All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 351 - Chapter 359

359 Chapters

第351話 言い訳はしないよ

料亭を出ると、夜の空気が頬に冷たかった。石畳の脇に置かれた灯りが、植木の影を長く伸ばしている。隼人くんは私の鞄を持ったまま、少し前を歩いていた。普段なら、自然に歩幅を合わせる。並んでしまえば、何も言わなくても距離は近い。けれど今夜は、半歩ほど離れていた。遠すぎるわけではない。それでも、手を伸ばせば触れられる距離でもない。私も、その隙間を埋めなかった。怒っていた。父親たちが私の結婚を、事業の条件のように扱ったことにも。それを止めるためとはいえ、隼人くんが自分の人生まで変えるような決断を、私に何も言わず進めていたことにも。店を出た時から胸の奥にあったものが、冷たい空気に触れて、少しずつざらついた輪郭を持ちはじめていた。大通りへ出ると、隼人くんが足を止めた。「近くのホテルに行こう」振り返った顔は、いつもより表情が薄い。父親たちの前で見せていた冷たい顔とは違う。けれど、私の前で見せる隼人くんとも違った。口元が少し固い。「ホテルなら、ラウンジで話せるから」帰るかどうかは聞かなかった。「……うん」それだけ答えると、隼人くんは短く頷いた。「行こう」そのまま歩き出す。さっきまでは。私がどうしたいか。嫌なら嫌でいい。選ばなくてもいい。そうやって、ずっと選択肢を渡してくれていたのに。今は違う。話すことを決めたのは、隼人くんだった。そのことにも、少しだけ胸がざらついた。***ホテルまでの道で、ほとんど会話はなかった。車の走る音。信号の電子音。すれ違う人の声。隼人くんは黙っている。けれど、歩道の段差では速度を落とした。人とすれ違う時には、私が車道側へ寄らないよう自然に位置を変える。横断歩道では、一度だけ私の足元を確認する。いつも通りだった。だから余計に、分からなかった。怒っているのか。傷ついているのか。それとも、別のことを考えているのか。何度か、隼人くんの視線を感じた。こちらを見る。けれど目が合う前に、前へ戻る。唇がわずかに開いて。そのまま閉じる。言いたいことがあるのに、飲み込んでいる。私は、それが嫌だった。優しくされることではない。何を考えているのか分からないことだけが、妙に引っかかった。私も話しかけなかった。隼人くんに何かあるのは分かる。でも今は、私だって怒っている。
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第352話 一人で帰したくない

「綾香ちゃんが悪いって言ってるんじゃない」「俺が勝手に嫌だっただけ」しばらく黙ってから、続ける。「綾香ちゃんを、渡したくないんだよ」指が膝の上でゆっくり握られた。「誰にも」静かな声だった。開き直っているわけではない。むしろ、自分でも綺麗な感情ではないと分かっていて、それでも隠す余裕がないように見えた。「相談しなかったのは悪かったと思ってる」「綾香ちゃんが怒ることも分かってた」「でも」隼人くんの目が、まっすぐ私を見る。「後悔はしてない」胸の奥が揺れた。「兄貴との縁談を、綾香ちゃんが断るまで待つつもりはなかった」「断るって分かってても?」「分かってても」即答だった。「可能性として残ってること自体が嫌だった」声は静かだった。けれど迷いはない。「だから、潰した」「完全に?」「うん」「また同じことがあったら?」ほんの少しも考えずに。「同じことすると思う」私は隼人くんを見る。この人が私を大切にしていることは、分かっている。だからこそ。今まで距離を置いてきた家の仕事まで。自分の生活が変わるほどのものまで。平然と引き受けたことが、怖かった。「隼人くん」声が少し掠れた。「そんなに大きなことを」言葉にしようとして、胸が詰まる。「私なんかのことで――」「私なんかって言うの、やめて」低い声が、私の言葉を切った。はっとして顔を上げる。隼人くんの表情が、初めて崩れていた。眉間に深く皺が寄っている。さっきまで抑えていた目に、明らかな苛立ちが浮かんでいた。片手がテーブルの上へ出る。指先が、一度強く握られる。「それ、嫌だ」「……隼人くん」「綾香ちゃんが、自分のことをそういう言い方するの」声が低い。今までの平坦さが消えていた。「俺が勝手にやったことだから、怒るのはいいよ」「無茶だって言われるのも分かる」少し前へ身体を寄せる。「でも、私なんかのためにって言われるのは違う」視線が、真っ直ぐぶつかる。「綾香ちゃんだからだよ」隼人くんの喉が動いた。「他の誰かなら、こんなことしない」「家が何を決めても、好きにすればいいって思う」「でも綾香ちゃんは違う」声が少しだけ掠れた。「俺、綾香ちゃんのこと諦めるつもりないから」息をするのを忘れた。「事業が大きいことも分かってる」「海外だけじゃ
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第353話 私がしたいこと

