Lahat ng Kabanata ng 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Kabanata 281 - Kabanata 290

359 Kabanata

第281話 今じゃない

翌朝。 目を覚ました時。 最初に思い出したのは。 昨夜、隼人くんから届いた言葉だった。 『俺がいい時は』 『遠慮しないで呼んで』 枕元のスマホへ手を伸ばす。 画面を開くと。 最後のやり取りが、そのまま残っていた。 『会いたくなるから』 思い出しただけで。 胸の奥が、少しだけ温かくなる。 けれど。 今日は。 いつまでも、その余韻に浸っているわけにはいかなかった。 午後。 石川先生と大貴に会う予定がある。 以前。 久しぶりに研究室へ顔を出した時。 石川先生と。 また研究について話す機会を持った。 クリニックで患者を診るようになってから。 大学病院にいた頃とは違う疑問を持つようになったこと。 優から依頼されて参加したプロジェクトで。 臨床側の医師として意見を出す中でも。 研究につながりそうな問いが、いくつか見えてきたこと。 大貴とも。 また何か一緒に考えられるかもしれないと話した。 研究室へ行ったことは。 間違いではなかったと思う。 離れていた場所を。 必要以上に怖がらなくてよくなった。 研究をしていた頃の自分も。 そこで積み重ねた時間も。 全部なくなったわけではないと分かった。 でも。 だからこそ。 今の気持ちは。 きちんと伝えておきたかった。 *** 待ち合わせは。 大学病院の近くにある、小さなカフェだった。 店内へ入ると。 奥の席で、大貴が手を上げた。 向かいには。 石川先生が座っている。 「お疲れ」 「お疲れさま」 綾香が席へ着くと。 大貴が、テーブルの上の資料をこちらへ向けた。 「一応、ここまで整理した」 プロジェクトで出てきた論点。 そこから研究として検討できそうなこと。 大貴と石川先生が。 簡単にまとめたものだった。 綾香はページをめくる。 以前なら。 すぐに考え始めていた。 どのデータが使えるのか。 何を比較するのか。 どこまでなら一つの問いとして成立するのか。 今も。 考えようと思えば考えられる。 興味がないわけではない。 むしろ。 見ているうちに。 少しずつ頭が動き始める。 その感覚に。 懐かしさもあった。 「綾香」 大貴が、資料の一部を指で示す。 「この前話してたところ」 「うん」 「石川先生とも見たけど
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第282話 今は、戻らない

綾香が専門医取得の準備を順調に進めていて。 大学病院を離れたことを。 大貴は知っている。 「だから」 綾香は、指先を重ねた。 「まずは病院で働くことと」 「専門医を取ることを」 「ちゃんとやりたい」 「研究も一緒にやるのは難しい?」 大貴の声に。 責める響きはなかった。 純粋に。 可能性を確かめるような問いだった。 以前の綾香なら。 できると答えたと思う。 病院も。 専門医も。 研究も。 クリニックも。 プロジェクトも。 予定を調整すれば。 全部できるかもしれない。 時間を削れば。 周囲へ迷惑をかけないようにすれば。 やれるはずだと考えた。 「できないとは思わない」 綾香は正直に答えた。 「でも」 少しだけ。 言葉を選ぶ。 「始めたら、私はたぶん」 「研究も中途半端にできない」 資料を読む。 考える。 必要だと思えば。 仕事が終わった後にも時間を使う。 忙しいと言えず。 求められたことを全部抱える。 そして。 どれも思うようにできなければ。 自分の努力が足りないと思う。 「病院へ戻ったら」 綾香は続ける。 「まずは、そこで働けるようになることに集中したい」 「専門医の研修も再開したい」 「目の前の患者を診ることを」 「後回しにしたくない」 大貴は。 何も言わず、こちらを見ていた。 「今の私がやりたいのは」 綾香は顔を上げる。 「臨床側で、もう一度きちんと頑張ることだから」 声には。 思っていたよりも迷いがなかった。 研究に戻りたくないわけではない。 怖くて逃げているわけでもない。 今。 自分が進みたい順番を。 自分で決めただけだった。 しばらく。 誰も口を開かなかった。 店内には。 食器が触れる小さな音と。 周囲の話し声だけが流れている。 やがて。 大貴が椅子の背へ身体を預けた。 「前の綾香なら」 少しだけ笑う。 「全部やるって言っただろうな」 綾香も。 小さく笑った。 「私も、そう思う」 「病院も」 「専門医も」 「研究も」 「全部できますって」 「しかも、本当にやろうとする」 「うん」 否定できなかった。 大貴は。 手元の資料を閉じる。 「じゃあ」 少しだけ声を落とす。 「研究には戻らないってこと
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第283話 自分で選ぶ条件

