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弁護士夫婦〜利益を選ぶ夫と正義を選んだ妻〜

弁護士夫婦〜利益を選ぶ夫と正義を選んだ妻〜

Par:  小川Complété
Langue: Japanese
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白川澪(しらかわ みお)が空港で離婚協議書の内容を淡々と確認していると、親友である黒崎夏美(くろさき なつみ)が彼女を迎えにきた。 「澪!学生時代のディベート大会で、柴田くんと討論してる動画がバズってるじゃん!」 澪を見るなり、夏美が興奮を隠しきれない様子で、声を弾ませる。 「ネットじゃ『神ビジュアルの二人』って大騒ぎだよ。それに、その二人が今どうなってるかみんな知りたがってるし、推しカップルだって盛り上がってるんだから」 画面をスクロールさせていた澪の指先が、微かに止まった。 しかし、夏美は澪の異変に気づくこともなく、まくし立てるように言葉を続ける。 「当時のクラスメイトたち、解説まで始めてるんだよ。澪が反対派の代表として、法学部の憧れの的だった柴田くんを堂々と口説き落とした伝説の試合を、みんなが絶賛してる。 二人が付き合い始めた時なんて、私たちの大学に通う人たちのSNSが全部澪と柴田くんでもちきりだったもんね。誰もが澪が柴田くんを落としたなんて言ってたけど、彼が即座にプロポーズしてきて、みんなの鼻を明かしてやってさ……」

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Chapitre 1

第1話

白川澪(しらかわ みお)が空港で離婚協議書の内容を淡々と確認していると、親友である黒崎夏美(くろさき なつみ)が彼女を迎えにきた。

「澪!学生時代のディベート大会で、柴田くんと討論してる動画がバズってるじゃん!」

澪を見るなり、夏美が興奮を隠しきれない様子で、声を弾ませる。

「ネットじゃ『神ビジュアルの二人』って大騒ぎだよ。それに、その二人が今どうなってるかみんな知りたがってるし、推しカップルだって盛り上がってるんだから」

画面をスクロールさせていた澪の指先が、微かに止まった。

しかし、夏美は澪の異変に気づくこともなく、まくし立てるように言葉を続ける。

「当時のクラスメイトたち、解説まで始めてるんだよ。澪が反対派の代表として、法学部の憧れの的だった柴田くんを堂々と口説き落とした伝説の試合を、みんなが絶賛してる。

二人が付き合い始めた時なんて、私たちの大学に通う人たちのSNSが全部澪と柴田くんでもちきりだったもんね。誰もが澪が柴田くんを落としたなんて言ってたけど、彼が即座にプロポーズしてきて、みんなの鼻を明かしてやってさ……」

「夏美、私……」澪は夏美の言葉を遮り、離婚協議書の条項に視線を落としたまま言った。「離婚するつもりなの」

夏美は息を呑んだ。

「一緒になるのに、あんな苦労をしたのに?」夏美は信じられないというように首を振る。「偶然を装うために、柴田くんのスケジュールを調べ上げて、あのディベート大会の出場枠だって半月徹夜して勝ち取ったんだよ?

やっとの思いで付き合えて、結婚してからの数年間も傍から見ていて幸せそうだったのに、どうして……」

どうして離婚なんてことになってしまったのか?

澪は答えなかった。なぜなら彼女自身も、その問いの答えを知りたかったから。

本当に、どうしてこんな結末を迎えることになってしまったのだろう?

