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All Chapters of 番の心がわり: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 「人族なんか」

目を覚ました時。最初に感じたのは鉄が錆びたような臭いだった。ぼんやりとした意識のまま身体を起こす。頭が重い。視界も霞んでいる。何が起きたのか分からない。自分が床へ倒れていたことに気づくまで数秒かかった。顔にかかった髪を払おうとして、サラリアは手を止める。手のひらが赤かった。血。その色を認識した瞬間、心臓が大きく跳ねた。反射的に身体を動かす。その拍子に何かを蹴った。からん、と乾いた金属音が響く。床に転がっていたのは短剣だった。刃には血がこびりついている。嫌な予感がした。呼吸が浅くなる。ゆっくりと顔を上げた。そして。「ひっ……」シーラが立っていた。白いドレスは血に染まっている。腕も。胸元も。頬にまで血が飛んでいた。それなのに。シーラは笑っていた。満足そうに。まるで望んだ結果を手に入れたかのように。「お嬢様、異常はありませんか」男の声がする。サリンドラ家の魔法師たちだった。「少し臭いが気に入らないけれど我慢するしかないわね」シーラは平然と答える。「そろそろラーシュ兄様が戻る頃よ。急ぎなさい」その言葉に男たちは去っていく。サラリアの頭は真っ白だった。何が起きたのか分からない。分からないのに。シーラと二人きりでいることだけは恐ろしかった。逃げたい。けれど身体が動かない。「予定通りね」シーラが小さく呟く。その意味を考えるより早く。突然。廊下から激しい足音が聞こえた。.「いやぁぁぁぁっ!」シーラが悲鳴を上げた。耳を裂くような悲鳴だった。次の瞬間。扉が勢いよく開く。「サラ!」ラーシュだった。サラリアは反射的に手を伸ばした。助けて。そう言いたかった。怖かった。苦しかった。抱き締めてほしかった。いつものように大丈夫だと言ってほしかった。けれど。ラーシュは止まった。サラリアへ駆け寄らなかった。その場で立ち尽くした。サラリアは顔を上げる。そして。ラーシュの表情を見た。驚愕。混乱。信じられないものを見る目。その視線にサラリアの胸がざわつく。嫌な予感がする。「サラ……」ラーシュが呟く。その声は震えていた。「シーラに何をした?」世界が止まった。何を言われたのか理解できない。血まみれのシーラ。短剣。床に座り込む自分。状況だけ見ればそ
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第12話 別れの始まり

「サラ、何をした?」ラーシュの声は静かだった。静かすぎるほどに。そこには、かつての甘さがなかった。優しさもなかった。毎日のように愛を囁いていた男と同じ声とは思えないほど冷たかった。サラリアは息を詰まらせる。目の前にいるのは確かにラーシュだ。けれど、見つめてくる藍色の瞳はまるで別人のものだった。罪人を見定める目。疑う目。裁く目。そんな目を向けられたのは初めてだった。胸が痛い。苦しい。けれど。泣きそうになる自分を、サラリアは必死に押し留めた。後宮で学んだことがある。誰も助けてくれない場所では。自分だけは自分を信じなければならない。ここで折れたら終わる。だからサラリアは震える指先を握り締め、ラーシュを見返した。「何もしていません」驚くほど落ち着いた声だった。自分でも驚く。けれど本当に何もしていない。押さえつけられた。拘束された。血を抜かれた。恐怖で叫んだ。覚えている。全部覚えている。だからサラリアは話した。何をされたのか。誰がいたのか。どんな匂いがしたのか。シーラが何を言ったのか。感情を抑え、事実だけを並べた。ラーシュに縋ることもしなかった。信じてと泣くこともしなかった。なぜなら。もう分かっていたから。あの一言で。  『人族なんか』その言葉で。.説明を終える。部屋は静かだった。ラーシュは黙って聞いていた。表情は苦しそうだった。