリニックへ留めようとすることもなかった。それが正しいと分かっている。それでも、胸の奥には、昨日から続く小さな寂しさが残っていた。隼人くんは、私がいなくなるかもしれない未来を、もう受け入れ始めているように見えた。「院長として聞きたいことは、以上」隼人くんが資料から目を逸らした。それから、少しだけ姿勢を緩める。「個人的な話は」私を見る。「あとにしようか」「はい」「仕事が終わってから」昨日のメッセージの続きを、ようやく話せる。そう思った瞬間、胸の奥の緊張が少し和らいだ。私は膝の上の資料を揃える。「では」言葉にする前に、ほんの少し迷った。自分から誘うことには、まだ慣れていない。それでも昨夜は、会いたいと伝えた。今日は、どこで話したいのかも、自分から言ってみようと思った。「仕事が終わったら、うちに来ますか」隼人くんの表情が止まった。私は続ける。「クリニックから、そんなに遠くないですし」口にしながら、急にその提案が持つ意味を意識した。隼人くんを家へ呼んだことは、一度もない。離婚後、自分で選んだ部屋。誰かと暮らすためではなく、自分一人の生活を作り直すために整えた場所。そこへ隼人くんを招く。ただ話を
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第233話 嫌だったわけじゃないよ

***午後の診療を終えたのは、予定より三十分ほど遅い時間だった。着替えを済ませ、クリニックの外へ出ると、隼人くんが少し離れた場所で待っていた。昼間の白衣姿から、黒いシャツとコートへ変わっている。私に気づくと、スマホをポケットへしまった。「お疲れさま」「お疲れさまです」「疲れた?」「少しだけ」「カフェ、近いから」並んで歩き始める。仕事のあとに二人で出かけることは、これまでにもあった。けれど今日は、院長室での会話が胸の奥に残っていた。隼人くんの手は、身体の横に下りている。手をつないでもいいのかもしれない。それでも私は、自分から触れなかった。昼間、家へ誘った時に断られたことが、思っていたよりも引っかかっていた。隼人くんも、私の手を取らない。二人の間には、人一人分よりは狭く、肩が触れるには遠い距離が残っている。いつもと同じはずだった。それなのに今日は、少しだけ遠く感じた。案内されたカフェは、大通りから外れた静かな場所にあった。夜遅くまで営業しているらしく、店内には仕事帰りの人が何組かいる。奥の壁際の席へ座る。向かい合うと、テーブルの上に置かれた小さな照明が、隼人くんの横顔を淡く照らした。飲み物を注文し、店員が離れる。しばらく、どちらも話さなかった。先に口を開いたのは、隼人くんだった。「ごめん」「何がですか」「院長室で」少し言葉を選ぶ。「急に、カフェにしようって言ったこと」気にしていないように見せられていたと思っていた。けれど、隼人くんには分かっていたらしい。「嫌だったわけじゃないよ」「うちへ来るのがですか」「うん」「なら、どうしてですか」聞くつもりはなかった。けれど、説明されないままにしておく方が落ち着かなかった。隼人くんはすぐには答えなかった。視線をテーブルへ落とし、ゆっくりと指を組む。「今日は」低い声で言う。「綾香ちゃんが転職するかもしれない話をするから」「はい」「俺はたぶん」一度、言葉を止める。「思っているより、冷静に聞けない」昨夜のメッセージを思い出す。会ったら、行かないでと言いそうだから。「カフェなら冷静になれるんですか」「少なくとも」隼人くんは顔を上げた。「綾香ちゃんが困るようなことは、しにくいと思ったから」その言葉が何を指しているのか、すぐには分か
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第234話 ないとは言い切れないでしょ

