Semua Bab 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Bab 301 - Bab 310

359 Bab

第301話 一人にはしませんから

「患者さんの状態が」看護師の声は。必要以上に大きくはなかった。けれど。昼間とは違う緊張が含まれていた。歩きながら続きを聞いた。先ほどまで会話ができていた患者が。急に強い痛みを訴え。顔色も悪くなっている。血圧も。少しずつ下がっている。「担当の先生には?」「連絡しています」「今、別の対応に入っていて」「分かりました」足を速めた。廊下の窓は。夜の色へ変わっている。外の街には。まだたくさんの明かりが見えた。けれど。病棟の中は。昼間よりも静かだった。人が少ない。だからこそ。何かが起きた時の音が。はっきりと聞こえる。病室へ入る。ベッドの上で。患者が身体を小さく丸めていた。額には。細かい汗が浮かんでいる。「白松です」声をかける。患者が。ゆっくりと目を開けた。「痛いですか」「……はい」短い返事。昼間に見た時とは。明らかに違う。患者の表情と。呼吸の速さを確認した。看護師が。直前までの変化を伝える。一つずつ聞く。痛みが始まった時間。場所。強さ。吐き気。意識の変化。答えを急がない。けれど。止まらない。必要なことだけを。順番に確認する。頭の奥では。いくつかの可能性が浮かんでいた。久しぶりの夜間勤務。何年ぶりかの急変対応。それでも。患者の前へ立った瞬間。怖さだけを考えている余裕はなかった。今。目の前にいる人が。昼間とは違う。その変化を。見落とさないこと。まず。それだけに集中する。「追加で確認をお願いします」看護師へ伝える。自分でも。必要な診察を進める。患者の身体へ触れた時。一か所だけ。強く反応が出た。「ここが一番痛いですか」患者が。小さく頷く。もう一度。表情を見る。怖い。そう言葉にしなくても。患者が不安を感じていることは分かった。「今、原因を確認しています」落ち着いて、伝えた。「一人にはしませんから」患者の目が。少しだけこちらを向く。看護師へ視線を移した。「担当の先生へ」「今の状態と」「私が確認した所見を伝えてください」「はい」「画像も」言いかけて。一度止まる。この病院で。夜間にどの順番で動くのか。まだ。完全には身についていない。分かったふりをせず。看護師へ確認する。「夜間の手順は」「
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第302話 郁人先生

***病室を出ると。廊下の空気が。少しだけ冷たく感じた。一度だけ壁際へ寄り。深く息を吐いた。緊張していた。思っていた以上に。けれど。怖くなって。動けなくなったわけではない。看護師の違和感を聞き。患者を診て。必要な報告をした。分からない手順は確認した。担当医へも。状況をまとめて伝えられた。完璧ではない。それでも。ちゃんと。医師として動けていた。「白松先生」先ほどの看護師に呼ばれる。「はい」「ありがとうございます」突然そう言われ。目を瞬いた。「何がですか」「最初に来てくださった時」看護師が。病室の方を見る。「患者さん、かなり不安そうだったので」「先生がずっと声をかけてくださって」「安心されていたと思います」何も言えず。一度だけ病室の扉を見た。自分が。何か特別なことをしたとは思わない。でも。患者にとっては。医師が近くにいること。今何をしているのかを。言葉にしてもらえること。それだけでも。違うのかもしれない。「それなら」小さく答えた。「よかったです」看護師が頷く。そこへ。別のスタッフが。早足で近づいてきた。「外科の先生」「来てくださるそうです」担当医が。時計を見る。「どなたですか」尋ねると。スタッフは。手元のメモを確認した。「郁人先生です」聞き慣れない名前だった。名字ではなく。名前で呼ばれている。それだけで。少しだけ違和感があった。「郁人先生?」思わず、聞き返す。看護師が頷く。「月に何度か来てくださる先生です」「外の病院の方ですけど」少しだけ声を落とす。「すごく早いです」何が。とは聞かなかった。判断も。手術も。動きも。きっと。すべてを含めて言っているのだろう。担当医も。少しだけ表情を緩めた。「それなら安心ですね」その一言で。周囲の空気が。ほんの少し変わった。名前を聞いただけで。安心される医師。どんな人なのだろう。そう考えた瞬間。自分でも。少しだけ驚いた。数十分前まで。余裕などなかった。今は。患者の状態を見ながらも。次に来る人のことを。考えられるくらいには。落ち着きを取り戻している。「白松先生」担当医が言う。「来られたら」「経過を説明してもらえますか」一瞬。胸が鳴った。
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第303話 朝までの引き継ぎ