「一人で帰したくない」その言葉が落ちたあと。ラウンジの音が、急に遠くなったように感じた。少し離れた席の笑い声も。グラスへ水を注ぐ音も。低く流れているピアノの旋律も。薄い膜の向こうへ退いていく。目の前では、冷め始めた紅茶から、わずかに湯気が立っていた。隼人くんは、私を見たままだった。いつものように笑わない。冗談にも変えない。テーブルに置いた手は動いていないのに、指先だけが少し内側へ曲がっている。「それは」声を出すと、自分の声まで遠く聞こえた。「どういう意味?」隼人くんの喉が動いた。すぐには答えない。視線が私の目から頬へ落ちる。そこから一瞬だけ口元へ下がって、また戻った。「綾香ちゃんが嫌じゃないなら」そこで言葉を切る。「今日は、もう少し一緒にいたい」低い声だった。「最近、全然会えてなかったし」「電話では話してたけど、顔を見る時間も、二人でいられる時間もなかったから」隼人くんの指先が、テーブルの木目をなぞるようにわずかに動く。「今日も、やっと会えたのに」息を吐く。「父親たちと兄貴がいて」「綾香ちゃんを見ないようにしてた」私は瞬いた。「……わざと?」「うん」隼人くんの口元が、ほんの少し歪んだ。困ったような。自分でも呆れているような顔だった。「見たら、たぶん無理だったから」「何が?」「冷静に話すのが」答えた声とは反対に、眉間には薄く皺が残っている。「あの場で綾香ちゃんの顔見たら、怒ってるのも困ってるのも分かるでしょう」「うん」「そしたら、たぶん俺、迷うから」視線が少しだけ落ちた。「でも、縁談は潰したかった」淡々と言っている。けれど。握られている指は、少しも力が抜けていなかった。私はそれを見ながら、ようやく気づく。隼人くんは。言葉ほど平気ではない。後悔していないと言った。また同じことをすると言った。今も、落ち着いた声で話している。それなのに。目はずっと私の反応を追っている。怒らせたことを気にしている。嫌われたのではないかと、たぶん怖がっている。さっきから何度も。言っていることと、顔が合っていなかった。「だから」隼人くんが続ける。「今は、もう少し近くにいたい」視線が私を捉える。「触れたいとも思ってる」胸の奥が跳ねた。さっきより、ずっと直接的だった。
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第354話 全然平気じゃないよ

「どういうこと?」「隼人くんは、私がどうしたいかをずっと考えてくれるでしょう」「それは普通じゃない?」「普通かどうかじゃなくて」私は顔を上げた。「私も、隼人くんがどうしたいのか知りたいの」視線がぶつかる。「私が嫌じゃないかだけじゃなくて」「隼人くんが嬉しいのか」「寂しかったのか」「本当は帰したくないのか」「触れたいのか」一つずつ口にすると、最後だけ少し恥ずかしくなった。それでも、目は逸らさなかった。隼人くんの表情が、目に見えて変わる。さっきまで固かった目元から力が抜けた。けれど。どこか戸惑っている。「そんなの」小さく息を吐く。「綾香ちゃんが知って、どうするの」その言い方に、胸が少し痛くなった。本当に。この人は、自分の気持ちを後ろへ置くことに慣れている。「考えるよ」「何を?」「隼人くんのこと」今度は、迷わなかった。隼人くんの目が止まる。「恋人なんだから」言葉にすると。自分の胸にも、じわりと広がった。「私が嫌じゃないかを、隼人くんが考えてくれるなら」「私だって、隼人くんが何を望んでるのか考えたい」「隼人くんが私を大事にしてくれるのと同じように」息を吸う。「私も、隼人くんを大事にしたいよ」隼人くんは何も言わなかった。瞬きさえ少ない。ただ、私を見ている。その目が。少しずつ、柔らかくなる。それでも。口元にはまだ、ほんのわずかに緊張が残っていた。嬉しいはずなのに。簡単には信じないようにしているみたいだった。「……それ」やがて声が落ちる。「今言うの、ずるいね」「どうして?」「俺、今日ずっと余裕ないのに」その言葉とは裏腹に。ほんの少しだけ、口元が緩んだ。今日初めて見る。いつもの隼人くんに近い表情だった。でも完全には戻っていない。目の奥にはまだ、隠しきれない熱が残っている。私は、それを見ていた。さっきまでは。何を考えているのか分からないことが嫌だった。でも今は少しだけ分かる。「余裕ないって言う割に」「うん?」「ずっと平気そうな顔してる」隼人くんが、わずかに眉を上げた。「そう?」「うん」「全然平気じゃないよ」即答だった。思わず、少し笑ってしまった。隼人くんも。今度こそ、ほんの少し笑った。それだけで。張りつめていたものが、少しだけほどける。
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第355話 それでも、継ぐ

