All Chapters of 再婚、そしてまた再婚......気づけば御曹司に溺愛された: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

明里は車から降りる暇がなかった。いや、正確には、梨沙を挑発するためにわざと降りなかった。だから梨沙がこちらへ向かってくるのを見ても、運転席に悠々と座ったまま、サンバイザーの裏のミラーを見ながら口紅を塗り直していた。さらに真っ赤な唇をわずかに吊り上げ、梨沙に向かって挑発的な笑みを浮かべながら化粧を続ける。梨沙はハンマーを振り上げた。奥歯を食いしばり、全身の力を込めてフロントガラスへ叩きつける。轟音が響いた。車体が激しく震える。明里の手が震え、口紅が車内へ転がり落ちた。彼女は驚愕の表情で顔を上げる。目に飛び込んできたのは、黒いハンマーを握った梨沙が、巨大な亀裂の入ったフロントガラスの中央へ再び全力で振り下ろす姿だった。再び轟音が響く。蜘蛛の巣状の亀裂が一気に広がり、細かなガラス片がぱらぱらと崩れ落ち始める。ようやく明里は恐怖と衝撃から我に返った。顔面蒼白になりながら叫ぶ。「あんた頭がおかしいじゃないの?!」慌ててドアを開けようとする。すると梨沙はドアを叩き始めた。後ろへ逃げれば、今度は後方のガラスを叩き割る。やがて、ガシャーンという音とともにガラスが砕け散った。破片が四方八方へ飛び散り、一部は車内へ飛び込み、明里の顔を切り裂いた。明里は慌ててスマホを掴む。「海渡さん、助けて!梨沙さんが狂ってるよ!私を殺そうとしてる!」だが梨沙の胸には、言いようのない爽快感が広がっていた。胸の奥に積もり積もった感情のすべてが、ハンマーの一撃ごとに、この無残に歪んだ鉄の塊へ叩き込まれていく。汗が頬を伝い落ちる。反動で腕は痺れ、胃も鈍く痛む。それでも構わなかった。今この瞬間だけは、心の底から痛快だった。たとえ束の間だとしても。「梨沙!」海渡が別荘から飛び出してきた。スリッパ姿のまま大股で駆け寄る。そして梨沙の手からハンマーを奪い取り、脇の植え込みへ放り投げた。彼は梨沙の腕を掴む。「狂ったのか!?人でも殺すつもりか?」梨沙は一本ずつ彼の指を外した。そして笑う。「そうよ。私は狂ったの」額の汗で前髪が張り付き、どこか壊れてしまったような脆さが滲んでいた。海渡の口調が少しだけ和らぐ。「何かあるなら落ち着いて話せばいいだろう。どうしてこんなこと
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第52話

海渡は苛立たしげにネクタイを引きちぎるように緩めると、そのままソファへ放り投げた。明里は身を低くし、慎重に彼の服の裾を引っ張る。「きっと私のせいだよ。梨沙さんのものに手を出すべきじゃなかった。たとえ梨沙さんがいらないものだったとしても、私なんかが触れちゃいけなかったの。梨沙さんは海渡さんの奥さんなんだから、一番いいものも、一番高いものも、梨沙さんこそが受け取るべきだよね」海渡は喉をわずかに上下させ、彼女の手を軽く叩いた。「そういう意味じゃない」明里はいかにも健気な様子で海渡の肩にもたれかかる。「でも最近の梨沙さん、本当に変だと思うの。前に私を会社の秘書にした時だって、梨沙さんは2日くらい怒っただけで、3日目には自分から折れてくれたでしょう?でも今回は全然違う」海渡は彼女を見た。「何が言いたい?」明里は唇を噛み、静かに言った。「飛田コーポレーションが上場した今、海渡さんの結婚生活が飛田コーポレーションの株価と密接に関係してるって分かってるから、海渡さんは絶対に離婚できないって高を括ってるんじゃないかな......」海渡は黙ったままだった。明里はさらに続ける。「私が秘書になった時から、きっと梨沙さんはずっと不満を溜め込んでたんだよ。やっと会社が上場したから、今までの恨みをまとめて清算しようとしてるの。世俗とは無縁そうな顔をしてるのに、案外計算高いんだね。