面談の日は。 思っていたよりも早く来た。 午前中。 綾香は、いつも通りクリニックで患者を診た。 症状を聞いて。 検査結果を確認して。 薬の変更について説明する。 次の予約を決め。 カルテを閉じる。 最後の患者を見送るまでは。 普段と何も変わらなかった。 けれど。 白衣を脱ぎ。 ジャケットへ袖を通した瞬間。 少しだけ、呼吸が浅くなった。 今日は。 見学ではない。 本当にここで働く可能性を持った医師として。 真帆の病院へ行く。 鏡の前で髪を整える。 派手ではないブラウス。 落ち着いた色のジャケット。 面接というより。 働き方を確認するための面談だと聞いている。 病院側が私を見るように。 私も。 自分が働ける場所なのかを確かめる。 そう思っていても。 緊張はしていた。 更衣室を出る。 院長室の前を通りかかった時。 ちょうど扉が開いた。 隼人くんが。 手元の書類を見ながら出てくる。 白衣姿。 院長の顔。 けれど。 こちらに気づいた瞬間。 目元が少しだけ柔らかくなった。 「もう行く?」 「うん」 自然に敬語が落ちた。 隼人くんは。 廊下の時計を見る。 「時間、大丈夫?」 「余裕あります」 「そっか」 周囲には。 まだスタッフがいる。 隼人くんはそれ以上近づかず。 普段と変わらない距離で立っている。 「昨日、話してたこと」 声を少し落とした。 「ちゃんと聞いてきて」 研究へ戻るのは今ではない。 まずは臨床へ戻り。 専門医取得に向けた研修を、もう一度進めたい。 昨日。 石川先生と大貴へ伝えたこと。 「うん」 綾香は頷いた。 「病院に合わせるだけじゃなくて」 隼人くんが続ける。 「綾香ちゃんが続けられる場所か、ちゃんと見てきて」 以前の私なら。 採用されることを優先したと思う。 何曜日でも働けます。 当直もできます。 必要なことは全部やります。 そう答えて。 自分の希望は。 最後まで言わなかったかもしれない。 でも。 今日は違う。 「分かった」 答えると。 隼人くんが、小さく笑った。 「終わったら」 「一番に話す」 綾香が先に言う。 隼人くんは。 少しだけ目を見開いた。 それから。 嬉しそうに頷く。 「うん」 *
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第284話 再開したいです

「急に全員を手放すのではなく」 「病院勤務へ支障が出ない範囲で」 「診療を続けたいと思っています」 「毎週固定の勤務は難しい可能性があります」 事務担当者が言う。 「病棟や当直との調整が必要になりますので」 「承知しています」 「病院の勤務を優先した上で」 「月に何回可能なのかを相談したいです」 以前なら。 条件が難しそうだと思った時点で。 希望を引っ込めていたかもしれない。 でも。 続けられない働き方を。 採用されるためだけに受け入れても意味がない。 診療科長が頷く。 「月に数回であれば」 「勤務開始後の状況を見ながら、調整できると思います」 確約ではない。 それでも。 最初から否定されなかった。 綾香は。 小さく頭を下げた。 「ありがとうございます」 「それから」 専門研修担当の医師が。 別の資料へ手を伸ばした。 「専門医取得についても」 身体が。 少しだけ強張った。 「以前の研修歴を確認しています」 綾香は。 膝の上で指を重ねた。 大学病院にいた三年間。 指導医のもとで診療し。 必要な症例を経験し。 記録を残していた。 専門医取得へ向けた研修は。 着実に進めていた。 ただ。 まだ十分ではなかった。 取得が見えるところまで。 進み切っていたわけではない。 結婚を機に病院を離れ。 その積み重ねも。 途中で止まった。 「現在の制度との照合が必要です」 医師は慎重に続けた。 「当時の研修内容が」 「すべてそのまま認められるとは限りません」 予想していた答えだった。 制度が変わっている可能性もある。 不足している症例も。 新たに必要になる研修もあるだろう。 「ただ」 医師が資料へ指を置いた。 「研修歴や症例記録は、かなり残っています」 綾香は顔を上げた。 「すべてを一から始める必要はないと考えています」 一瞬。 言葉の意味が。 胸の中へ入ってこなかった。 「残っている記録を確認して」 「不足している症例や研修内容を整理した上で」 「改めて研修を再開する形になるでしょう」 再開。 その言葉が。 胸の中へ落ちる。 最初からではない。 だからといって。 すぐ取れるわけでもない。 以前積み上げたところから。 足りないものを確認して。
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第285話 綾香ちゃんなら、できる