迷っているのが分かる。そして。ようやく口を開いた。「嘘だ……」その瞬間。サラリアの胸の中で何かが静かに冷えた。悲しいというより。やっぱり、と思った。番ではない。そう思った瞬間。ラーシュの中で自分は『人族なんか』になったのだ。父王と同じだった。価値がある間だけ大切にする。条件がなくなれば捨てる。そんな人間を、サラリアはこれまで何度も見てきた。どうして忘れていたのだろう。愛も。優しさも。永遠ではないのに。やがてラーシュは使用人たちを呼んだ。確認のためだろう。慎重であろうとしているのは分かった。けれど。結果は最初から見えていた。『シーラ様がそのようなことをなさるはずがありません』『サラリア様が錯乱なさったのです』『突然刃物を持ち出して……』嘘ばかりだった。けれどサラリアは怒らなかった。予想通りだったか
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第13話 騎士の兄弟

複数の足音が聞こえた。石造りの塔へ反響する重たい足音。サラリアは反射的に身構える。扉がゆっくりと開いた。現れたのは四人の男だった。前に二人。後ろに二人。立ち位置だけで上下関係が分かる。後ろの二人は護衛だろう。自然と前の二人を守る位置にいた。サラリアは思わず皮肉な笑みを浮かべた。(大袈裟ね)人族の女一人。翼もない。魔法も使えない。逃げ場もない。そんな相手に竜族の男が四人。しかも全員が戦える者たちだ。どれだけ警戒されているのだろう。呆れるしかなかった。やがて前に立つ男の一人が一歩進み出る。胸へ手を当てた。そして。「オーレリウス・ウィンドスケイルです」丁寧に名乗った。さらに頭を下げる。「ご同行ください」サラリアは驚いた。ウィンドスケイル。その名を知っていた。ドラコニアの名門。王家に次ぐ名家。建国王に仕えた騎士の血を引く武門。王の剣と呼ばれる一族。そんな高位貴族の男が。自分へ礼を尽くしている。それが信じられなかった。侍女たちでさえ軽蔑を隠さなかった。罪人となった今なら尚更だ。なのに。目の前の男は違った。柔らかく微笑んでいる。その態度に戸惑っていると。「オーレリウス!」怒鳴り声が響いた。隣にいた男だった。「罪人なんぞに頭を下げるな!」なるほど。サラリアは妙に納得した。こちらが兄なのだろう。感情がそのまま口に出ている。分かりやすい。「陛下はまだ調査中と仰って――」「馬鹿を言うな!」鈍い音が響いた。兄の拳がオーレリウスの頬へ叩き込まれる。サラリアは目を見開いた。オーレリウスは反撃しない。ただ静かに頭を下げる。「申し訳ありません」その姿を見て、サラリアは何となく理解した。兄は単純だ。感情で動く。けれどオーレリウスは違う。殴られても表情を変えない。冷静に状況を見ている。兄よりもずっと厄介な人間だろう。そんなことを考えながら四人を観察する。すると少し可笑しくなった。他の三人は軽装だ。最低限の装備しかしていない。けれど兄だけは違う。重鎧を着込んでいる。まるで凶悪犯を護送するような格好だった。相手は人族の女一人なのに。そのアンバランスさに。思わず笑ってしまった。小さく。本当に小さく。けれど。兄は見逃さなかった。「何を笑っている!」
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第14話 愛された理由

「何が当然だっ!」ガイゼルの怒声が塔の中へ響いた。「……兄上」オーレリウスがたしなめる。だがガイゼルは気にも留めない。「誇り高い竜族のくせに、兎族が番などという軟弱者が!」吐き捨てるような口調だった。「まあ、人族よりは大分マシだがな!」その言葉に。サラリアは不思議と傷つかなかった。もう聞き慣れてしまっていたから。竜族にとって人族は下等な存在。それが彼らの常識なのだろう。むしろ。別のことが気になった。(この人、本当に何でも喋るわね……)サラリアは内心で呆れた。顔に出さなかったのは、またオーレリウスが殴られそうだったからだ。視線だけを向ける。