病室へ入ると。郁人先生は。すでに患者の横へ立っていた。「お名前、分かりますか」低く。抑揚の少ない声。患者が。かすかに頷く。返事を急かさず。郁人先生は。短い質問を重ねていく。痛みの場所。始まった時間。吐き気。今までに。同じ症状があったか。声に。患者を安心させようとするような。過度な柔らかさはなかった。けれど。冷たくもない。必要なことを。必要な順番で確認していく。その迷いのなさが。病室にいる人間を落ち着かせていた。少し離れた場所に立ち。郁人先生の質問と。患者の返答を聞いた。さっき。自分が確認した時から。痛みはさらに強くなっている。顔色も。戻ってはいない。郁人先生が。患者の身体へ触れる。反応を見て。一度だけ手を止めた。「白松先生」急に名前を呼ばれ。顔を上げる。「はい」「最初に診た時も」「この反応はありましたか」「ありました」すぐに答える。「ただ」少し言葉を選ぶ。「今の方が強いです」郁人先生の視線が。一度だけこちらへ向く。「どの程度」最初に確認した時の様子を伝える。患者が。どの程度身体を動かせたか。触れた時の反応。会話の長さ。今との違い。郁人先生は。頷かなかった。相槌も打たない。ただ。最後まで聞く。「分かりました」それだけ言うと。担当医へ向き直った。その後のやり取りも。短かった。確認した内容。検査結果。これまでの経過。郁人先生は。必要な情報だけを拾い。判断を進めていく。説明に。迷いがない。けれど。決めつけてもいない。一つ確認して。次へ進む。その繰り返しだった。その横で。先ほどまでの自分の動きを思い返していた。看護師に呼ばれ。患者を診た。変化を確認し。担当医へ伝えた。外科へつないだ。大きく間違えたことはない。それでも。郁人先生の動きと比べると。自分には。まだ余計な時間が多かった。確認していいのか。誰へ聞くべきか。一つずつ迷った。久しぶりだったから。仕方がない。そう思うこともできる。でも。患者の状態は。こちらが慣れるまで待ってはくれない。その事実が。胸の奥へ残った。「ご家族へ連絡を」郁人先生が言う。担当医が頷く。患者の顔が。さらに強張った。ベッドの横へ少し近づいた。
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第304話 初めての急変

判断が伝えられると。患者の表情が。目に見えて硬くなった。家族は。まだ病院へ向かっている。処置室へ移る直前まで。患者のそばへいた。「白松先生」患者に呼ばれる。「はい」「戻ってきたら」声が。少し震えていた。「また、いますか」一瞬。胸が詰まる。この患者を。最初に診たのは自分だった。けれど。手術をするのは。郁人先生。その後も。多くの人が関わる。自分だけが。何かをしているわけではない。それでも。患者にとっては。最初から近くにいた人が。私だった。「います」すぐに答えた。「戻ってきた時も」「確認します」患者の肩から。ほんの少しだけ力が抜けた。移動が始まる。ベッドが。病室から廊下へ出ていく。少しだけ後ろについて歩いた。処置室へ入る前。郁人先生が。足を止める。「白松先生」「はい」「術後」少しだけ間を置く。「最初に診た時との違いを」「もう一度教えてください」「分かりました」すぐに頷く。郁人先生は。それ以上何も言わず。中へ入っていった。扉が閉まる。廊下へ。急に静けさが戻った。その場に残った綾香は。ゆっくり息を吐いた。自分の役割は。終わっていない。患者が戻ってくる。その時に。最初の状態を知っている自分が。もう一度確認する。郁人先生は。それを求めた。復帰したばかりだから。外されるのではない。最初に診た医師として。引き続き関わる。そのことが。少しだけ嬉しかった。同時に。緊張も残った。術後の患者を。自分がきちんと見られるのか。変化へ気づけるのか。できる。そう言い切る自信はない。でも。逃げたくはなかった。***手術が終わるまでの間。他の患者を確認しながら。何度も時計を見た。夜の病棟は。静かな時間と。急に忙しくなる時間が。交互にやってくる。廊下の照明は。昼間より暗い。窓の外には。いつの間にか。街の明かりだけが残っていた。深夜を過ぎ。眠気よりも。身体の重さが先に来た。足が。少しだるい。肩も。硬くなっている。それでも。頭は冴えていた。患者が戻るまで。終われない。スマホを見る余裕はなかった。隼人くんから。何か届いているかもしれない。そう思った。けれど。今は。画面を開かなかった。目の前の
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第305話 夜間勤務は久しぶりですか