かつての自分の姿を思い出す。

澪は柴田隼人(しばた はやと)を一目見るためだけに、法学部の前で3時間も待ち続けた。

彼が国選弁護の事件を引き受けたと知れば、澪はボランティアに参加し、38度の猛暑の中でビラを配った。

あのディベート大会では、実力者の先輩を打ち破り、素人だった自分を最終ディベーターにまで持っていく努力をした……

何度も偶然を作り出し、本来なら交わるはずのない二人の平行線を、無理やり交差させたのだ。

交際が始まってから、隼人はよくこう言っていた。「俺たちって縁があるよな。色んな場所で偶然よく会ったし」

当時の澪は笑って頷いたが、心の中では分かっていた。縁などではない、すべて自分の血の滲むような努力の結果なのだと。

だが、強引に手に入れたものは、結局のところ神様が定めた縁には敵わないらしい。

少し離れた場所から、騒めきが聞こえてきた。

澪が顔を上げると、到着ロビーの人ごみが自然と道を作り、メディアのフラッシュが次々と焚かれていた。

その中心で、一人の女性が群衆に囲まれながら歩いてくる。

夏美もそれに気づき、驚いた声を上げた。

「あれ、植田さんじゃない?澪と同じ便だったの?最近すごく売れているよね。私の同僚も毎日植田さんのドラマを見ているよ」

澪は視線を戻し、小さく「うん」とだけ答えた。

「確かに綺麗だね。男女問わず人気が出るのも頷ける」夏美はまだぶつぶつと言っている。「家柄も良いらしくて、正真正銘のお嬢様なんだって。まさに人生の勝ち組って感じ……」

「彼女、隼人の初恋の人なの」澪は静かに口を開いた。

途端に二人の間の空気が静まり返り、夏美はしばらく言葉を詰まらせた後、ようやく一言「まじで?」と絞り出す。

澪は何も言わず、別の方向へ視線を移した。

黒のロングコートを羽織り、長身ですらっとしたその姿は、人混みの中でも一際目を引く。

隼人だった。

彼が最近どれほど多忙を極めているか、澪は誰よりもよく知っていた。

メッセージの返信がないのは日常茶飯事、電話をかけても10回中9回は繋がらない。

先週末、澪が38.5度の熱を出してメッセージを送った時も、4時間後に【冷えピタでも貼っとけ】という一言しか返ってこなかった。

しかし今、隼人は植田杏(うえだ あん)の荷物を受け取り、そして肩を並べて立ち去ろうとしている。

行き交う人々の中で、澪には自分自身の心臓の音だけが聞こえていた。ドクン、ドクンと、鈍く響くその音だけが。

杏という人物を初めて知ったのは、2年前のことだった。

スマホに届いたエンタメニュースの通知。【人気女優・植田杏、事務所との契約解除に成功。背後の弁護士はなんと柴田家の御曹司】

澪は記事を開いた。

杏と前所属事務所の契約解除訴訟は半年間続いていて、元々は勝ち目が薄いとされていたが、隼人が突如として介入した。

すると、わずか3ヶ月で全てが決着し、杏は無傷で契約を解除できたのだ。

当時の澪は少し戸惑った。

なぜなら、隼人が芸能界の案件を引き受けることなど、これまで一度もなかったから。

多忙を極める隼人は、最上級の企業法務しか扱わない。それが、柴田家が何代にもわたって守ってきた掟だった。

だから、業界内では噂が飛び交った。隼人にそこまでの異例な対応をさせた相手とは、一体何者なのかと。

二度目は、澪が厄介な芸能関係の案件を抱え、隼人に助言を求めた時。

書斎で書類に目を通していた彼は、申し訳なさそうな顔で言った。「芸能の分野はよく分かんないんだよな。変なこと言って、足手まといになるといけないから……ごめんな」

澪は大丈夫だと答え、隼人の机の上に置かれた杏の広告契約書は見なかったふりをした。

三度目は、隼人がとあるハイブランドで婚約指輪をオーダーメイドした時。

店のスタッフがわざわざメッセージを送ってきて、澪を祝福してくれた。

【奥様、ご主人は本当に奥様想いの方ですね。このシリーズは年に1件しかオーダーを受け付けていないのですが、ご主人は半年も前から予約され、『妻に贈るんだ』と仰っていましたよ】