それに、梨沙さんって昔からそうだった気がする。会社を大きくしようとして、海渡さんが苦労してた時だって、梨沙さんは振り向いたらお金持ちに取り入ってたでしょう?1億円の運転資金を稼いでくれたなんて言ってたけど、結局は将来性に賭けただけじゃない」海渡の表情がわずかに険しくなり、明里を押しのけて立ち上がった。「変なことを言うな。彼女はそんな人間じゃない」明里は目を伏せた。その瞬間、瞳に鋭い光がよぎる。「そう。海渡さんがそう言うなら......」海渡は振り返り、彼女の顎を指で持ち上げた。「拗ねたのか?」明里は目を赤くして言った。「海渡さんは『結婚は彼女に、心も愛も私にやる』って言ってたのに、いつも私が梨沙さんを悪く言うのは許さない。もしかして海渡さん、心の中に梨沙さんがいるの?」海渡はそっと彼女の頬を撫でた。「俺の心の中には、ずっと
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第53話

海渡はようやく目を開けた。闇の中。彼はベッドに仰向けになったまま天井を見つめ、大きく荒い息を何度も吐いた。「海渡さん?」明里は物音で目を覚まし、様子がおかしいことに気づくと、慌てて灯りをつけた。明るい光がたちまち寝室を満たし、二人の顔を照らし出す。海渡は目の前にある明里の顔を見つめ、顔を手で強くこすると、布団をはねのけて起き上がった。明里も慌てて身を起こす。「まだ4時だよ。どこに行くの?」海渡はすでにバスローブを脱ぎ、着替えを始めていた。その合間に一言だけ返す。「家に帰る」明里は思わず、悔しさに自分の手の甲を爪が食い込むほど強く握り締めた。「早すぎるよ。夜が明けてからじゃ駄目なの?」だが返ってきたのは、海渡が足早に去っていく足音だけだった。ドアが勢いよく閉まる。明里は枕を2つ掴み、思い切り壁へ投げつけた。柔らかな枕は音もなくカーペットへ落ちる。明里は胸を大きく上下させながら苛立った。――何なの?海渡は本当に梨沙のことを少しも好きじゃないの?――梨沙は朝早く、望を迎えに行き、朝食を取りに帰ってきた。まだ家に入る前に、大西が意味ありげな笑みを浮かべながら近寄ってくる。「奥様、海渡様、朝早くからずっとキッチンで頑張ってたんですよ。奥様のために朝ごはんを作るんだって。それにおばあ様のためのスープまで煮込んでいて、材料も朝一番で買ってきたんです。見ましたけど、どれも新鮮で体によさそうでしたよ」梨沙は何も言わなかった。そのまま中へ入る。ちょうどその時、サイズの合っていないエプロンを着けた海渡が朝食を運んでくるところだった。二人の視線が交わる。海渡は彼女の耳に目を向けた。補聴器をつけているのを確認してから口を開く。「君の好きな朝ごはんを作った。一緒に食べよう」海渡が自ら作った朝食。もし以前だったら。まだ耳が聞こえなかった頃の梨沙だったら、どれほど感動していただろう。だが梨沙はただ通り過ぎただけだった。そのまま向きを変え、二階へ向かう。海渡の顔色が冷えた。「梨沙。2時間もかけて作ったんだぞ」梨沙は片手を手すりに添え、横を向いたまま振り返る。「それが私に何か関係あるの?あなたが2時間かけたからって、私が受け取らなければ悪いの?受け
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第54話