患者を見た。人へつないだ。戻ってきた後も。そばにいた。完璧ではない。でも。逃げなかった。その事実が。胸の奥へ。静かに積み重なっていく。***空が。少しずつ明るくなり始めた頃。病院の窓が。薄い青色へ変わっていた。夜の終わり。街の輪郭が。ゆっくり戻ってくる。病棟にも。朝の気配が入り始めていた。職員が増え。小さな話し声が。廊下へ戻ってくる。綾香は。夜間の経過を整理していた。自分のメモを見返す。最初の状態。手術前。手術後。夜中の変化。必要なことは。書けている。文字は。途中から少し乱れていた。けれど。読めないほどではない。「白松先生」後ろから。淡々とした声がした。振り返る。郁人先生が。少し離れた場所に立っていた。来た時と。同じ服装。髪も。ほとんど乱れていない。一晩中働いた人には。見えないほど変わらない。「患者さん」「はい」すぐに経過を伝えた。夜間に確認したこと。大きな変化がなかったこと。目を覚ました時の反応。家族へ伝えた内容。郁人先生は。黙って聞く。途中で。一つだけ質問をした。答えると。それ以上は聞かなかった。「分かりました」いつもと同じ言葉。そのまま。患者の病室へ向かうのかと思った。けれど。郁人先生は。動かなかった。「白松先生」「はい」「夜間勤務は」少しだけ間を置く。「久しぶりですか」胸が。小さく鳴った。自分では。大きく崩れていないと思っていた。それでも。分かる人には。分かってしまうらしい。「はい」正直に答える。「病院勤務へ戻ったばかりです」郁人先生の表情は。変わらなかった。驚きも。納得したような反応もない。「そうですか」それだけ。少しだけ。拍子抜けする。もっと何か言われると思った。久しぶりにしては。よくできていた。あるいは。もっと早く動くべきだった。どちらでもない。郁人先生は。ただ。事実として受け取っただけだった。「昨日の対応」背筋が。少しだけ伸びる。「はい」「最初の報告は」郁人先生が続ける。「分かりやすかったです」短い言葉。声の調子も変わらない。「自分で見たことと」「他の人から聞いたことを」「分けていたので」何も言えなかった。褒められている。そう
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第306話 病院の日常

*** 最初のオンコールを終えてから。病院での時間は。少しずつ。特別なものではなくなっていった。朝。職員用の入口から入り。更衣室で白衣へ着替える。首から職員証を下げ。スタッフルームへ向かう。最初の頃は。廊下を歩くだけで。周囲の音をすべて拾っていた。誰かに呼ばれるたびに。自分ではないかと振り返った。院内の放送。足早に通り過ぎる看護師。開閉するエレベーター。それだけで。身体のどこかが緊張していた。今は。必要な音だけを。自然に聞き分けられるようになった。「白松先生」名前を呼ばれれば。すぐに顔を上げる。確認を頼まれたことへ答え。分からないことは。その場で尋ねる。一日の流れも。少しずつ見えるようになった。以前の自分へ戻ったわけではない。以前より。速く動けるようになったわけでもない。それでも。病院の中で。何を優先するべきか。少しずつ判断できるようになっていた。最初は。一つのことが終わるまで。次へ移れなかった。今は。途中の仕事を頭に残したまま。急ぐものへ先に向かえる。誰へ確認するのかも。迷う時間が減った。帰宅した後。自分が何もできなかったように感じる日も。少なくなっていた。患者の顔。交わした言葉。自分で判断できたこと。助けを求められたこと。それぞれが。一日の中へ。きちんと残るようになった。病院へ戻ったのだと。ようやく。身体の方も理解し始めていた。***専門医取得に向けた研修についても。少しずつ話が進んだ。以前の研修記録。経験した症例。認められる部分と。改めて積み上げる必要があるもの。まだ。全体が決まったわけではない。取得まで。どれだけ時間がかかるのかも分からない。それでも。自分がこれから何をするのかは。以前より見えるようになった。急いで。失った時間を埋める必要はない。一つずつ。必要な経験を積む。記録を残す。分からないことを学ぶ。病院の勤務へ慣れることも。その一部だった。以前なら。もっと早く。もっと多く。そう考えたかもしれない。今は。今日できることを。翌日へ残さず終える。それで十分だと思える日が増えていた。「最近」昼食を取りながら。真帆がこちらを見る。「顔が戻ってきたね」「何の顔?」「病院で働い
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第307話 一か月少しです