その時、澪の心臓は大きく高鳴った。

婚約した時、隼人は忙しいから式などは挙げずに、指輪も時間ができたら買うと言っていた。

だから、4年間待ち続けたその時が、ついに来たのだと思った。

しかし、ある写真がトレンド入りした時に、その期待は打ち砕かれた。イベントに出席した杏の指に、眩い光を放つあのダイヤの指輪。

ネット上では、その指輪のブランドを特定しようと騒ぎになっていた。

だが、澪には一目で分かった。

恋焔・シリーズ。

1年間大切に保存していたオーダー表のスクリーンショットと、写真の指輪は、一寸の狂いもなく同じだった。

かつての淡い期待が、その瞬間、無惨にも笑い話へと変わり、澪はその写真を削除した。

杏が隼人の初恋の人だと知ったのも、その時だった。

家柄も釣り合っていて、若い頃からお互い深く愛し合っていたが、些細な喧嘩から別れることになってしまったという。

澪が出口に目を向けると、二人の背中はすでに消えていた。ふと、あのディベート大会の最終弁論を思い出す。

立ち上がった澪は、隼人を見据えてこう言った。

「そちら側はずっと、『ルール』だの『原則』だの、恋愛にも越えてはいけない一線があると語っていましたよね。でも、もしいつか本当に、あなた自身がその人のためなら全部を投げ出してもいいと思える相手に出会ったら……その時、今日ここで口にした言葉を、後悔しないと言い切れますか?」