24年の付き合いと2年間の結婚生活――その表面を剥がしてみれば、そこにあったのは傷だらけの嘘ばかりだった。......2日後の午後。梨沙は面接に来る応募者二人と会うため、工房へ向かった。車で工房のビルの前に着き、降りた瞬間だった。突然、誰かに腕をつかまれる。梨沙は驚いて振り返ったが、そこにいたのが芳江だと分かり、ようやく胸をなで下ろした。「お母さん、どうしてここが分かったの?」「病院を出た時からずっと後をつけてたのよ」「おばあちゃんが入院したこと知ってたの?だったらどうしてお見舞いに行かなかったの?」「余計なことはいいの!」芳江は容赦なく梨沙の言葉を遮り、鋭い目を向けた。「海渡が敏彦さんの会社に出すって約束した資金、まだ振り込まれてないそうじゃない。今日、敏彦さんが本人に電話したら、私に聞けって言われたのよ!あんた、また何をやらかしたの?」梨沙は目の前の女性を見つめた。彼女は自分の、実の母親だ。幼い頃から街で囁かれていた噂で、梨沙は知っていた。芳江は父と離婚する前から浮気をしていたことを。しかも相手は都会の金持ちで、そのために家族をあっさり捨てたのだと。本来なら、梨沙は芳江と完全に縁を切れていたはずだった。だが7歳の時、彼女は凝固障害を患い、芳江から骨髄提供を受けた。さらに芳江と再婚相手は、360万円もの医療費を立て替えてくれた。あの頃の芳江は、何か見返りを求めていたわけではなかった。だが後になって海渡の出生の秘密が明らかになると、芳江は再び彼らに接触し、自分を母親だと名乗り始めた。そして千鶴は、実家とのつながりがあった方が支えになるからと、芳江と交流を続けるよう梨沙を説得した。けれど梨沙だけは知っている。芳江との間に続く道は、何束もの札束で敷き詰められた道なのだと。梨沙は少しずつ芳江の手を振り払った。「何年も他人の援助でしか生き延びられない会社なら、存在する意味なんてないでしょう。いっそ倒産した方がいい」芳江は一瞬言葉を失った。その隙に梨沙はバッグを持ち、大股でビルへ向かう。芳江は慌てて追いかけた。そして次の瞬間――バシッ!強烈な平手打ちが梨沙の頬を打った。焼けるような痛みが走る。「あんた、良心というものはないの!?飛田家の奥様に
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第55話

「そんなこと、させない!」梨沙の纏う空気が一瞬で冷え込み、その迫力に芳江も思わずたじろいだ。だが我に返ると、腕を組んで冷笑する。「私はあんたの母親よ。まさか私を殴るつもり?」梨沙は拳を握り締めた。胸の奥から込み上げる感情を必死に押さえ込みながら言う。「今まで、もう十分すぎるほど私から受け取ってきたでしょ。私の借りも、とっくに返し終わってる。だから好きにすれば?」そう言い残し、エレベーターへ向かおうとした。だが芳江は行かせまいと、梨沙の腕を強くつかむ。「そう!玉の輿に乗って大出世したからって、親兄弟まで見捨てるのね。縁を切って互いに借りも貸しもなしにしたいんでしょう?だったら今すぐ1億円を振り込みなさい!それで今後は赤の他人よ」梨沙のまつ毛がかすかに震えた。赤の他人。それでいい。この世のすべての人に、自分を愛してくれる母親がいるわけじゃない。母親の中には、自分の子どもを愛さない人もいる。ずっと目を背け、自分を騙し続けてきたその事実を、今日ようやく認める時が来たのだ。不思議と悲しみはなかった。むしろ肩の荷が下りたように軽かった。「分かった。明日の今頃までには1億円を振り込む。それで終わり。これから先は、娘なんていなかったと思って」梨沙は視線を落とし、自分の腕をつかむ芳江の手を見た。「離して」芳江は反射的に手を放した。梨沙はそのまま大股でエレベーターへ乗り込む。扉が閉まる瞬間、芳江には梨沙の頬を一筋の涙が伝ったように見えた。芳江は気を取り直し、胸元を押さえながら吐き捨てる。「この恩知らずが」梨沙は洗面所へ行き、頬についた手形をコンシーラーで何とか隠した。その後、二人の応募者の面接を終える。面接を受けたのは粟野文人(あわの ふみと)と柳祥子(やなぎ しょうこ)。どちらも新卒だった。一人はビジュアルデザイン専攻、もう一人は化学工学専攻で、梨沙の採用条件にも合致していた。入口まで見送りながら、梨沙は微笑んだ。「選考結果は2営業日以内にメールでお送りします。届いたら3営業日以内にご返信ください。3日を過ぎた場合は辞退とみなします」二人は何度も頷いた。梨沙は二人をそれぞれタクシーに乗せて見送り、その後工房へ戻って仕事を片付けた。初香が駆け寄ってくる。
