All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話 社交界の罠②

 空気が、チリッと張り詰める。 来た。 彼女たちは、美津子が設定した「実家の借金のために売られ、重圧に耐えかねて泣いている娘」という公式な筋書きを、私自身の口から肯定させようとしているのだ。 ここで私が「そんなことはありません」と否定すれば、「姑の優しい心配を無下にする、強情で可愛げのない娘」という新しい札を貼られる。 泣いて俯けば、「やはり心を病みかけている」という決定的な証拠として、明日の社交界の噂に流される。 逃げ場のない、完璧な誘導尋問。「それに、透様も」 令嬢が、冷たい微笑みを浮かべて追撃をかける。「グループを背負って立たれるお忙しいお方ですのに、凛花様のお背負いになったご事情まで気にかけなければならないなんて。お優しすぎるゆえに、さぞご負担に感じていらっしゃることでしょうね」 透の重荷。 私の輪郭が、彼女たちの言葉のハサミによって、いとも簡単に切り刻まれ、歪な形に整形されようとしている。 息が浅くなりかけた。 前世の会議室で、同期の紗耶が泣き崩れ、私が責任者に仕立て上げられていったあの瞬間と、まったく同じ空気の重さ。 だが。 私は自分の足の裏が、大理石の床をしっかりと踏みしめている感覚を確かめた。 ドレスのドレープに隠したハンドバッグの留め金を、指先で弾く。 カチャ、という小さな音が、私自身のスイッチだった。「皆様、本当に温かいお心遣いをありがとうございます」 私は声のトーンを落とすことなく、むしろよく響く、明るく澄んだ声で答えた。「私のような若輩者のために、美津子様や皆様がそこまで心を砕いてくださっていること、胸が熱くなりますわ」 私はハンドバッグの中から、あの革張りのメモ帳と、細身のボールペンを取り出した。 婦人と令嬢の顔に、微かな戸惑いが浮かぶ。「このお屋敷に入ってから、私がどれほど皆様に支えられているか。決して忘れてはならないと思いまして……。お言葉を、書き留めさせていただいてもよろしいでしょうか」 私はメモ帳を開き、ペンのキャップを外した。
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第112話 社交界の罠③

 私は顔を上げ、令嬢に向かって、氷のように冷たく、完璧な微笑みを向けた。「『透様が私を負担に感じている』というのは、透様ご自身の言葉でしょうか? それとも、先ほどのご令嬢の言葉として、記録させていただいてもよろしいですか?」 令嬢の顔から、さぁっと血の気が引いた。 彼女の唇が、パクパクと金魚のように開閉する。 議事録の暴力。 曖昧な空気の中で、誰も責任を取らないまま言葉を切り取って遊ぶのが、この社交界のルールだ。 けれど、そこに「発言者の固定」という絶対的な証拠の概念を持ち込まれれば、彼女たちは一瞬にして恐怖に陥る。 自分の不用意な発言が記録され、それがもし透本人の耳に入り、「私がいつそんなことを言った」と咎められれば、天野家に対する重大な不敬として、逆に彼女たちが社交界から抹殺されるのだ。「そ、そのようなつもりで申し上げたのではございませんわ……!」 婦人が慌てて扇子で口元を隠し、引き攣った声で弁明を始めた。「ただ、環境が変わられて、お疲れではないかと……皆様と、心配しておりましたのよ。ねえ?」「え、ええ! もちろんですわ!」 令嬢も、ティーカップをソーサーに置く手をガタガタと震わせながら同意した。「そうでしたのね。私の勘違いでございましたわ」 私はメモ帳をパタンと閉じ、再びハンドバッグの中に滑り込ませた。「皆様の温かいご声援にお応えできるよう、透様の婚約者として、決して涙など見せずに、笑顔でこのお屋敷をお支えしてまいりますわ」 私は彼女たちに向かって、これ以上ないほど優雅に一礼した。 婦人たちからは、もはや私を「可哀想な生贄」として弄ぼうとする空気は消え去り、ただ腫れ物に触れるような、奇妙な畏怖の視線だけが向けられていた。 私は自分が自分の言葉を、そして自分の輪郭を、誰にも切り取らせずに守り切ったことを、肌の表面で感じていた。 ふと、視界の隅に動くものがあった。 広間の向こう側、大理石の柱のそば。 初老の男性たちとの会話を終えたらしい透が、少し離れた場所
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第113話 透を信じないでください①