会場が数秒間、静まり返った。

その静寂の中で、隼人がわずかに眉をひそめ、そしてゆっくりと一言だけ口にするのが澪には見えた。

「後悔するでしょうね」

7年後になって、澪はようやく知った。あの問いに対する隼人の答えは、自分に向けられたものではなかったのだと。

自分は初めから、隼人の「例外」ではなかったのだ。

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commentaires

松坂 美枝
松坂 美枝
えっここからが面白い所では…もっと読ませてくれー! 結局元夫は変わることもなく冷淡なままで離婚しても波風立てず初恋女のそばにいるわけか 潤のおもしれー男っぷり最高だったわ 村の再建編も絶対面白いはず。読みたかった〜!
2026-05-28 10:00:49
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KuKP
KuKP
人の心とか持てなかった弁護機と離れて右手に法律左手に人情を持つことにした弁護士の話 温かい飯食うのは活力の素だしそれを誘う人には愛があるし、飯の誘いを受けたいなら愛ありますよ主人公しあわせにな〜れ〜 恋かどうかは知らん
2026-05-29 02:56:31
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ノンスケ
ノンスケ
離婚した夫は、妻が勝手に離婚届を出して出ていっても追うことも探すこともしなかったんだね。そして初恋相手のそばに居続けた。なのに株式総会で初恋の父親が負けたときにはさっさと負けを認める、冷淡と言えば冷淡なんだけど、そもそも人の気持ちがわからない人なんじゃないの?
2026-05-28 18:43:38
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第1話
白川澪(しらかわ みお)が空港で離婚協議書の内容を淡々と確認していると、親友である黒崎夏美(くろさき なつみ)が彼女を迎えにきた。「澪!学生時代のディベート大会で、柴田くんと討論してる動画がバズってるじゃん!」澪を見るなり、夏美が興奮を隠しきれない様子で、声を弾ませる。「ネットじゃ『神ビジュアルの二人』って大騒ぎだよ。それに、その二人が今どうなってるかみんな知りたがってるし、推しカップルだって盛り上がってるんだから」画面をスクロールさせていた澪の指先が、微かに止まった。しかし、夏美は澪の異変に気づくこともなく、まくし立てるように言葉を続ける。「当時のクラスメイトたち、解説まで始めてるんだよ。澪が反対派の代表として、法学部の憧れの的だった柴田くんを堂々と口説き落とした伝説の試合を、みんなが絶賛してる。二人が付き合い始めた時なんて、私たちの大学に通う人たちのSNSが全部澪と柴田くんでもちきりだったもんね。誰もが澪が柴田くんを落としたなんて言ってたけど、彼が即座にプロポーズしてきて、みんなの鼻を明かしてやってさ……」「夏美、私……」澪は夏美の言葉を遮り、離婚協議書の条項に視線を落としたまま言った。「離婚するつもりなの」夏美は息を呑んだ。「一緒になるのに、あんな苦労をしたのに?」夏美は信じられないというように首を振る。「偶然を装うために、柴田くんのスケジュールを調べ上げて、あのディベート大会の出場枠だって半月徹夜して勝ち取ったんだよ?やっとの思いで付き合えて、結婚してからの数年間も傍から見ていて幸せそうだったのに、どうして……」どうして離婚なんてことになってしまったのか?澪は答えなかった。なぜなら彼女自身も、その問いの答えを知りたかったから。本当に、どうしてこんな結末を迎えることになってしまったのだろう?かつての自分の姿を思い出す。澪は柴田隼人(しばた はやと)を一目見るためだけに、法学部の前で3時間も待ち続けた。彼が国選弁護の事件を引き受けたと知れば、澪はボランティアに参加し、38度の猛暑の中でビラを配った。あのディベート大会では、実力者の先輩を打ち破り、素人だった自分を最終ディベーターにまで持っていく努力をした……何度も偶然を作り出し、本来なら交わるはずのない二人の平行線を、無理やり交差させたの
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第2話
