All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 271 - Chapter 280

359 Chapters

第271話 抱きしめてほしい

ジャケットの前がさらに開く。シャツに包まれた胸元。私より広い肩。膝の横へ置かれた腕。あの腕が動けば、もう簡単に距離はなくなる。そのことを。隼人くんも分かっているように、しばらく私を見ていた。「綾香ちゃん」「はい」「抱きしめたら、少しは落ち着きそう?」目が、私の表情をゆっくりと確かめる。抱きしめてもいいか、とは聞かない。私が肯定しやすい形へ、答えをほんの少しだけ導いている。隼人くん自身が。抱きしめたいと思っていることを隠していない。それでも最後は、私が言葉へするように。「たぶん、落ち着くと思います」答える。「たぶん?」目元が、わずかに細められる。甘く。少しだけ意地の悪い聞き返し方だった。「……はい」「それなら」隼人くんの手が、ソファの上をゆっくりと動いた。長い指が、私の手のすぐそばで止まる。掌を上へ向ける。手の中央には薄く線が走り、指の関節には、細い影が落ちていた。「こっちへ来る?」胸が大きく鳴った。腕を伸ばし。私の腰を引き寄せることもできたはずだった。隼人くんの腕の力なら。私が身構えるより先に、簡単に抱き込めると思う。けれど。最後の距離だけは。私が自分で縮めるように残している。私は、差し出された手へ自分の指を重ねた。隼人くんの指が閉じる。骨ばった指が、私の指の間へゆっくりと入り込む。今までの手のつなぎ方よりも深く。手のひら同士が重なる。そのまま。少しだけ引かれた。力は強くない。けれど、拒まなければ自然に隼人くんの方へ身体が動く、迷いのない引き方だった。私はソファの上で身体を寄せた。隼人くんの肩が近づく。開いたジャケットの胸元へ、額が触れそうになる。顔を上げる。隼人くんは、私を見下ろしていた。目の色が深い。会場で女性たちへ向けていた穏やかな笑みはなく。私がどこまで近づくのかを、確認しているかのように見えた。「ここまでは、いい?」低い声で尋ねられる。まだ抱きしめられていないことに気づく。手は深くつながっている。膝も。身体の側面も、触れそうなほど近い。それでも。腕を回す前に、もう一度待っている。「もう少し」私は答えた。自分の声が、驚くほど素直に出た。隼人くんの目が、ゆっくりと細くなる。「もう少し、どうしたい?」穏やかな声だった。けれど。
Read more

第272話 離れた方がいい?

「嫌じゃない...です」「本音で言ってる?」「はい」隼人くんが、短く息を吐く。首筋へ温かな呼吸が触れた。「じゃあ」背中へ置かれた手が、わずかに力を緩める。「もう少しだけ、このままでいい?」「はい」今度は。隼人くんの掌が、さっきよりもゆっくりと動いた。肩甲骨の下から。背中の中央へ。腰へ近づきすぎないところで、一度止まる。指先だけではない。掌全体が、私の身体の形へ沿っている。私を落ち着かせるための動きでありながら。触れられる場所を、少しずつ確かめられているようにも感じる。隼人くんは。私の呼吸や。ジャケットをつかむ指の力を見ながら。触れ方を変えている。その丁寧さが。かえって、どこへ触れられているのかを強く意識させた。それでも。手は、腰より下へは行かなかった。ドレスの薄い生地越しに、私の身体の線は十分伝わっているはずなのに。さらに近い場所へ触れることもできるのに。隼人くんは、私の呼吸が揺れたところで止まっている。触れたい気持ちがないからではない。腕の力も。耳元へ落ちる呼吸も。自分を抱き込む身体の熱も。もっと近くへ行けることを伝えている。それでも。今の私が、どこまでを望んでいるのか。言葉になっていない距離まで、勝手に詰めようとはしない。そのことが。安心と。少しの物足りなさを、同時に胸へ残した。「綾香ちゃん」耳の近くで名前を呼ばれる。「はい」「顔、見てもいい?」抱きしめた姿勢から、少しだけ離れるという意味だと分かった。腕の中が温かい。離れるのが惜しい。そう感じたことへ気づく。「はい」答える。隼人くんの腕が、完全には離れないまま少し緩む。私は顔を上げた。すぐ近くに、隼人くんの顔があった。手を伸ばす必要もない距離。長い髪の一部が、肩へ落ちている。整えられていたはずなのに、少しだけほどけたその線が、会場にいた時よりも柔らかく見えた。視線が重なる。隼人くんは、すぐには何も言わなかった。私の目元。頬。唇。ゆっくりと、視線が移る。目が唇へ留まる時間が。さっきまでより長い。見られていることが、はっきり分かる。会場の人々が私へ向けた視線とは違う。評価するためでも。どの関係へ置けるかを測るためでもない。隼人くん自身が。私へ触れたいと思って見ている。その熱が
Read more

