《弁護士夫婦〜利益を選ぶ夫と正義を選んだ妻〜》全部章節:第 11 章 - 第 20 章

23 章節

第11話

最終的に恵美が彼らを追い払い、庭はようやく静けさを取り戻した。月明かりが地面を白く照らし出す。恵美が食器を片付けながら、ふと言った。「澪ちゃんのお母さんの墓、ちゃんと毎年掃除してあるからね」澪は恵美の方を見る。「裏山にあるんだよ。澪ちゃんが子供の頃、牛の世話でよく行ってたあの場所」恵美は澪を見ず、うつむいたまま食器を洗い続けた。「明日、顔を見せに行ってあげな。きっと澪ちゃんを待ってるから」翌朝早く、澪は裏山へと向かった。山道は昔のままで、でこぼこしており、野草が生い茂っていた。運動靴を履いてゆっくりと歩き、中腹に差し掛かる頃には、ズボンの裾にオナモミの実がびっしりとくっついていた。子供の頃を思い出す。学校の帰り道、オナモミを摘んでは同級生に投げつけ、母に追いかけ回されて怒られたことを。あの頃の母はどれほど若かったことか。怒鳴り声は町の半分まで響き渡るほどだった。今では、墓石の周りに生えた草が、人の膝の高さにまで伸びている。澪はしゃがみ込み、草むしりを始めた。一本一本、ゆっくりと引き抜いていく。草の根は深く張っており、力を込めて引っ張るたびに手のひらに赤い跡がついたが、澪は手を止めなかった。草むしりを終えた澪は、しばらく地面に座り込んだ。太陽が昇り始め、体に当たる日差しがぽかぽかと温かい。「お母さん」澪は口を開いた。声が少し掠れる。「帰ってきたよ」返事は返ってこない。風が吹き抜け、草の葉がカサカサと音を立てるだけ。「私、弁護士になったんだよ」澪は言葉を続ける。「たくさん裁判に勝って、テレビにも出て、少しはお金も稼げるようになった。だから、そのお金は恵美さんに渡して、家を直してもらうよう頼んだの。これからは、こっちに戻ってきて住むから。私……」澪は言葉を詰まらせた。「離婚したの。お母さんは彼と会ったことがなかったよね。本当は連れてきて紹介したかったんだけど、ずっと機会がなくて。でも、もうその必要はなくなっちゃった」澪はうつむき、地面の土を見つめる。「お母さんには、ずっと前から分かってたのかな?無理に手に入れようとしても、どうにもならない人がいるってこと」風が止み、辺りは静寂に包まれた。澪は長い間座り込んでいたが、立ち上がり、ズボンの泥を払い落とす。「今
閱讀更多

第12話

澪が声のする方を向くと、町の入り口の槐の木の下に中年女性が立っており、必死に手を振っていた。「白川先生!やっと見つけましたよ!」女性は小走りで駆け寄ってくると、肩で息をした。「私は栄波村の中村と申します。夫が建築現場で足の骨を折ったのに、会社が補償金を払ってくれなくて。そうしたら、恵美さんから、町に凄腕の弁護士の先生が来たって聞いて、藁にもすがる思いで先生を探してまして……」澪はポケットからスマホを取り出す。「ゆっくり話してもらえますか?メモを取りますから」「でも私、字が読めなくて……」女性は少し身を縮め、もじもじと手をこすり合わせる。「大丈夫ですよ。お話ししていただければいいですから」女性がとりとめもなく30分ほど話し続ける間、澪はメモをびっしりと3ページ分も書き留めた。去り際、女性は籠の中から卵を6つ取り出し、澪の手に押し付けた。「大したものじゃありませんが、うちの鶏が産んだ卵です。どうか食べてくださいね」しかし、澪はそれを受け取らなかった。「無事に解決したら、その時にまたお願いします」女性は何度も頭を下げながら帰っていった。澪はその場に立ち尽くし、女性の背中を見つめながら、ふと、この決断は間違っていなかったと感じた。午後、澪は法テラスの地方支部へと着任の挨拶に向かった。オフィスは想像以上に古びていて、年代物のデスクに、座るたびに軋む椅子。窓はまともに閉まらず、風が吹くたびにガタガタと鳴る。所長は50代半ばの陣内智也(じんない ともや)という男で、澪の姿を見るなり目を輝かせた。「白川先生!待ってたよ!この町にはあなたのような専門家が喉から手が出るほど必要だったんだ。ここ数年、何か起こっても町民たちは泣き寝入りするしかなくて……」澪は智也の過剰な歓迎に少し戸惑いながら答えた。「所長、そんな大袈裟な。微力ながらも、お手伝いさせていただけたらと思っています」「ああ、よろしく頼むな!」智也は手を擦り合わせた。「そうだ。ちょうどある案件があってね。明日、町内で調停が行われるから、先生に同席してほしいんだ」「どのような案件ですか?」「大したものじゃないんだけど」智也の表情が微かに曇る。「大塚家と小野家が、一羽の鶏の件で揉めていてね。もう3ヶ月も争っていて、自治会が8回も調停に入ったんだが、全く解
閱讀更多

