All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話 ふたりきりの温室③

 透の左手が無意識に右腕の――あの赤黒く爛れた火傷の痕がある場所を、服の上から強く握りしめた。「炎の中で、声が聞こえた。理沙の声だった。彼女は僕を探して、あの通路に入ってきて……そして」 透の呼吸が浅く、不規則になる。「僕は、手を伸ばせなかった。自分が燃えるのが怖くて、彼女を助けに行けなかった。……結果として、僕は使用人に助け出されて生き残り、理沙は……」 理沙は、死んだ。 いや、違う。 私の脳内で、佐伯のメールの文面が激しく明滅する。『一人目の花嫁。透の従姉にあたる女。公式には階段からの転落死。血中から規格外の睡眠導入剤』。 透の記憶の中の「理沙」と、一人目の花嫁である「理沙」。 時系列がおかしい。火災は十数年前。だが、花嫁の転落死はわずか二年前だ。 透は火災で理沙を死なせたと思い込んでいるのか? それとも、別の誰か――例えば、もう一人の親族か何かと混同しているのか? いや、美津子が彼に「理沙は火事で死んだ」「理沙は階段から落ちた」事実を、都合よく切り貼りして彼の罪悪感として植え付けたのではないか。 どちらにせよ、彼は自分の「恐怖による見殺し」という原罪を、すべてこの腕の傷とともに背負い込んでいる。「だから、言っただろう」 透の瞳が、痛みに耐えかねたように私を捉えた。「逃げ込んで息を潜めていた僕の弱さが、人を殺したんだ。……僕に関わる人間は、皆、この白灰蘭のように、灰の中から咲くことを強いられる。最後には狂って、消えていく」 その言葉は、私に向けられたものではない。 何十年もかけて、彼が自分自身を呪うために唱え続けてきた、絶望の呪文だった。「……透さん」 私は彼の言葉を否定するのではなく、ただ一歩だけ彼の方へ歩み寄った。 むせ返るような黒土の匂いの中で、彼のシトラスの香りがはっきりとわかる距離。「息ができない場所で、ただじっと息を潜めて、やり過ごすことしかできな
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第102話 ふたりきりの温室④

 温室の熱気の中で、彼の呼吸だけが小さく乱れている。否定することも、慰めることも、問い詰めることもできず、ただ私の言葉を落とさないように受け止めているようだった。「それは、君自身の話なのか」 やがて、彼が低く尋ねた。 私はわずかに視線を落とした。 前世のことを、すべて語ることはできない。橘日和という名前も、非常階段の冷たい手すりも、赤ん坊としての短い生も、この場で言葉にすれば、私自身の輪郭がほどけてしまいそうだった。 けれど、彼に何も渡さずに、ただ「わかる」と言うこともできなかった。「昔の話です」 私は白灰蘭の花びらに視線を落としたまま答えた。「誰かを守ろうとして残した言葉が、前後を切り取られて、まったく別の意味に変えられたことがありました。私が何を考えていたのか、どんな順番で何をしたのか、誰も見ようとはしなかった。表に出された数行だけが、私の全部になった」 透の眉が、わずかに動いた。「それで」「逃げたくなりました。誰の声も届かない場所へ。何も説明しなくていい、静かな場所へ」 口にした瞬間、非常階段の鉄の匂いが、温室の湿った空気の奥から一瞬だけ戻ってきた。私は指先を握り込み、その冷たさをやり過ごす。「でも、静かになんてなりませんでした。逃げても、私が言葉を手放したことだけは残った。だから今は……怖くても、前後ごと残したいんです」 透は笑わなかった。疑いもしなかった。 ただ、白い花の列の向こうで、彼の瞳が少しだけ深く沈んだ。自分の痛みを誰かに評価されることを恐れていた人間が、初めて、別の痛みの輪郭を自分の中へ入れようとしている目だった。「……君は、ずっとそんなふうに戦っていたのか」「戦えていたかは、わかりません」 私は苦く笑った。「でも、もう黙って箱の中で息を止めるだけの生き方には戻りたくない」 私は彼から目を逸らさなかった。「でも、あなたは逃げなかった。私が悪意の噂に晒されそうになった時、あなたは権力を使ってでも、私を守ろうとしてくれた」「あれは
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第103話 ふたりきりの温室⑤

 やがて彼は本当に恐る恐る、右手を私の手の方へ伸ばしてきた。 火傷の痕が隠された、その右手を。 私は逃げなかった。彼の指先が私の手に触れるのを、じっと待った。 温かくて、少しごつごつとした、大きな手。 彼の指が、私の冷たくなった指先をそっと包み込んだ。 体温が、薄い皮膚越しに混じり合う。 透の手は、かすかに震えていた。 それは、私の温度を確かめるような、あるいは自分が他人に触れる資格があるのかを問うような、ひどく臆病な触れ方だった。 彼の瞳に、深い安堵と、一滴の救いの光が宿ったのが見えた。 だが。 次の瞬間、彼はハッとして、火傷でもしたようにパッと手を離した。 ビクッ、と彼の身体が後ずさる。「……だめだ」 透の呼吸が再び激しく乱れ始める。「僕に関われば、君も燃やしてしまう。……僕の近くにいれば、君もあの『席』に座らされることになる」「透さん」「帰れ。今夜はもう、冷える」 彼は拒絶ではなく、哀願するような声でそう言った。 彼の手の温もりが消えた私の指先が急に夜の冷気に晒されて冷たくなる。 透はそれ以上言葉を発することなく、私に背を向けた。 けれど、彼はその場から逃げ出さなかった。 私が来た時のように、緑の壁の奥で、ただ立ち尽くしている。 私は彼を追いかけなかった。 今はまだ、彼の中に染み付いた呪いを解くことはできない。彼自身が、母の支配と過去の罪悪感から抜け出す準備ができていないからだ。 それでも、私たちの間には、確実に共有された痛みの輪郭があった。「……おやすみなさい、透さん」 私は彼の広い背中に向かって告げた。 透は振り返らなかったが、彼の肩が微かに上下したのを、私は見逃さなかった。 温室の湿った空気を背に受けながら、私はゆっくり出口へ向かって歩き出した。 彼の残した体温を、強く手のひらに握りしめたまま。 自室に戻るまでの
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第104話 黒瀬の小さな背信①