誰かに取れと言われたからではない。 肩書が必要だからでもない。 今。 自分が医師として。 もう一度、進みたいと思った。 「研究については」 診療科長が資料を確認しながら尋ねる。 「以前、関心があると伺っていましたが」 「はい」 綾香は答える。 昨日。 石川先生と大貴へ伝えた言葉を思い出す。 「将来的には」 「また研究へ戻りたいと思っています」 「ただ」 迷わず続けた。 「今は、臨床へ戻ることと」 「専門医取得に向けた研修を優先したいです」 「すぐに研究時間を希望するわけではない?」 「はい」 「まずは、目の前の仕事を」 「きちんとできるようになりたいと思っています」 診療科長が。 静かに頷いた。 「分かりました」 研究を諦めたわけではない。 けれど。 採用されるために。 研究もできますと付け足さなかった。 今の自分が。 何をしたいのか。 はっきり伝えられた。 プロジェクトについても。 現在、臨床側の医師として参加していること。 頻度は高くないこと。 病院勤務へ支障が出ない形で継続したいことだけを説明した。 詳しい内容までは話さなかった。 今日決めたいのは。 プロジェクトの働き方ではない。 私が。 この病院で働けるのか。 専門医取得へ向けて。 もう一度進めるのか。 その二つだった。 その後。 勤務日数。 病棟と外来の割合。 当直を始める時期。 給与や休暇について確認した。 簡単ではない。 忙しくなる。 病院勤務へ慣れるだけでも。 時間がかかるだろう。 その上で。 専門医研修を進める。 月に数回は。 クリニックでも診療したい。 それでも。 やってみたいと思った。 面談が終わる頃には。 その気持ちは。 見学の日より、ずっとはっきりしていた。 *** 会議室を出る。 真帆が。 すぐに隣へ並んだ。 「どうだった?」 「思ってたより」 綾香は少し考える。 「ちゃんと大変そうだった」 真帆が吹き出す。 「何それ」 「でも」 綾香は続けた。 「ここで働きたいと思った」 真帆の表情が。 少しだけ柔らかくなる。 「専門医のことも聞いた?」 「うん」 「前の研修」 「全部なくなったわけじゃないって」 口にすると。 ようやく実
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第286話 小さな約束

隼人くんと会う約束をしていたのは。電話をしてからすぐだった。待ち合わせの時間より。 少しだけ早く着いた。 駅から離れた通りには。 仕事を終えた人たちが、途切れることなく歩いている。 店の明かり。 車の音。 少し冷たくなった夜の風。 何度か通ったことのある場所なのに。 今日は。 どこを見ても落ち着かなかった。 綾香はスマホを取り出す。 約束の時間までは。 まだ十分ほどある。 隼人くんに。 面談のことを話すために会う。 病院で働きたいと思ったこと。 専門医取得に向けた研修を、再開したいと思ったこと。 研究は。 いつか戻りたい。 けれど。 今は臨床へ集中したいと決めたこと。 それを。 きちんと伝えたかった。 電話でも。 少しは話した。 けれど。 声だけでは足りなかった。 隼人くんの顔を見ながら。 自分が選んだことを聞いてほしかった。 そのために会う。 理由は。 それで十分なはずだった。 それなのに。 さっきから何度も思い出すのは。 病院のことではない。 あの日。 初めてキスをした。 隼人くんが。 ギャラリーまで迎えに来てくれた夜。 抱き締められて。 何度も確かめられて。 私が頷いて。 ようやく。 唇が触れた。 あの日以来。 クリニックでは。 いつも通り働いていた。 院長と勤務医として。 患者のことを話して。 検査結果を確認して。 廊下ですれ違えば。 仕事の言葉を交わす。 隼人くんも。 必要以上に近づかなかった。 二人きりになっても。 触れようとはしなかった。 何も変わっていないように。 同じ職場で働いた。 でも。 本当は。 何も変わっていないわけではなかった。 目が合うたびに。 あの日を思い出す。 隼人くんの視線が。 ほんの少し唇へ落ちた気がするだけで。 胸の奥が熱くなる。 院長室で二人きりになれば。 あの時の呼吸を思い出す。 あの日以前の距離には。 もう戻れない。 触れたことを。 二人とも知っているから。 「綾香ちゃん」 背後から。 聞き慣れた声で呼ばれた。 身体が。 少しだけ強張る。 振り返る。 隼人くんが。 少し離れた場所に立っていた。 白衣ではない。 濃い色のシャツ。 薄手のジャケット。 長い髪
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第287話 恋人としては