 自室に戻り、重いマホガニーの扉を閉めた後も、私の心臓は不規則なリズムで高鳴り続けていた。  サロンの帰り道、廊下を歩く足の裏が絨毯から浮いているような、奇妙な高揚感。  大勢の招待客と美津子の見えない悪意が渦巻く大広間で、透が私に向けた、あの不器用な微笑み。  彼は私の抵抗を否定しなかった。波風を立てるなと冷たく切り捨てる代わりに、母の支配の仕組みの網の目を潜り抜けて自分の輪郭を守った私を、確かに肯定してくれた。  彼の中に張り巡らされた「自分に近づく者は壊れる」という呪いの鎖は、決して解けないものではない。  私はドレッサーの前に座り、ドレスの袖口からあのプラスチック製のライターを取り出した。  氷水で顔を洗い、昂る神経を無理やり鎮める。  ベッドに腰を下ろし、スマートフォンを立ち上げる。ダミーの通信を大量に発生させた後、シークレットタブで佐伯から指定されたウェブメールのログイン画面を開いた。  パスワードを打ち込む指先がかすかに震える。  読み込み画面が切り替わり、『下書き』フォルダの数字が「2」に増えていた。  私は新しいテキストファイルをタップした。 『To: 箱入り娘  11/12の件、ビンゴだ。  救急隊の出動記録は残っていた。深夜に天野邸から若い女性を搬送している。だが、搬送先の病院の記録では、死因が不自然に「自室の窓からの転落による脳挫傷」に綺麗に書き換えられていた。おまけに、現場に到着した時点の記録には、転落による外傷以前に、呼吸抑制と重度の昏睡状態にあった形跡がある。薬だ。  水科の借金ルートも洗った。天野のダミー会社を経由した資金洗浄の穴埋め。お前の親父は見事にそれに嵌め込まれている。  継母が持っているという「古い帳簿」。それがあれば、裏金の流れと天野の違法行為の裏付けが取れる。役満だ。早く回収しろ』  スマートフォンの青白い光が、私の顔を冷たく照らす。  理沙の死因の隠蔽。  美津子は主治医を使って薬を盛り、意識を奪った後で、彼女を階段から突き落としたのか。あるいは、朦朧とした状態のまま階段へ追いやったのか。  どちらにせよ、これは事故でも自殺でもない。  明確に仕組まれた殺人だ。  けれど、佐伯の調査によって、外部の記録の矛盾は確実に押さえられた。あとは、佳乃が離れの蔵に隠しているという「帳簿」
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第114話 透を信じないでください②

 その確かな希望の熱を胸に抱いたまま、私はベッドに身を横たえた。 翌日の午後。 空は厚い冬の雲に覆われ、自室の窓から見える庭園は、色彩を失ったモノクロの絵画のように沈んでいた。 昼食の時間を少し過ぎた頃、部屋の扉がノックされた。「失礼いたします、凛花お嬢様」 入ってきたのは千尋ではなく、漆黒のスーツを着た黒瀬だった。 彼は銀色の小さなトレイの上に、新しい便箋やインクの小瓶などの日用品を載せていた。「千尋は他の用事で手が離せず、私が備品の補充に参りました」 黒瀬は抑揚のない声で言い、デスクの上にトレイを置く。 私は窓際のソファに座ったまま、彼を見つめた。 彼がわざわざ私室まで備品の補充に来るなど、あり得ない。監視の目を掻いくぐり、私に直接何かを伝えるための口実だ。「ありがとう、黒瀬さん」 私が応えると、黒瀬は部屋の扉が閉まっていることを確認し、さらに一歩、私の方へ距離を詰めた。 彼が纏う空気が、いつもの完璧な執事のそれから、ひどく張り詰めた、切迫したものへと変わる。「……昨日のサロンでのご対応、見事でした」 黒瀬の声は、廊下で聞いた時よりもさらに一段低く、囁くようなトーンだった。「ご婦人方の誘導を、見事に封じ込められた。奥様も、ご自身が直接手を下さなかったとはいえ、想定外の結果に微かに苛立ちを見せておられました」「そう。それは光栄ね」「ですが」 黒瀬の氷のような瞳が、私を鋭く射抜いた。「凛花お嬢様は、透様に過分な期待を抱いておられるのではないですか」 肋骨の内側で、ドクンと心臓が跳ねた。 私が透の微笑みに希望を見出したことを、この男は、その空気の揺らぎだけで読み取ったというのか。「……どういう意味?」「昨日のサロンで、透様があなたに微笑みかけた。そのたった一度の反応で、彼が変わるかもしれないと、この状況を共に覆せるかもしれないと、そうお考えになっているのなら……今すぐ、その希望は捨てるべきです」
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第115話 透を信じないでください③