「条件を聞いて」「その病院で何ができるかを、ちゃんと確かめた方がいい」「隼人くんは」言いかけて、呼び方に迷う。ここでは院長ではない。けれど、転職はクリニックにも関わる。「私が転職することを、どう思っていますか」隼人くんは、しばらく答えなかった。窓の外へ一度目を向け、それから私へ戻す。「嫌だよ」静かな声だった。「綾香ちゃんがクリニックからいなくなるのは嫌」「毎日会えなくなるのも」「俺の知らない場所で」少しだけ言葉を止める。「俺の知らない人たちと、新しい仕事を始めるのも」そこまで言って、かすかに苦笑する。「全部、嫌だと思う」思っていたよりも、はっきりとした答えだった。胸の奥がゆっくり熱くなる。「でも」隼人くんは続けた。「だから行かないでとは言わない」「どうしてですか」「綾香ちゃんが、やっと自分で働きたいと思える場所を見つけたから」一つずつ、言葉を置く。「俺が寂しいことを理由にして」「それを見なかったことにはしてほしくない」「……」「綾香ちゃんは」隼人くんの視線が、まっすぐ私へ向く。「人を大切にしようとすると、自分の方を小さくするから」「俺のために残ったら」少し間を置く。「いつか、俺のことまで嫌になるかもしれない」「そんなことは」「ないとは言い切れないでしょ」穏やかに遮られる。私は答えられなかった。優との結婚を選んだ時。自分の意思で家庭を優先したと思っていた。けれど少しずつ、自分だけが失ったものを数えるようになった。優を責めることを避けるために、自分で選んだのだからと何度も言い聞かせた。その積み重ねが。最後には、優への気持ちまで変えていった。「俺は」隼人くんが続ける。「綾香ちゃんに残ってほしい」「でも、残らせたくはない」矛盾しているようで。私には、その違いが分かった。残ってほしいという気持ちは、隼人くんのもの。残るかどうかを決めるのは、私のもの。「引き止めないんですね」尋ねると、隼人くんは少しだけ目を細めた。「引き止めたいよ」「でも」声がわずかに低くなる。「綾香ちゃんが、自分で選べるようになるまで待つって決めたから」その言葉に、胸が強く鳴った。何を待っているのか。仕事のことだけではない気がした。けれど、隼人くんはその先を言わない。私も聞かなかった
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第235話 ちゃんと話せてよかった

隼人くんが私の家を避けたのは。私と二人になることが嫌だったからではない。距離を置きたいからでもない。むしろ、その逆なのかもしれない。そう考えた途端、昼間に感じていた違和感の形が変わった。胸の奥へ残っていた寂しさが、別の熱へ変わっていく。「私は」声を出すと、思っていたよりも小さかった。隼人くんが顔を上げる。「ただ話すつもりで、誘いました」「分かってる」「それでもですか」「それでも」答えは静かだった。「綾香ちゃんにとっては、ただ話すだけでも」「俺にとって同じとは限らないから」また、距離が分からなくなると言われた意味を、少しだけ理解した気がした。隼人くんは、何も望んでいないから慎重なのではない。けれど、私がそこへ気づき切る前に。隼人くんはカップを持ち上げ、話を終わらせるように一口飲んだ。「今日は」いつもの穏やかな声へ戻る。「ちゃんと話せてよかった」「はい」「正式な条件を聞きに行く日は、決まったら教えて」「分かりました」仕事の話へ戻される。けれど、さっきまでとは違った。隼人くんが目に見える距離を取る理由に、初めて少しだけ触れた気がした。***カフェを出ると、夜の空気は昼間よりも冷たくなっていた。駅までの道を、二人で並んで歩く。来る時には感じていた遠さが、今は少しだけ違って見える。隼人くんは、私へ触れない。私も、自分から手を伸ばしてはいない。それでも、隣を歩く気配が、カフェへ向かう時より近く感じられた。「送るよ」駅の近くまで来たところで、隼人くんが言う。「電車で帰れます」「家までじゃなくて、ホームまで」少しだけ笑う。「今日は、それくらいさせて」「はい」改札を通り、ホームへ下りる。電車が来るまで、まだ数分あった。ベンチには座らず、少し離れた場所で並んで立つ。「隼人くん」「うん」「私は、転職すると思いますか」尋ねると。隼人くんは少し考えた。「すると思う」予想していなかった答えだった。「どうしてですか」「昨日のメッセージで」私を見る。「働いてみたい、って言ったから」「綾香ちゃんが、自分からそこまで言うのは」少しだけ口元を緩める。「もう、かなり気持ちが決まってる時だと思う」自分よりも。隼人くんの方が、今の私を理解しているように感じた。「嫌ですか」聞くと、目元
