All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話 千尋の証言①

 奥の庭と西翼の廊下を隔てる重厚な扉が、背後で重く、密閉された音を立てて閉まった瞬間。 私の肺から、限界まで堪えていた空気がヒュッと情けない音を立てて漏れ出した。 廊下の壁に手をつき、フラフラとした足取りで自室へと向かう。 深紅の絨毯が、足の裏でぐにゃりと波打っているように感じられた。 視界の端が白く明滅している。 鼻の奥には、美津子がまとっていたあの濃厚なジャスミンとアンバーの香りが、粘り着くようにこびりついて離れない。 ――あなたは、自分からここを去ることになるのよ。 その甘く冷酷な宣告が、呪いのように耳の奥で反響し続けている。 私は自分が実家に帰ることも、逃げ出すこともできないように外堀を埋められた上で、逃げ場のない「自滅」へのカウントダウンを押されたのだ。 自室の扉の前に辿り着く。 真鍮のドアノブを回す指先が痙攣したように小刻みに震えていた。 カチャリと扉を開け、部屋の中に滑り込む。 内側から鍵をかけ、その重いマホガニーの扉に背中を預けた途端、両脚の筋肉から急に力が抜け落ちた。 私は絨毯の上に膝から崩れ落ちた。「はっ……ぁっ、ふぅ……っ」 浅く、早い呼吸が連続して漏れる。 胃の底が激しく痙攣し、酸っぱい胃液が喉元までせり上がってきた。私は口元を両手で覆い、必死に吐き気を飲み込んだ。 怖い。 前世の会議室で言葉を切り取られた時の恐怖とは、根本的に違う。 今回は、私の言葉や理屈が通じないどころか、私が「正常であること」そのものを否定し、物理的な環境と化学的な手口(おそらくは薬物)を使って、強制的に私を狂人の枠組みに押し込もうとする、圧倒的な権力による暴力だ。 冷や汗が額から滲み出し、カーディガンの背中を冷たく濡らしている。「……凛花、お嬢様?」 不意に、部屋の奥からほのかな声がした。 弾かれたように顔を上げる。 窓際のテーブルのそばに、銀色のワゴンを押した千尋が立っていた。私が奥の庭へ行って
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第132話 千尋の証言②

 深いクッションに身を沈め、私は深く息を吐き出した。「すぐにお白湯をお持ちします。冷たいお水と、どちらがよろしいですか」「お白湯をお願い」 千尋は小走りでワゴンに戻り、ポットからお湯を注いでカップを運んできた。 私は両手でカップを包み込み、ゆっくり一口飲んだ。 胃の奥の痙攣が、温かいお湯によって少しずつ解れていく。 千尋は私が落ち着きを取り戻すのを見届けると、数歩下がって深く頭を下げた。「……申し訳ございません。奥様からのご指示とはいえ、あのような場所へお嬢様をご案内してしまって」「あなたのせいじゃないわ。それに、行かなければならない場所だったから」 私はカップをソーサーに置き、彼女に向かってかすかに口角を上げた。「ありがとう。あなたがいてくれて、助かったわ」 その言葉を聞いた瞬間、千尋の肩がビクッと跳ねた。 彼女は顔を上げず、両手をエプロンの前で、指先が白くなるほど強く握りしめている。 部屋の空気が、急に張り詰めたものに変わった。「……私は助けてなどおりません」 絞り出すような、ひどく掠れた声だった。「千尋さん?」「私はただ見て見ぬふりをしてきただけです。自分の身を守るために、このお屋敷で何が起きているのか気づきながら、ずっと……」 千尋が顔を上げた。 彼女の瞳からは、大粒の涙がポロポロと絨毯の上にこぼれ落ちていた。「先ほど、扉の前に倒れ込まれたお嬢様を見て……私、あの時のことを思い出してしまって。自分がどれほど恐ろしいことに加担しているのか、もう、自分を誤魔化すことができません」 あの時。 その言葉が、私の頭の中の引き出しを鋭く叩いた。 私はカーディガンの内ポケットから革張りのメモ帳とボールペンを取り出し、膝の上に置いた。「……過去のお嬢様方のことね」 私の静かな問いに、千尋はしゃくり上げながらも、小さく、だがはっきりと頷い
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第133話 千尋の証言③

