All Chapters of 再婚、そしてまた再婚......気づけば御曹司に溺愛された: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

海渡の瞳の奥が、一瞬だけ揺らいだ。だが、彼は何も言わなかった。雪はますます激しく降り続いていた。幼い頃から一緒に育ってきたからこそ、梨沙には海渡の苛立ったような焦燥がはっきりと伝わってきた。彼女は目を伏せる。そして、かすかに唇を吊り上げた。――そんなに放っておけないの?そのとき、バンッと音を立てて扉が開いた。草場が慌てた様子で駆け込み、海渡に告げた。「社長、露木さんが雪の中で倒れました!」海渡は勢いよく立ち上がった。だが、自分があまりにも動揺していたことに気づいたのか、深く息を吸い込むと、振り返って梨沙を見た。「ちょっと下へ行って様子を見てくる。飛田コーポレーションは上場したばかりだ。人命に関わる問題なんて絶対に起きてはならない。また来るから、梨沙は休んでいて」そう言い残し、海渡と草場は前後して慌ただしく去っていった。梨沙は病床の上で鼻をすすった。鼻の奥に、燃えた綿を詰め込まれたような熱さが広がる。ほんのわずかに、彼女はふっと笑った。彼女は耳が聞こえない。でも、馬鹿じゃない。それなのに海渡は、彼女を馬鹿扱いしていた。祖母はまだ手術中だ。そんな状況で、梨沙がじっと寝ていられるはずがなかった。彼女は布団をめくって起き上がる。壁に手をつきながら、一歩ずつ手術室へ向かって歩き出した。ナースステーションを通り過ぎたところで、背後から騒がしい足音が響いてくる。病院ではよくあることだ。梨沙は気にも留めず、さらに2歩ほど進んだ。だが足音が止むと、続いて海渡の声が聞こえてきた。「先生、彼女が雪の中で倒れたんです!」梨沙は振り返らなかった。立ち止まりもしなかった。痩せた身体に病衣をまとい、たった一人で手術室の前まで歩いていく。そのとき、パチッという音とともに赤いランプが消えた。柊治が手術室から出てきた。顎まで下ろしたマスクの下には、若く整った顔立ちが見える。しかし、その表情には隠しきれない疲労がにじんでいた。「手術は成功しました。ステントの留置も順調で、閉塞していた血管は開通しています。術中に一時バイタルが不安定になる場面もありましたが、無事に乗り越えましたよ」手術成功。一番聞きたかったその言葉を耳にした瞬間、梨沙の涙が堰を切ったようにあふれ出
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第32話

挨拶もせずに、柊治は逃げるように立ち去った。階下へ降りると、驚いたことに従兄の礼都がまだ車の中で待っていた。珍しい。本当に珍しいことだ。柊治は車のドアを開けて乗り込みながら言った。「兄さん、もう帰ったと思ってたのに。まさか待っててくれたなんて」礼都は深い眼差しを向けたまま、仕事用のタブレットを置く。「手術はどうだった?」柊治は笑った。「この俺が執刀したんだから問題あるはずがない。たとえ患者が三途の川まで行ってても、閻魔大王から奪い返してみせるさ。たぶん24時間も経たないうちに目を覚ます。それより一つ聞いていいか?」礼都が視線を向ける。柊治はにやにやしながら眉を上げた。「兄さん、あの患者さんの孫娘のこと、好きなんだろ?」礼都は眉をひそめた。「馬鹿なことを言うな」柊治は鼻で笑う。「もう誤魔化さなくていいって。好きでもなきゃ、実験施設のために40億も出すなんて条件で俺を釣って、その子のおばあさんの手術なんか頼まないだろ」礼都はそんな無意味な説明をする気はなかった。だが柊治は止まらない。「でもさっきわかったんだけど、あの子には子どもがいるんだよな。ってことは既婚者だろ。もし横恋慕するなら、割り込む相手が二人になるぞ。でも一人分の手間で子どもまで付いてくるなら得か。まさか兄さんが人の奥さんを好きになるとは思わなかったけど――」礼都は頭痛を覚えた。