 彼は透を軽んじているわけじゃない。誰よりも透の脆さと、美津子の支配の絶対的な強さを知っているからこそ、私に「彼に期待するな」と警告しているのだ。 透が動けば、美津子は容赦なく透を精神的に破壊する。それを防ぐためには、私が透から離れ、孤立したまま生き延びるか、あるいは消えるしかない。 それが、この男の歪んだ忠誠の形だった。「ご忠告、感謝するわ。黒瀬さん」 私は膝の上で両手を強く組み合わせ、感情を押し殺した声で返した。「でも、私が誰を信じ、どう戦うかは、私が決めます」 黒瀬は数秒間私を見つめた後、深く、諦めたようなため息を吐いた。「……どうか、お気を確かに。凛花お嬢様」 黒瀬は深く一礼し、足音一つ立てずに部屋を去っていった。 彼が残していった言葉の重みが、部屋の空気をじっとりと冷やしていた。 透を信じてはいけない。 彼には、母に逆らうことはできない。 その言葉が、私の心に生まれた小さな希望の炎に、暗い影を落としていた。 その日の夜。 時計の針が午後十一時を回った頃。 コン、コン。 突然、部屋の扉が二回叩かれた。 こんな時間に千尋が来るはずがない。黒瀬は昼間に来た。 私はナイトガウンの上にカーディガンを羽織り、警戒しながらドアノブに手をかけた。 カチャリと扉を開ける。 廊下の薄暗いフットライトの光の中に立っていたのは。 天野透だった。 彼はいつもの完璧なスーツ姿ではなく、ネクタイを外し、第一ボタンを開けたままのひどく疲労した姿だった。シャツの袖口は片方だけ留め忘れられ、前髪も一房、妙な方向にはねている。 その顔は、青白く、目の下には濃い隈が落ちている。 昨日のサロンで見せたあの微笑みの名残は、どこにもなかった。何日も眠らずに重い石を引きずり続けた罪人のような、限界まで削られた顔。「……透さん?」 名前を呼びながら、私はまず別のことを思ってしまった。 この人は、こんな状態で人を突き放しに来たの
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第116話 透を信じないでください④

「私が何か、天野家にとって不都合なことを――」 「水科の借金は、僕の個人資産で全額清算する手はずを整えた」  透が、私の言葉を冷酷に遮った。 「これで、君が天野家に縛られる理由はなくなる。君の父親も文句は言わないはずだ。……だから、出て行け」  借金を、彼の個人資産で払う?  数千万円という、水科家を縛り付けていたあの莫大な額を。  私は彼の疲弊しきった横顔を見た。  昼間、黒瀬が言った言葉が脳裏を過る。  ――彼を信じて頼れば、共に沈むことになります。  透は私を守るために、自分が美津子に逆らって私を庇うのではなく、圧倒的な財力で水科家の負債をゼロにし、私という存在をこの屋敷から「切り離す」という方法を選んだのだ。  彼が美津子に逆らえないのなら、私がこのままここにいれば、必ず美津子の手によって精神を壊され、殺される。  だから、自分が美津子の怒りを買い、莫大な資産を失ってでも、私を逃がそうとしている。  それは、究極の自己犠牲だった。  私を遠ざけるための、不器用で、悲痛なまでの彼なりの「保護」。 「……冗談じゃないわ」  私の口から、低く震える声が漏れた。  透の肩が、ビクッと跳ねる。 「借金を払って、私を追い出して、それで解決するとでも思っているの? 私を逃がせば、あなたはまた、一人でこの呪いの中に残るんじゃない!」 「君には関係のないことだ!」  透が、初めて私に向かって声を荒げた。  彼が振り返り、私を捉えたその瞳の奥には、血を流すような悲鳴が張り付いていた。 「君の言う通りだった。僕は、君を守れない……。母に逆らって、君をここで息をさせることなんてできないんだ」  透の呼吸が激しく乱れている。  彼の手が、テーブルの縁が軋むほど強く握りしめられていた。 「昨日の君を見て……君なら、この屋敷の空気を変えられるかもしれないと、一瞬でも思ってしまった。……だが、それは僕の傲慢だ。僕の近くにいれば、君は必ず母に潰される」  彼は自らを責め苛むように、顔を歪ませた。 「頼むから、僕の目の前から消えてくれ。……君がここにいると、僕が狂いそうなんだ」  それは、明確な拒絶の言葉だった。  彼自身の弱さと、母への恐怖が、私の存在を耐え難いものにしているという、関係の完全な切断。  透はそれ以上何も言わず、テーブ
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第117話 父の借金、娘の値段①

