LOGIN「海渡さんと梨沙さんが結婚して2年の間に、私たち、500回もしたんだよ?ねえ、海渡さん、梨沙さんってこれを知ってるのかな?」 梨沙が聴力を取り戻したあと、最初に耳にしたのは―― 夫の義妹である明里が、彼に向かって囁くその言葉だった。 夫は浮気していた。 梨沙は泣き喚きも、縋りつきもしなかった。 ただ静かに、婚前契約書を取り出した。 そこに書かれていたのは―― 【不貞行為を行った者は、全財産を放棄したうえで離婚に応じるものとする】。 ―― 海渡は、ずっと梨沙が振り返ってくれるのを待っていた。 だが彼が待ち続ける間に、彼女は国際式典の総合プロデューサーとなり、さらに、ビジネスアワードの総合優勝を勝ち取った初の女性となった。 政財界の要人や世界的巨匠たちに囲まれ、誰よりも眩しい存在になっていく。 海渡はようやく焦り始める。 彼は惨めなほど低く梨沙の足元に跪き、震える指で彼女のスカートの裾を掴んだ。 「君は昔、俺のためにすべてを捧げてくれただろ?本当に、このまま俺を捨てるのか? 梨沙......お願いだ。もう一度だけ俺を愛してくれないか......」 梨沙は、彼を一瞥もしなかった。 彼女は嬉しそうに振り返り、そのまま別の男の胸へ飛び込んでいく。 その男は、誰よりも高貴で圧倒的な存在感を持ちながら、彼女を甘やかしていた。 ―― バレンタインデー。 礼都は家に届けられた花束を見て、眉をひそめる。 「そんな得体の知らないものは捨てておけ」 梨沙はわざと笑ってからかう。 「でも、綺麗じゃない?」 その日の夜。 腰を押さえながら、梨沙は思わず抗議した。 「もう引退して何年も経つのに、なんでそんなにタフなのよ......!」
View More海渡は静かな声で言った。「梨沙、これは明里のプライベートな問題だ」梨沙は呆れたように声を上げた。「それはおかしいじゃない?あなたはいつも、露木さんを実の妹として見ていると言っていたじゃない。その大切な妹が妊娠しているのに、恋人が誰なのかさえ知らないなんて、それでも兄のつもり?」海渡の口元が、わずかに引きつった。すると明里が言った。「梨沙さんの言うとおり、会わせるべきかもしれない。わかった。明後日は必ず、恋人を連れて約束の場所へ行きますから」海渡は勢いよく顔を上げ、明里を見つめた。明里は夫婦二人に笑みを向ける。「これで満足ですか?もう上へ戻って食事をしてもいい?」梨沙は海渡の腕を取り、気の毒そうな口調で言った。「それにしても、その父親は本当にひどい男ね。こんな夜中に妊婦を一人で下まで行かせて、デリバリーを受け取らせるなんて。しかも、こんなに冷めたものを食べさせるなんて、ろくな人じゃないわ」海渡は手を上げ、梨沙の肩を抱いた。「もういい。俺たちには関係ないことだ。もう遅い。家へ帰ろう」海渡は梨沙を連れ、病棟を出た。帰り道、海渡はずっと猛スピードで車を走らせた。途中では、赤信号まで無視した。梨沙は助手席に座り、すっかり冷え切った心で前方を見つめていた。やがて、二人は家へ到着した。主寝室の照明を消したあと、梨沙はバルコニーに立った。そして海渡が取り乱したように家から飛び出し、車で走り去る姿を自分の目で見届けた。梨沙は勢いよくカーテンを閉めた。それから自分も家を出た。――千暁から、児童養護施設で一緒に無料健診をしないかと誘われた。聴覚に障害のある子どもたちが、人工内耳手術を受けられる状態かどうかを調べるためでもある。梨沙は喜んで引き受け、直接施設の前へ向かった。ほどなくして、千暁の医療チームが到着した。千暁を先頭に、車が次々と停まる。一台の車のドアが開き、最初に降りてきたのは、なんと望だった。その後ろから、礼都も姿を現した。梨沙は急いで駆け寄り、望を抱き上げた。目元を優しく緩め、礼都を見る。「お二人も来たんですね」望は梨沙の首へ腕を回し、幼い声で話した。「ママ、おじさんと笠木先生が話してるのを聞いたんだ。それで僕も、みんなの様子を見に来たく