こめかみを押さえながら低く叱る。「少し黙れ」柊治は何か察したのか、すぐに言い換えた。「はいはい。『人の奥さんを好きになる』じゃ聞こえが悪いもんな。今後は『好きな人がたまたま他人の奥さんになっていた』って言うよ。ただまあ、兄さんがちょっと気の毒に見えるけど」礼都は顔を横に向け、じっと彼を見た。柊治は背筋にひやりとしたものを感じる。「な、なんだよ」礼都は車の後方へ視線を向けた。「トランクから荷物を取ってきてくれ」柊治は素直にうなずいた。「おう」車を降りる。何を取ればいいのか聞こうと振り返った瞬間――黒いカリナンが彼の服の裾をかすめながら、勢いよく走り去っていった。柊治は反射的に手を上げ、遠ざかる車を指差す。「おい......」呆れ過ぎて、笑ってしまいそうになった。――明里は涙をぬぐいな
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第33話

梨沙は海渡から差し出された訴状を受け取った。海渡の口元がわずかに緩む。――やはりそうだ。梨沙は聞き分けがいい。自分の言うことを聞くはずだ。だが次の瞬間――梨沙は訴状を握りしめたまま、それを思い切り海渡の顔に叩きつけた。乾いた鋭い音が響く。静まり返った病院の廊下に、その音は反響さえした。海渡の端正な顔が横へ弾かれる。時間が止まったようだった。どれほど経ったのか。彼は信じられないというように梨沙を見た。「......俺を、叩いた?」梨沙の訴状を握る手は小刻みに震えていた。喉の奥には、慣れ親しんだ血の匂いが込み上げる。それを必死に押し込めながら言った。「この一発は、おばあちゃんの代わりよ!おばあちゃんは苦労してあなたを育てたのに......そんなおばあちゃんが命まで落としかけたのに、あなたは加害者を許そうとしているの?絶対露木明里を訴えるから!みんなにあの女がどんな人間か思い知らせてやる!そして彼女に、自分の悪辣な行いの代償を払わせて、刑務所に入れてやるわ!」海渡は静かに息をついた。「......少しは冷静になれないか?」梨沙は一歩前へ出た。顔を上げる。その眼差しは冷え切っていた。「前は彼女のこと嫌いだったじゃない。妹として認めさせたのだって私が無理やりだった。それなのにどうして、今はそんなに明里を庇うの?」海渡は眉間を深く寄せた。「何を言ってる。君は俺の明里への態度が変わったことばかり見ているじゃないか。明里が何をしてきたかは都合よく無視しているくせに。君が出たくない酒席には、明里が身体を張って付き合った。君が参加したくない社交の場では、明里が人脈を築いて回った。あいつがいなかったら、君は今みたいに気楽ではいられなかったはずだ!」梨沙は振り返り、椅子に腰を下ろした。「じゃあ私は感謝でもしろっていうの?」海渡は彼女の前にしゃがみ込む。「そういう意味じゃない。梨沙、明里は俺の秘書だ。重要な仕事をたくさん抱えている。訴訟沙汰になれば、代わりを見つけるのは簡単じゃない。会社にも損害が出る。こうしないか?おばあちゃんが回復したら、明里を連れてきて謝罪させる。そうだ、そういえば琉生のところで使っている医療機器のレンタル料、そろそろ支払い時期だったよな?今回は3年分まと
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第34話

梨沙は何度も頷いた。看護師に付き添われて無菌服に着替え、治療室へ入る。千鶴はまだ酸素マスクをつけており、体にはさまざまな医療機器がつながれていた。「ごめんね、梨沙......おばあちゃんがびっくりさせちゃって......」梨沙は力いっぱい首を振り、両手で千鶴の手を包み込んだ。「無事ならそれでいいの」千鶴は鼻を鳴らした。「歳を取っただけさ。10年前だったら、あんな細いお嬢ちゃんなんて二人まとめて相手にしたって負けやしないよ。梨沙、あの子に何かされたんじゃないだろうね?」梨沙は首を横に振り、目を伏せながら静かに答えた。