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第236話 私のための時間

*** 忙しい日常は、あっという間に過ぎて。正式な採用条件について話を聞きたいと。真帆の病院へ連絡したのは、その週の終わりだった。すぐに転職を決めたわけではない。それでも、見学をしただけで終わらせないで。次の話へ進みたいと思った。診療科長からは、来週中に一度、勤務日数や担当する外来と。研究時間の取り方について話しましょうと返事が届いた。メールを読み終え、手帳へ予定を書き込む。転職について考える時間。プロジェクトの会議。クリニックでの診療。予定は少しずつ増えていた。以前なら、空いている時間があることに気づけば。まず仕事を入れようとしたと思う。資料を読む。勉強をする。誰かから頼まれたことを、先に終わらせる。休むとしても、次の日にきちんと働くための休息として考えていた。けれど、手帳の翌週のページを開いた時。仕事とは関係のない予定が、一つもないことに気づいた。中国茶の店で買った、小さな茶葉の缶が頭へ浮かぶ。休日に隼人くんと飲んだ、花に似た香り。あの日から、自宅でも何度か淹れてみた。店で教えてもらった通りにしたつもりでも、最初は香りがほとんど出なかった。湯を注ぐ時間を少し変えると、今度は渋みが強くなった。同じ茶葉なのに、ほんの少しの違いで味が変わる。うまくできないことさえ、久しぶりに面白いと思った。仕事なら、間違えない方法を先に調べる。けれど中国茶は、失敗しても誰にも迷惑をかけない。自分で飲み、自分が少し残念に思い、次は変えてみようと考えるだけだった。その自由さが、心地よかった。スマホで中国茶について調べていると。初心者向けの講座や、茶器の使い方を学べる教室がいくつか表示された。その中に、中国語で書かれた茶葉の名前や、発音を簡単に紹介しているページがあった。文字を見ても、ほとんど読めない。けれど、茶葉の名前を現地の音で知ることができたら。少し面白いかもしれないと思った。すぐに中国語を学びたいと決めたわけではない。ただ、気になるという感覚が残った。私は画面を閉じ、手帳へ戻る。以前から、もう一度始めたいと思いながら。そのままになっていることもあった。花の教室。医師へ戻り、離婚の手続きを進めて。新しい生活を整えるうちに、いつの間にか通わなくなっていた。教室へ行けないほど忙しかったわけでは
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第237話 随分、変わりましたね

けれど今は。真帆の病院へ転職する可能性を考えながら。今のクリニックへ残る形も検討している。研究へ戻りたいと思いながら。臨床も続けたいと思っている。隼人くんと会う時間も。仕事と同じように大切にしたいと口にした。どちらかをすぐに切らず、今の自分に合う形を探している。「少し、待ってみます」枝へ視線を戻して言う。先生は、意味を深く尋ねることなく頷いた。「うん。その方が、今の白松さんには合いそう」花器へ枝を入れ、その間へラナンキュラスを置く。大きく開いた花を中央へ集めるのではなくて。枝の流れに沿うように、少し離して配置した。白い小花は、隙間を埋めるためではなく。枝と花の間にわずかなつながりを作るように使う。以前よりも、空いている場所が多い。形も、左右で揃っていない。けれど、その不均衡が嫌ではなかった。少し離れて眺めると、枝が伸びる先へ、視線も自然に動いた。「きれい」隣の席にいた女性が、作品を見て言った。「ありがとうございます」「空間があって、余裕のある感じが素敵ですね」その言葉に、私はもう一度作品を見る。余裕のある感じ。以前、自分が花を生けた時に。そんなことを言われたことはなかった。花材をできるだけ使い、不足しているところがないように整えて。完成させることばかり考えていた。今、目の前にあるものは、何もない場所を、欠けているとは感じさせなかった。