Alle Kapitel von 再婚、そしてまた再婚......気づけば御曹司に溺愛された: Kapitel 21 – Kapitel 30

30 Kapitel

第21話

梨沙は俯いたまま、何も言わなかった。そもそも彼女と真希子に、深い関わりなどない。それどころか、今日までは真希子に見下されていた側だ。それなのに今――真希子は、自分に「協力しろ」と持ちかけている。梨沙はよく分かっていた。この世に、ただで手に入るものなんてない。何かを得る覚悟をするなら、同時に何かを失う覚悟もしなければならない。十秒ほど沈黙したあと。梨沙はゆっくり顔を上げた。「......分かりました。協力します。その代わり、40億円ください」真希子の、完璧に整えられた顔から笑みが消えた。信じられないというように梨沙を見つめる。「正気?40億円がどれほどの額か分かって言ってるの?」梨沙は静かに頷いた。「ええ。正気です」真希子は指先でソファの肘掛けを軽く叩く。眉を上げ、梨沙を見下ろした。「40億円は確かに大金だけど......出せない額じゃない。でも現金では渡さない」彼女は淡々と続ける。「こうしましょう。弟さんが使っている生命維持装置、年間レンタル費用は2億4000万円。二十年分なら40億円を超えるわ。その費用、私が負担してあげる」梨沙は小さく笑った。狡猾な女。真希子が、今の自分に現金を渡すはずがない。そんなことをすれば、自分に海渡と真正面から戦う力を与えることになるから。梨沙は大人しくソファに座ったまま、素直に言った。「ありがとうございます、真希子さん」二十年。それだけあれば十分だ。琉生は、この先長い間、最良の治療を受けられる。だが同時に梨沙は理解していた。これがきっと――真希子に堂々と条件を突きつけられる最後の機会だと。打算でも、火事場に付け込む真似だとしても。今しかない。梨沙は再び口を開いた。「今日の写真騒ぎについて、私に騒ぎの言い訳をさせるつもりですよね」真希子の目に、一瞬だけ驚きが過る。視線で続きを促した。梨沙は低い声で言った。「その報酬と、この先一か月、海渡と夫婦を演じ続ける精神的慰謝料として......離婚後、現金1億円。市場価格1億5000万円以上の別荘一軒。それから、私の花火工房の所有権」真希子はようやく安堵したように息を吐いた。「いいわ、約束する。ただし、今日の件を収束させる以外にも条件
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第22話

梨沙はぎゅっと歯を食いしばった。次の瞬間、涙がぽろりと零れ落ちる。「写真まで出てるのに......どうやって信じろっていうの?」嗚咽混じりに問い返すと、海渡は唇を噛み、「泣かないでくれ。君が泣くと、俺まで苦しくなる。梨沙、さっき草場に調べさせたんだ。あの写真はAI合成だった。今日の上場発表会に合わせて、分家連中が俺を陥れようとしたんだよ」と言った。AI合成――考えることは同じらしい。梨沙は口元を歪め、皮肉げに笑う。「そうなの?」海渡は天に誓うように片手を挙げた。「誓うよ。もし俺が君を騙してるなら――」以前なら、二人が言い争いをした時、海渡がこうして誓いを立て始めると、梨沙は最後まで言わせず彼の口を塞いでいた。だから海渡も、無意識にそこで言葉を止めた。だが今回は違った。梨沙は何もしない。黒曜石のような瞳で、ただ静かに彼を見つめている。求めているのは、彼の態度だった。海渡は一瞬だけ間を置き、それから続ける。「俺は、死んでもいい」梨沙は少し呆れたような苦笑いを浮かべた。「そこまで誓いを立てなくても。信じるわよ」海渡はほっとしたように笑う。「ありがとう、梨沙。じゃあ、みんなの前で説明を――」「私は行かない」梨沙はぴしゃりと言い切った。「あの写真見ただけで腹が立つの。それに、どうしてAIは他の女じゃなくて、わざわざ露木さんとの写真を作ったの?私があの子のことを一番嫌ってるって知ってるでしょう」海渡はため息をつき、歩み寄ってそっと梨沙を抱き寄せた。後頭部を撫でながら、宥めるように囁く。「それは分かってる。でも今回は、俺個人の問題じゃない。会社のためにも、ちゃんと誤解を解かなきゃいけないんだ。上場初日にこんなスキャンダルが出たら、給料もボーナスも削られるかもしれない。生活に影響が出るかもしれないんだ。琉生の治療費も、君の義父のプロジェクトも......頼む、理解してくれ」梨沙は、今が引き際だと判断した。少し不満げな顔を作りながら、渋々口を開く。「......分かった」海渡は笑みを浮かべ、彼女の手を取って外へ連れ出した。発表会はすでに晩餐会の段階に入っていた。だが、会場の空気はどこか妙に張り詰めている。海渡はグラスを一杯手に取り、梨沙へ渡した。
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第23話