翌日、地方裁判所。木槌が打ち鳴らされ、裁判長が被告に無罪判決を下した。澪が書類をまとめていると、被告の母親が彼女の手を握りしめ、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。澪は礼には及ばないと答え、これが自分の仕事だからと伝える。裁判所の外へ出ても、澪の頭の中では先ほどの法廷でのやり取りが繰り返されていた。「あの女だ!」その時突然、鋭い金切り声が上がった。澪が状況を飲み込む前に、人だかりが押し寄せ、取り囲まれた。先頭にいた中年女性が、澪の袖を乱暴に掴む。「あんたはあのクズの肩を持った!だから、うちの娘はまだ18歳なのに、病院のベッドでこれまでに3回も手首を切ったんだよ!あんたたち悪徳弁護士は、金さえもらえればどんな汚い手でも使うんでしょ!」「あの、まずは落ち着いて私の話を聞いてください……」「聞くもんか!」中年女性は澪を激しく突き飛ばした。「あんたたちは金持ちの犬だ!あのクズの家が金持ちだからって、無罪放免にして!娘は踏みにじられたっていうのに、あんたたちはそれを『合意の上』だって言うのかい!?」取り囲む野次馬がどんどん増えていく。澪はなんとか説明を試みた。「確かに証拠が不十分だったんです。警察が当時……」「証拠不十分?」中年女性が金切り声で遮った。「あんたたち弁護士は、法律の抜け穴を探すのが専門だからね!黒いものも白と言いくるめて、死人からだって証言を取るんでしょ!」澪は黙ることにした。今の状況で何を言っても火に油を注ぐだけだと分かっていたから。「もうこの悪徳弁護士をやめてちょうだい!」中年女性のその言葉を合図に、丸められた資料やペットボトル、さらには小石が澪の肩に当たり、鈍い痛みが走る。そして、二つ目の小石が飛んできたその時。澪は頭を抱え、手の中の書類袋を守るように身を縮めた。だが、予想していた痛みは来なかった。誰かに背後から抱き寄せられ、背中がその温かい胸板にぶつかった。自分を抱き寄せたその人物は腕を上げ、澪の体をすっぽりと庇うように抱き込んだのだ。飛んできた小石が彼の顔をかすめ、一筋の血の跡を残す。「隼人……」澪は唖然とした。隼人は駆けつけた警備員にいくつか指示を出した。決して大きな声ではなかったが、その場を制圧する絶対的な威厳があった。人垣が引き離され、
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第3話
SNSが炎上したのは、午前3時のこと。シャワーを浴び終えたばかりの澪は、一本の電話を受けた。「白川先生……先生のことがネットで炎上しています」助手の渡辺千佳(わたなべ ちか)の声は少し震えている。「午後の事件のせい?気にしなくて平気。数日もすれば収まるから」澪は髪を拭きながら答えた。弁護士という職業柄、世間から叩かれるのは日常茶飯事であるため、とっくに慣れていた。「いえ、今回のは少し違います。ある芸能人がライブ配信でこの件に触れて……」千佳が言葉を濁した。「先生、ご自分の目で確認された方が……」澪が送られてきたリンクを開くと、そこには杏の配信の切り抜き動画があった。【杏ちゃんは、クズ男を弁護して炎上してるあの女弁護士のこと、どう思う?】というコメントに対し、杏は口元を隠して笑った。「あの人のこと?昔からそういう人で、人と違うことをして、男の人の前で目立とうとするのが好きなの。みんながよく言う『男受け狙い』ってやつね」【杏ちゃん、あの人と知り合いなの?】と問いかけられ、「もちろん」と、杏はカメラの向きを変えた。画面に、隼人の顔が映し出される。「この人は私の幼馴染の隼人っていうんだけど、大学時代は学内で超有名人だったの。で、例の女性弁護士、あの頃からどうにかして隼人の気を引こうと必死だったんだよね。そうでしょ、隼人?」画面の中で、隼人は小さく一度だけ頷いた。それはまるで、どうでもいい些細な世間話に適当に相槌を打つかのように。すると、配信のコメント欄は一気にコメントで溢れかえった。【やば!このイケメン誰!?】【柴田先生じゃん!柴田家の御曹司!うちの先輩が言ってたけど、柴田先生はもう結婚してるらしいよ!】【ってことは、例の女弁護士って昔から男に媚びを売るタイプだったわけ?】澪は動画を閉じた。濡れた髪が首筋に張り付き、ひどく冷たく感じられる。媚びを売る……あの時も、皆がSNSでそう言っていたっけ。「玉の輿を狙う成り上がり」と馬鹿にされ、3代続く法曹界の重鎮である柴田家に入り込めば、前途洋々だと揶揄された。あの時、隼人はどう言った?彼は滅多に更新しないSNSに、たった一言だけ書き込んだ。【どっちが落としたとかじゃありません。互いを選んだのは、俺たちの選択ですから】そのたっ
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第5話