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第56話

梨沙は迷わず電話を切り、そのままスマホをポケットにしまった。そしてゆっくりと歩道の縁に腰を下ろす。空はますます暗くなっていく。オフィスビルの人影も次第に消え、最後には入口の灯りだけがぽつんと残った。まるで今の自分みたいだ、と梨沙は思った。もし生まれてくる前に、たった人生の半分を生きるだけで、こんなにも多くの人に借りを作り、こんなにも多くの負債を背負うことになると誰かが教えてくれていたなら――きっと人間には生まれなかった。野良猫でもよかった。道端の草でもよかった。それどころか、一つの石ころでも構わなかった。梨沙は身を丸めるように腰を折り、膝に顔を埋めた。涙が止まらなかった。どれほど時間が経っただろう。ふと、人が近づいてくる気配を感じる。梨沙は警戒して顔を上げた。だが目の前にいたのは、穏やかな顔立ちの老婦人だった。優しい眉と目をしている。ただどこか不自然なほど、ぼんやりとしていた。老婦人は梨沙に向かってにこにこと笑う。その顔を見た瞬間、梨沙は祖母を思い出した。思わず微笑み返す。「おばあさん、こんな遅い時間に一人?」老婦人は答えない。ただ笑うだけだった。やがてポケットからハンカチを取り出し、梨沙へ差し出した。「泣かない。拭いて」「......」ハンカチを取り出した拍子に、小さなプレートがポケットから落ちて地面に転がった。梨沙は不思議に思い、それを拾い上げる。表には老婦人の名前――「秋子(あきこ)」裏にはスマホの番号が三つ記されていた。梨沙はすぐに事情を察した。認知症かなにかを患っているのだろう。家族が迷子対策として作った身元プレートに違いない。親切な人や警察に保護された時、家族へ連絡できるように。梨沙はスマホを取り出した。「おばあさん、大丈夫です。ご家族に電話しますから。すぐ迎えに来てくれますよ」老婦人は曖昧な発音で呟く。「れいと......」梨沙は番号を押しながら相槌を打った。「ご家族のお名前はレイトさんなんですね?ちゃんと覚えていて偉いですね。今すぐ電話しますから」――プルルル。1回目は出なかった。梨沙は困ったように老婦人を見た。「うーん......それじゃ、先に交番へお連れしましょうか。警
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第57話

梨沙は、まさか車から慌てて降りてきた人物が礼都と唐沢だとは思いもしなかった。れいとが、礼都?梨沙の胸に、どこか滑稽で荒唐無稽な感覚が込み上げる。「土岐さん、このおばあさまはご家族の方ですか?」礼都は、相変わらず地面に座り込んだまま口を利こうとしない老婦人を見て、困ったようにため息をついた。しばらくしてから、小さく頷く。「ああ。祖母だ。アルツハイマー病の」梨沙はようやく納得した。礼都は老婦人の手を取った。「ばあさん、帰ろう」だが老婦人はぼんやりと礼都を見つめたあと、首を横に振った。「私はれいとを探してるの」礼都はもう片方の手で眉間を揉み、辛抱強く言った。「俺がれいとだよ」老婦人は即座に首を振る。その様子はむしろアルツハイマー患者らしくないほどはっきりしていた。「違う。れいとは迷子になったの」礼都は唐沢に視線を送る。唐沢は慌てて前へ出ると、なだめたり宥めたりしながら、半ば強引に老婦人を車へ乗せた。老婦人は窓を開け、梨沙へ向かって手招きする。「お嬢ちゃん、早く乗りなさい。送ってあげるから」梨沙は苦笑しながら手を振った。「私は車がありますから大丈夫です。帰ったらちゃんと土岐さんの言うことを聞いてくださいね。もう勝手に出歩いちゃだめですよ。本当に迷子になったら大変ですから」老婦人は唇を尖らせた。窓枠に両手を掛け、顎を乗せながら名残惜しそうに梨沙を見つめる。「私には孫がいるの。お嬢ちゃん、お嫁さんになってくれない?」