海渡は驚いたように眉を上げた。「どうしたんだ?」梨沙は適当に理由を作る。「帰りたいの。補聴器の雑音がひどくて......ちょっと気分悪い」海渡はあっさり頷いた。「分かった。君へのプレゼント、もう届いてるから、帰れば見られるよ。今日は遅くなる。家で待たなくていいから。気をつけて帰って、着いたら連絡して」梨沙は小さく「うん」と返した。海渡は愛しげに彼女を見つめ、身を屈める。梨沙は咄嗟に顔を逸らした。海渡は眉をひそめる。梨沙は何でもない風を装って言った。「みんな見てるよ」海渡は笑い、脱いだ上着を彼女の肩へそっと掛けた。「草場に送らせる」――けれど、海渡の言っていた「プレゼント」がまさかこれだったとは、梨沙も思わなかった。「おばあちゃん!」リビングへ入った瞬間、暖かな熱気がふわりと身体を包み込み、頬がじんわり赤くなる。そして一目で、ソファに座ってテレビを見ている秋谷千鶴(あきや ちづる)の姿を見つけた。千鶴は顔を上げるなり目を細めた。「まあまあ、梨沙ったら!その服、なんて綺麗なの!まるで天女が降りてきたみたいじゃないか」梨沙は泣きたいような、笑いたいような気持ちになり、スカートの裾を摘んだまま駆け寄った。「おばあちゃん、どうして来たの?道中寒くなかった?どうして前もって言ってくれなかったの?」千鶴は彼女の手を握り、心配そうに撫でる。「あなたの方がよっぽど冷えてる顔してるよ。海渡が人を寄越して迎えに来てくれたんだ。あっちは暖房も通ってないし、寒さで私が身体を壊すんじゃないかってね。それに、梨沙には内緒にしておけって。サプライズなんだとさ」そう言ってから、後ろを振り返る。「海渡は?一緒じゃないのかい?」梨沙は目元を軽く押さえた。「まだ会場。発表会の後は舞踏会、その後はパーティーもあるみたい。今日は帰れないかもしれない。おばあちゃん、ご飯は食べた?」千鶴は何度も頷く。「もう食べたよ。着いたばかりなのに、海渡がすぐ料理を作らせたわ。ほら、ちょっと座って顔を見せてごらん。前よりずいぶん痩せたじゃないか。海渡にいじめられてるんじゃないのかい?」そう言ったあと、千鶴は自分で笑った。「まあ、いじめるなんてあるわけないけどね。小さい頃から、梨沙のことを大事に
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第24話