「……聞こえました。でも、はっきりとした言葉ではなくて……口を塞がれているような、『う、うぅ……っ』という、くぐもった呻き声でした」 千尋の目から、再び涙が溢れ出す。「私、怖くて……部屋の扉を開けることができませんでした。奥様の逆鱗に触れれば、私もどうなるかわからない。だから、布団を頭から被って、耳を塞いで朝を待ったんです」「……」「翌朝、理沙様が階段から落ちて亡くなられたと聞きました。……私が、あの時扉を開けていれば。誰かを呼んでいれば……」 彼女の後悔の念が、重い空気となって部屋を満たす。 私はメモ帳にペンを滑らせることはしなかった。彼女の言葉を、五感の記憶として脳の奥深くに刻み込んだ。 絨毯を引っ掻く音。口を塞がれた呻き声。 理沙は、自ら階段に向かったのではない。何者かによって意識を奪われかけながらも、必死に抵抗し、引きずられていったのだ。「あなたのせいじゃないわ」 私は千尋に向かって告げた。「その扉を開けても、あなた一人で何とかできる状況ではなかった。奥様は、誰も逆らえないようにしていたの。黙ってしまったのは、あなただけじゃないわ」 千尋は驚いたように顔を上げ、私を見た。「でも……私は……」「二人目の方のこと。教えてちょうだい」 私は彼女が罪悪感に溺れ切ってしまう前に、次の質問で彼女の意識を現実へと引き戻した。 千尋は鼻をすすり、深く息を吐き出した。「二人目の方の時は……主治医の吉見先生がいらっしゃるようになってから、お薬が出されました。食後のスープや、夜のハーブティーに混ぜてお出しするようにと、メイド長から指示があって……」「どんな薬だったか、覚えている?」「白い粉末で……お湯に溶かすと、少しだけ
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第134話 千尋の証言④

「……お嬢様」 千尋が、私を見つめて言った。「私はずっと怯えていました。でも、お嬢様が……昨日の晩餐でも、サロンでも、誰に何を言われても決して崩れず、ご自分の足で立っておられるのを見て。……私が、自分の弱さを恥ずかしく思いました」 彼女はエプロンを握りしめていた手を離し、両手を床について深く頭を下げた。「お嬢様は、逃げずに戦おうとしておられる。……私にできることがあれば、何でもお申し付けください。もう、見ないふりをして逃げるのは、嫌なのです」 その言葉は、彼女が自らの保身を捨て、天野家のルール(美津子)に反逆する決意の表れだった。 広報の仕事で、私が最も頼りにしたのは、こういう現場の「小さな証言者」たちの声だった。組織の闇に気づきながら沈黙を強いられてきた彼らが、勇気を出して口を開いた時、それはどんな分厚い議事録よりも強力な武器になる。「ありがとう、千尋さん」 私はソファから立ち上がり、彼女のそばに膝をついて、その震える両手をしっかりと握った。「あなたのその言葉だけで、私は戦えるわ。……でも、無理はしないで。あなたの命も、この屋敷では軽いものとして扱われているのだから」 千尋は私の手を握り返し、涙で濡れた顔に、初めてはっきりとした微笑みを浮かべた。 その時だった。 コン、コン、コン。 部屋の扉が、硬く、冷たい音を立てて叩かれた。 千尋の顔から、一瞬にして血の気が引く。 私たちは顔を見合わせ、扉の方へと視線を向けた。「……千尋。中にいますね」 扉の向こうから聞こえてきたのは、冷たく無機質な、メイド長の声だった。「奥の庭からお戻りになられた凛花様のお部屋で、随分と長居をしているようですが。……奥様が、お呼びです」 私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。 盗聴器があるわけじゃない。だが、美津子の監視網は、使用人たちの行動時間を完璧に管理してい
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第135話 潰された記事①