澪が家に戻ると、そこはモデルルームのように整えられていた。モノトーンで整えられ、海外から輸入したというソファは、澪にとっては硬すぎて座り心地が悪かった。かつて、澪もこの空間を変えようと試みたことがある。結婚したばかりの年、澪は嬉々として観葉植物をいくつか買って窓辺に飾り、ソファには淡いピンク色のクッションを二つ置いた。帰宅した隼人はそれを一瞥しただけで、何も言わなかった。だが翌日、クッションは忽然と姿を消した。どこへしまったのかと尋ねると、隼人は一言「ごちゃごちゃしている」とだけ答えた。その後も、澪は別のものを置いてみようとした。陶器の壺、道端で見つけた小さな絵、そしてダイニングテーブルのクロス。隼人はその度に眉をひそめ、それらは自分が気付かないうちに消え去った。いつしか、澪は何も買わなくなった。澪は寝室へ入り、クローゼットの一番下からスーツケースを引きずり出す。荷物は驚くほど少なく、スーツケース一つで事足りた。夏美の車がマンションのエントランス前に停まった。「荷物それだけ?」夏美が目を丸くする。「うん」夏美はそれ以上追及せず、ドアを開けて澪の手にミルクティーを押し付けた。「乗って。美味しいもんを奢ってあげるから」澪はその口ぶりに思わず笑みをこぼした。「残業って言ってなかった?」「残業なんか知るかって話。有給取ったから!」夏美がエンジンをかける。「私たち、大学を卒業してからまともに遊んでなかったでしょ?この1週間はうちに泊まって、今までの分まで語り明かそう!自分へのご褒美だと思ってゆっくりしなよ。その翠川町とかいうど田舎に行ったら、どうせ死ぬほど働かされるんだから。今のうちに休んでおいて」澪は静かに「うん」と頷いた。夏美が彼女を横目で見る。「明日、ちょっと行きたい場所があるの。アート展なんだけど、苦労してチケットを取ったんだから」「そういうのは私にはよく分からないんだけど」「分からないから見に行くんだよ。分かってるふりをしている人たちを観察するのも一興でしょ?」夏美は堂々と言い放った。「それに、家に引きこもってたってカビが生えるだけだよ?」翌日の午後、澪はアート展の会場前に立っていた。夏美は急遽会社に呼び出されてしまったため、去り際に何度も念を押して言った。「ゆっくり
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第6話
その日の夜、澪のスマホに航空会社からショートメッセージが届いた。【明日の飛行機の予約が確定いたしました。ご搭乗の2時間前には空港にて手続きをお済ませください】それと同時にスマホが震え、隼人からのメッセージが画面に表示される。【アート展でのこと、杏から聞いた。彼女に恥をかかすな】澪は返信する気にもなれず、見なかったことにして目を閉じ、再び眠りについた。次に目を覚ますと午前9時を回っていた。夏美はすでに出勤しており、テーブルには朝食とメモが残されていた。【スープは温めて飲んでね。夜は早めに帰ってくるから、一緒にご飯を食べよう】パンをかじっていると、スマホが鳴った。見知らぬ番号だった。「もしもし?」「あの……白川先生ですか?」電話の向こうの声は震え、ひどく遠慮がちだった。「山下です。俺のこと、覚えてますか?あの、未払い給料の……」澪は姿勢を正す。「ええ、覚えていますよ。どうされましたか?」山下健一郎(やました けんいちろ)は、澪が事務所を去る前に引き受けた最後の案件の依頼人だった。業者が夜逃げし、健一郎を含む十数人の建築作業員が半年分の給与を未払いにされていたのだ。妻は病に倒れ、子供の学費もなんとかしなければならない。一家は健一郎のそのわずかな金だけを頼りに生きていた。難しい案件ではないし、証拠も揃っている。それに、澪は去る前に同僚に引き継ぎを済ませていたから、予定通りなら昨日には開廷しているはずだった。「先生、じ……実は事務所から通知が来て、案件から手を引くって言われてしまいまして」健一郎の声はどんどん小さくなっていく。「俺には何が何だか分からなくて……だから、先生に聞きたかったんです。俺の用意した書類に、何か不備でもあったんでしょうか?」スマホを握る澪の指に、ぎゅっと力が入った。「こちらで確認してみますので、ちょっと待っていてください」電話を切るなり、澪はすぐに同僚へと電話をかける。「山下さんの案件、一体どういうことなんですか?」同僚は数秒黙り込んだ。「白川先生……こればかりはどうしようもなかったんです」「どうしようもなかったって、どういう意味ですか?」「実は、植田さんが事務所に来たんです。弁護士役のドラマが決まったから、役作りのためだとかで」同僚は複雑な口調で言った。「その時
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第7話