第13話

啓太は澪の視線を追い、声を潜めて言った。「ああ、あれですか。九条と言って、町から放り込まれてきた男でして、何でも、根性を叩き直すために連れてこられたとか」澪は視線を戻し、それ以上その男を見ることはなかった。「お二人とも、少し落ち着いてお話ししましょう」澪は二人の女性の間に立った。「どちらが原告ですか?」「私よ!」太った女性の大塚莉子(おおつか りこ)が手を挙げた。「小野さんの鶏が私が育てた野菜を食べたのよ!せっかく育った白菜、全部つつかれちゃったんだから!」痩せた女性の小野結菜(おの ゆいな)がすぐに反論する。「証拠はあるの?この子が食べるのを見たって言うの?」「この鶏が一羽だけ、畑の周りをうろついてたんだから、他に誰がいるっていうの?」再び言い争いが始まりそうになったため、澪は手を上げて制止した。「分かりました。被害額はだいたいどのくらいですか?」莉子は少し考え込む。「まあ……400円くらいかしらね」澪は呆気に取られてしまった。たった400円の被害で、3ヶ月も争っていたなんて。澪は深く息を吸い込み、こう提案した。「ではこうしましょう。私がその400円をお支払いしますから、この件はこれで終わりにしませんか?」すると、二人の女性が同時に固まった。莉子が先に我に返り、顔を真っ赤にして怒り出した。「それ……どういうつもり?私が400円のために騒いでるって言うの?私は筋を通せって言ってるのよ!小野さんの鶏がうちの野菜を食べたんだから、謝罪してもらうのが筋でしょ!」結菜も勢いづく。「どうして私が謝らなきゃいけないのよ!あんたの家の鶏が食べたのを、私になすりつけてるんじゃないの?」またしても口論が始まった。澪はその間に挟まれながら、耳鳴りがするのを感じていた。不意に、これが地方裁判所で経験したどんな厳しい法廷闘争よりも疲れる現場だと実感する。「ぷっ」人垣の端から、吹き出すような笑い声が聞こえた。澪は顔を向ける。すると九条潤(くじょう じゅん)がいつの間にか近づいてきており、いかにも面白そうな顔をしてこちらを見ていた。「何笑ってるんですか?」澪は不機嫌そうに尋ねた。潤が眉を挑発的に上げる。「あんたが面白くてさ」澪は言葉に詰まった。「いかにも都会から来ましたって感じ」潤はのんびり
閱讀更多