ホテルを出ると、夜の空気は先ほどより冷えていた。隼人くんと並んで歩く。ラウンジで。 私は「いいよ」と答えた。もう少し一緒にいることも。 隼人くんの家へ行くことも。自分で選んだ。それでも。 怒りまで消えたわけではない。隼人くんは、いつものように私の歩幅へ合わせていた。人とすれ違えば、何も言わずに歩道の内側へ入れてくれる。 段差の前では、ほんの少し速度を落とす。そういうところは、何も変わらない。なのに。表情だけが、いつもより遠かった。普段なら。 少し困っているとか。 気まずそうにしているとか。 言いたいことを飲み込んでいるとか。それくらいは分かる。今日は、それが読めない。横顔は整ったまま。 口元も動かない。ただ。時々、ジャケットのポケットへ入れた手が、中で握られているのだけが分かった。駐車場へ着くと、隼人くんが鍵を操作する。少し離れた場所で、黒い車のライトが点滅した。以前、ギャラリーの帰りに一度だけ乗った車だった。普段より車高が低く。 隼人くんが仕事の場へ出る時の顔に、よく似合う車。今日も。最初から何か起きる可能性を考えていたのだと思う。隼人くんは助手席の扉を開けた。「どうぞ」「ありがとう」声まで、いつも通りだった。だから余計に分からない。乗り込むと、外の音が遠ざかった。隼人くんも運転席へ回る。シートベルトを締める。 ナビへ自宅を設定する。けれど。すぐには車を出さなかった。両手をハンドルへ置いたまま、数秒止まる。右手の親指が、革の縫い目を一度強く押した。それから。何事もなかったようにアクセルを踏む。夜の街が流れ始めた。「本当に」私が口を開く。「家を継ぐの?」隼人くんの指が、ほんの少し動いた。赤信号で車が止まる。「継ぐよ」「今日、縁談を止めるために言っただけじゃなくて?」「うん」「本当に?」今度は、こちらを見た。一瞬だけ。表情は薄い。迷いも。 不安も。何も見えない。「本当に」信号が変わる。隼人くんは前を向いた。「ずっと、絶対にやらないって言ってたでしょう」「言ってた」「だったら、どうして」唇が一度、固く閉じられる。「いつかは向き合わなきゃいけなかったから」「でも、今日じゃなくてもよかった」「そうだね」あっさり認める。その顔も
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第356話 代わりに失うもの

