LOGIN白川澪(しらかわ みお)が空港で離婚協議書の内容を淡々と確認していると、親友である黒崎夏美(くろさき なつみ)が彼女を迎えにきた。 「澪!学生時代のディベート大会で、柴田くんと討論してる動画がバズってるじゃん!」 澪を見るなり、夏美が興奮を隠しきれない様子で、声を弾ませる。 「ネットじゃ『神ビジュアルの二人』って大騒ぎだよ。それに、その二人が今どうなってるかみんな知りたがってるし、推しカップルだって盛り上がってるんだから」 画面をスクロールさせていた澪の指先が、微かに止まった。 しかし、夏美は澪の異変に気づくこともなく、まくし立てるように言葉を続ける。 「当時のクラスメイトたち、解説まで始めてるんだよ。澪が反対派の代表として、法学部の憧れの的だった柴田くんを堂々と口説き落とした伝説の試合を、みんなが絶賛してる。 二人が付き合い始めた時なんて、私たちの大学に通う人たちのSNSが全部澪と柴田くんでもちきりだったもんね。誰もが澪が柴田くんを落としたなんて言ってたけど、彼が即座にプロポーズしてきて、みんなの鼻を明かしてやってさ……」
View More会議室のドアを押し開けると、長いテーブルの両側にはすでに大勢の役員が席に着いていた。澪と潤が並んで入室し、出席者たちに視線を巡らせる。皆一様に、思惑を抱いているようだ。隼人は克哉の横に座り、目の前に書類を広げて何事か低い声で話し込んでいた。そして杏は隼人に寄り添うように座り、傲慢な表情を浮かべている。「白川先生、まさかこんな場所でお会いするなんて。翠川町の法テラスへ飛ばされたと聞いていたのに、どうして?やっぱり、あんなど田舎は合わなかったの?」テーブルのあちこちから、冷笑が漏れた。しかし、澪は取り合うことなく、手元のファイルを開いた。潤が澪の代わりに口を開く。「では、会議を始めましょうか」株主総会が始まった。序盤は植田家が圧倒的なほど優勢に議論を進め、やがて克哉が採決を取り始めた。「私が会社の全権を掌握することに賛成する者は、挙手をお願いします」テーブルの両側で、次々と手が挙がっていく。克哉は満足げに手を下ろし、勝利を確信した笑みを浮かべた。「九条さん、どうやら……」「ちょっと待ってください」潤が不意に口を挟んだ。彼は立ち上がり、ジャケットのポケットからある書類を取り出してテーブルに置く。「父が俺に残した株式は、35パーセントじゃなく……」潤はその書類を克哉の方へ滑らせた。「48パーセントです」会議室が騒然となった。克哉が弾かれたように立ち上がる。「そんな馬鹿な!」「この紙が証拠です。株式名簿の書き換え記録を、好きなだけ確認してください」潤は書類をさらに前へと押しやった。「小林さんがこの2年間、あなたの目を盗んで水面下で進めていたのは、この手続きですので」克哉の顔から血の気が引く。彼は書類をひったくって目を通すと、その手が小刻みに震え始めた。「君の……君の父親が……」「父はあなたがこう出ることが分かっていたのでしょう」潤は克哉の言葉を遮った。「だから死ぬ前に株式の譲渡を済ませ、今日のこの日のために布石を打っていたみたいです」潤はその場にいる株主たちを見渡した。「俺の48パーセントに、従業員持株を合わせれば過半数です。だから、本当のことを言えば、今日のこの総会、俺の権限でいつでも中止にできたんですよ?でもそうしなかったのは、植田社長が何をおっしゃるのか、最後まで聞いてみたか
鍋が煮え立ち、夏美は具材を放り込みながら尋ねた。「で、どうなの?あの潤さんって男とは、一体どういう関係?」「ただの友人だから」「ただの友人が、わざわざ一緒に帰ってくるわけないでしょ?」夏美は全く信じていない。「いい、澪。私は潤さんに会ったことすら無いけど、この3年間あなたが電話で話す時、10回中8回は彼の名前が出てきてたんだから。まあ、自分じゃ気づいてないみたいだけど」箸を動かしていた澪の手が、ピクリと止まる。夏美は指を折りながら数え上げ始めた。「今日は潤さんが誰々の鶏を探してくれた、潤さんがまた喧嘩した、潤さんが減らず口を叩いて怒られた、潤さんがまたご飯を届けてくれた……ねえ、自分の胸に聞いてみなよ。これがただの友人に対する態度だと思う?」澪は数秒間黙り込んだ。「彼は……」言いかけたが、やはり口をつぐむ。夏美は澪の言葉を待っていた。「彼はとてもいい人だよ」澪は結局、その一言だけを口にした。夏美はしばらく澪を見つめ、ふっと笑う。「そっか。いい人なら、それでいいよ」食事を終えて店を出ると、時計はすでに9時を回ろうとしていた。二人が路地の入り口で立ち話をしていると、夏美が澪の腕を小突く。「澪、あそこ見て」澪は夏美の視線を追った。すると、視線の先の路地の向かいの大通りには、黒い高級車が停まっていた。ドアが開き、二人の人物が降りてくる。一人はダークグレーのロングコートを着た、長身ですらりとした男。街灯の灯に照らされ、顔には光と影が落ちている。隼人だ。そしてそのそばには、サングラスをかけた杏が寄り添っていた。夏美が小声で言った。「最近この近くでドラマの撮影をしてるらしいから、多分仕事帰りだと思うよ」澪は何も言わず、視線を隼人へと向ける。3年という月日。それでも、隼人は何も変わっていないように見えた。相変わらず落ち着いているが、それでいてどこか人を寄せ付けない空気を纏い、人混みの中でも一番に目を惹く存在。何かを感じ取ったのか、隼人が不意にこちらを振り向いた。道路を挟み、暗闇の中で二人の視線が交差する。澪は視線を逸らさなかった。ただその場に立ち、無表情のまま、隼人を見つめ返す。すると隼人は一瞬戸惑い、そして石のように固まった。彼は無意識のうちに、一歩前へと踏み出