「もうおばあちゃんもいい歳なのにね」千鶴はそう呆れたように言いながらも、手は正直だった。梨沙の背中へ腕を回し、布団をきちんとかけ直してやる。「ほんと、小さい頃と変わらないね。もう母親になれる年なのに、まだそうやって甘えて......海渡とはいつ子ども作るつもりなんだい?結婚してもう二年だろうに、そろそろ考えなきゃ......」千鶴はぶつぶつと小言を続ける。梨沙にはちゃんと聞こえていた。けれど、わざと祖母の肩に顎をすり寄せながら言う。「おばあちゃん、何言ってるの?補聴器つけてないから、聞こえないよ?」「......」暗闇の中で、千鶴の目がまた赤くなった。しまいには鼻をすすりながら泣き出す。「あの時、あなたをお父さんについて行かせるんじゃなかった......そうすれば、あんな惨い光景を見ることもなかったのに。あんなに可愛くて、賢くて、おてんばだった梨沙が......二度と音を聞けなくなるなんて......うぅ......」梨沙は喉を詰まらせた。当時、海渡の母親は亡くなる前に、彼を秋谷繁雄(あきや しげお)へ託した。けれど海渡は、どうしても実の父親を探したがっていた。その執着につけ込まれ、誘拐犯のグループに連れ去られてしまったのだ。繁雄は彼を助けるため、家のバイクに飛び乗って追いかけた。梨沙も必死に自転車のペダルを漕ぎ、父の後を追った。――そして彼女は見てしまった。その誘拐犯のワゴン車が、父を何度も何度も轢き潰し、原形も留めぬ肉塊へ変えていく、あの地獄の光景を。梨沙は自転車から転げ落ちた。父のもとへ這いながら、狂ったように叫んだ。喉から血が出るほど叫び、胸が張り裂けそうになるほど泣き叫んだ。なのに耳には、何一つ音が届かなかった。世界は完全な静寂に包まれていた。父がいなくなった瞬間、あらゆる音も一緒に消えてしまったのだ。それ以来、梨沙は聴力を失った。それ以来、海渡は二度と「父親を探す」などと言わなくなった。それ以来――梨沙、琉生、海渡の三人を、千鶴はたった一人で必死に育て上げた。梨沙は静かに息を吸い、そっと祖母のお腹をぽんぽんと叩く。「おばあちゃん、もう寝よう」千鶴は困ったように笑い、孫娘の手を握った。――翌朝。梨沙は朝早く、主治医の村上(
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第25話

村上はカルテを女性医師へ手渡した。「はい、これで」女性医師は慌ただしく診察室を出ていった。その後、村上は落ち着いた様子でスマホを取り上げ、一件の電話をかける。「――飛田さんですか。奥様が、お子さんの人工内耳手術前の検査でこちらへ来ていますよ」村上は、海渡に電話をしている。梨沙の耳がぴくりと動いた。彼女はそっとスマホの録音機能を起動すると、何事もない顔でそのまま手話で望と会話を続けた。そして村上の声を、一言一句聞き逃さないよう耳に刻み込む。「本当に困ります。これ以上、奥様の補聴器のパラメータを上げれば、心身への悪影響が出ます。酷い場合は耳の奥に慢性的な痛みが出たり、聴神経が完全に破壊されて、二度と人工内耳手術ができなくなる可能性だってあります。飛田さん、私は医者です。これはお金の問題では――ははは、さすが飛田さん、気前がいい。では、その条件で」梨沙は爪が食い込むほど強く手のひらを握り締めた。胸の奥から、焼けつくような怒りが噴き上がる。全身が震えた。――全部、嘘だった。後天性難聴だから人工内耳手術ができないというのも。体質的に特殊で、補聴器にアレルギー反応を起こすというのも。全部、嘘。海渡は医師と結託して、彼女を一生「無音の世界」に閉じ込めようとしていたのだ。この人でなし。声にならない怒りが瞳の奥で燃え上がり、梨沙は吐き気を催すほどだった。青白い指先を震わせながら、彼女は補聴器を耳につけ直す。村上はその様子を横目で確認すると、慌てて電話を切った。「奥様、おめでとうございます。望くんは一か月後には人工内耳手術を受けられます。そうなれば、もう補聴器に頼らなくても音が聞けるようになりますよ」梨沙は必死に顔の筋肉を制御し、どうにか嬉しそうな笑みを浮かべた。「よかった。ありがとうございます!」村上はにこやかに手招きする。「そうだ、前に飛田さんとお会いした時、奥様の補聴器から雑音がすることが多くて、集中できずお困りだと伺いましてね。おそらく設定値が合っていないのでしょう。私が調整して差し上げます」梨沙は片手で耳に触れながら、まっすぐ村上を見つめた。「ありがとうございます、村上先生。でも先生......私は、本当に人工内耳手術を受けられないんですか?」慈愛深そう
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第26話