車は、都心を抜けていく。――俺以外との結婚が、選択肢として残ってること自体が嫌だった。その言葉が、まだ胸に残っていた。隼人くんは何事もなかったように運転している。背筋はまっすぐ。 視線は前方。速度も一定。いつもの隼人くんなら。黙っていても、少しは分かる。機嫌がいい時は、口元が緩む。 考えている時は、眉尻がわずかに下がる。 困ると、一度だけ目を伏せる。今日は。それがほとんどない。綺麗に感情を閉じている。そのせいで。わずかな動きばかりが、目についた。赤信号で止まるたび。 右手がハンドルの同じ場所を握り直す。車線を変えた後。 親指が一度、革を擦る。何でもない仕草のはずなのに。今夜は。そこにしか感情が見えなかった。「それで」私は尋ねる。「本当に、全部うまくいくと思ってる?」「思ってない」返事は早かった。思わず隣を見る。「……思ってないの?」「面倒になるよ」前を見たまま答える。「かなり」「クリニックもあるのに?」「残す」「海外へ行くことも増えるでしょう」「増えると思う」「日本にいない時間も?」「ある」都合の悪いことを、一つも隠さない。それなのに。顔だけは何も語らない。「今までみたいにはいかないかもしれないよ」「分かってる」「それでも?」隼人くんの口元が、ごくわずかに歪んだ。「それ、今日何回目?」声には少しだけ柔らかさが戻っていた。けれど。目は笑っていない。私は、それを見ていた。「隼人くん」「何?」「平気そうに見える」数秒。返事がない。信号が青になる。車が動き出す。「そう見える?」「うん」「じゃあ、見せるの上手いんだね」その言葉と同時に。右手が一度だけ強くハンドルを握った。やっぱり。平気ではない。「一番上のお兄さんは?」「和人?」「うん」横顔が、ほんの少し硬くなった。今度は分かった。一瞬だけ。顎に力が入った。「よく思わないと思う」「どうして?」「自分の領域が減るから」親指が、ゆっくりハンドルの縁をなぞる。「郁人兄貴とは違う」「何が?」「兄貴は、自分に必要がなければ、人の領域へ無理に入ってこない」郁人先生らしいと思った。今日も。自分なら縁談を断る理由はないと言いながら。私に意思がないなら進めるべきではない
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第357話 そこだけは、譲れない

しばらく、車内に言葉はなかった。街灯の光が。隼人くんの横顔を照らしては、消していく。私は、何度か隣を見た。やっぱり。今夜の隼人くんは、いつもより読めない。普段なら。沈黙の中にも、何となく感情が見える。今は違う。表情は静かで。 視線は前。ただ。信号で止まるたび。指がハンドルの縁を確かめるように動く。時々。舌先で、内側から頬を押す。何かを飲み込んでいる時の癖なのだと。今日初めて知った。「綾香ちゃん」突然、名前を呼ばれる。「何?」「さっき」言葉が止まる。隼人くんの下顎が、ほんの少し動いた。「兄貴との婚姻の意思はないって言ったでしょう」「うん」「本当にないんだよね」私は隣を見る。「ないよ」即答する。「仕事で尊敬してても?」「それとこれは別だって言ったでしょう」「分かってる」そう言うのに。眉間には薄く皺が寄った。「……分かってない顔してる」思わず言う。隼人くんが、一瞬こちらを見る。「そう?」「うん」「じゃあ」少しだけ口元が歪む。「分かってるけど、気に入らない顔かな」その言い方とは違って。目には、笑いがなかった。「兄貴のこと、尊敬してるって言った時」ハンドルを握る指が、ゆっくり締まる。「かなり嫌だったよ、さっきも言ったけど」「……知ってる」「もっと嫌だったのは」一度。息を吸う。「もし綾香ちゃんが、違う状況で兄貴と会ってたらって考えたこと」胸が跳ねる。「どういう意味?」「そのままだよ」視線が一瞬だけ私へ向く。今度は。すぐには戻らなかった。「兄貴は、綾香ちゃんを気に入ったと思う」「仕事の話でしょう?」「最初はね」声が低くなる。同時に。隼人くんの奥歯が、わずかに噛み締められる。「でも、あの人が本当に欲しくなったら」指先に力が入る。「面倒だったと思う」「郁人先生はそんな――」「分かってるよ」静かに遮る。でも。その顔は少しも納得していない。「兄貴が何かしたって言ってるんじゃない」「俺が嫌なだけ」今日、何度も聞いた言葉。けれど今度は。開き直るような静けさがあった。「綾香ちゃんが誰かに好かれるのは止められない」「誰と仕事するかも、俺が決めることじゃない」隼人くんは淡々と続ける。「でも」親指が、ハンドルから離れる。一度だけ。膝
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第358話 扉が閉まったあと