第273話 嫌じゃなかった?

「はい」答える。隼人くんは、すぐには触れなかった。目の奥が、わずかに熱を増す。「目、閉じられる?」少しだけ笑みを含んだ声だった。誘導されている。分かっていながら。私は目を閉じた。視界が暗くなる。その分。背中へ回った腕。胸元へ触れる自分の身体。すぐ近くにある呼吸が、はっきりと分かる。額の近くへ。隼人くんの髪が触れる。鼻先が掠めそうなところまで近づいて。一度、止まった。ほんのわずかな隙間。まだ戻ろうと思えば戻れる距離だった。私は、隼人くんのジャケットをつかんだ。胸元の生地を、指の中へ引き寄せる。自分から離れないことを伝えるように。その指の動きを。隼人くんは感じ取ったのだと思う。次の瞬間。唇へ、柔らかな温度が触れた。***最初のキスは。ずっと静かで、音のないものだった。唇が触れたと分かる程度の力で。ほんの少しだけ、短く重なる。けれど。柔らかな温度の奥に。触れる直前まで抑えられていた熱を感じた。隼人くんは、すぐに少しだけ離れた。唇の間へ、冷たい空気が入る。それでも。背中へ回った腕は、そのままだった。骨ばった指が。私の背中へ静かに触れている。「嫌じゃなかった?」目を開けると。すぐ近くから見つめられていた。距離が近すぎて。普段は意識しない瞳の色や。長い睫毛の影まで見える。「はい」声が、少し震えた。「本音で言ってる?」「はい」「もう一度するのは?」問いかけが、先ほどよりも甘い。嫌ではなかったかではなく。もう一度を望むか。私が肯定することを、隠さず期待している。「...してほしい」今度は、自分から言った。隼人くんの目が、ゆっくりと細められる。喜んだのだと分かった。声にはしない。ただ。背中へ回された腕の力が。ほんの少しだけ深くなる。二度目のキスは。最初よりも長かった。唇が触れる。今度は、すぐには離れない。互いの呼吸が重なるところで止まり。私が逃げないことを確かめるように、柔らかく押し当てられる。息をするために、わずかな隙間が生まれる。そのまま。もう一度、唇が重なった。隼人くんは急がない。けれど。最初の慎重さだけでは終わらなかった。私がジャケットをつかむ指へ力を込めると。背中へ回った腕が、私をもう少し強く引き寄せる。胸元へ身体が触
Read more