そこまで聞いた明里は、雷に打たれたような衝撃を受けた。梨沙は、海渡に電話をかけていたのだ。ということは、今まで自分が口にしたことは、すべて海渡に聞かれていたことになる。今日、海渡から、今はまだ梨沙には利用価値があるから、彼女の前で余計なことをするなと念を押されたばかりだった。明里の額に、うっすらと汗がにじむ。目をせわしなく動かしながら、必死に言い訳を考えた。電話の向こうから、海渡の不機嫌な声が聞こえる。「すぐに行く」梨沙はエレベーターを降りると、1階ロビーの待合スペースへ腰を下ろした。明里は入口まで行き、注文していたデリバリーを受け取った。そのまま上階へ戻ろうとすると、梨沙が呼び止める。「あら、逃げるの?海渡はすぐに来るよ。三人で話せば、真相もはっきりする。あなたのお腹の子を、海渡が自分の子として認めるかどうか、この目で確かめさせてもらうわ」明里は緊張したように唾をのみ込んだ。梨沙は目を伏せ、スマホの画面を指で操作する。従姉の天野美琴(あまの みこと)のLINEを開いた。【お姉さん、少し頼みたいことがあるの】美琴から、すぐに返事が来た。【何でも言って】【最近、露木明里の実家について何か聞いてない?】【そうだった。あの家のこと、ちょうどあなたに話そうと思ってたの。明里の弟、露木大輔が窃盗で逮捕されたらしいよ。家族には被害弁償のお金も用意できなくて、示談が成立しないから、このまま起訴されそうなんだって】梨沙は急いで、明里がSNSへ投稿していた写真を何枚か保存した。どれも、彼女が高級ホテルのレストランへ出入りしていたことがわかる写真だった。梨沙はそれらをまとめて美琴へ送った。【この写真を明里の両親に見せて。それから、明里が妊娠したことも二人に伝えてほしいの】【任せて!身内同士で潰し合う修羅場を見るの、大好きだから】【もう1年も休んでるけど、まだ戻ってくるつもりはないの?】【もうすぐよ。ところで、おばあちゃんの具合はどう?】梨沙は、千鶴の体調について美琴としばらくやり取りした。やがて海渡が息を切らしながら、ロビーへ駆け込んできた。彼は複雑な表情で明里を一瞥したあと、まっすぐ梨沙の前へ走ってきた。梨沙はスマホをしまい、立ち上がった。そして笑顔で尋ねる。
礼都は先に病室へ戻りながら言った。「明日、千暁に子どもたちを診てもらって、人工内耳手術の適応になる子が何人いるか確認させる。手術を受けられない子には、最高品質の補聴器を用意しよう」梨沙は「ありがとうございます」と答えた。病室の中は暗かった。礼都の妙な癖を思い出し、梨沙は反射的に照明をつけようとした。すると礼都が、静かな声で言う。「大丈夫だ。ここは狭い密室じゃない。君を噛んだりしない」胸の内を見透かされ、梨沙はひどく恥ずかしくなった。唇をきゅっと結び、熱くなった頬のまま告げる。「......それでは私は失礼します。祖母の様子を見に行ってきます」礼都は、6桁の数字を口にした。梨沙は意味がわからず、首を傾げる。礼都が説明した。「上の階の部屋の暗証番号だ。明日の朝、ついでに俺の祖母の様子も見てきてくれ」梨沙はようやく理解した。「わかりました」礼都が尋ねる。「覚えたか?」梨沙は力強くうなずいた。礼都は意味ありげに言った。「なら、忘れるな」梨沙は深く考えず、柔らかな声で「はい」と答えた。そして病室を出ていった。梨沙がエレベーターへ乗ると、一つ下の階で止まった。誰かが乗ってくるらしい。梨沙は黙って、開いていく扉を見つめた。ところが、正面から入ってきたのは、なんと明里だった。明里も、こんな遅い時間にここで梨沙と会うとは思っていなかった。一瞬ためらったものの、そのままエレベーターへ乗り込んだ。中にいるのは二人だけだった。明里の視線が、梨沙の耳元へ向けられる。「海渡さんは騙せても、私は騙せないわ。本当はもう聞こえているんでしょう?」梨沙は顔を向けた。「何が言いたい?」明里は唇を結んだ。「聞こえるようになったのに、まだ補聴器をつけて耳が聞こえないふりをしているのは、海渡さんの妻という立場を守るため?それとも、障害があることを利用して、海渡さんの同情を引きたいの?」梨沙は冷ややかに尋ねた。「海渡に聞いてみたら?彼さえ承諾するなら、私は明日にでも離婚届を出しに行くわ。そうすれば、愛人のあなたにも、正式な居場所ができるでしょう?」明里は目を吊り上げ、憎悪に満ちた形相で梨沙をにらみつけた。梨沙は彼女のほうを見ていなかった。それでも、鏡のよ