*** 案内されたのは。 店の奥にある、小さなテーブルだった。 向かい合って座る。 店内には。 乾いた茶葉の香りが広がっていた。 壁際には。 茶器や缶が並んでいる。 周囲の話し声も小さく。 落ち着いて話せそうな場所だった。 隼人くんがメニューを開く。 その手を見た瞬間。 あの日。 髪へ触れられた時のことを思い出した。 頬の近くへ来た指。 唇が触れる前に。 一度止まった動き。 綾香は。 慌ててメニューへ視線を落とす。 「何飲む?」 「まだ見てる」 「ずっと同じところ見てるよ」 「ちゃんと見てる」 「そっか」 隼人くんは。 それ以上言わなかった。 茶葉と。 簡単な料理を選ぶ。 店員が離れると。 テーブルの上へ。 静かな時間が落ちた。 以前なら。 隼人くんとの沈黙を。 気まずいと思うことはなかった。 今も。 嫌ではない。 でも。 今日は。 目が合うたびに。 あの日の距離を思い出す。 綾香だけなのだろうか。 そう思い。 そっと顔を上げる。 ちょうど。 隼人くんもこちらを見ていた。 目が合う。 いつもより。 少しだけ長い。 隼人くんは。 視線を逸らさず。 先に口を開いた。 「面談」 声は。 仕事の話をする時のものだった。 「どうだったのか、聞かせて」 その言葉で。 ようやく頭が切り替わる。 「うん」 綾香は。 今日聞いたことを話した。 病棟勤務へは。 段階を踏んで戻ること。 当直やオンコールも。 病院の流れへ慣れてから始めること。 クリニックの勤務を。 月に数回なら残せる可能性があること。 そして。 専門医取得に向けて。 以前の研修歴を確認しながら。 再開できるかもしれないこと。 隼人くんは。 途中で話を奪わなかった。 必要なところだけを。 短く尋ねた。 「病棟は、最初から一人で持つの?」 「最初は指導を受けながら」 「当直は?」 「慣れてから」 「クリニックは?」 「毎週固定は難しいけど、月に何回かなら」 「そっか」 一つずつ。 綾香が聞いてきた条
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第288話 以前の距離には戻れない

「時間作ってくれる?」 「……うん」 「忙しくても?」 「隼人くんもでしょう」 「俺は作るよ」 返事は。 すぐだった。 少しだけ。 胸が温かくなる。 仕事が変わっても。 同じ場所で働かなくなっても。 会うために。 互いに時間を作る。 夫婦だった頃。 優とは。 同じ家に住んでいるだけで。 会う努力をしなくなっていた。 隼人くんとは。 別々の場所にいても。 会いたいと。 言っていい。 その違いが。 静かに胸へ残った。 「ありがとう」 綾香が言うと。 隼人くんが少し眉を上げた。 「何が?」 「止めないでいてくれて」 「止めたくないだけだよ」 「でも」 「俺が格好いいこと言ったみたいになるから」 「言ったと思う」 「そっか」 隼人くんが笑う。 綾香も。 小さく笑った。 その後。 食事をしながら。 病院のことをもう少し話した。 研究室へ顔を出してよかったこと。 大貴と石川先生とは。 今後も情報交換を続けること。 研究に戻らなくても。 関係を切る必要はないと分かったこと。 隼人くんは。 一つずつ聞いてくれた。 やがて。 話が途切れる。 隼人くんが。 茶器を持ったまま。 こちらを見ている。 「何?」 尋ねると。 少しだけ目を細めた。 「今日会ってからだけど」 「うん」 「あの日のこと、思い出してた?」 何を。 とは聞かなかった。 聞かなくても。 分かった。 胸が。 急に速くなる。 「少し」 答える。 隼人くんが。 小さく笑った。 「少し?」 視線が。 綾香の唇へ落ちる。 あの日以来。 何度も見た。 短い視線。 でも。 今は。 隠すつもりがないように見えた。 「何回も」 言い直すと。 隼人くんの目元が。 少しだけ柔らかくなった。 「俺も、会ったら余計に」 低い声だった。 唇が。 また熱くなる。 隼人くんは。 手を伸ばさない。 向かいに座ったまま。 視線だけが。 少し近い。 あの日。 一度触れた。 それから。 何もなかったように。 以前の距離へ戻ることはできない。 でも。 触れたからといって。 次へ進まなければならないわけでもない。 二人とも。 あの日を覚えている。 そのことだけを。
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第289話 私が選んだ部屋