 テーブルの上に残された薄い茶封筒。  その無機質な表面を、私は冷たくなった指先でそっと撫でた。  中に折りたたまれて入っているであろう紙の厚みが、指の腹に硬く伝わってくる。 『婚約解消の、合意書だ』  透のひび割れた声が、まだ部屋の空気にこびりついて離れない。  自分が母に逆らえないから、私を逃がすために、数千万円という実家の借金を個人資産で肩代わりする。  それが、どれほど身を切るような自己犠牲の決断だったか。  彼は私を「呪い」に巻き込まないために、彼自身の財産と、おそらくは美津子からの激しい叱責と報復を引き受ける覚悟を決めたのだ。  私は茶封筒を手に取らなかった。  これにサインして水科の家へ逃げ帰れば、私は美津子の手から物理的に解放される。だが、それは同時に、透を永遠にあの氷の牢獄の底――母の支配と、過去の死者への罪悪感の中――に閉じ込めたまま、一人で見捨てることを意味していた。  そんなことができるはずがない。  私は封筒をそのままテーブルに残し、冷たいベッドへと潜り込んだ。  翌朝。  分厚い遮光カーテンの隙間から、冬の曇り空の鈍い光が部屋に差し込んでいた。  時計の針が午前八時半を回った頃。  ジリリリリッ。  私室のサイドテーブルに置かれた内線用の黒い電話機が、突如としてけたたましいベルの音を鳴らした。  使用人が朝食を運んでくる時間にしては遅い。  私はベッドから起き上がり、受話器を取り上げた。 「……水科です」 『……お嬢様。水科の当主様より、お電話が入っております。お繋ぎしてもよろしいでしょうか』  電話交換手を務めているのか、聞いたことのない使用人の声だった。  父から、私室への直接の電話。  この屋敷に入ってから初めてのことだ。 「ええ。繋いでちょうだい」  カチャ、という回線の切り替わる電子音が鳴り、その直後、耳をつんざくような激しい怒声が受話器から飛び出してきた。 『凛花!! お前、向こうで一体何を仕出かしたんだ!!』  父・惣一郎の、唾が飛ぶようなヒステリックな
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第118話 父の借金、娘の値段②

『水科の会社を経由した、天野のダミー会社への莫大な資金の移動……! あの取引の裏帳簿を、美津子様はすべて握っておられるんだ!』  私の肺の中で、空気が一瞬だけ凍りついた。  佳乃が送ってくれたダミー請求書のコピー。佐伯が調査していた資金洗浄のルート。  やはり、父は自分が何をしているか、完璧に理解していたのだ。 『もしお前が婚約を破棄されて天野の家から放り出され、美津子様の機嫌を損ねてみろ! あの裏帳簿が警察や税務署に回されれば、水科は脱税と資金洗浄の共犯として、社会的に抹殺されるんだぞ!』  受話器を持つ私の手から血の気が引き、白くなっていくのがわかった。  父は騙されて借金を背負った哀れな被害者ではなかった。  没落していく家名にしがみつくため、天野家が持ちかけてきた甘い犯罪の誘いに自らの意思で乗り、共犯者となったのだ。  それから、その泥沼から抜け出せなくなり、美津子に完全な弱みを握られた時。彼はその犯罪を隠蔽するための「人質」として、自分の娘を差し出した。 『お前が天野の家に入り、美津子様の言いなりになっている限りは、あの帳簿は表に出ない! 水科は生かしてもらえるんだ! それなのに、お前が余計な波風を立てて透様に離縁状を叩きつけられるとは……!』  胃の奥から、酸っぱいものが喉元までせり上がってくる。  これが、娘の値段だ。  私は借金の肩代わりという綺麗事のベールで包まれた、「親の犯罪隠蔽のための供物」にすぎなかった。  私が美津子に精神を壊されようが、薬を盛られようが、最後は窓から飛び降りようが。  父は絶対に助けに来ない。娘が死んでも、「心の弱い娘だった」と美津子に同調し、水科の家と自分の保身が守られたことに安堵の涙を流すだろう。  前世の、あの会議室の光景がフラッシュバックする。  ――会社としては、誰が責任を被るのかという落とし所が必要なんだ。  私を切り捨てた広報課長と同じだ。  組織(家)を守るためなら、一番立場の弱い人間を切り取り、生贄にすることを正当化する。 「……お父様」  私は震える唇を噛み締め、氷のように乾いた声で言った。 「私は水科の家の犯罪を隠すための道具ですか」 『何を言っている! 家を守るためだ! 水科の歴史を、ここで終わらせるわけにはいかないだろう!』  父の呼吸は荒く、狂ったよ
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第119話 約束を破る夜①