むしろ、その余白があるから、一つ一つの花がどこへ向いているのかが分かる。「白松さん」先生が作品の前へ立つ。「随分、変わりましたね」「作品がですか」「作品も」私の顔を見る。「白松さんも」その言葉に、すぐには返事ができなかった。自分が変わったかどうかは、まだよく分からない。以前と同じように、人の表情が気になることもある。相手が何を望んでいるのかを、先に考えることもある。自分の選択が正しいのか分からず、不安になる日も多い。それでも今日は、自分が好きだと思う形を作るために。誰かの期待を考えず、枝を残すことができた。それだけでも、以前とは少し違うのかもしれなかった。***教室が終わる頃には、窓から入る光が少し傾いていた。作品を持ち帰れるように包んでもらい、先生へ礼を言う。「また、来ます」口にすると、先生が笑った。「次の予約、取っていく?」
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第238話 綾香ちゃんらしい

家へ戻り、持ち帰った花を窓際へ飾った。教室ではちょうどよく見えた枝が、自宅の部屋へ置くと少し大きい。けれど、切り直さなかった。棚の上から伸びた枝が、何も飾っていなかった白い壁へ影を落とす。その不規則な影まで、作品の続きのように見えた。中国茶の缶を開ける。以前より少しだけ低い温度の湯を使い、時間を計りすぎずに淹れてみる。蓋を開けた瞬間、休日に店で飲んだ時に近い、柔らかな香りが立った。小さなカップへ注ぎ、一口飲む。少しだけ渋い。けれど、前よりは好きな味だった。ソファへ座り、花を眺める。静かな部屋。聞こえるのは、外を走る車の音と。時折揺れる枝が包み紙へ触れる小さな音だけだった。この時間を、以前の私は寂しいと思っていたかもしれない。誰かと暮らしていない部屋。帰宅しても、話す相手がいない夜。結婚生活を失った証拠のように感じていた。けれど今は、一人でいることと、孤独であることは同じではないと思える。自分で選んだ花を飾り、自分が知りたいと思ったお茶を淹れて。次に学びたいことを考える。誰かがいなくても、私は自分のために時間を使うことができる。その上で。会いたい人がいる。スマホを手に取る。隼人くんとのメッセージ画面を開いた。最後に届いているのは、昨日の夜。『ちゃんと着いた?』という短い確認だった。私は花の写真を撮った。送信しようとして、一度だけ迷う。教室へ行ったことは、まだ話していない。隼人くんへ報告しなければならないことでもない。それでも、今日、自分が楽しいと思ったものを見てほしいと思った。写真と一緒に、『今日、花の教室へ行ってきました』と送る。少しして、既読がつく。『再開したんだ』返事が届く。『はい』 『次の予約も取りました』送ると、『よかったね』と返ってきた。それから少し間があり、『綾香ちゃんらしい』という言葉が届く。私は画面を見つめた。「私らしい」と言われても。以前なら何を指しているのか分からなかったと思う。医師であることなのか。責任を果たすことなのか。人に迷惑をかけないことなのか。けれど今、隼人くんが言っているのは。花を好きだと思う私や、興味を持ったものへ静かに集中する私。誰かの役に立つためではなく、自分のために何かを選んだ私なのかもしれない。『中国語の体験
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第239話 少し気になる絵があるから

純粋に絵を見るためだけの展覧会というより。少し社交の意味を持つ場であることが分かる。それだけなら、すぐに行きたいとは思わなかったかもしれない。けれど、出展作品の一覧へ目を通していると、一枚だけ目に留まるものがあった。深い青と緑が重なる抽象画。荒れた水面のようにも、暗い森の奥のようにも見える。画面越しでも、色の重なりが気になった。実物を見てみたいと思う。『プロジェクトの話は、イベント中にするの?』返信すると、すぐに返事が来た。『始まる前に少し時間取るよ』 『終わったあとでもいいけど、綾香が疲れるでしょ』真哉兄さんらしい。