オーレリウスは困ったように眉を下げていた。その表情を見て、サラリアは少し意外に思う。仲が悪いわけではないらしい。むしろ。弟が兄を見守っているように見えた。「人族なんかが竜王陛下の番など、おかしいと思っていたのだ!」ガイゼルは興奮した様子で続ける。「どんな手を使ったのか知らんが、そんなことはどうでもいい!」その目が輝く。心から嬉しそうだった。「あのシーラ様が本当の番様だったのだからな!」その声音には敬愛が滲んでいた。「元より仲睦まじいお二人だ。きっと王竜様がお生まれになる!」――王竜。その言葉にサラリアは反応した。「……王竜?」思わず呟く。聞いたことはあった。歴史書にも出てきた。けれど曖昧だった。竜王と並んで記される存在。誤記だと思っていた。するとガイゼルは鼻で笑った。「何も知らんのだな」サラリアは思った。(いや、あなたが喋りすぎなのよ)けれど口には出さない。ガイゼルは誇らしげに語り始める。「王竜様とは竜王様と番様の間にしか生まれぬ特別な御方だ」声が震えている。信仰にも近い熱量だった。「我ら竜族の頂点に立つ存在。神に等しい御方だ!」その横で。オーレリウスが頭を抱えていた。「兄上、機密を話さないでください」「うるさい!」今にも殴られそうな空気になる。それを見て。サラリアは反射的に口を開いた。「お二人は仲が良いのですね」沈黙。ガイゼルも。オーレリウスも。揃ってぽかんとした顔をする。驚くほど似ていた。雰囲気は違うのに。その表情だけはそっくりだった。サラリアは思わず笑ってしまう。「そうですね」オーレリウスが苦
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第15話 裁きの刻

「王竜様をお迎えするためには仕方がなかったのだ」ガイゼルは感慨深げに語っていた。「シーラ様は側妃という立場で我慢なさるおつもりだったらしい」その表情は陶然としている。まるで悲恋の物語を称える吟遊詩人のようだった。「なんと健気な……」サラリアは何も言わなかった。言う気にもなれなかった。脳裏には別のシーラが浮かんでいたからだ。冷たい笑顔。勝ち誇った瞳。人を壊すことに歓びを覚えているような狂気。あの顔を見たら、この男はどうするのだろう。失神するかもしれない。そんな場違いなことを考える。けれど訂正する気はなかった。どうせ信じないだろう。それに。もう誰かを説得することに疲れていた。やがて移送の準備が整う。サラリアの前へ運ばれてきたのは鳥籠のような乗り物だった。飛べない種族の者を運ぶためのものらしい。意外だった。もっと乱暴に扱われると思っていたから。鎖や縄で縛られ、吊るされて運ばれると思っていた。その程度は覚悟していた。だから少しだけ安堵する。オーレリウスが何か言いたそうに眉を寄せた。だが結局何も言わなかった。ガイゼルがいる以上、余計な発言は面倒になる。そう判断したのだろう。籠が浮き上がる。身体がふわりと軽くなる。塔が少しずつ遠ざかっていく。サラリアは自然と格子へ手を掛けた。.塔は小さな浮島の上に建っていた。孤島のような場所。周囲を流れる白い雲。ぽつんと立つ石塔。その景色が離れていく。不思議だった。悲しくない。寂しくもない。むしろ。胸の奥は静かだった。風が頬を撫でる。冷たく澄んだ空気。遠くで竜の鳴き声が響いた。その瞬間。ラーシュを思い出す。黒い巨竜。月夜の空を飛ぶ姿。初めて見た時。恐ろしいほど美しいと思った。 『乗るか?』そう言われたことがあった。サラリアは高い場所が苦手だった。怖くて断った。 『いつか』そう言って笑い合った。あの時は本当にそう思っていた。いつかその背に乗る日が来るのだと。いつか一緒に空を飛ぶのだと。けれど。そのいつかは来なかった。サラリアは遠くに浮かぶ島々を見る。雲海の上を泳ぐ竜たちを見る。これがラーシュの見ていた世界なのだろう。そう思うと胸が痛んだ。期待しているわけではない。信じてもいない。ラーシュが自分を疑ったこと
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第16話 対になった二人