 時計の針が、深夜の零時を回ろうとしていた。 私は私室の窓際に置かれたアンティークチェアに深く腰掛けたまま、暖炉の火が消え、冷気が這い上がってくるのを感じていた。 テーブルの上には、昨夜透が叩きつけるように置いていった薄い茶封筒が、朝から一ミリも動かされることなく横たわっている。 今朝、玄関の車寄せに用意されていた「水科の家へ帰るためのハイヤー」は、封筒にサインしないまま、私が黒瀬に「必要ありません」とだけ告げて送り返した。 それに対する美津子からの直接のアクションはない。だが、一日中、部屋の外を通り過ぎる使用人たちの足音が、いつもより硬く、ひどく神経質に響いていた。 窓の外から、白砂利を重いタイヤが踏みしめる音が聞こえてきた。 暗闇の庭園に、ハイヤーのヘッドライトの光が鋭く差し込む。 透が、帰宅したのだ。 私は立ち上がり、カーディガンを羽織って部屋の扉を開けた。 フットライトだけが灯る薄暗い廊下を、足音を殺して玄関ホールの方へと向かう。 大理石の床を踏む、硬い靴音が聞こえてきた。 階段の踊り場で、私は下から上がってくる長身のシルエットを視界に捉えた。 天野透だった。 彼はネクタイを緩め、疲れ切った足取りで階段を上りかけていたが、踊り場に立つ私の姿を認めた瞬間、その足がピタリと止まった。 氷のように透き通った瞳が、驚愕に見開かれる。「……なぜ」 透の声は、ひどく掠れていた。「なぜ、まだここにいる。今朝の車に乗れと、言ったはずだ」 彼の纏う空気が、疲労から一転して、強烈な怒りと焦燥を帯びたものへと変わる。 私は彼を見下ろす位置から、ゆっくり階段を数段下り、彼から一メートルほどの距離で立ち止まった。 冬の外気と、彼自身の体温、そしてかすかに焦げたタバコの匂いが鼻腔を打つ。「乗りません」 私は手に持っていたあの茶封筒を、彼に向かって真っ直ぐに差し出した。「これを突きつけて、借金を払って、それで私を『呪い』から逃がしたつもりですか。……そんな
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第120話 約束を破る夜②

 私は封筒を握る手に力を込め、彼に一歩詰め寄った。「借金は、ただの借金じゃありません。天野のペーパーカンパニーを通した資金洗浄の隠れ蓑です。父はその共犯者で、裏帳簿を握られている。私が帰れば、美津子様はそれを警察に出す。父は終わります」 透の顔から、さぁっと血の気が引いていくのがわかった。 彼の瞳の奥で、信じられないものを見るような、絶望の波が逆巻く。「資金、洗浄……? 母さんが、君の父親を……そんなことで脅して……」「だから、借金がゼロになろうと、私は自由になんてなれません」 私は冷徹な事実だけを彼にぶつけた。「私が実家に帰れば、父は保身のために私をまた別の地獄に売り飛ばすか、あるいは二人で破滅を待つだけです。……あなたは、私を助けたつもりで、何も解決していない!」 透はよろめくように半歩後ずさった。 階段の手すりを掴む彼の指が、白くなるほど強く握り込まれている。「……なら、どうすればいい」 透の声は、痛ましい悲鳴に近かった。「どうすれば、君を母さんから遠ざけられる! 君を海外へ逃がすか? 君の父親ごと、手の届かない場所へ……いや、それでは……」 彼はパニックに陥り、意味のない言葉を独り言のように呟き始めた。 自分が身を切るような自己犠牲を払って用意した逃げ道が、母の張り巡らせた蜘蛛の糸によって最初から塞がれていた事実に、彼の思考はショートしていた。「逃げません」 私は彼の手すりを掴む手の上に、自分の冷たい手を強く重ねた。 ビクッ、と彼が顔を上げる。「私はどこへも逃げない。……あなたを一人でここに残して、私だけが安全な場所で息をするなんて、絶対に嫌です」 重ねた私の手の下で、透の指が一度だけ動いた。 握り返そうとしたのか、振り払おうとしたのか。ほんの一瞬の迷いが、彼の皮膚越しに伝わってくる。
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