人の予定を先に整えようとするところは、父よりもずっと細かい。『分かった』 『行く』送る。少しして、『本当に?』と届いた。『何で驚くの』『最近、こういう場は断ると思ってたから』否定はできなかった。結婚していた頃から、父の仕事関係者が集まる場所へ出ることはあった。けれど、離婚が表へ知られてからは、できるだけ避けていた。相手の視線に悪意がなくても、何を知っていて。何を聞きたいと思っているのかを考えることに、疲れてしまうから。『少し気になる絵があるから』そう送ると、『そっちなんだ』と返ってきた。『仕事の話より?』『仕事の話は別でもできるでしょ』返すと、『そうだね』とだけ届く。長男として。会社の代表として。父の仕事とも深く関わる人として。真哉兄さんと話す時には、今でも少し緊張する。けれど、兄妹であることまで忘れる必要はない。以前より、相手の立場ばかりを考えずに話せるようになった気がした。『一応、ドレスとか少しフォーマルな格好の方がいいかも』真哉兄さんから続けて届く。『父さんの関係者も何人か来るから』『分かった』『別に挨拶回りしなくていいからね』『必要ならするよ』『そういう意味で呼ぶんじゃないから』仕事の話もしたい。絵も見てほしい。けれど、父の娘として会場を回らせたいわけではないらしい。そのことに少しだけ安心した。『ありがとう』送る。『時間、あとで送る』そこで真哉兄さんとの会話は終わった。案内状をもう一度開く。気になった絵を拡大する。印刷された小さな画像だけでは、表面の質感までは分からない。青く見える部分も、実際にはいくつもの色が重なっているの
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第240話 会いたくなったら、呼んでね

『俺はたぶん、その日は家で仕事片づけてるから』「お仕事なんですか」『来週に回したくない書類があって』「そうなんですね」『だから』隼人くんの声が、少しだけ低くなる。『会いたくなったら、呼んでね』胸が静かに鳴った。迎えに行くとも。終わったら必ず連絡してとも言わない。ただ、私が会いたくなった時には、自分を呼んでいいと伝えている。「遅くなるかもしれません」『起きてるよ』「お仕事が終わっていたら、休んでください」『そういう意味じゃないんだけど』少し困ったように笑う声がする。『まあ、いいや』「何ですか」『会いたくなったら、時間を気にしないで呼んで』今度は、もう少しはっきり言われた。胸の中に、小さな熱が広がる。ギャラリーへ行くのは、自分で決めたことだった。隼人くんに同行してもらわなければ行けない場所ではない。それでも。社交のための会話に疲れたり。何かに戸惑ったり。ただ顔が見たいと思った時。呼べば来てくれる人がいる。そのことが、思っていた以上に嬉しかった。「分かりました」答える。「会いたくなったら、呼びます」『うん』電話の向こうの声が、少しだけ嬉しそうに聞こえた。『楽しんできて』「はい」通話を終えたあとも、スマホをしばらく手に持ったままだった。隼人くんは、私がどこへ行くかを決めない。誰と会うかも。どのくらいその場所へいるかも。それでも。帰りたくなった時ではなく、会いたくなった時に呼んでと言った。何かから逃げるためではなく。自分から会いたいと思った時に。その言葉が、胸の中へ静かに残った。***イベントの前日。仕事から帰ると、私はクローゼットの前へ立った。真哉兄さんから届いた案内には、開始時間と会場の入口が書かれている。最後に、『少しフォーマルなら大丈夫』 『気合い入れすぎなくていいから』と付け加えられていた。その言い方に、少しだけ笑った。クローゼットの中には、結婚していた頃に選んだ服も残っている。父の関係する会食。優の仕事関係者との集まり。家族として出席する行事。そうした場所に合うように買った、形のきれいなドレス。控えめで。どこへ着ていっても失礼がなく。誰の隣へ立っても目立ちすぎないもの。以前なら、その中から一着を選んでいたと思う。間違いがないことを基準に。
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