巨大な扉が左右へ開く。重い石同士が擦れ合う低い音が謁見の間へ響いた。けれどサラリアの視界には、まず目の前の二人の背中しか映らなかった。ガイゼルの重鎧。その隣に立つオーレリウスの静かな背中。二人が左右へ分かれる。その瞬間だった。サラリアは小さく息を呑む。数段高い場所。豪奢な玉座が二つ並んでいる。そして。一つにはラーシュ。もう一つにはシーラが座っていた。その光景を見た瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。まるで見えない手で掴まれたようだった。サラリアはゆっくりと瞬きをする。(私はまだ割り切れていなかったみたいね)終わったと思っていた。ラーシュは自分を信じなかった。番でもなくなった。愛されていた理由も消えた。それなのに―――二人が並んでいる姿を見るだけで苦しい。シーラは美しかった。勝者の微笑みを浮かべている。企みが成功したからだと思う。そう思っても。負け惜しみにしか聞こえないほど美しかった。そして。ラーシュの隣が似合っていた。あまりにも自然だった。まるで最初からそこに座るべき二人だったかのように。その光景は残酷だった。サラリアだけが異物だったのだと突きつけてくる。.(こんなラーシュを知らない)その思いが胸を締め付ける。かつてサラリアが知っていたラーシュは違った。竜王ではあった。けれど。サラリアの前ではただの男だった。本を読んでいれば当然のように隣へ座る。 『何を読んでいる?』興味もないくせに聞いてくる。本とサラリアの間へ顔を割り込ませる。無視すると髪を触り始める。読めないと文句を言えば。 『俺を見ろ』真顔でそんなことを言う。呆れて笑えば。ラーシュも笑った。あの頃の記憶は今も鮮明だった。だから苦しい。玉座に座るラーシュは別人だった。冷たい。遠い。サラリアを見る藍色の瞳には何もない。.「シーラから香るのは我が番の匂いだ」ラーシュの声が響く。公的な声。感情のない声。「人族は匂いが薄い。だから我々は誤認した」まるで報告書を読み上げるようだった。サラリアは静かに答える。「そうですか」周囲がざわめいた。泣くと思ったのだろう。許しを請うと思ったのだろう。けれど。何も言う気になれなかった。もうラーシュは決めている。そう思ったから。「間違えたことについては謝罪
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第17話 生きたい

「ラーシュ、この女は私を傷つけたのよ」シーラの不満げな声が響く。「シーラ。その件については説明したはずだ」ラーシュの声は低かった。「納得できないわ」「国外追放だ。もう二度と俺と会うことはない」静まり返った謁見の間にラーシュの声が落ちる。確認するような口調だった。だが実際は違う。決定だった。これ以上の議論は認めない。そう告げる王の声だった。それでもシーラは唇を尖らせる。「でも……」甘えるような声音。不安を滲ませた表情。それを見ながらサラリアは妙に冷静だった。(そういうことなのね)シーラは自分の死を望んでいる。理由は単純だ。シーラ自身が知っているから。誰よりも。サラリアこそが本当の番だと。竜族だから分かっている。番がどれほど絶対的な存在なのか。だから怖いのだ。国外追放では足りない。生きている限り可能性は残る。いつかラーシュが真実へ辿り着く可能性が。だからシーラはサラリアを消したい。安心するために。自分が手に入れた幸福を守るために。サラリアは小さく息を吐いた。滑稽だった。完璧な令嬢。慈愛に満ちた王妃。そんな理想像を守るため、シーラ自身が一番その仮面へ縛られている。処刑を望めば優しいシーラでいられない。嫉妬を露わにすれば理想の王妃になれない。だから遠回しに訴えるしかない。ラーシュをその気にさせないとサラリアは殺せない。(私だって死にたいわけじゃない)サラリアは静かに思った。死んでやる義理もない。ここで泣き叫んでも意味はない。命乞いもしたくない。