梨沙は思わず笑ってしまった。月明かりの下、礼都はすらりと立っている。急いで出てきたのか、コートすら羽織っていなかった。「ありがとう」礼都が礼を言う。梨沙は首を横に振った。「気にしないでください。おばあさんのこと、誰だって見かけたら助けますよ」礼都の視線が梨沙の顔に落ちた。化粧で隠してはいるが、完璧には誤魔化せていない。しかも少し腫れている。梨沙は反射的に左頬を押さえた。「他にご用がないなら、私はこれで失礼します」そう言うと、足早に車へ乗り込んだ。梨沙の車が遠ざかるのを見届けてから、礼都は車のドアを開けて乗り込み、秋子を冷ややかに見た。当の本人は気まずそうに指をつつき合わせている。何も言わない。礼都は首
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第58話

秋子はこっそりクッションを持ち上げ、自分の顔を隠した。礼都は深く息を吐き、背を向けて立ち去った。すると秋子はすぐにクッションを下ろし、礼都の背中に向かって舌を出した。「こんなに怖かったら、お嫁さんなんて来ないよーだ」秋子の声は大きすぎず小さすぎず。ちょうど唐沢と礼都の耳に届くくらいだった。唐沢は思わず吹き出した。礼都は冷ややかに問いかける。「そんなに面白いか?」唐沢は軽く咳払いした。「いえ......ちょうど今、面白い話を思い出したので」――梨沙は数日前に海渡から受け取った1億円を、そのまま全額、敏彦の口座へ振り込んだ。敏彦から電話がかかってきたが、梨沙は出なかった。そのまま芳江と敏彦の両方を着信拒否にした。千鶴は琉生に会いに行きたいと言い出した。幸い同じ病院内だったが、琉生は療養棟にいるため、少し離れた別の建物を目指さなければならない。それでも以前約束していたことなので、梨沙は断らなかった。「車椅子を借りてくるね」梨沙は車椅子を借りてきた。千鶴は座りながら言う。「車椅子なんていらないよ。自分で歩けるんだから......」梨沙が冷たい視線を向ける。千鶴はすぐに毛布を膝へ掛けた。「梨沙、準備できたよ」梨沙も上着を羽織り、祖母を押して病棟一階へ降りた。それから芝生広場と外来棟を通り抜け、療養棟へ入り、エレベーターで最上階へ向かう。琉生の病室は壁一面がガラス張りになっており、外から中の様子がはっきり見えた。祖母と孫娘はガラス越しに立った。千鶴は静かに横たわる琉生を見つめる。血の気のないその顔を見た瞬間、涙が次々とあふれ出した。梨沙は黙って主治医のところへ向かい、最近の病状について話を聞きに行った。千鶴は一人で口元を押さえながら、孫を見つめて泣いていた。その時だった。「この死人、あんたたちの家族なの?」突然そんな声が飛んできた。千鶴は、せっかく入れた心臓のステントが破裂してしまいそうなほど腹を立てた。「誰だい、あんた!なんて口の利き方するんだ!」秋子は首をすくめた。「だって動かないじゃない。一つも動かないんだから、死んでるんでしょ?」千鶴は慌てて両手を合わせる。「神様、この人の言うことなんか聞かないでください」本
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第59話

唐沢は病室へ駆け込んできた。額には汗がびっしょり浮かんでいる。だが目に入ったのは、りんごをかじっている秋子の姿だった。唐沢は大きく安堵の息をつき、梨沙の前まで来ると、心から感謝を込めて言った。「本当にありがとうございます、秋谷さん。本当は今日、秋子様を検査に連れて行く予定だったんです。私が水を汲みに行っている間に、気づいたらいなくなっていて......」梨沙は首を振った。「気にしないでください。たまたま私が見つけただけです。でも、こんなに外へ出たがるなら、もっと気をつけた方がいいですよ。今は車も多いですし、危ないですから」唐沢は何度も頷いた。そして秋子を連れて帰ろうとしたが、当の本人はベッドのヘッドボードにしがみつき、怯えた顔で叫んだ。