「奥様のお身体はずっと無理にその設定へ適応しようとしていたんです。そのせいで、本来適正な数値が、逆に奥様の許容範囲から外れてしまった。ですから、少しずつ慣れていく必要があります」梨沙は、ようやく腑に落ちたような表情を浮かべた。「......そういうことだったんですね」村上は頷きながら、梨沙たち親子を出口まで送り出す。「これは飛田さんが大金をかけて、奥様専用に作らせたものなんですよ。もしこれでも駄目なら、市販の補聴器はもうどれも使えないでしょう。まずは慣れてみてください。本当に耐えられないようなら、その時また別の方法を考えましょう」梨沙は素直に「わかりました」と答えた。診察室を出る。望の手を引きながら、梨沙は静かに言った。「ありがとうございます、村上先生。先生のように素晴らしい方がなさったことのすべてが、いつか必ずご自分に返ってくると、私は信じてます」村上の目元がぴくりと引きつった。笑顔が徐々にぎこちなくなる。「......当然のことをしたまでです。お気をつけて」梨沙を見送ると、村上は診察室へ戻る前に待ちきれない様子でスマホを取り出し、銀行の入金通知を確認した。――1000万円、入金済み。――医師免許を失う危険まで冒して海渡に協力しているのだ。報酬が少ないはずがない。そして海渡がこれほど気前よく金をばら撒ける以上、必ず別の収入源がある。しかも、その資産は本人名義ではなく、「彼が心から信頼している誰か」の名義に置かれているはずだ。海渡が最も信頼している相手は誰なのか。専属秘書の草場?それとも――明里?梨沙の頭の中はぐちゃぐちゃだった。絡まり合った糸のように、どう整理しても答えが見えない。ぼんやりしたまま車を走らせ、ようやく家へ戻る。車を停め、シートベルトを外したとき。スマホが鳴った。電話を終えてから、望を連れて車を降りる。望は小さな手で雪を受け止めながら、幼い声で笑った。「今年の雪、いっぱいだ!」親子二人が門をくぐったその時。少し離れた場所に停まっていたラズベリーピンクの車の中で、明里はようやく梨沙から視線を外した。彼女は片手でこめかみを押さえながら、必死に思い返す。さっき梨沙が車内で電話していた時、補聴器をつけていなかったのでは?
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第27話

梨沙はきょとんとした顔で彼女を見た。「何言ってるのか聞こえないんだけど。手、離して」明里はくすりと笑った。「さっき外で電話してた時、補聴器つけてなかったの、私ちゃんと見たんだから。その芝居やめたら?いったい何を隠してるの?耳が聞こえるようになったなんて大事なこと、どうして海渡さんに黙るの?」梨沙はまつ毛を震わせながら目を伏せ、唇の端にかすかな笑みすら浮かべた。そして空いている方の手で明里の手を払いのける。「耳の聞こえない人相手に延々しゃべり続けるなんて、そんなに友達いないの?」明里は梨沙の目をじっと睨みつけた。「まだしらばっくれるつもり?」梨沙は呆れたような視線を向け、そのまま階段を下りようとする。だが明里は苛立ったように再び立ちはだかり、顔が触れそうなほど近づいてきた。勝ち誇ったような笑みを浮かべる。「じゃあ教えてあげる。海渡さん、あなたが年寄りと結婚してたこと、ずっと気にしてるの。潔癖症だからね。真夜中に車飛ばして私のところに来て抱く方が、あなたに触るよりマシなんだって。どうして海渡さんがあなたと結婚したかわかる?一つは恩知らずって言われたくなかったから。二つ目は、あなたの弟が私を庇って植物状態になったから、哀れに思ったから。三つ目は、真希子さんが彼の力が大きくなりすぎるのを警戒してたからよ。後ろ盾のない障害者のあなたを妻にしておけば、安心できたってわけ」言えば言うほど、明里の笑みは深くなっていく。「実は海渡さん、性欲めちゃくちゃ強いの。毎晩私を求めてくるんだから。新婚初夜だって、私たち二人、あなたの部屋のバルコニーで汗だくになって――」パァン!鋭い音が響いた。梨沙の平手が、容赦なく明里の頬を打ち抜いたのだ。顔は勢いよく横を向き、白い肌には赤く腫れた指の跡がくっきり浮かぶ。けれど明里は怒るどころか、顔を戻す前から高笑いした。「ついにボロ出したわね......!」ぎらついた目で梨沙を見つめる。「やっぱり聞こえてるんじゃない!」梨沙は痺れる手を引っ込めた。表情はなおも冷えきったまま。「どいて」明里は梨沙を掴み、無理やり階下へ引っ張る。「今すぐ海渡さんのところへ行って、耳が聞こえるくせに嘘ついてたって、全部バラしてやるんだから!」二人は階段口でもみ合いになっ
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第28話