車が地下駐車場へ入ると、窓の外から街の明かりが消えた。白い照明が、一定の間隔で車内を横切る。隼人くんは最後まで、ほとんど何も話さなかった。ラウンジを出てから。 車の中でも。何か一つ口にしたら。 抑えているものまで全部出てしまうと分かっているようだった。私は膝の上で指を重ねる。帰りたくないと言った。もっと近づきたいとも言った。今も、その気持ちは変わらない。けれど。 何も相談せず、大きな決断をしたことへの怒りまで消えたわけではなかった。車が停まる。エンジンが切れると、急に隼人くんの呼吸だけが近くなった。すぐにはシートベルトを外さない。前を向いたまま。 しばらく動かなかった。「綾香ちゃん」「うん」ようやくこちらを見る。表情はまだ読めない。「本当に、帰らなくていい?」最後の確認に聞こえた。「帰らないよ」隼人くんの喉が動く。少し長く私を見たあと。 自嘲するように口元を歪めた。「……今日の俺、相当ダサいね」「ダサい?」「うん」眉間を指で押さえる。「兄貴に嫉妬して」「綾香ちゃんが兄貴を褒めたのも気に入らなくて」「そのうえ、帰したくないとか言ってる」少し笑う。でも。 目は笑っていなかった。「こういう余裕ない男、俺が一番嫌いなんだけど」「じゃあ、どうして?」隼人くんが私を見る。「分かってても、今日は無理だった」声が少し低くなる。「綾香ちゃんが悪くないのも」「兄貴が何かしたわけじゃないのも分かってる」「それでも嫌だった」その一言だけ、少し掠れた。「今、帰らないって言われて」一度、私の唇へ視線が落ちる。「かなり安心してる」「そうは見えないけど」「見せないようにしてるから」少しだけ、いつもの笑い方に戻る。「これ以上ダサくなりたくないし」「もう遅くない?」言うと。隼人くんが一瞬止まり。 小さく笑った。「そうかもね」ようやく、シートベルトを外した。***車を降りる。地下駐車場は広く。 車同士の間隔も十分に取られていた。照明は明るいのに、人の気配はほとんどない。見覚えのある種類の空間だった。優と暮らしていたマンションにも。 似た静けさがあった。外から帰ってくれば。 人とほとんど顔を合わせることなく、そのまま部屋まで上がれる。エントランスも。 エレベーター
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第359話 慣れている人

二度目の口づけは。最初より少しだけゆっくりだった。それでも。隼人くんの手は、まだ腰から離れない。唇が離れたあとも。 親指が腰の後ろで一度だけ動いた。「……このままだと」掠れた声が落ちる。「ちゃんと話せなくなる」そう言うのに。顔はまだ近い。視線も、私の唇から離れていなかった。「離れる気ない顔してる」隼人くんが少し止まる。「ないよ」あっさり認める。「でも、綾香ちゃんまだ怒ってるでしょう」「怒ってるよ」「うん」「だからって、帰りたいわけじゃない」隼人くんの目の奥に、また熱が戻る。「それ今言われると困るね」「どうして?」「また触れたくなるから」胸が跳ねた。それでも。今度は隼人くんの方から一歩離れた。その距離の取り方が。あまりにも自然だった。近づいたあと。 相手が息を整える時間を作る。気まずくならないように、次の動作へ移る。「上着、預かるよ」私は上着を脱ぐ。隼人くんは受け取り。 襟を整え、ハンガーへ掛ける。動作に迷いがない。そこで。ふと気づく。この人は。慣れている。誰かとの距離を詰めることにも。触れたあとに相手を落ち着かせることにも。どこで止まるべきかを判断することにも。全部。たぶん、知っている。そう思うと。胸の奥が少しざらついた。私だけが。まだ唇の熱を持て余しているような気がする。でも。隼人くんは上着を掛けたあと。 すぐには振り返らなかった。背を向けたまま。袖口を一度整える。短く息を吐く。それを見て。少し考えが変わる。慣れている。でも。今夜まで余裕があるわけではない。落ち着いているのではなく。落ち着こうとしている。「こっち」振り返った隼人くんについて、リビングへ入った。***大きな窓の向こうに夜景が広がっていた。高い天井。 抑えた照明。眼鏡。 読みかけの本。 充電器につながれた端末。整った部屋の中に。隼人くんの日常だけが静かに残っている。「座って」私はダイニングの椅子へ座る。隼人くんは向かいではなく。 少し斜めの位置へ座った。近すぎず。 遠すぎない。表情も見える。 手を伸ばせば届く。その距離まで。自然だった。また思う。慣れている人だ。相手を緊張させすぎない。でも。 興味がないとも思わせない。「まだ
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