でも、尊厳だけでは命を守れない。「竜王陛下のご温情に感謝いたします」罪を認める言葉を口にする。胸が軋んだ。やってもいない罪を認める屈辱。それでも飲み込む。生きるために。ただ生きるためだった。視界が少し滲んだ。ラーシュの姿が揺れて見える。気のせいだと思うことにした。そうでなければ立っていられなかった。ラーシュは何も言わない。ただ見ている。それが苦しかった。かつてのラーシュなら違った。機嫌が良い時も。拗ねている時も。欲しがっている時も。全部分かった。目を見れば分かった。なのに今は何も分からない。遠い。あまりにも遠い。侍従が捧げ持つ腕輪を見る。転移の腕輪。これを付ければ終わる。どこへ飛ばされるのか
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第18話 王竜

(な、なに……?)サラリアは呆然としていた。目の前で起きていることが理解できない。「ぎゃあああああっ!!」全身を白い炎に包まれながら、ガイゼルが絶叫している。重鎧をまとった巨体が床を転げ回るたび、金属が激しく擦れる音が響いた。焼ける臭い。焦げた革の臭い。熱気。悲鳴。謁見の間は一瞬で混乱へ飲み込まれていた。騎士たちですら後退る。シーラは顔色を失い、その場へ座り込んでいた。ラーシュはそんなシーラを見ていなかった。ただ目を見開き、目の前の光景を凝視している。誰もが混乱していた。サラリア自身も。何が起きているのか分からない。なのに。なぜか皆の視線はサラリアへ集まっていた。まるで、この異変の中心がサラリアであるかのように。やがて空中へ巨大な水球が現れる。「竜王陛下が水魔法を!」誰かが叫ぶ。それで、サラリアにもラーシュの魔法だと分かった。空気中の水分が強引に集められ、巨大な塊になる。次の瞬間。轟音と共に水が落ちた。大量の水がガイゼルへ降り注ぐ。普通ならこれで終わるはずだった。だが、終わらなかった。炎は消えなかった。むしろ、勢いを増した。白い炎は水を喰らうように燃え続ける。「なっ……!」誰かが息を呑む。「陛下の魔法が効かない!?」「そんな馬鹿な……!」恐怖が広がる。サラリアには分からない。けれど、この光景が異常なのだということだけは分かった。竜王の魔法。唯一の王族であるラーシュは竜族で最も魔力量が多い。そのラーシュの魔法が通じない。そんなことは本来ありえないのだろう。「あ……」静かな空間にガイゼルのうめき声が落ちる。ガイゼルが顔を上げる。血走った目。憎悪。恐怖。怯え。全てが入り混じった表情だった。「この……人族が……!」呪いのような声だった。その瞬間、ガイゼルの身体が大きく揺れる。巨体がサラリアへ倒れ込んできた。白い炎を纏ったままだ。サラリアの顔から血の気が引く。逃げなければ。そう思うけれど、足が動かない。恐怖で身体が凍り付いていた。その時だった。「サラ!」切羽詰まった声。サラリアの心臓が跳ねる。ラーシュ。そう思った。けれどすぐに打ち消す。違う。そんなはずがない。もう終わったのだから。もう自分は番ではない。愛されてもいない。だから。
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第19話 王竜の母

「王竜の炎……」オーレリウスが静かに呟いた。「……え?」サラリアは思わず聞き返す。オーレリウスはサラリアを支えたまま、はっきりと言った。「やはり竜王陛下の番はサラリア様だったのですね」その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が凍り付いた。サラリアも息を呑む。周囲を見回せば、誰もが信じられないものを見る顔をしていた。玉座を見る。シーラは青ざめていた。ラーシュもまた同じだった。金色の瞳を見開き、まるで世界そのものが覆ったかのような顔でサラリアを見ている。その視線が怖かった。何故だか分からない。けれど本能が警戒していた。.「番を間違えるなど、おかしな話だと言ったではありませんか」オーレリウスの声だけが静かに響く。