「帰らない!帰ったら、私を真っ暗な部屋に閉じ込めて、鎖で縛って、ご飯もくれないし、叩くんだから!」梨沙は驚いて唐沢を見た。千鶴も同じだった。唐沢は頭を抱える。「そんな目で見ないでください......私たちにそんな度胸あるわけないでしょう?」梨沙も、確かにそうだと思った。まさかアルツハイマー病になると、こんな作り話まで飛び出してくるとは。梨沙は笑いながら近づき、秋子の手を握った。「ほら見てください。こんなにお肌もきれいなのに、きっと誰もいじめたりはしませんよ。ご家族もきっと心配しています」秋子はふんと鼻を鳴らし、顔を背けた。そして千鶴を指差す。「あの人はどうしてここにいるの?」千鶴は思わず声を上げた。「へぇ、私と張り合う気かい?それなら代わりにあんたがベッドに寝てみるか?」その言葉を聞くや否や、秋子は靴を脱ぎ、ベッドへ上がろうとした。唐沢と梨沙が慌てて左右から腕をつかんで止める。梨沙は苦笑した。「おばあさん、うちの祖母は病気だから入院しているんです。私はその付き添いです。でもおばあさんは元気なんですから、病院にいる必要はありませんよ」秋子は妙な顔で梨沙と千鶴を交互に見た。そして二人の手を振り払い、ポケットから千円札を取り出した。千鶴へ差し出す。「これあげるから、孫娘を私にちょうだい」千鶴「......」唐沢は完全にお手上げだった。だが千鶴は千円札を受け取ると、ゆっくりと言った。「うちの孫娘は千円じゃ買え
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第60話

梨沙は素直にうなずいた。祖母にあらかじめ心の準備をさせるように言った。「うん。でもやっぱり露木さんのことが原因。今、露木さんは海渡の秘書をしてるの。見ているだけで腹が立つんだ」千鶴は賛同しかねるように言った。「あなたがあの子をよく思っていないのも、私だって複雑な気持ちなのはわかる。でも、それとこれとは別よ。もし本当に自分の実力で海渡の秘書になったなら、だからって海渡に解雇しろなんて言えないでしょう?」梨沙は自嘲気味に笑った。「それって当然じゃないの?おばあちゃん。彼は他人じゃなくて私の夫なんだよ。私は彼にどうしてほしいかを求める権利がある。赤の他人に向ける基準で自分の夫を判断しろっていうほうが、おかしいと思う」その言葉を聞いて、千鶴は納得した。それ以上は何も言わなかった。梨沙は頼んでいた家政婦が来るのを待ち、いくつか引き継ぎを済ませてから帰ろうとした。だが、彼女が出て行った直後、千鶴は我慢できず、海渡に電話をかけた。「もしもし、海渡?私、今日退院したの。今夜、お祝いに来てくれない?家族みんなで食事するのもずいぶん久しぶりでしょう?」海渡は少し黙り込んでから答えた。「......ああ、いいよ」千鶴はやはり思っていた。――夫婦の間に何かあれば、早めに話し合って解決すべきだ。本来は単純なことでも、先延ばしにすればするほど、どんどん複雑になってしまう。――アキヤ花火工房。梨沙は残業を続け、ようやく入札企画書の初稿を完成させた。パソコンを閉じる。両手を首の後ろに当てて左右に回すと、関節がコキコキと鳴る音まで聞こえた。スマホを開いて時間を確認する。気づけば、もう夜の9時だった。梨沙は簡単に机を片付けると、ノートパソコンを抱えて階下へ降り、そのまま車で千鶴のいるマンションへ向かった。暗証番号でドアを開けて中に入ると。家政婦の武田が慌ててやって来て、小声で言った。「おばあさま、機嫌が悪くて、夕飯をひと口も召し上がっていないんです」梨沙は玄関で靴を履き替えながら答えた。「わかりました。武田さん、お疲れさまでした。もう遅いですし、もう帰っていいですよ」武田を見送ったあと、梨沙はダイニングをのぞいた。豪華な食事が手つかずのまま食卓に並んでいる。それを確認してから
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