澪がドアを押し開けると、二人は同時に顔を上げた。「白川先生?」杏が先に口を開き、眉を吊り上げた。「どうしてここに?地方へ行くんじゃなかったの?」しかし、澪は杏に視線を向けず、隼人だけを見据えた。「山下さんの案件、なんで手を引いたの?」隼人は書類を閉じ、椅子の背もたれに寄りかかった。「杏が言っていた件か?」「なぜ手を引いたのかって聞いてるの」しかし、隼人は淡々としていた。「あの事件は債権回収の難易度が高いし、事務所のリソースも限られているからな。実質的な利益を生む案件を優先するのは当然だろ」「回収の難易度が高い?」澪は隼人を睨みつけた。「証拠は完全に揃っていて、法的関係も明白だし、未払いの事実も確定している。これでも難易度が高いって言うの?」横から杏が軽く鼻で笑った。「白川先生、分かってないわね。業者が夜逃げしてるのに、判決が出たって何の意味があるの?ただ無駄に労力を使うだけじゃない」澪は杏を無視する。「もう契約を結んで、委任だって成立してたんだよ?だから、あなたに一方的に解除する権利なんてないの」隼人が立ち上がった。「澪、少し冷静になれ」「私は至って冷静だけど」澪は数歩進み、隼人の目の前に立つ。「山下さん、53歳。奥さんは尿毒症で週2回の透析治療を受け、息子さんは大学に入ったばかりで学費も借金でなんとかしてる。山下さんの半年分の給与は96万円。だけど、彼はそのお金だけを頼りに借金を返し、奥さんの治療費を工面しようとしていたの」隼人が答えた。「知っている」「いいえ、あなたは分かっていない」澪は一字一句噛み締めるように言った。「96万円が、山下さんたちにとってどれほどの重みを持つのかを……彼はバス代すら惜しんで、毎日1時間も歩いて事務所に書類を届けに来ていた。私に電話をかけてくる時も、終始迷惑じゃないかって謝り続けていたことも、あなたは知らない」杏が横で口を尖らせる。「貧乏人っていつもそうよね。すぐに不幸自慢をして……」「黙って」澪は杏を振り返って睨みつけた。杏は一瞬呆気に取られ、信じられないという顔をした。「今、なんて言ったの?」「黙ってって言ったの」オフィスの中が、数秒間静まり返る。杏は顔を真っ赤にしながら、隼人に縋り付いた。「隼人、聞いた?今の言葉!」隼人が眉を
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第8話
健一郎の案件が開廷するその日、隼人は本来なら地方裁判所で企業間仲裁の審問に臨むはずだった。しかし、彼はそれをキャンセルした。なぜそんなことをしたのか、隼人自身にも分からない。あの日、澪がオフィスで放ったあの言葉たち。隼人は表情を変えなかったが、心の奥底では、確実に何かが揺さぶられていたのだ。96万円。自分にとっては、杏の機嫌を取るためになんとなく購入する鞄代か、もしくは少しの気晴らしに一泊どこかへ泊まる程度の金額に過ぎない。だが、健一郎にとっては、命そのものなのだ。地方裁判所、第三法廷。隼人が到着した時、法廷は始まったばかりだった。彼は裏口から入り、最後列の席に腰を下ろす。澪の姿はない。代理人は見慣れない顔の弁護士だった。案件は実にシンプルだ。証拠は完璧に揃い、法的関係も明白。被告である下請け業者は逃亡していたが、別の県で発見され、口座にはまだ資金が残っていた。だから、裁判官のいくつかの質問に対し、被告側の代理人は言葉を濁し、まともな反論すらできなかった。わずか40分で、法廷は閉じられた。裁判官は即日判決を下し、被告に対し、健一郎を含む14名の作業員に未払い給与合計946万円を10日以内に支払うよう命じた。木槌が打ち鳴らされる。健一郎が原告席から立ち上がり振り返ると、傍聴席から細身の青年が駆け寄ってきて、彼に抱きついた。「父さん!勝った!僕たち勝ったんだね!」健一郎は2秒ほど呆然とした後、日焼けした浅黒い顔の皺をくしゃくしゃに寄せ、何かを言おうとしていたが、声にはなっていなかった。なぜなら、言葉よりも先に、涙が溢れ出たからだ。彼は必死にまばたきをして涙を堪えようとしていたが、止まらなかった。袖で顔を乱暴に拭っても、溢れ続ける涙。結局、健一郎は拭うのを諦め、息子を抱きしめたまま、ざわめく法廷の中で子供のように声を上げて泣いた。「96万……母さんの透析代と……お前の学費……」健一郎は嗚咽に言葉を詰まらせながら、呟き続ける。「足りる……これで十分だ……」父親より頭半分背の高い息子も俯き、肩を震わせて泣いていた。周囲にいた十数人の作業員たちも二人を取り囲む。健一郎の背中を叩く者、目頭を拭う者、歯をむき出して笑い、笑いながら涙を流す者。「山下、泣くなよ!みっともねぇ
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第9話