「必要なことは入っています」郁人先生が答える。「なので」少しだけ間。「今の方が分かりやすいです」褒められている。やはり。言われてから少し経たなければ。分からない。「ありがとうございます」答えると。郁人先生は。それ以上何も言わず歩き出した。相変わらず。淡々としている。けれど。初めての夜から。自分が変わっていることを。見ていたらしい。そのことが。思っていたより胸へ残った。***別の日。夕方の病棟で。若い医師から相談を受けていた。患者への説明について。どの順番で話すべきか迷っているという。以前の自分なら。正しい答えを伝えようとしたかもしれない。今は。まず。その医師が。何を気にしているのかを聞いた。患者本人の希望。家族の受け止め方。まだ決まっていないこと。全部を整理してから。「分からないことまで」「決まったように言わなければいいと思う」そう答えた。医師は。少し考えてから頷く。「一緒に来てもらえますか」頼まれて。少しだけ驚いた。それでも。「いいですよ」と答えた。以前の自分なら。誰かの説明に同席することを。まだ早いと思ったかもしれない。今は。自分にできる役割なら。受け取ってもいいと思えた。話を終え。病室から出る。廊下の先に。郁人先生が立っていた。壁際で。別の医師と話している。会話が終わり。こちらへ歩いてくる。「今の患者さん」郁人先生が尋ねる。「説明は終わりましたか」「はい」「どうでした」「まだ決まっていないことと」「今分かっていることを分けて伝えました」郁人先生は。短く頷いた。「そうですか」それだけで。通り過ぎる。少し進んでから。また足が止まる。「白松先生」「はい」「病院へ戻って」「どれくらいですか」突然の質問だった。「一か月少しです」「そうですか」表情は。変わらない。「もう少しいるように見えます」思わず郁人先生を見る。冗談を言っている様子はない。褒めているのかも。やはり分かりにくい。「それは」少し迷う。「良い意味ですか」郁人先生が。初めて。ほんのわずかに目を細めた。「悪い意味で言う必要はないでしょう」それだけ答え。今度こそ歩いていった。その背中を見送る。淡々としている。言葉も少
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第308話 病院には慣れましたか

郁人先生とは。その後も。病院で何度か顔を合わせた。毎週いるわけではない。決まった曜日に来るわけでもない。手術がある日。術後の確認が必要な日。呼ばれた時だけ現れ。必要なことを終えると。いつの間にかいなくなっている。それでも。姿を見かければ。もう誰なのか迷うことはなかった。「郁人先生」看護師が呼ぶ。その声に。自然と視線が向く。いつも。服装はきちんとしている。白衣を着ていても。着ていなくても。どこか整って見えた。髪。袖口。持っている書類。歩く速さ。何一つ。乱れているところがない。だからといって。近寄りがたいわけではなかった。看護師が話しかければ。足を止める。若い医師が質問すれば。短くても答える。患者へも。必要な説明はきちんとする。声を荒らげることも。不機嫌そうにすることもない。ただ。余計なものがない。笑わせようとしない。親しげに振る舞わない。自分をよく見せようともしない。それなのに。冷たくは見えなかった。不思議な人だと思った。***その日。手術を終えた患者の記録を確認していた。午後の病棟は。午前中より少しだけ静かだった。窓から差し込む光が。廊下の床へ長く伸びている。近くでは。看護師が小さな声で申し送りをしていた。「白松先生」呼ばれて。顔を上げる。郁人先生が。少し離れたところに立っていた。片手には。薄いファイル。「はい」近づくと。郁人先生は。開いていたページをこちらへ向けた。「この患者さん」「明日の朝」「ここだけ確認してください」指された部分を見る。術後の経過に関する。簡単な確認だった。「分かりました」「変化がなければ」「そのままで大丈夫です」「はい」郁人先生は。ファイルを閉じた。話は。それで終わったように見えた。けれど。その場を離れなかった。なぜか動くタイミングを失った。少しだけ。沈黙が落ちる。気まずいわけではない。郁人先生は。沈黙を気にしている様子もない。ただ。窓の外へ一度視線を向けた。「もう」郁人先生が言う。「病院には慣れましたか」突然の問いだった。「少しずつ」軽い感じで、答えた。「最初よりは」「そうですか」それだけ。もう少し続くのかと思ったが。郁人先生は。特に感想を加
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第309話 不思議な人