第274話 緊張しているんですね

額を隼人くんの肩へ預ける。胸元へ身体がさらに近づく。隼人くんの腕が、再び私を包んだ。今度の抱擁は。最初よりも自然に深かった。私は。隼人くんの背中へ腕を回した。自分から抱きしめる。初めてだった。ジャケット越しに触れた背中は。細く見えていた印象よりも広く、硬かった。指先に、肩甲骨の動きが分かる。その身体が、一瞬だけ止まる。私が自分から腕を回したことに。隼人くんも、すぐには反応できなかったのだと思う。それから。背中へ回る腕へ、ゆっくりと力が入った。胸が、しっかりと重なる。隼人くんの顎が、私の髪へ触れる。「綾香ちゃん」耳元で名前を呼ばれる。「はい」「それをされると」かすかな笑いが、声へ混じる。けれど。抱きしめる力は緩まない。「今日は、帰したくなくなるんだけど」直接的ではない。それでも。今までの距離へ戻るつもりがないという言葉よりも、ずっと甘く胸へ残った。私は答えず。隼人くんの肩へ顔を伏せた。帰りたくないと。今すぐ言えるほど、自分の気持ちを理解してはいない。それでも。この腕の中から、すぐに離れようとは思わなかった。隼人くんも、答えを求めなかった。ただ。背中へ回した手を、ゆっくりと動かす。私が落ち着くように。そして。自分がどこまで近づきたいと思っているかを、無理に行動へ変えずに伝えるように。***どのくらい。そうしていたのかは分からない。会場で過ごした時間より短いはずなのに。ずっと長く感じた。隼人くんの胸元へ耳を寄せると、心臓の音が聞こえる。落ち着いた表情や。穏やかな声から想像していたより、少し速い。私を抱く腕は静かなのに。胸の奥だけは、隠せない速さで鳴っている。「隼人くんも」私は小さく言った。「緊張しているんですね」抱きしめる腕が、わずかに止まる。「今、気づいた?」「はい」「それは、少し格好悪いから言わないで」声には、低い笑いが混じっていた。その振動が、耳を寄せた胸元から直接伝わる。「格好悪くないです」私は顔を上げた。隼人くんの肩へ置いた手は、そのままにする。「私だけじゃないと分かって、安心しました」隼人くんは、しばらく私を見た。目元が、ゆっくりと柔らかく緩む。けれど。瞳の奥に残る熱は消えていない。「じゃあ」骨ばった手が、もう一度私の頬
Read more

第275話 今までの距離

呼吸が近い。どちらのものか分からないほど、熱が混ざっている。目を開ける。隼人くんも、私を見ていた。頬へ触れている親指が。一度だけ、ゆっくり肌を撫でる。「今までの距離に」低い声で言う。「もう戻さなくてもいい?」問いかけは甘かった。けれど。曖昧ではない。今日だけではなく。この先も。手をつなぐだけの距離へ、何もなかったようには戻らない。キスをして。抱きしめて。私が近づくのを待つだけではなく。隼人くん自身も、触れたい時には一歩近くへ来る。その意味を含んでいる。私は少し考えた。今日。優の言葉に揺れた。兄の考えに疲れた。多くの人へ見られ。自分が誰なのか、分からなくなった。その夜に。大きな決断をするべきではないのかもしれない。それでも。隼人くんに抱きしめられ。自分から腕を回し。キスをしてほしいと伝えたことは。疲れていたから生まれた感情だけではないと思えた。ずっと。手が離れることを寂しいと感じ始めていた。触れないように距離を置かれていることを、意識するようになっていた。私の心は。今日突然ここへ来たわけではない。少しずつ。自分でも分からないほど静かに。この距離へ近づいていた。「戻したくない」私は答えた。隼人くんの目が、ゆっくりと細められる。「本当に?」最後の確認。私は頷いた。「はい」「今までより、近くにいたいから」言葉にすると。胸の奥が、静かに満たされていく。隼人くんは、すぐにキスをしなかった。私の頬を大きな掌で包んだまま。しばらく、その答えを受け取っているように見えた。親指が唇のすぐ横へある。目は熱を残し。抱いた腕も、私を離してはいない。もっと近づきたいと思っていることが。何も言わなくても分かる。それでも。隼人くんは、私の答えをもらったからといって、一度にすべての距離をなくそうとはしなかった。「分かった」やがて、とても静かに言う。「じゃあ、もう遠慮しすぎないようにする」その言い方に。胸がまた大きく鳴った。「遠慮していたんですか」尋ねると。隼人くんは、ごく薄く笑った。「かなり」「どのくらいですか」「それ、今説明してほしい?」目が、少しだけ意地悪く細められる。女性に慣れている人が。私がどこまで聞けば困るのかを知った上で、あえて返す表情だっ
Read more