第14話

人々は徐々に散っていった。澪はその場に立っていたが、潤が立ち去ろうとしているのが目に入った。「待ってください」振り返った潤は、相変わらずの気怠げな笑みを浮かべている。「どうしたんだ、白川先生。飯でも奢ってくれるのか?」「お名前は?」「九条潤」潤は一拍置いて、「潤沢の潤」と付け足した。「どうしてあの二つの家に、過去のしがらみがあることが分かったんですか?」潤が肩をすくめた。「聞き込みさ。ここに来て1ヶ月、他にやることもないから、ばあさんたちの世間話を聞いてたんだ。この町の誰と誰が犬猿の仲で、どこの嫁と姑が喧嘩してるとか、全部知ってる」澪は潤を見つめ、不意に尋ねた。「あなたは、何か問題を起こしてここに飛ばされてきたんですか?」潤は呆気に取られたようだったが、すぐに吹き出した。「白川先生、その言い方だと俺がまるで悪い奴みたいだろ?」「違うんですか?」「まあ、あながち否定もできないな」潤はあっさりと認めた。「まあ、大したことじゃない。うちの父を怒らせて入院させちまってさ。その罰として、世間の厳しさを学んでこいって、ここに放り込まれたってわけ」澪は無言で彼を見つめる。すると、「そっちは?」と、潤が小首を傾げて澪を見た。「こんな田舎町に、突然都会の大物弁護士がやって来るなんて、一体何が目的なんだ?」澪はきびすを返し、歩き出した。「おい、待てよ!」潤が後ろから追いかけてくる。「昼飯を奢るよ。友達ってことで!町の入り口にある食堂、結構いけるんだよ。都会のミシュランよりずっと美味いぞ……」しかし、澪は無言のまま、足早に歩き去った。彼女がオフィスに戻り席に着くと、すぐにスマホが鳴った。夏美からのビデオ通話だ。「澪!今日はどうだった?誰かにいじめられたりしてない?」澪は今日見たあの戸惑う鶏の姿を思い出し、思わず口元を緩ませる。「大丈夫だよ」「じゃあ、何で笑ってんのよ?」「何でもないよ」澪は今日の出来事をかいつまんで話した。すると、それを聞いた夏美が目を輝かせた。「イケメンがいたの!?どんな顔?名前は?身長は?写真ある?」澪は呆れたようにため息をついた。「少しくらい真面目に聞いてくれない?」「大真面目だけど!」夏美が熱弁を振るった。「澪は離婚してフリーになったんだから、そこでイケ
閱讀更多

第15話

澪が翠川町で最初に正式に受けた依頼は、町の入り口の木の下で出会った、あの中年女性が持ち込んだものだった。依頼人の名前は中村芳子(なかむら よしこ)。夫の中村勇太(なかむら ゆうた)が、隣町の建築現場で3ヶ月働いた後、足場から転落して足を骨折したという案件。建築会社は勇太を病院へ運び、6万円の補償金を支払ったきり、二度と姿を見せなかったという。「医者は、手術に100万ぐらいはかかると……」芳子は手を擦り合わせ、目を赤くして訴えた。「家の豚を売り払い、親戚中からお金を借りても、まだ40万足らないんです。でも、会社への電話は繋がらないし、現場に行ってもとっくにいないと言われまして……」澪は芳子が持参した資料に目を通す。皺だらけの借用書には、ミミズの這ったような字で【中村勇太への未払い給与24万円】と書かれていた。しかし、会社の社印もなければ、本人を証明する記載もない。ただ「前田竜(まえだ りゅう)」というサインだけがされていた。他には数枚の病院の領収書、診断書、そして業者の写真が一枚。ひどく不鮮明で、隠し撮りされたもののように見えた。「これだけですか?」「これだけです」芳子はうつむいた。「私たちにはよく分からなくて……夫が証拠を残してくれと言ったようなんですが、そうしたら、あの前田さんがこれを書いてくれたみたいで……」澪はその借用書を見つめる。こんなものは、法廷に持ち込んでもただの紙切れと同然だ。だが、芳子のタコだらけの荒れた手を見て、澪は何も言えなかった。「まずは、私が現場へ行って状況を確認してきます」翌朝早く、澪はその建築現場へと向かった。工事はすでにストップしており、建設途中の廃墟のようなビルが数棟立ち並んでいた。剥き出しになった鉄筋が、風に吹かれて嫌な音を立てている。現場の警備をしていた地元の老人は、澪が竜について尋ねると、大げさに手を横に振った。「逃げた、逃げた!とっくの昔に夜逃げしたよ!給料だって払われてねぇ。俺たちだって金を取り立てたいくらいだ!」「どこへ行ったか、心当たりはありませんか?」「知るもんか!」老人はタバコに火を点ける。「ああいう連中は、現場を転々とする流れ者だ。どこ探したって無駄だね」澪は現場をひと回りして写真を撮り、何人かの作業員にも聞き込みをしたが、返ってくる答
閱讀更多