「それで」郁人先生が言う。「本当に大丈夫なら」「いいと思います」「そうじゃない時は?」「言わない方がいいでしょう」淡々とした答え。でも。否定されている感じはなかった。ただ。そう考える人なのだと分かる。「郁人先生らしいですね」そう言うと。郁人先生が足を止めた。「僕らしい?」「たぶん」「まだ」少しだけ間を置く。「何度かしか会っていませんが」「そうですね」郁人先生は。それ以上聞かなかった。ただ。もう一度歩き出す。その隣へ並んだ。何を考えているのか。分かりやすい人ではない。でも。分からないことを。曖昧な言葉で埋めない。その点だけは。とても分かりやすかった。***その週。プロジェクトの会議があった。病院勤務が始まってから。自分が参加できる回数は減っていた。それでも。臨床側の意見が必要な場には。できる限り出るようにしている。クリニックだけにいた頃とは。見えるものが少し変わった。病院から患者を送り出す側。地域で受け入れる側。両方の流れを。以前より具体的に考えられるようになっていた。会議では。病院から地域へ共有される情報について。話が出た。病棟で感じたことを。簡潔に伝えた。現場では。情報が多いことよりも。何が決まっていて。何がまだ決まっていないのか。すぐに分かる方が重要だということ。言いながら。郁人先生との会話を思い出していた。分からないことを。分かるようには言わない。決まっていないことを。決まったようには話さない。当たり前のようで。実際には。簡単ではない。会議が終わった後。大貴から。短いメッセージが届いた。『病院側の視点、前より具体的になったね』少しだけ笑ってしまった。病院へ戻ったことで。自分の仕事が増えただけではない。プロジェクトで伝えられることも。確かに変わり始めている。翌日。病院の廊下で。郁人先生を見かけた。看護師と話し終え。こちらへ歩いてくる。「郁人先生」自分から声をかけると。郁人先生が足を止めた。「はい」「この前の話」「どの話ですか」「決まっていないことを」「決まったように言わないという話です」郁人先生は。一度だけ考えるように視線を動かした。「はい」「プロジェクトの会議で」「少し使わせてもら
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第310話 まだクリニック?

その日。翌週の手術予定を確認していた。病棟へ配られた一覧には。患者の名前。担当医。執刀医。必要な情報だけが。細かく並んでいる。自分が関わる患者の欄へ。順番に目を通す。そこで。一つの名前に。視線が止まった。【綾瀬郁人】一度。目で追い直す。郁人先生。病院では。誰も名字で呼ばない。看護師も。医師も。当たり前のように。郁人先生と呼んでいた。だから。フルネームを見るのは。初めてだった。綾瀬。珍しい名字ではない。けれど。医師で。隼人くんより少し年上に見える。別の病院で働きながら。こちらへ手術に来ている。そして。隼人くんには。医師をしている兄がいる。偶然かもしれない。そう思いながらも。一度気づくと。無関係には思えなかった。「白松先生」近くにいた看護師から呼ばれ。顔を上げた。「すみません」「来週の患者さん」「こちらで合っています」「ありがとうございます」書類を返す。郁人先生について。その場で尋ねることはしなかった。家族のことを。病院の人に確かめる必要はない。隼人くんへ聞けばいい。そう思った瞬間。最後に顔を見た日を思い出した。メッセージは交わしている。電話も。数分なら何度かした。それでも。落ち着いて会えたのは。少し前だった。隼人くんも。クリニックの拡大準備で忙しい。自分も。病院勤務へ戻ってから。以前より帰宅が遅くなった。会いたいと思っても。互いの予定を見れば。また今度でいいかと。画面を閉じてしまう日が続いていた。今日も。病院を出た後は。まっすぐ帰るつもりだった。けれど。郁人先生の名字を知ったことで。隼人くんの顔が浮かんだ。確認したいから。それだけではない。久しぶりに。会いたいと思った。***勤務を終え。病院を出る。日中の熱が。まだ道路に残っていた。空は。薄い青から。少しずつ夜の色へ変わっている。駅へ向かう人の流れに入り。途中で。足を止めた。このまま電車へ乗れば。家に帰る。少し早く眠れる。明日の準備もできる。けれど。スマホを取り出した。隼人くんとの画面を開く。『まだクリニック?』送る。すぐには。返事が来なかった。忙しいのだろう。やはり。今日は帰ろうかと思った頃。画面が震える。『
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