隼人はスマホを取り出し、澪に電話をかけようとした。発信し、呼び出し音が何度か鳴ったが、応答はない。彼はその場に立ち尽くし、画面の上に親指を浮かせたまま、何を言えばいいのか分からなくなった。家に帰ると、部屋は真っ暗だった。玄関の電気をつけると、リビングはいつものままだったが、窓辺だけが妙にがらんとしていた。隼人は少し戸惑った。あの幾つかの観葉植物はどこへ行ったんだ?結婚したばかりの年、澪が名前もわからない、青々とした小さな観葉植物をいくつか買ってきて、窓辺に並べていた。隼人はごちゃごちゃしているのを鬱陶しく思い、それが気に入らなかった。だが、いつの間にかその存在に慣れ、水やりをすることはなかったものの、毎日通り過ぎるたびに目をやるようになっていた。しかし今、それは忽然と消えている。隼人はその場に立ち尽くし、この家がどこか見知らぬ場所のように感じた。クローゼットの中には、自分の服が相変わらず掛かっている。しかし、澪のスペースは、見事に空っぽになっていた。スマホが鳴った。事務所からの着信だ。「柴田先生、白川先生をお探しなんですか?白川先生ならもう事務所にはいませんよ。先週のうちに引き継ぎを全て済ませていますから。法テラスの過疎地派遣プロジェクトに志願して、地元の翠川町へ赴任しました」隼人はベッドの端に腰掛け、長い時間じっとしていた。家の中はひどく静かで、呼吸ですらはっきりと聞こえる。結婚して4年、この家がどれほど静かかなど、気にも留めたことがなかった。以前は、帰宅するといつもリビングの電気が点いており、澪がソファで資料を読んでいた。ドアの音がすると顔を上げて「おかえりなさい」と声をかけてくれ、またすぐ書類に目を落とすのだ。自分はいつも「ああ」とだけ短く返し、そのまま書斎へと向かう。澪が後を追ってきて「ご飯は食べた?」と聞くこともあったが、自分は食べていなくても「食べた」と答えていた。澪はそれを追及することもなく、しばらくすると書斎のドアの前に一杯のホットミルクを置いてくれていた。彼女が中に入ることはなく、ただそこに置いていくだけ。そんな些細な出来事を思い出したのは、ずいぶん久しぶりに感じる。スマホの画面が光っては消え、消えてはまた光る。澪に電話をかけて3度目。やはり
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第10話
翠川町には空港がない。澪は古びたローカル線で4時間ほど揺られ、さらに長距離バスに1時間乗ると、夕暮れ時にようやく町のバスターミナルへと到着した。バスターミナルは、昔の姿のままだった。待合室のプラスチックの椅子は角が欠け、壁には色褪せた看板が貼られ、いまだに10年前の宣伝がされている。出口にある売店は経営者が変わっていたが、売られているのは昔と同じアイスキャンディー。砂糖水に色をつけて凍らせただけの安物だったが、子供の頃は食べたくても、それを買うお金がなかった。澪はスーツケースを引いて道端に立ち、深く深呼吸する。空気には土の匂いと、どこかの家から漂ってくる夕飯の支度の薪の煙の匂いが混じっていた。奇妙なものだ。十何年も戻ってこなかったのに、この匂いを嗅いだ瞬間、まるで昨日ここを離れたばかりのような気がしてくる。「澪ちゃん?」背後から声が聞こえた。澪は振り返る。すると、数歩離れた場所に、白髪交じりの女性が買い物かごを提げて立っていた。彼女は澪の顔を数秒見つめていたが、突然目頭を赤くした。「本当に澪ちゃんかい!」女性は買い物かごを放り出して駆け寄り、澪の手をがっしりと掴んだ。「隣の恵美おばちゃんだよ!覚えてないかい?澪ちゃんが子供の頃、家にご飯がなくて毎日うちにご飯を食べに来てたでしょ?私が素麺を茹でてやったら、一度に2杯も平らげてねぇ!」澪は呆気に取られた。松尾恵美(まつお えみ)。庭に大根を干し、いつも夫の松尾賢治(まつお けんじ)に文句ばかり言っていたが、自分が遊びに行くと必ず茶碗に目玉焼きを一つ余分に入れてくれた、あの恵美だ。「恵美さん……」澪は口を開いたが、喉の奥が少し詰まる。「こんなに大きく、立派になってねぇ。弁護士になったって聞いたよ!」恵美は澪の頭の先から足の先まで眺め回し、目に涙を浮かべた。「澪ちゃんのお母さんが生きてたら、どんなに喜んだことか……」何も言わなかった。澪の母親は肺がんで12年前に他界している。当時中学生だった澪は、学費をかき集め、交通費を借りて暮らしていた。病床に伏す母親は彼女の手を握り、こう言い残した。「澪、ここを出たら二度と戻ってくるんじゃないよ。こんな貧しい町に、戻ってきたって何もいいことがないんだからね」澪は頷いた。そしてその通り、二度と
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