第276話 今日はもう送るね

キスがゆっくりとほどけても、額は離れなかった。互いの息だけが重なる距離で、静かな沈黙が部屋を満たしていく。隼人は何も言わない。ただ、綾香を見つめていた。熱を帯びた視線がゆっくりと唇へ落ちる。そのわずかな動きだけで、さっきまで触れていた熱がまだ残っていることを思い出してしまう。喉が静かに上下する。抱き寄せた腕に、ごくわずかに力が入った。その力はすぐにほどける。もっと引き寄せたい。そんな衝動を、自分の中だけで静かに受け止めているようだった。綾香は少しだけ身体を離す。けれど、完全には離れない。腰へ添えられた手も、そのまま残っていた。引き寄せるでもなく、離すでもない。ただ、綾香が自分で選ぶのを待っている。そんな穏やかな温度が、その手にはあった。「もう帰りたい?」低く落ち着いた声が静かに響く。帰ると言えば、きっとそのまま送ってくれる。引き止めることはしない。でも、その目だけは、帰してしまうことを惜しんでいるように見えた。綾香は小さく息をつく。「……まだ」気づけば敬語は消えていた。「少し、ここにいたい」その一言に、隼人はゆっくりと目を閉じる。肩がわずかに上下し、息を整えるように静かに吐き出した。何かを落ち着かせようとしている呼吸だった。「綾香ちゃん」「うん」「……そのまま、そうやって寄ってこられると」そこで言葉が途切れる。視線がもう一度だけ唇へ落ちた。困ったように小さく笑い、肩の力を抜く。「今日は、ちゃんと帰ってもらわないと困るかな」綾香は首を傾げる。「……困る?」隼人は少しだけ視線を逸らし、照れたように笑った。その笑顔には、いつもの余裕がなかった。「うん」短く答えてから、もう一度綾香を見つめる。「もっと近づきたいって思うから」その一言だけで十分だった。綾香は思わず息を止める。隼人は頬へ落ちた髪を骨ばった指先でそっと耳へ掛ける。その指はすぐに離れた。長く触れてしまえば、自分が離したくなくなることを知っているように。「今日はもう送るね」穏やかな声だった。命令でもなく、我慢を押しつける響きでもない。自分で決めた約束を、静かに守ろうとしている人の声だった。綾香は黙ったまま隼人の横顔を見つめていた。もっと一緒にいたい。もう少しだけ、この腕の中にいたい。そんな気持ちが胸いっぱいに
Read more

第277話 家までの距離

どれくらいの時間を、こうして過ごしていたのだろう。身体に残る熱が、時間の感覚だけを静かにさらっていく。ゆっくりと身体を離す。それでも、互いの間には心地よい沈黙が残っていた。さっきまで交わしていた視線も、触れた温度も、何もなかったことにはならない。言葉にしなくても、二人の距離が少しだけ変わったことだけは、その静けさが教えてくれていた。ふと壁の時計へ目を向ける。思っていたよりも、ずいぶん遅い時間になっていた。「……そろそろ、行こうか」隼人くんが穏やかに口を開く。さっきまでの熱を引きずることもなく、それでいて無理に切り替えようとする様子もない。その自然さが、この人らしいと思った。「お腹、空いてる?」不意にそんなことを聞かれて、自分の身体のことを考える。そういえば、何も食べていなかった。それでも、お腹が空いているという感覚だけがどこか遠い。今日はいろいろな感情が、一度に胸へ流れ込んできていた。そのせいで、自分が疲れていることさえ、今まで気づいていなかった。「……空いてません」少し考えてから首を振る。隼人は「そうだよね」と小さく笑った。そのまま何かを思い出したように、ふっと目を細める。「また」「え?」「敬語、なくなってた」思わず瞬きをする。「……あ」自分でも気づいていなかった。照れ隠しのように視線を逸らすと、隼人は少しだけうれしそうに笑う。「そのくらい自然になってくれたんだなって思っただけ」そう言って、それ以上は何も続けない。嬉しいとも、もっと聞きたいとも言わない。ただ、その小さな変化を大事そうに受け取ってくれる。そんなところまで、この人らしかった。「……また敬語に戻るかもしれないですよ」少し照れながらそう言うと、「それでもいいよ」隼人は穏やかに笑う。「綾香ちゃんが自然に話せる方で」その一言だけで、胸の奥がまた少しだけ温かくなる。「家に帰ったら、何か軽く食べて」ほんの少し間を置いてから、「今日はもう、送るね」穏やかな声だった。けれど、その選択だけは揺るがない。この部屋でもう少し一緒に過ごすことは、きっと隼人くんの中にはない。さっき抱きしめてくれた腕も、熱を帯びた視線も、全部そのまま残っているのに。だからこそ、自分で決めた一線を守ろうとしている。その誠実さが、少しだけ切なかった。
Read more