車が都心部へと入った時、澪は自分が3年間も帰ってきていなかったことを改めて実感した。車窓を流れる高層ビル群、見知らぬ顔ぶれに変わった巨大な広告看板、立ち並ぶ街路樹でさえ、記憶よりずっと高く成長していた。潤は道中、ずっと電話で連絡を取り合っていた。通話を終えると、彼は澪の方を向いて言った。「まずはホテルに荷物を置こう。夜に会わせたい人間がいるんだ」「誰?」「父の昔からの部下なんだけど、今も会社のために奮闘してくれている。現状を詳しく聞き出しておかなければならないからさ」澪は頷き、それ以上は聞かなかった。夜8時、潤は澪を連れて個室がある料亭へと向かった。個室に入ると、50代半ばくらいの男性が座っていた。白髪交じりの頭に眼鏡をかけたその男は、潤が入ってくるなり、すぐに目を赤くする。「潤くん……」「小林さん」潤は歩み寄り、小林慎也(こばやし しんや)の手を固く握った。「戻りました」慎也は潤の肩を力強く叩き、しばらくの間、言葉を発することができなかった。澪は静かにその後ろに控えていた。二人が席に着くと、慎也が澪の存在に気づいた。「こちらの方は……」「弁護士の白川澪さんです」潤が紹介する。「翠川町での3年間、澪さんにはずっと助けてもらっていたんです」慎也は澪に視線を向け、深く頷いた。「白川先生もどうぞお掛けください」3人が席に着くと、慎也が本題へと切り出した。「潤くんが去った後、会社の状況は悪化の一途を辿っています」慎也が重い溜息をつく。「実は、植田家の連中が必要以上に圧力をかけてきていまして……まずは大口のクライアントを2社奪われ、さらには株主総会で『前社長の死後、会社を牽引できる人材がいない』と糾弾し、取締役会の再編を要求してきたのです」植田家?湯呑みを握る澪の手が、ピクリと止まった。「現在、彼らはどれほどの株式を握っているんですか?」と潤が聞いた。「23パーセントです」慎也が答える。「それに、彼らの息のかかった株主を合わせれば、30パーセント強にはなるかと思います。こちら側には、社長が潤くんに残した35パーセントの株があるのですが、その中の一部は従業員持株会が保有しているため、今の社内の混乱に乗じて、すでに植田家と接触を図っている者もいるようです」潤は数秒沈黙した。「植田家
潤は何かを言いかけたが、特に何も言わなかった。それでも、澪は言葉を続ける。「戻りなよ。そして、あなたのお父さんが残したものをすべて取り戻すの。守りきれるかどうかと、戦いを放棄することは別問題だから。お父さんがあなたに会社を残したのは、こんな場所で逃げ隠れさせるためじゃないはずだよ」潤は澪を見上げた。背後から差す夕陽が、澪の輪郭を黄金色に縁取っている。潤はふと、3年前に初めて澪と出会った時のことを思い出した。あの修羅場と化した人だかりの中で、澪は眉をひそめ、一人真剣な顔をして立っていた。あの頃は、この都会から来た真面目くさった弁護士は、絶対にお堅くて付き合いづらい女だと思っていた。それでも、3年間、澪の様々な顔を見てきた。怒りに任せて書類を叩きつける姿、一つの案件のために深夜まで頭を抱える姿、町でしゃがみ込んで老婆と世間話をする姿、そして、裁判に勝って隠れて涙を拭う姿……だが、こんな澪を見るのは初めてだった。真っ直ぐに立ち、瞳には強い光を宿して、心に言葉を突き刺してくる。「澪さん」潤は口を開いた。声が少し掠れる。「俺を挑発してるの?」「うん」澪は頷いた。「効果はあった?」潤は数秒間澪を見つめ、それから笑った。それは、いつもの気怠げな笑いではなく、目の奥から溢れ出るような、本物の笑顔だった。「ああ、効果絶大だよ」潤は立ち上がり、澪と向かい合った。「俺、戻るよ」澪も頷く。「うん」「一緒に来てくれ」澪は一瞬呆気に取られた。「私?」「ああ」潤は彼女を見つめた。「翠川町にもっと弁護士を呼びたいってずっと言ってただろ?専門家が不足しているとも。だったら、一緒に戻ろう。そうしたら、俺が代わりに交渉して、人材を集めてやる。何人でも、澪さんの望むだけ引っ張ってきてあげるさ」「その自信はどこからくるの?」「俺が『九条』だから」潤は顎をしゃくった。「父は死んだけど、ビジネス界隈じゃあ、九条家の名前はまだそれなりに値打ちがあるんだぜ?」澪は彼を見つめた。夕陽は完全に沈みきり、空の果てにわずかな赤みが残るのみとなっている。「少し考えさせて」「考える暇なんてない」潤は澪の袖を乱暴に掴んだ。「明日すぐに出発だ。これ以上引き延ばしたら、俺がまた逃げ出すかもしれないだろ?」澪は掴まれた袖に目