 雑然とした編集部のフロアには、複数の電話のベルと、無遠慮なキーボードのタイピング音が重なり合って響いていた。 蛍光灯の白すぎる光の下、安物のインスタントコーヒーの酸っぱい匂いと、染み付いたタバコのヤニの臭気が空気を重く濁らせている。 佐伯律は、自分のデスクの前に立ち、奥歯をギリッと強く噛み締めた。 彼の目の前、散らかった机の上には、さきほど自分が提出したばかりの『ゲラ』――記事の試し刷りの紙束が、まるで価値のないゴミのように放り投げられていた。「……どういうことですか、編集長」 佐伯はデスクの奥でふんぞり返っている中年の男を睨みつけた。「裏は取れてます。天野のダミー会社を経由した不透明な資金流用と、そこに連なる水科という旧家の負債。そして、二年前の秋に天野の本邸から救急搬送された女性の、不可解な死因書き換え。……状況証拠だけじゃない。病院の末端の記録まで、点と線は完璧に繋がってるんですよ」「だから、ダメなんだよ」 編集長は、佐伯と目を合わせることもなく、手元の企画書に赤ペンで線を引いた。「天野グループが、うちの親会社の何割の広告枠を買ってるか知ってるのか。推測と末端のデータだけで、あんな巨大なスポンサーに喧嘩を売れるわけがないだろうが」「単なる推測じゃありません! 内部にいる人間からの証言と……」「内部の人間?」 編集長が、そこで初めて顔を上げ、鼻で笑った。「まさか、天野に借金のカタで嫁いだっていう、あの水科の娘のことか?……おいおい、冗談だろ。あのお嬢さんは、重圧に耐えかねて夜な夜な泣いてるような、少し頭の可哀想な子だってのが、社交界の公式な『事実』だぞ」 佐伯の眉間が、激しく歪む。 天野美津子の流した「公式の筋書き」は、すでにメディアの上層部にまで完璧に浸透し、事実としてコンクリートのように固められていた。「そんな、精神的におかしい娘のうわ言と、状況証拠のパッチワークで記事にしろって?……お前、また会社に泥を塗る気か」
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第136話 潰された記事②

 パイプ椅子にドカッと腰を下ろし、ネクタイを乱暴に引き結ぶ。 ポケットから安物のプラスチック製ライターを取り出し、親指の腹で無意味にフリントを何度も擦った。 火はつけない。ただ、カチッ、カチッという硬い摩擦音が、苛立ちを誤魔化すように響く。「……クソが」 掠れた声で吐き捨て、彼はパソコンのモニターに向かった。 キーボードを叩く指先に、行き場のない怒りと強烈な無力感が込められている。◇ 天野本邸。 自室の重いマホガニーの扉が閉ざされ、部屋は完全な静寂と、冷たくなった空調の音だけが支配する空間に戻っていた。 千尋がメイド長に連れ去られてから、どれくらいの時間が経っただろうか。 私は部屋の隅のアンティークソファに座り、膝の上で両手を強く組み合わせたまま、身動き一つせずにいた。 私の唯一の小さな味方が、物理的に引き剥がされた。 おそらく千尋は今頃、美津子の私室か使用人の管理部屋で、私と何を話していたのか厳しく問い詰められているはずだ。彼女がどこまで耐えられるか、あるいは私のために嘘をつき通そうとしてどれほど酷い目に遭うか。 想像するだけで、胃の奥がギリギリと絞り上げられるような痛みを覚える。 この屋敷に、もう安全な場所はない。美津子の「孤立化」のプロセスは、最終段階に入っている。 私は立ち上がり、ベッドの上に放り投げてあったスマートフォンを手に取った。 画面をタップし、ブラウザを立ち上げる。 先日と同じように、海外のウェディングドレスのブランドサイトや、宝飾品の高画質な画像が並ぶサイトを次々と開き、ダミーの重い通信を発生させる。 監視網に「婚約者としての正常なネットサーフィン」のログを流し込んでいる裏側で、シークレットタブを開き、佐伯から渡された使い捨てのウェブメールにアクセスした。 ログイン画面。パスワードを打ち込む指先がかすかに震える。 読み込みの数秒が、永遠のように感じられた。 画面が切り替わり、『下書き』フォルダの数字が「3」に増えているのを確認した瞬間、私の心臓が大きく跳ねた
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第137話 潰された記事③