第278話 好きじゃないんだ

「よく言われる」少しだけ間が空く。「親父が、持っとけって」肩をすくめるように笑ってから続けた。「こういう会食の時だけ乗る車」その言い方が、どこか隼人くんらしくて少し笑ってしまう。「乗って」助手席のドアを自然に開けてくれる。「ありがとうございます」車へ乗り込むと、静かにドアが閉まり、エンジン音だけが夜の静けさをゆっくりと破った。車は夜の街を静かに走っていた。流れる景色を眺めながら、綾香はふと助手席から隼人を見た。「……この車、好きじゃないんですか」少しだけ間があく。隼人は一瞬だけこちらへ視線を向けると、すぐ前へ戻した。「嫌いじゃないよ」信号が赤に変わる。車がゆっくりと止まった。「でも、好きでもないかな」穏やかな声だった。「乗りたいから乗ってるわけじゃないし」少しだけ笑う。「これに乗ってれば、向こうも何も言わないから」その"向こう"が誰なのか、説明はなかった。でも、聞かなくても分かった。「……だから」綾香は窓の外へ視線を向ける。「先生、ああいう場所にはあまり行かないんですね」隼人は小さく笑った。「うん」少し考えるような間があってから続ける。「断り続けてたら、いつの間にか誘われなくなった」「その方が楽だったしね」横顔は穏やかなままだった。どこか吹っ切れているようにも見える。「好きじゃないんだ」少しだけ肩をすくめる。「ああいう集まりは」綾香もつられて笑う。そして、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。「……でも」その一言に、隼人が静かに視線を向ける。「今日は来てくれた」その言葉だけで十分だった。隼人は前を向いたまま、小さく頷く。「呼ばれたから」少しだけ口元が緩む。「綾香ちゃんに」それだけで、胸がじんわりと温かくなる。好きじゃない場所へ。きっと断ることもできたはずなのに。私が呼んだから来てくれた。その事実だけで十分だった。車内には、また静かな時間が流れる。信号待ちで、隼人が不意にこちらを見た。その視線は、さっき部屋で見せた熱をまだ少しだけ残していた。「正直」少し笑う。「思ってたより、心臓に悪かった」思わず笑ってしまう。「私?」「それ以外ある?」隼人も笑った。「あそこまで声かけられると思ってなかったし」少しだけ言葉を切る。視線がドレスへ落ちる。「そ
Read more