「うん、わたしは大丈夫だから。おばあちゃんは安心して、ちゃんと療養して。先生も言ってたよ。おばあちゃんは体が丈夫だから、100歳まで生きられるって」千鶴は吹き出した。「まあ、この子ったら。口が上手ね」梨沙は思わず笑った。「おばあちゃん、私このあと少し出かけるから、どこか具合が悪くなったらすぐナースコールを押してね。ほら、手の届くところにあるから」千鶴は頷いた。「わかった。おばあちゃんは本当に大丈夫だから、もうそんなに心配しないで」梨沙はさらにしばらく千鶴と話をした。そして、医者の許可が出たら琉生に会わせると約束して、ようやく病室を後にした。千鶴が目を覚ましたことで、梨沙の胸につかえていた石もようやく下りた。それで初めて、着替えを取りに帰る余裕が生まれたのだった。――梨沙がスーツケースを引きながら階下へ降りようとした時だった。海渡が明里を抱きかかえて外から入ってくる。先に梨沙に気づいたのは明里だった。「梨沙さん、お帰りなさい。本当は病院で直接謝りたかったんだけど、足を怪我しちゃって。先生に3日間は絶対安静って言われたから、なかなか来られなかったの」梨沙は唇をわずかに吊り上げ、皮肉げに笑った。「それは残念ね。神様も見る目がないわ。いっそ駄目になればよかったのに」明里は唇を噛み、傷ついたように俯いた。海渡はため息をつく。「梨沙、そこまで言う必要があるか?病院へ戻るんだろう。送るよ」梨沙はスーツケースを引いて階段を降りる。海渡がそのハンドルを掴んだ。梨沙は視線を落とし、青白い唇をわずかに開く。その声は冷え切っていた。「手を離して。汚れ
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第35話

海渡は眉を深くひそめた。もし単に聴力が回復しただけなら、まだいい。だが、梨沙が聞こえるようになっているのに、聞こえないふりをしているのだとしたら――話は少々厄介だ。明里は顔を上げ、不安そうに尋ねた。「梨沙さん、もう私と海渡さんのことを知っちゃったんじゃないかな......それで仕返しする機会を狙ってるとか......変なDV男に無理やり嫁がされたりしないよね?怖いよ......」海渡は我に返った。彼女の不安を聞いて、思わず笑ってしまう。「そんなことできるわけないだろう。仮に知っていたとしても、だから何だ?あいつも、弟も、祖母も、母親も、継父だってみんな俺の金で生活している。梨沙に何かできる力なんてないし、その度胸もない」明里は小さく鼻を鳴らした。「よく言うじゃない。愛してるからお金を使ってくれるって。海渡さん、梨沙さんにはたくさんお金を使ってるんだから、一番愛してるのは梨沙さんなんでしょ?」海渡は目を伏せる。指先がそっと明里の頬を撫でた。「この薄情者め。俺の金がどこに使われてるか、本当にわからないのか?」明里は頬を膨らませる。「わかってても意味ないもん。海渡さんが大変な思いをして稼いでるの知ってるし、私は1円だって無駄遣いしたくないもの」海渡は彼女の隣に腰を下ろした。明里はすぐに身を寄せ、素直に彼の胸に寄りかかる。海渡は優しく言った。「明里は本当にいい女だな。わかってるよ。ちゃんと埋め合わせはしてやるから」以前の梨沙も聞き分けが良かった。だが最近は――まさか。本当に聞こえているのか?その疑念は、一本の棘となって海渡の胸に刺さった。明里は興味津々といった様子で顔を上げ、そのついでに海渡の顎へ軽くキスをした。「どんな埋め合わせ?」海渡は微笑む。「君はずっと、花火デザインの仕事がしたいって言ってただろう。その夢を叶えてやる」――海渡は車内で立て続けに4本の煙草を吸った。車内はすでに煙で白く霞んでいる。彼はスマホを取り出し、村上へ電話をかけた。「飛田さん、どうされましたか?」煙に燻された声は、いつも以上に低く掠れていた。「妻が望を連れて人工内耳の相談に来た日だ。何かおかしなことはなかったか?」村上は少し考えてから答えた。「そう言われると