第16話

澪は席に座り、写真と借用書を辰爺の方へ滑らせる。「この男を探してるんです。前田竜という、隣町の現場で下請けをしていた業者の人で、作業員の給与を未払いにしたまま夜逃げしました」辰爺は写真を手に取って眺め、借用書にも目を通してから、それらをテーブルに置いた。「厄介だな」「ええ、承知の上です」「金がかかるぞ」「いくらですか?」辰爺は、片手と一本の指を出した。「6万ですか?」「ああ」「分かりました」辰爺が澪を見た。その目には少し驚きの色が浮かんでいる。「値切らないのか?」「ええ」辰爺はもう一度澪に視線を向けると、写真と借用書をまとめ、自分のポケットに突っ込んだ。「1週間だ。情報が入ったら連絡する」辰爺は立ち上がり、店の入り口まで歩いてから、振り返った。「ラーメン代は払っておいてくれ」「あなたの奢りでは?」「俺が頼んでやったんだ。でも、食ったのはそっちなんだから、金はそっちが払う。何も間違ってはいないだろ?」辰爺は背中で手を組み、ふらふらと歩き去っていった。澪はその背中を見送っていると、不意にもう一人の男の姿を思い出した。潤。ここ数日、潤の顔を見ていない。5日後の夕暮れ時、澪の元に辰爺から電話が入った。「見つけたぜ」「どこですか?」「隣町だ。裏路地の雀荘に、毎日入り浸って麻雀をしているぞ」澪は電話を切るなり立ち上がると、オフィスを飛び出した。ドアを出た瞬間、正面から来た人物とぶつかりそうになった。「おっと!」相手は胸を押さえた。「白川先生、そんなに急いでどうしたんだ?」澪が顔を上げると、そこには相変わらず飄々とした態度の潤が立っていた。「何の用ですか?」「飯を届けに来たんだよ」潤は手の中の弁当箱を揺らす。「恵美さんから、またお使いを頼まれてね」澪は彼をちらりと見た。「今は時間がないので」「どこへ行くんだ?」「隣町へ人を捜しに」潤が片眉を上げた。「誰を捜しに?」澪は事情を簡潔に説明する。潤はそれを聞き終えると数秒間沈黙し、そして言った。「俺も行く」「必要ありませんから」「白川先生みたいなか弱い女が、そんなヤバい場所に一人で行って、万が一もめ事に巻き込まれたらどうするんだよ?」潤は弁当箱を澪の手に押し付ける。「
閱讀更多

第17話

竜の顔色が変わったが、彼はすぐにまた強気な態度を取り繕った。「俺の知ったことか!中村が勝手に落ち……」「本当に、中村さんの不注意だと思っていますか?」澪は竜の言葉を遮り、バッグから数枚の写真を取り出してテーブルに置く。それは澪が現場で撮影した足場の写真で、明らかにボルトが緩んでいる箇所がいくつも写っていた。「これがあなたの現場の足場です」澪は写真を指差した。「ボルトは錆び付いて緩み、安全基準など全く満たしていません。中村さんは自分の不注意で落ちたのではなく、あなたの組んだ足場に重大な欠陥があったんです」竜の顔から、今度こそ完全に血の気が失われた。「何でたらめ言ってやがるんだ!」「でたらめかどうかは、労働基準監督署の監査が入れば分かることです」澪は写真をしまう。「この写真はすでに労働基準監督署へ送りました。数日中には立ち入り検査が入るはずですので」竜が勢いよく立ち上がると、ガタンと音を立てて椅子が後ろに倒れた。「てめぇ、ふざけんなよ!」「おっと?何する気だ?」いつの間にか潤が割り込んできて澪の前に立ち塞がり、ニヤニヤと笑いながら竜を見下ろした。「話し合いなら穏便にな。手は出すなよ」竜が潤を睨みつける。「お前は誰だ?」「俺?」潤は自分を指差した。「白川先生の用心棒さ」竜は潤のひょろりとした体つきを見て、呆れたように鼻で笑った。「お前が?」「舐めるなよ」潤が胸を張る。「テコンドーの経験者だぞ?」「何段だ?」「段位なんて関係ない」潤は手をヒラヒラと振った。「重要なのは、お前が白川先生に指一本でも触れたら、俺がこの場でぶっ倒れて、お前に殴られたって警察に通報するってことだ」竜と澪は言葉を失った。周りで麻雀を打っていた客たちも一斉にこちらを向き、笑いをこらえる者もいれば、声を出して笑う者もいた。竜はなんとも言えないような表情を浮かべ、しばらくしてからようやく「覚えてろよ!」と吐き捨てると、人だかりをかき分けて逃げ出していった。澪は竜の逃げていく背中を見送り、長く息を吐き出す。すると、潤が顔を寄せてきた。「どうだ?俺の用心棒ぶりも悪くないだろ?」澪は彼をちらりと見た。「で?テコンドーの腕前は?」「言わせんな。1回体験レッスンに行ったら、監督に怒鳴り散らされて追い出された
閱讀更多