「その上、突然シーラ嬢が番だと判明するなど都合が良すぎる、と」淡々とした声だった。怒鳴っているわけでもない。糾弾しているわけでもない。けれど、その声は誤魔化しの効かない真実のように響いた。「ウィンドスケイルの次男の戯言だと、サリンドラの皆様には笑われましたね」ざわめきが広がる。今度はサラリアではなく、サリンドラ家の者たちへ視線が集まった。サラリアも釣られるようにそちらを見る。見覚えのある顔。あの日、シーラと共にいた者たち。彼らの顔色は明らかに変わっていた。強張り。焦り。狼狽。それが隠しきれていない。(分からない……)頭が追いつかなかった。突然、火がついた。ガイゼルが燃えて。ラーシュ消そうとして。無理で。風が吹いて―――。(……無理)全部が急すぎる。理解できない。ただ一つだけ分かることがあった。王竜は竜王と番の間にしか生まれない。オーレリウスはあの炎を王竜の炎と呼んだ。ならば。(私のお腹には……)そこまで考えたところで別の声が割り込んだ。「しかし前例でも――」「全く」オーレリウスが深くため息を吐いた。「サリンドラの方々は、いつまでも前例、前例と……」本当に呆れている声だった。「その前例とて真実はいまだ分かっておられないというのに」サラリアは思わずオーレリウスを見上げた。彼は視線に気づく。そして安心させるように微笑んだ。その笑みにサラリアは少しだけ息を吐く。この男だけは違った。最初から。罪人だと決めつけなかった。信じるとも言わなかった。けれど、人族
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第20話 恐怖の対象

「オーレリウス!」ラーシュの怒声が謁見の間へ響いた。その瞬間、空気そのものが震える。目に見えない圧力が広間を支配し、息を吸うだけでも胸が苦しくなった。サラリアは思わず顔を青ざめさせる。「陛下、落ち着いてください。サラリア様はいま――」「その名を気安く呼ぶな!」ラーシュの声が遮る。「サラを放せ!」怒気を孕んだ低い声。広間中の空気が張り詰める。「……しかし」オーレリウスがなおも言葉を続けようとした瞬間、威圧はさらに強くなった。肌が粟立つ。呼吸が浅くなる。(怖い……)サラリアは息を呑んだ。オーレリウスほどの竜人でさえ顔色を悪くしている。騎士たちも誰一人動けない。ただ耐えることしかできない。そんな中で、ラーシュだけが怒りを露わにしていた。どうして。何を怒っているの。サラリアには理解できなかった。だって、もう関係ない。「下ろしてください」サラリアは静かに言った。オーレリウスが困ったように眉を寄せる。「ですが……」「大丈夫です」サラリアは小さく首を振った。「勘違いですから」その一言で、広間の空気が止まった。「……勘違い?」オーレリウスが目を瞬かせる。サラリアは穏やかに頷いた。「ええ。勘違いです」その声は驚くほど静かだった。けれど胸の奥では冷たいものがゆっくり広がっていた。ラーシュは番へ執着しているだけ。番が王竜を産むから。だから。シーラが番だと思えば、シーラを守る。やはりサラリアが番だと分かれば、サラリアに手を伸ばす。ただ、それだけ。(簡単に替えが利く存在なのね)番だから愛した。番だから必要だった。番でなければ。  『人族なんか』その一言で終わる存在。今さら怒る資格など、ラーシュにはない。.「降ろしてくださいな」柔らかな声音だった。けれど、オーレリウスは本能で悟る。逆らってはいけない。穏やかな顔の奥で、サラリアは本気で怒っている。静かだからこそ恐ろしい怒りだった。オーレリウスはゆっくりとサラリアを床へ下ろした。足へ力は入らない。そのまま石床へ座り込む。ひやりとした冷たさが身体へ伝わった。その時だった。腹の奥から、ふわりと熱が広がる。包み込まれるような温かさ。サラリアは無意識に腹へ手を当てた。「……ありがとう」自然と零れる。指先でそっと撫でる。
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