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第36話

村上はスマホを握り締めたまま、指先が痺れていた。顔の筋肉は制御を失ったように震えている。「聞こえるように......?」梨沙は淡く微笑んだが、肯定も否定もしなかった。「あの日、望が私のスマホで遊んでいて、偶然録音機能を押してしまったの。家に帰ってから見慣れない録音データがあるのに気づいて再生してみたら、まさかこんな大きな秘密が入っているなんて思わなかった。それも、私自身に深く関係する秘密が」村上は奥歯を強く噛み締めた。「なら飛田さんのところへ行くべきでは?全部飛田さんの指示でやったことなんですよ!」梨沙は小さくため息をつく。「まだその時じゃないの。村上先生、あなたには一つお願いがあるわ」村上は椅子へ崩れるように腰を下ろした。縮み上がった瞳孔が梨沙を見つめる。梨沙は穏やかな声で、しかしはっきりとした口調で続けた。「補聴器の装着時間と装着回数の記録を、システム上で修正してほしい」村上は即座に反論した。「私は医者です!そんなことできるはずが......!」その言葉がおかしかったのか、梨沙は思わず笑った。首を横に振る。「もっと酷いことはもうやっているのに、今さらでしょう?良心が痛み始めたの?それとも、私が持っているこの録音だけでは、あなたを家庭崩壊に追い込むには足りないと思っているのかしら?少し調べさせたの。奥様は学校の先生で、しかも二期連続で受賞している有名な人格者。名誉を命より大切にする方なんですってね。娘さんは今年14歳、中学生。お父さんを尊敬していて、将来はお父さんみたいな医者になって人を救いたいと夢見ている」梨沙は舌打ちするように小さく息を漏らした。「本当に素敵な三人家族ね。幸せで、将来も有望で。だったら、どうしてわざわざ危険を冒して、一家全員の人生を一本の録音データで台無しにしようとするの?」村上は勢いよく顔を上げた。目は血走っている。「......罪は妻や子どもには関係ないでしょう。何かあるなら私だけを相手にしてください」梨沙は両手を机につき、ゆっくりと立ち上がった。「あなたが私を一発殴ったからといって、私が一発殴り返したら公平になると思う?私は最初から誰かを傷つけるつもりなんてなかった。それなのに、一方的に傷つけられたのよ」村上は何度も親指と人差し
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第37話

初香は鼻をすすった。「社員は有給のまま休職扱いだって言われました。でもたぶん、自分たちから退職を申し出るまで追い込むつもりなんだと思います。梨沙さん、一体どういうことなんですか?この前までは何も問題なかったのに。中央広場の年越し花火だって、私たちがデザインしたものなのに......」梨沙は足元から冷気が這い上がってくるような感覚に襲われた。それでも感情を抑え込みながら初香を安心させる。「落ち着いて。今すぐそっちへ行くから」電話を切ると、梨沙はナースステーションへ向かった。千鶴のことを看護師に頼み、そのまま慌ただしく病院を後にする。タクシーを拾い、会社へ向かった。だが向かった先は花火工房ではない。真っ直ぐ海渡のオフィスだった。草場は梨沙の姿を見つけるなり、すぐに立ち上がって迎えに来た。「奥様、どうしてこちらへ?」梨沙は足を止め、バッグを胸の前で握る。「何か見られたら困ることでもあるの?私が来ちゃいけないのかしら」草場は言葉に詰まった。慌てて愛想笑いを浮かべる。「まさか、そんなことありません。ただ飛田社長は今ちょうど会議中でして。少しお待ちいただくことになるかと」「構わないわ。終わるまで待つから」草場はすぐにコーヒーを淹れた。それからずっと梨沙の傍に立ったまま、千鶴の体調を尋ねたり、望の人工内耳手術の進捗を聞いたりと、何かと話題を振り続ける。とにかく梨沙を一人にしようとしなかった。やがて海渡が会議を終えて戻ってくる。