第18話

芳子は一瞬呆気に取られた後、それから目を潤ませた。「白川先生、なんていい人なんですか……」澪は微笑むだけで、何も答えなかった。二人を見送った後、潤がどこからともなくひょっこりと現れ、澪の籠を覗き込んできた。「おや、また卵か?ここで養鶏場でも開く気なのか?」澪は潤を無視した。しかし、潤は構わず一人で喋り続ける。「でもまあ、弁護士冥利に尽きるってもんだろ?さっきのあの夫婦の顔を見たか?今にも土下座しそうな勢いだったぜ」澪は籠を抱えたまま歩き出した。「なんでついてくるんですか?」「飯に誘いに来たんだよ」潤はそう言った。「恵美さんが今日は豚肉を煮込んだから、呼んでこいってさ」澪は足を止め、潤を見つめる。「なんで毎日私をご飯に誘いに来るんですか?」潤は一瞬固まり、それから笑った。「一人で飯食ってもつまらないだろ?」彼は相変わらずの調子で笑っていたが、その瞳の奥には、いつもとは違う何かが揺らめいているように見えた。澪は潤を数秒間見つめた後、再び歩き出す。「行きましょうか」「どこへ?」「恵美さんの家。ご飯じゃないんですか?」……それから瞬く間に、3年の月日が流れた。「白川先生!白川先生!」町の入り口の槐の木の下で、一人の老女が声を張り上げている。澪はオフィスの窓から顔を出す。「井上さん、どうしました?」「うちの鶏が、またいなくなっちまったんだよ!」澪は思わず吹き出した。「待っていてください。潤さんに探させますから」「潤って九条の若造かい?」井上百合(いのうえ ゆり)は口を尖らせた。「あの子は当てにならないよ。この前鶏を探しに行かせたら、鴨を抱えて帰ってきたんだから」「あれは彼なりの気遣いですよ。井上さんが寂しくないように、遊び相手を増やしてくれたんです」百合は一瞬きょとんとし、それから笑いながら悪態をついた。「本当にそんなことばっかするんだから!」澪は頭を引っ込め、隣の部屋に向かって叫んだ。「潤さん!井上さんの鶏がいなくなったって!」隣の窓がゆっくりと開き、寝ぼけ眼の潤が顔を出す。「またかよ?先月いなくなったばかりだろ?」「探しに行ってあげて」「探すまでもないさ。どうせ町の東の、小野さんの畑にいるに決まってる」潤は大きな欠伸をした。「あの鶏、小野さん
閱讀更多