第279話 もう少し一緒にいたかった

自動扉が閉まる。静かなロビーに、一人分の足音だけが残った。さっきまで乗っていた車のエンジン音も、もう聞こえない。綾香はエレベーターのボタンを押しながら、小さく息を吐いた。鏡のような壁に映る自分は。少し疲れていて。まだ、頬が熱い。今日。何度笑っただろう。父の知人に。真哉兄さんの仕事相手に。優の知り合いに。白松家の娘として。医師として。離婚した元妻として。相手が何を知っているのかを考えながら。間違えないように。ずっと、言葉を選んでいた。でも。隼人くんが来てからは。そんなことを考える余裕がなくなった。優の前で。あの人の隣へ立った。抱き締められた。キスをした。思い出した瞬間。綾香は唇をそっと閉じた。エレベーターの扉が開く。誰もいない箱の中へ入り。自分の階のボタンを押す。扉が閉じると。胸の中に押し込めていたものが、少しずつ浮かび上がってきた。隼人くんは。ああいう場所が好きではない。家の名前を知っている人たちに囲まれて。誰かに声をかけられるたびに。何でもない顔で答えていたけれど。本当は。行かなくて済むなら、行きたくなかったはずだ。それでも来てくれた。私が呼んだから。『呼ばれたから』運転席で。少しだけ口元を緩めていた横顔を思い出す。『綾香ちゃんに』名前を呼ばれただけなのに。胸の奥が、また静かに熱くなった。部屋へ入る。玄関の灯りをつけ。靴を脱ぐ。バッグを置いて。ようやく肩の力が抜けた。静かな部屋。誰もいない。少し前まで。この静けさを手に入れるために、必死だった。優の帰宅時間を気にしなくていい。帰ってくるかも分からない人のために。食事を用意して待たなくていい。誰かの気配へ耳を澄ませなくていい。一人の部屋。一人の時間。それが欲しかった。今も。一人でいることが嫌なわけではない。それなのに。今日は。隼人くんが帰ってしまったことを。少しだけ寂しいと思っている。車を降りなかったことも。部屋まで送ろうとしなかったことも。全部。隼人くんらしいと思った。きっと。降りたら。もう一度触れたくなることを。自分で分かっていたから。私の気持ちがまだ追いついていない場所へ。勝手に進まないために。帰った。そのことが。安心できた。でも。安心したのと同じ
Read more

第280話 また、頼ってもいい?

『何回言っても足りないので』 『じゃあ明日も言う?』 『言うかもしれない』 少しして。 『来てほしい時は』 『ありがとうより先に呼んで』 指が止まった。 来てほしい時は。 ありがとうより先に。 呼ぶ。 私は。 誰かへ頼る前に。 相手の都合を考える。 忙しいかもしれない。 迷惑かもしれない。 嫌がられるかもしれない。 そうやって。 頼る前から諦める。 今日だって。 何度も迷った。 隼人くんを呼ぶ理由なんてないと思った。 自分で断ればいい。 自分で帰ればいい。 それでも。 一人では無理だと思った。 だから。 初めて呼んだ。 そして。 隼人くんは来てくれた。 理由を聞かず。 困った顔もせず。 私の隣へ立った。 画面の上には。 隼人くんの言葉が残っている。 来てほしい時は。 呼んで。 綾香はスマホを持ったまま。 しばらく動けなかった。 今日だけではなく。 これからも。 本当に。 呼んでいいのだろうか。 困った時。 会いたい時。 一人でいたくない時。 隼人くんを。 私は。 どこまで頼っていいのだろう。 指先が、ゆっくり動いた。 『また』 そこまで打って。 一度、止まる。 消そうかと思った。 でも。 消さなかった。 続きを打つ。 『また、頼ってもいい?』 送った瞬間。 胸の奥が少し痛くなった。 怖かった。 頼りたいと思っていることを。 本人へ知られるのが。 隼人くんがいなくなったら。 また、一人で立てなくなるのではないかと。 どこかで思っている。 既読がつく。 けれど。 返事はすぐには来なかった。 数秒。 それだけなのに。 長く感じる。 重かっただろうか。 恋人になったばかりなのに。 期待しすぎただろうか。 不安が膨らみ始めた時。 画面が動いた。 『何回でも』 息が止まる。 続けて。 『俺じゃない方がいい時は』 『無理に選ぼうとしなくていい』 綾香は画面を見つめた。 何でも自分へ頼ってほしいと。 そう言うのではない。 私が選ぶことを。 ちゃん
Read more
PREV
1
...
2627282930
...
36
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status