草場はようやく安堵の息を吐いた。「飛田社長、奥様がお見えになってからもう30分になります」海渡は軽く頷いた。ジャケットを脱ぐと、草場が急いで受け取りハンガーに掛ける。「こんな時間にどうしたんだ?」梨沙は顔を上げた。「海渡。どうして花火工房の業務停止を命じたの?」海渡は微笑み、草場に書類を持ってくるよう合図した。「落ち着いて、梨沙。まずこれを見てくれ」草場は書類の束の中から一冊を取り出し、梨沙へ手渡した。海渡は終始落ち着いた口調だった。「俺だってこんなことはしたくなかった。でもこれは、君のためでもあるし、工房の社員たちのためでもあるんだ」梨沙は受け取った書類を素早くめくる。それは正確には工房の財務報告書だった。最後に記
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第38話

「その間に、おばあさんの看病に専念できるし、望の手術にも集中できるだろう。術後のケアだってしやすくなる。正直なところ、うちはそんな端金に困っていないんだから、無理に自分を追い込む必要はない」こうしたもっともらしい言葉こそ、巧妙に仕組まれた心理的な罠だった。表向きは「君を心配している」「苦労させたくない」「俺が養う」と言う。だが実際には、彼女の翼を折り、籠の中の鳥に変えようとしているだけだ。梨沙は、自分が激怒すると思っていた。だが実際には、ただ口元をわずかに上げただけだった。「それなら、アキヤ花火工房を飛田コーポレーションから完全に切り離しましょう。もともと立ち上げた時から、飛田を後ろ盾にするつもりなんてなかったし。あなたが、『飛田の傘下に入れば経済面も税制面も便利になる』と言ったから承諾しただけ。今になって飛田に悪影響を与えるというなら、工房を独立させればいい。利益が出ようと赤字になろうと、それは私一人の花火工房よ」海渡はわずかに眉をひそめた。そして草場に視線を向ける。「先に出ていてくれ」草場は頷き、静かにオフィスを出て行き、扉を閉めた。海渡は立ち上がり、室内を一周してから言った。「梨沙、今後は環境規制がどんどん厳しくなる。伝統花火なんて、いつ禁止されてもおかしくない」梨沙は薄く笑う。「それは私が考えるべき課題よ。ご心配なく」海渡は彼女の片手を取った。諦めたような、譲歩するような口調だった。「だが工房をグループから切り離すとなると、あの株主連中は相当厄介だ。最後には空っぽの工房しか渡してくれないかもしれない」その言葉を聞いた瞬間、梨沙は彼がすでに腹を決めていることを悟った。彼女は何も知らないふりをして尋ねる。「じゃあ、どうすればいいの?」海渡はついに本音を口にした。「伝統花火の工房は閉じて、デジタル花火へ転換するんだ」「具体的には?」「明里はその分野の第一人者だ。技術面は彼女が担当する。君は映像演出やビジュアル表現が得意だろう。二人で組めば最高のチームになる」「じゃあプロジェクトの主導権は?」「明里に任せればいい。責任者はやることが多いし、君にはおばあちゃんと望の世話もあるだろ?」梨沙は思わず笑いそうになった。その笑みには皮肉が滲んでいた。「私は伝
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第39話

梨沙はそれを受け取った。「ありがとう」そう言うと、振り返ることなく立ち去った。海渡の口元の笑みはゆっくりと消えていく。彼は身を翻し、床から天井まである大きな窓の前へ歩み寄った。ここからは都北の半分近くを見渡せる。眼下には無数の人々の営みが広がっていた。しばらくしてから、ようやく梨沙がビルを出て、路肩でタクシーを拾おうとしている姿が見えた。村上から送られてきた補聴器の装着記録を確認しても、彼の不安は完全には消えなかった。だからこそ、梨沙の車を新しく替えたのだ。――千鶴の回復は順調だった。3日目には、すでにベッドから降りて数歩歩けるようになっていた。梨沙が保温容器を提げて病室の前まで来ると、中から天音の朗らかな笑い声が聞こえてくる。