第19話

その夜、潤は帰ってこなかった。翌日も、戻らなかった。3日目の夕暮れ時、澪は町の入り口の木の下に座り、沈みゆく夕陽を眺めていた。すると、背後から足音が聞こえてくる。潤が歩いてきて、澪の隣に腰を下ろした。二人の間にしばらくの沈黙が流れる。「どこに行っていたか、聞かないのか?」潤が先に口を開いた。「話したければ、自分から話すでしょ?」潤は少し笑ったが、その笑みはどこか悲しげだった。「澪さん」潤は珍しく、澪の名前を呼んだ。「俺がなんでこんなところに来させられたか、知ってる?」「あなたのお父さんを怒らせて入院させたからって、前は言ってた」「あれは作り話なんだ」澪は潤を見つめる。夕陽が彼の顔を照らし出し、光と影が交錯して、その表情は読み取れなかった。「父親を……」潤は一拍置いて言った。「俺は父親を殺した」風が止まる。辺りが静寂に包まれた。潤は遠くに連なる山々を見つめながら、まるで他人の話でもするかのように淡々と語り始めた。「うちは商売をやっていて、それなりに大きい会社なんだ。それに、俺は一人息子だから、父は俺を後継者にしようと必死だった。でも俺はそれが嫌で、毎日父に反抗ばかりしていた。金融を学べと言われれば芸術を専攻し、会社に入れと言われればドキュメンタリー映画なんかを撮ったりした。父に『道楽者』と罵られたから、そのまま家を飛び出して何ヶ月も帰らなかった」潤は一旦、言葉を区切る。「でもある日、母が癌で倒れたんだ。父は会社の仕事をすべて放り出し、3ヶ月間も母につきっきりだった。でも馬鹿な俺は、外で仲間と遊び歩いてた。どうせ父がいるんだから、母は大丈夫だろうと高を括ってて」「それで?」澪は静かに尋ねた。「その後、母は死んだ」潤の声が沈み込む。「息を引き取った日、俺は遠方にいたうえに、スマホの充電が切れて電話に出られなかった。慌てて駆けつけた時には、もう遅かった……」彼はうつむき、自分の両手を見つめた。「でも、父は俺を責めることもなく、淡々と後処理をして、葬儀を行い、やるべきことをやっていた。でも、俺には分かった。父が俺を恨んでいるって。父が口には出さなくても、痛いほど分かったんだ。それからしばらくして、父も病に倒れた。半年間闘病したけど、結局、父もこの世を去った。死ぬ
閱讀更多

第20話

潤は何かを言いかけたが、特に何も言わなかった。それでも、澪は言葉を続ける。「戻りなよ。そして、あなたのお父さんが残したものをすべて取り戻すの。守りきれるかどうかと、戦いを放棄することは別問題だから。お父さんがあなたに会社を残したのは、こんな場所で逃げ隠れさせるためじゃないはずだよ」潤は澪を見上げた。背後から差す夕陽が、澪の輪郭を黄金色に縁取っている。潤はふと、3年前に初めて澪と出会った時のことを思い出した。あの修羅場と化した人だかりの中で、澪は眉をひそめ、一人真剣な顔をして立っていた。あの頃は、この都会から来た真面目くさった弁護士は、絶対にお堅くて付き合いづらい女だと思っていた。それでも、3年間、澪の様々な顔を見てきた。怒りに任せて書類を叩きつける姿、一つの案件のために深夜まで頭を抱える姿、町でしゃがみ込んで老婆と世間話をする姿、そして、裁判に勝って隠れて涙を拭う姿……だが、こんな澪を見るのは初めてだった。真っ直ぐに立ち、瞳には強い光を宿して、心に言葉を突き刺してくる。「澪さん」潤は口を開いた。声が少し掠れる。「俺を挑発してるの?」「うん」澪は頷いた。「効果はあった?」潤は数秒間澪を見つめ、それから笑った。それは、いつもの気怠げな笑いではなく、目の奥から溢れ出るような、本物の笑顔だった。「ああ、効果絶大だよ」潤は立ち上がり、澪と向かい合った。「俺、戻るよ」澪も頷く。「うん」「一緒に来てくれ」澪は一瞬呆気に取られた。「私?」「ああ」潤は彼女を見つめた。「翠川町にもっと弁護士を呼びたいってずっと言ってただろ?専門家が不足しているとも。だったら、一緒に戻ろう。そうしたら、俺が代わりに交渉して、人材を集めてやる。何人でも、澪さんの望むだけ引っ張ってきてあげるさ」「その自信はどこからくるの?」「俺が『九条』だから」潤は顎をしゃくった。「父は死んだけど、ビジネス界隈じゃあ、九条家の名前はまだそれなりに値打ちがあるんだぜ?」澪は彼を見つめた。夕陽は完全に沈みきり、空の果てにわずかな赤みが残るのみとなっている。「少し考えさせて」「考える暇なんてない」潤は澪の袖を乱暴に掴んだ。「明日すぐに出発だ。これ以上引き延ばしたら、俺がまた逃げ出すかもしれないだろ?」澪は掴まれた袖に目
閱讀更多
上一章
123
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status