料亭を出ると、夜の空気が頬に冷たかった。石畳の脇に置かれた灯りが、植木の影を長く伸ばしている。隼人くんは私の鞄を持ったまま、少し前を歩いていた。普段なら、自然に歩幅を合わせる。並んでしまえば、何も言わなくても距離は近い。けれど今夜は、半歩ほど離れていた。遠すぎるわけではない。それでも、手を伸ばせば触れられる距離でもない。私も、その隙間を埋めなかった。怒っていた。父親たちが私の結婚を、事業の条件のように扱ったことにも。それを止めるためとはいえ、隼人くんが自分の人生まで変えるような決断を、私に何も言わず進めていたことにも。店を出た時から胸の奥にあったものが、冷たい空気に触れて、少しずつざらついた輪郭を持ちはじめていた。大通りへ出ると、隼人くんが足を止めた。「近くのホテルに行こう」振り返った顔は、いつもより表情が薄い。父親たちの前で見せていた冷たい顔とは違う。けれど、私の前で見せる隼人くんとも違った。口元が少し固い。「ホテルなら、ラウンジで話せるから」帰るかどうかは聞かなかった。「……うん」それだけ答えると、隼人くんは短く頷いた。「行こう」そのまま歩き出す。さっきまでは。私がどうしたいか。嫌なら嫌でいい。選ばなくてもいい。そうやって、ずっと選択肢を渡してくれていたのに。今は違う。話すことを決めたのは、隼人くんだった。そのことにも、少しだけ胸がざらついた。***ホテルまでの道で、ほとんど会話はなかった。車の走る音。信号の電子音。すれ違う人の声。隼人くんは黙っている。けれど、歩道の段差では速度を落とした。人とすれ違う時には、私が車道側へ寄らないよう自然に位置を変える。横断歩道では、一度だけ私の足元を確認する。いつも通りだった。だから余計に、分からなかった。怒っているのか。傷ついているのか。それとも、別のことを考えているのか。何度か、隼人くんの視線を感じた。こちらを見る。けれど目が合う前に、前へ戻る。唇がわずかに開いて。そのまま閉じる。言いたいことがあるのに、飲み込んでいる。私は、それが嫌だった。優しくされることではない。何を考えているのか分からないことだけが、妙に引っかかった。私も話しかけなかった。隼人くんに何かあるのは分かる。でも今は、私だって怒っている。
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