ドンッ!鈍く重たい音が響いた。頭蓋が大理石の床に叩きつけられたような、ぞっとする音だった。「おばあちゃん!!」梨沙は狂ったように駆け下り、膝を床へ強く打ちつける。震える両手で千鶴のぐったりした身体を抱き起こした。「おばあちゃん、しっかりして......!」声は震え、まともな形にならない。涙がぼろぼろと落ちていく。――スマホ......スマホはどこ?救急車を呼ばなきゃ。梨沙はポケットを必死に探り、スマホを取り出すと、震える指で通話ボタンを押した。「救急です!祖母が階段から落ちて意識がありません!お願いです、すぐ来てください......!住所は都北の......」明里の身体がぴくりと強張った。手すりを握る両手に力がこもる。胸の奥に、じわりと恐怖が広がった。――あのババア、死なないよね......?次の瞬間、鋭く冷たい視線が、憎悪と嫌悪を剥き出しにして明里へ突き刺さる。明里の心臓が一瞬止まりそうになり、反射的に顔を上げた。梨沙は涙に濡れた目で彼女を睨み据え、しゃがれた声で一言ずつ吐き出す。「......おばあちゃんに何かあったら、私は絶対、あんたを殺す」――冷え切った病院の廊下。鼻を刺す消毒液の匂いが濃く漂っている。梨沙は一人、通路脇のプラスチック椅子に座っていた。「手術中」と灯る赤いランプが、焼けるように彼女の目を照らしている。やがて大西が望を連れてやって来た。梨沙の補聴器も持ってきている。大西がいると、梨沙は無意識に補聴器を耳へつけた。その時、手術室の扉が開き、深緑の手術着を着た医師が出てきた。「秋谷千鶴さんのご家族は?」梨沙は弾かれたように立ち上がる。「わ、私です!孫娘です!祖母は......祖母は大丈夫なんですか!?」医師は無駄な前置きをせず、端的に告げた。「搬送時、非常に危険な状態でした。ご家族はご存じかと思いますが、患者さんには心臓の持病があります。今回の外的衝撃によって、急性の広範囲心筋虚血と重度の不整脈――つまり急性心筋梗塞を起こしています」その一言一言が、氷の塊のように梨沙の胸へ叩きつけられる。足の力が抜け、今にも医師の前に跪きそうになった。「そ、そんな......どうすれば......?お願いです、祖母を助けて
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第29話