 私がどれほど正しい時系列表を作っても、役員たちが「そんなものは言い訳だ」と切り捨てれば、それは存在しないのと同じことになった。 今回も、同じ構造だ。佐伯がどれほど真実のゲラを作っても、編集長という権力者が「天野の不利益になる」と判断すれば、それは印刷されることなくゴミ箱へ直行する。「……また、同じ」 私の唇から、乾いた声が漏れた。 スマートフォンを持つ手がガタガタと震え始める。 他人が管理するプラットフォーム。他人の組織。 そこに頼っている限り、私は一生、彼らの「都合の良い解釈」から逃れられない。真実は常に切り取られ、権力者の傷にならない形に丸められて消費される。 息が詰まる。 千尋は奪われた。外部のメディアも塞がれた。 私はいよいよ、この完璧な無音の密室の中で、美津子の計画通りに『狂人』として処理されるのを待つしかないのか。 いや。 私は左手で自分の右腕を強く、爪が食い込むほどに握りしめた。 痛みが、脳の靄を強制的に晴らしていく。 ――別の出し方を、考えろ。 佐伯の残した最後の一文が、私の頭の中で、警告ではなく、新しい論理への着火剤として発火した。 広報として、何度も経験したことがある。 既存のマスメディアが取り上げてくれない情報、あるいはメディアの編集によって意図が歪められてしまう情報を、企業はどうやって直接ステークホルダー(利害関係者)に届けていたか。 メディアという「他人の箱」を経由するから、検閲され、切り取られるのだ。 ならば。 誰の検閲も受けず、誰の編集も挟まず、私が集めた『事実の前後の流れ』を、生データのまま、直接世間の目に叩きつける方法。 私はスマートフォンの画面をスクロールし、佐伯が添付してくれた暗号化ファイルの存在を確認した。 手元にはあるのだ。 過去の花嫁の死因の矛盾。主治医の薬の記録。水科家の裏帳簿の存在を示す証拠。 これらを、私が作ったあのメモ帳の『時系列表』と組み合わせれば、美津子の隠蔽の仕組みを告発する完璧な爆弾になる。
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第138話 水科家への帰還①

 夜明け前の、最も気温の下がる時間帯。  私室の空調は完璧な温度を保っているはずなのに、息を吐くたびに薄白い靄が浮かぶような錯覚に囚われていた。  私はデスクの前に座り、スマートフォンの画面と睨み合っていた。  広報部時代、危機管理対応で会社が公式声明を出す際、私はあらかじめ複数のメディアや関係各所に一斉送信されるよう、システム上でタイマーをセットしていた。担当者が不測の事態で動けなくなっても、決められた時間に必ず情報が発信される仕組み。  それを、個人のクラウドサービスを組み合わせて構築する。  佐伯から送られてきた病院の搬送記録、ダミー会社の資金の流れを示すデータ。私が書庫で撮影した入室記録と状態報告書。そして、私がメモ帳に整理した『時系列表』のテキスト。  全部を一つの暗号化されたフォルダにまとめ、タイマーを設定する。  私が指定した四十八時間以内に、私自身がこの仕組みにアクセスしてタイマーを解除しなければ。その瞬間に、このフォルダのロックが解かれ、佐伯の属する編集部の上層部、競合の週刊誌、主要なネットメディア、そして警察の匿名通報窓口のすべてに、この生データが一斉に送信される。  天野の権力がどれほど既存のメディアを握り潰そうとしても、出所不明の一次情報が同時に無数にばら撒かれれば、物理的に蓋をすることは不可能になる。  画面の『セット完了』という文字を確認し、私はスマートフォンを閉じた。  これで、私が美津子に口を塞がれても、あるいは不慮の『事故』で消されても、彼女たちの隠蔽の仕組みは必ず崩壊する。  私はデスクの端に置かれたままになっていた、薄い茶封筒を引き寄せた。  透が置いていった『婚約解消の合意書』。  中から硬い上質紙を取り出す。  すでに『天野 透』という、剃刀のように冷たく流麗な署名と、彼個人の実印が押されている。  私がこの紙に署名した瞬間、私は正式に天野家の婚約者としての立場を失い、この屋敷に留まる理由を失う。美津子はそれを望んでいる。  私はペン立てからボールペンを引き抜き、キャップを外した。  あの執務室で前世の記憶を取り戻し、
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第139話 水科家への帰還②