梨沙は驚いて目を見開いた。「今からですか?」礼都はうなずき、澄んだ眼差しで彼女を見た。「都合が悪いか?」梨沙は慌てて首を横に振った。「いいえ、大丈夫です」礼都は先にバルコニーへ向かった。「バルコニーで話そう。望を起こさないように」梨沙は望の服をクローゼットへしまった。振り返ると、礼都が畳んだ服がきれいに揃えて置かれている。小さくため息をつき、それも手に取って、望の服の隣へしまった。それからようやく、バルコニーへ向かった。夜風が吹きつけ、梨沙は首をすくめて襟元へ埋めた。「私は、あさひ児童養護施設にいる63人の聴覚障害児へ補聴器を用意したいのです。そのためには、3600万円ほど必要だと思います」礼都は考え込むように尋ねた。「今日、その施設へ行ったのか?」梨沙は素直にうなずいた。礼都が、わずかに笑ったように見えた。「飛田海渡がPR映像を撮っていたのか」梨沙は、真希子の言葉を思い出した。海渡が獲得しようとしているあのプロジェクトには、土岐家も参入を検討しているという。梨沙は隠すことなく、「はい」と答えた。礼都の口元がわずかに上がり、かすかな嘲笑がにじむ。「PR映像まで撮りに行ったのに、なぜ彼は補聴器を寄付しない」海渡のしたことを口にするのは恥ずかしかった。梨沙は声を落として説明する。「寄付することにはなっています。ただ、一番安い補聴器で......質の悪い補聴器を使い続ければ、子どもたちの聴神経を傷つけ、聴力を取り戻せないほど悪化させてしまう恐れがあります。そうなれば、将来自分で手術費用を用意できるようになったり、支援してくださる方と出会えたりしても、望んでいた治療を受けられなくなるかもしれません」礼都は尋ねた。「いくら必要なんだ」梨沙は指を二本立てた。「4000万円ほどです」礼都は言い直すように尋ねた。「俺が聞いているのは、人工内耳手術に必要な金額だ」梨沙は勢いよく顔を上げた。白く細い首が伸び、美しい曲線を描く。大きく見開かれた目には、信じられないという感情があふれていた。長い間、言葉が出てこない。「秋谷」礼都は唇を動かし、低い声でその名を呼んだ。どこか甘く、まとわりつくような響きだった。「何を黙っている」
梨沙は食事を作り、望と二人で夕飯を済ませた。食後、望は窓辺に張りつき、きらきらした目で夜空を見上げる。「ママたちが設計した花火って、今日打ち上がるんだよね?」梨沙は花火デザイナーだ。飛田傘下に自身の花火工房を構えている。三か月前、都市中心広場の花火演出コンペを勝ち取り、チームと共に三か月もの歳月をかけ、何度も試験を重ねて完成させたのが、「天の川を君に」。その花火が、今夜――大晦日の夜に、初めて夜空を彩る。梨沙は望の前にしゃがみ込み、優しく問いかけた。「望、広場で花火見ようか?」望は勢いよく頷いた。ちょうどその時、梨沙のスマホが鳴る。画面には「夫」の一
昨夜、レストランで自分を助けてくれた男だった。まさか彼が土岐家の人間だったなんて。梨沙は慌てて二歩ほど前へ出る。だがボディーガードが即座に立ちはだかった。梨沙は焦ったように声を上げた。「土岐さん、少しお待ちください!」その声に、男がゆっくりと横を向く。深い瞳には、他人を見るような冷たい温度が滲んでいた。伏せ気味の目尻は鋭く、淡々としていて、静かに梨沙へ視線を落とす。彼が軽く手を上げると、ボディーガードたちは拘束を解いた。梨沙の澄んだ瞳に感謝が浮かぶ。彼女は急いで男の前まで歩み寄った。頭上から落ちる影に包まれた瞬間、梨沙はようやく気づく。この男
オークション会場の入口。きっちりと制服を着込んだ受付係が手を差し出した。「招待状とVIPカードをご提示ください」梨沙は淡々と言う。「梨沙です。飛田海渡の妻です」受付係は眉をひそめ、値踏みするような視線を梨沙の顔から裾へと滑らせた。「飛田様とその奥様でしたら、三分ほど前にすでに入場登録を済ませていますが」梨沙は眉を寄せる。「彼に電話してください」受付係は口元をわずかに歪めた。斜めから見下ろす目には、露骨な揶揄が滲んでいる。「飛田様は今、奥様とご一緒ですので。わざわざ気分を害するような真似はしたくありません」この業界では、こういう話など珍しくない。
スマホをしまい、梨沙が振り返った瞬間だった。ふいに足元から力が抜け、その場に倒れ込みそうになる。身体の奥深くから、じわじわと熱が込み上げてきた。骨の隙間から這い出してくるような熱。それに伴う、どうしようもない渇望と空虚感。梨沙の脳裏に、天音が渡してきたスパークリングワインがよぎる。――酒に薬を入れられていた。おそらく、指示したのは天音の祖母だ。梨沙は深く息を吸った。個室へ戻る気は、一瞬で失せた。もし戻れば、海渡と――そう思っただけで吐き気がした。汚い。梨沙は迷わず踵を返し、ふらつきながらレストランの外へ向かって走る。その時、派手なアロハシ
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