「おばあちゃん、本当に面白い人ですね。元気になったら絶対に一度おばあちゃんの故郷に行って、アヒルを見てみたいです」千鶴はにこやかに笑った。「その時が来たら、おばあちゃんが得意の料理を作ってあげるよ」「はい、約束ですよ!」梨沙は扉を開けた。一人の老人と一人の若い娘が、同時にこちらを見る。梨沙は保温容器をテーブルに置いて蓋を開けた。「おばあちゃん、ご飯の時間よ」天音は頬杖をつきながら、少し申し訳なさそうな目で梨沙を見る。「ごめんなさい、直接謝る機会がなくて......あの日のオークション、土岐家の人たちが来ているなんて私も知らなかったの」千鶴は食事をしながら不思議そうに尋ねた。「オークション?何の話だい?」天音は、まだ千鶴がその件を知らないことに気づき、適当に誤魔化そうとした。しかしその前に、梨沙が静かに口を開いた。「気にしないで。あのネックレス、もう土岐さんに譲ってもらったから」千鶴はますます興味を示した。梨沙と天音を交互に見比べる。「二人とも何を隠してるんだい?」梨沙は、もともと今日そのネックレスを祖母に渡すつもりだった。立ち上がり、バッグからベルベット製の細長いジュエリーボックスを取り出す。千鶴は目を見開いた。「まあ......!これ、私の嫁入り道具じゃない......昔質に入れたはずなのに。どこで見つけたんだい?」梨沙が答えるより先に、天音が慌てて口を挟んだ。「梨沙さんがわざわざネックレスの絵
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第40話

それは当然返されるべきものだった。朗報と呼べるほどのものではない。せいぜい、本来の持ち主のもとへ戻っただけだ。梨沙は短く応じた。「分かったわ」海渡が尋ねる。「オフィスビルを探すのを手伝おうか?」「いいえ。自分で探す」梨沙は続けた。「あとで草場さんに、工房の資料や書類を全部、それからグループとの契約解除書類もまとめて送って」海渡は思わず笑った。「君に読めるのか?」梨沙はしばらく黙り込んだあと、静かに言った。「昔は読めなかった。でもこれからは自分の力でやっていくの。分からなくても、分かるようにならなきゃ」海渡は何度も「そうか」と言い、最後には「好きにするといい」と言った。電話を切った直後、今度は初香から電話がかかってきた。「梨沙さん、大変です!阿部さんも森さんも......とにかくたくさんの人が辞表を提出してきて、私に転送してほしいって......!なんとか引き留めてるんですけど、早く来て説得してください!」梨沙は千鶴に一声かけると、急いで工房へ向かった。ロビーには全員が集まって座っていた。見慣れた顔ばかりだった。全員、自分が面接して採用した社員たちだ。梨沙の姿を見ると、彼らは視線を逸らし、誰一人として目を合わせようとしなかった。初香は目を真っ赤にして脇に立ち、悔しそうに足を踏み鳴らしている。梨沙は皆を見渡し、静かに椅子へ腰を下ろした。最も古参の藤原が立ち上がる。「私たちだって辛いんです。でも現実問題として、工房が独立したら先行きは厳しいでしょう。今までは飛田コーポレーションという後ろ盾があったから、資金も人脈も案件も保証されていました。でもこれからは全部自力です。申し訳ありませんが、私たちには養う家族がいます。秋谷さんは生活に困らないから賭けられるかもしれません。でも私たちは無理なんです」周囲からも次々と同意の声が上がった。まるで梨沙に辞表を却下されるのを恐れているかのようだった。労働組合へ訴える方法もある。だが手続きは面倒で、下手をすれば自分たちまで厄介事に巻き込まれる。梨沙は静かに座ったまま、長い間何も言わなかった。やがて向こうが痺れを切らす。「秋谷さん、人は高みを目指すものです。ご理解ください」「ご自分の都合だけを考えないでくだ
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