そう言い残して。海渡は電話を切った。「もしもし、海渡?海渡!」返ってきたのは、冷たい通話終了音だけだった。梨沙はスマホを握ったまま、その場に立ち尽くす。耳の奥で、ぶうん、と耳鳴りが響いていた。胸の中にぽっかりと大穴が開き、そこへ冷たい風が一気に吹き込んでくるようだった。身体の芯まで凍りついていく。けれど、梨沙には悲しんでいる暇も、怒っている暇もなかった。祖母は今、生死の境をさまよっている。自分がしっかりしなければ。祖母を助けなければ。この世で、自分を本当に気にかけてくれる家族は、もう祖母しかいないのだから。――誰に頼ればいい?そのとき、梨沙の脳裏に浮かんだのは、真希子だった。まるで最後の命綱に縋るように、彼女は急いで電話をかける。「真希子さん......祖母が倒れて、危険な状態なんです。病院では比嘉先生に執刀してもらうのが一番成功率が高いって......どうか助けてください......!」真希子は意外そうに声を漏らした。「助けたくないわけじゃないの。ただ、比嘉家は土岐家を後ろ盾にしている医者の名門よ。普通の人間じゃ、そう簡単に繋がりは持てない。私だって比嘉家の奥様と一度顔を合わせた程度なの」梨沙はかすれた声で「そうですか......失礼しました」とだけ言い、すぐ電話を切った。――比嘉家は土岐家を後ろ盾にしている。土岐家。土岐礼都。梨沙は顔を片手で乱暴に拭い、深く息を吸って気持ちを落ち着かせる。そして震える指で、礼都の番号を押した。呼び出し音が鳴るたび、張り詰めた神経が削られていく。――お願い......出て......自動で切れそうになった、その寸前。電話が繋がった。「もしもし」低く落ち着いた男の声。その瞬間、梨沙は口元を押さえた。涙がまた溢れそうになる。「土岐さん......私です、秋谷梨沙です。急にお電話してすみません......祖母が今、病院で救急搬送されていて、すぐに手術が必要なんです......病院では比嘉、比嘉柊治先生が一番成功率が高いって......でも、どうしても連絡が取れなくて......お願いです、助けてください......」最後には完全に涙声になっていた。熱い涙が手の甲へ落ちる。梨沙は返事を待った。可能
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第30話

手術室の扉は再び閉ざされた。赤いランプだけが、変わらず点灯している。梨沙は隣に立つ礼都を見上げ、かすれた声で言った。「ありがとうございます、土岐さん。本当に、助けてくださって......このご恩は、必ずお返ししますから......」礼都は彼女を見つめたまま、表情をほとんど変えなかった。梨沙はさらに口を開きかける。「土岐さん、先に――」だが言葉は途中で途切れた。胸の奥にずっと押し込めていた熱が、もう限界まで達していた。連日の精神的な重圧。積み重なった疲労。抑え込み続けた怒りと悲しみ。そのすべてが血液の中で渦巻き、一気に噴き出した。「ごほっ......ごほ、ごほっ――」梨沙の顔色が変わる。彼女は急に身体を折り曲げ、激しく咳き込んだかと思うと、次の瞬間、暗赤色の血を吐き出した。視界がぐにゃりと歪む。周囲の音も遠ざかっていく。世界が回転するような感覚の中、糸の切れた人形のように身体が崩れ落ちた。――けれど、床に叩きつけられる痛みは来なかった。倒れ込む寸前、力強い腕が彼女の身体を支えたのだ。梨沙は全身から熱が失われたように冷たく、目を閉じたまま顔色も真っ白だった。唇の端には、まだ鮮やかな血が残っている。礼都は眉を深く寄せ、そのまま梨沙を横抱きにすると、足早に救急処置室へ向かった。――「梨沙、やっと目が覚めた」聞き慣れた声に、梨沙の焦点の合わなかった瞳がゆっくりと定まる。「......どうしてあなたが?」海渡は慎重に彼女の手を握った。「無理に動かないで。まだ点滴中だ。おばあちゃんの手術はまだ終わってないけど、悪い知らせがないってことは、きっと大丈夫だよ。医者の話じゃ、最近過度な精神的ストレスのせいで、急性胃潰瘍を起こして吐血したらしい。ちゃんと休まなきゃ駄目だぞ」梨沙は静かに自分の手を引き抜いた。海渡は申し訳なさそうに言う。「おばあちゃんがあんな重体だなんて思わなかったんだ。あの時は会社で急用があって、君の話をちゃんと聞けなかった。本当にごめん。おばあちゃんが目を覚ましたら、俺、謝りに行くよ」梨沙は海渡を見つめた。その目は空虚だった。怒りすら、あの吐血と一緒に吐き尽くしてしまったかのように。残っているのは、冷え切った麻痺だけ。彼
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