「お邪魔します」 隼人くんの声が。 静かな玄関へ落ちた。 外で聞くよりも。 少しだけ低く響く。 私は。 改めて。 自分の部屋へ、隼人くんを招いたのだと実感した。 あの日。 初めてキスをした人を。 自分から。 「どうぞ」 そう言って。 先に廊下を進む。 背後で。 扉が静かに閉まった。 鍵には触れない。 勝手に奥へ入ろうともしない。 隼人くんは。 脱いだ靴をきちんと揃え。 私が数歩進んでから。 少し遅れてついてくる。 いつも一人で歩いている廊下。 壁際の小さな棚。 読みかけの本。 花を挿した細いガラスの器。 毎日見ているものばかりなのに。 隼人くんが後ろにいるだけで。 自分の部屋が。 急に違う場所へ変わったように感じた。 リビングへ入る。 隼人くんは。 入口を少し越えたところで足を止めた。 部屋の中を。 大きく見回すわけではない。 窓辺。 テーブル。 棚の上の花。 ソファの端に置いたクッション。 一つずつ。 確かめるように。 視線がゆっくりと移っていく。 「……何?」 見られているのは。 私ではない。 それなのに。 少し落ち着かなくなった。 隼人くんは。 窓辺を見たまま。 わずかに口元を緩めた。 「綾香ちゃんの家だなと思って」 「どういう意味?」 聞き返してから。 自然に敬語が落ちたことに気づく。 けれど。 言い直すほどでもない気がした。 隼人くんの目元が。 ほんの少しだけ柔らかくなる。 「静かで」 少し考えるように。 言葉を止める。 「綾香ちゃんが、自分で選んだものがちゃんとある」 胸の奥が。 小さく揺れた。 高価な家具を揃えたわけではない。 部屋全体に。 決まった雰囲気があるわけでもない。 ただ。 この部屋で一人で暮らすと決めて。 少しずつ。 自分で選んだ。 必要だから買ったものだけではない。 好きだと思った色。 触れた時に落ち着く素材。 形が可愛いと思った器。 誰かに見せるためではなく。 自分がここで過ごしたいと思えるものを。 一つずつ置いていった。 隼人くんの視線が。 窓へ向かう。 夜の窓を覆っている。 淡いグリーンのカーテン。 外の明かりを受けて。 昼間よりも少し深く。 落ち着いた色に見えてい
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第290話 明らかに近い

指先ではなく。 手の甲へ。 隼人くんの指が触れる。 温かい。 そう思った時には。 二人とも。 前へ屈んだ姿勢のまま。 動きを止めていた。 顔を上げる。 隼人くんの顔が。 思っていたより近い。 あの日のように。 どちらかが。 はっきり近づいたわけではない。 同じものへ手を伸ばして。 顔を上げたら。 すでに。 互いの呼吸が分かる距離にいた。 隼人くんの目が。 私を見る。 そこから。 ゆっくりと。 唇へ落ちる。 短い視線。 でも。 今度は。 見間違いではなかった。 胸の音が。 急に大きくなる。 隼人くんの指が。 私の手の甲から離れる。 けれど。 身体は離れない。 代わりに。 ソファへついていた片手が。 私のすぐ横へ移る。 私を囲うためではない。 傾いた身体を支えるため。 それでも。 腕の内側に。 私がいるような距離になる。 「綾香ちゃん」 名前を呼ばれる。 声が近い。 あの日よりも。 少し低く聞こえた。 「……うん」 返事は。 自然に敬語ではなかった。 隼人くんの目が。 ほんの少しだけ揺れる。 でも。 すぐには近づいてこない。 私が顔を背けないことを。 確かめるように。 静かに待っている。 私は。 動かなかった。 嫌ではない。 怖くもない。 むしろ。 あの日のように。 もう一度触れてほしいと思った。 その気持ちが。 少しだけ顔に出ていたのかもしれない。 隼人くんの顔が。 ゆっくり近づく。 唇が触れる直前。 互いの呼吸が。 一度だけ重なった。 それから。 柔らかく。 唇が合わさる。 あの日の最初のキスより。 ずっと自然だった。 触れる場所を。 二人とも。 もう知っている。 だから。 迷いながら距離を測る時間は短かった。 それでも。 急いではいない。 唇が重なり。 短く触れて。 一度離れる。 隼人くんの目が。 すぐ近くで私を見る。 離れたのは。 わずかな距離だけだった。 鼻先に。 隼人くんの呼吸が触れる。 私も。 目を逸らさなかった。 隼人くんの視線が。 もう一度。 唇へ落ちる。 今度は。 言葉で確かめなかった。 私も。 何も言わなかった。 ただ。 少しだけ顔を上げた。 そ
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