 午前七時。 私はトランクのハンドルを握り、自室の重いマホガニーの扉を開けた。 フットライトの薄暗い光が、絨毯を照らしている。 扉のすぐ横に、漆黒のスーツ姿の黒瀬が立っていた。 彼は私がトランクを引いて出てきたのを見て、わずかに瞳孔を収縮させたが、表情の筋肉は一ミリも動かさなかった。「……凛花お嬢様」「ハイヤーを手配して、黒瀬さん」 私はポケットから四つ折りにした合意書を取り出し、彼に向かって突きつけた。「透様との合意書に、サインしました。これで、私をこの屋敷に縛り付ける『天野家の婚約者』という名目は消滅したわ。今すぐ、実家へ帰ります」 黒瀬の視線が、私が差し出した合意書の署名欄に落ちる。 彼の黒い手袋に包まれた指先が微かにピクリと動いた。「……この書類は、奥様のお手元にはまだ渡っておりません。奥様は、あなたを『奥の庭』へとお呼びでございます」 黒瀬は極限まで抑揚を殺した声で、美津子の意思を代弁した。「お断りするわ。部外者となった私が、奥様の私的なお庭に足を踏み入れる理由はないでしょう? それとも……」 私は彼の氷のような目を真っ直ぐに射抜いた。「関係の切れた人間を、力ずくで監禁するつもり?」 廊下の空調の音が、やけに大きく響く。 黒瀬は数秒間沈黙し、私の目と、私の手にある合意書を交互に見つめた。 彼にはわかっているのだ。私がこの合意書を盾にして、合法的にこの屋敷の密室から抜け出そうとしていることが。 やがて、彼は深く、ゆっくり息を吐き出し、深く頭を下げた。「……すぐに車を回します。凛花様」 お嬢様、という呼称が外れた。 私は合意書を彼に渡し、トランクを引いて歩き出した。 車輪が絨毯に沈み込み、重く、くぐもった音を立てる。 玄関ホールに出ると、すでに数人の使用人がハイヤーのドアを開けて待機していた。彼らは私がトランクを持っているのを見て、一様に息を呑み、慌てて視線を床
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第140話 水科家への帰還③

 玄関の扉を開けると、そこには、血相を変えた父・惣一郎が立っていた。 彼は私の顔を見るなり、首の血管を浮き上がらせ、顔を真っ赤にして怒鳴り込んできた。「凛花!! お前、本当に帰ってきやがったのか!!」 父の口から飛んだ細かな唾が、玄関の薄暗い光の中で白く光った。「透様の弁護士から、合意書にサインがされたと連絡があった! お前、自分が何をしたかわかっているのか!!」 父は私の肩を掴もうと両手を伸ばしてきた。 私は半歩後ずさってそれを避け、乾いた視線で彼を見据えた。「わかっていますよ、お父様。婚約は解消されました。透様の個人資産で、水科の借金はすべて清算されます」「馬鹿野郎!!」 父の絶叫が、埃っぽい廊下に反響する。「金の問題じゃないと言っただろうが! 天野の裏帳簿を握られているんだぞ! お前が天野家から放り出され、美津子様の機嫌を損ねれば、あの帳簿が警察に回されて水科は終わりだ!」 彼は自分の髪を両手で乱暴に掻きむしり、その場で貧乏ゆすりを始めた。 革靴が床板を鳴らすカタカタという音が、彼の見苦しいまでの保身とパニックを雄弁に物語っている。「今すぐ戻れ! 這いつくばってでも美津子様に謝罪しろ! お前は水科の家を潰す気か!!」「家?」 私は声のトーンを極限まで低く落とし、冷徹に彼の言葉を切り捨てた。「天野の資金洗浄に手を貸して、その罪を隠すために娘を差し出した。……それをまだ『家』と呼ぶのですか」 ピタリ、と。父の貧乏ゆすりが止まった。 彼の目が、信じられないものを見るように見開かれる。「お父様は、私が天野家で、美津子様に精神を壊されて『事故死』させられても構わなかった。娘が死ねば、借金も裏帳簿も揉み消せるから。……違うとは言わせません」「なっ……お、お前……」 父の唇が、パクパクと情けなく開閉する。「もう、あなたたちの都合の良い小切手にはなりません」 私は足元に置いたトランクのハン
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