 温室での透との接触から一夜が明けた。  分厚い遮光カーテンを開けると、冬の鈍い太陽が、手入れされすぎた庭園の木々に冷たい影を落としている。  私の右手には、昨夜、透の火傷の痕を包み込んだ時の、あの不器用でほのかな熱がまだ張り付いている気がした。  自分が燃える恐怖を知っているからこそ、誰かが燃やされるのを見過ごせなかった人。  彼が背負い込まされている「呪い」という名の罪悪感を解くためには、この屋敷の隠蔽の仕組みを物理的な証拠で破壊するしかない。  佳乃が教えてくれた、離れの蔵にある古い帳簿。  それから、この本邸の西翼の奥、黒瀬が厳重に管理している『書庫』に隠された、過去の花嫁たちの記録。  午前十一時。  私は自室を出て、音を吸い込む深紅の絨毯の上を、西翼へと向かって歩いていた。  昨夜、私が深夜に温室へ向かい、透と接触したことは、この屋敷の監視網にどう引っかかっているのか。黒瀬は間違いなく、私の不規則な行動を把握しているはずだ。  それが美津子に「異常行動」あるいは「透への有害な接近」として報告されていれば、今日にでも私を自室に軟禁するような、新たな圧力がかかってくるだろう。  西翼の奥。  重厚なオーク材の両開き扉、あの『書庫』が見える場所まで来た時だった。 「……凛花お嬢様」  廊下の角の影から、氷水の底から湧き上がるような低い声がした。  漆黒のスーツ姿。天野家の執事、黒瀬だった。  彼はいつものように、分厚い黒革のバインダーを小脇に抱えている。 「このような奥まった場所へ、本日はどのようなご用件でしょうか」  彼の氷のような瞳が、私を真っ直ぐに見据えている。 「少し、廊下の絵画を見て回っていただけよ」  私は足音を立てずに彼から二メートルの距離まで近づき、表情の筋肉を微動だにさせずに答えた。 「そうですか。……お風邪を召されてはいけません。昨夜は、ずいぶんと夜風が冷たかったようですから」  私の心臓がドクンと一つ、大きな音を立てた。  夜風。  やはり、彼は知っている。私が昨夜、自室を抜け出して温室へ向かったことを。  私は両手を体の前で軽く組み、彼の次の言葉を待った。 「奥様は、凛花お嬢様のご体調を大変案じておられます」  黒瀬は小脇に抱えたバインダーをゆっくり開き、挟まれていた一枚のルーズリー
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第105話 黒瀬の小さな背信②

 ピクリ、と。  私の眉が、かすかに動いた。  佳乃が口にした『離れの蔵の二階、一番奥の桐箱』という、決定的な証拠の隠し場所についての記述が、削り落とされている。 「『また、昨夜の凛花お嬢様は、お食事のあと自室から一歩も出られることなく、朝まで静かにお休みになられていた』……と」  私の肺の中で、空気が一瞬だけ凍りついた。  自室から一歩も出ず。静かに休んでいた。  昨夜の温室への外出。透との密会。その何もかも、彼の口から発せられたこの「日報」には、一文字も存在していなかった。  広報部時代、私は無数の議事録や報告書を見てきた。  記録から事実を意図的に削り取る行為。それは、単なる見落としではない。削り取った側の「明確な意志」であり、組織のトップが望む筋書きに沿わない不都合な真実を、実務担当者の権限で『なかったこと』にする、完全な情報操作だ。 「……黒瀬さん」  私は彼の顔を穴のあくほど見つめた。 「そのご報告は、事実とは異なりますね」 「私の記録には、当主家にとって『必要な事実』のみが残ります」  黒瀬はバインダーをパタンと閉じ、私を真っ直ぐに見返した。 「不要なノイズは、奥様の御心を乱す波風となります。波風が立てば……何もかも、予定より早く『処理』されることになりますので」  私の背筋に、氷の刃を滑り込ませたような悪寒が走った。  予定より早く、処理される。  つまり、もし黒瀬が昨日の佳乃との密談や、昨夜の透との接触を正確に美津子に報告していれば。  美津子は私が「天野家の害になる」と即座に判断し、主治医を呼び、薬による精神的失調の筋書きを前倒しで実行に移していただろう。  黒瀬はそれを知っていた。  知っていて、自分の職務に対する重大な背信行為――美津子への虚偽報告――を行ってまで、私という生贄の寿命を延命させたのだ。 「なぜ」  私の声は、震えるのを抑えきれなかった。 「なぜ、あなたはそこまでして」  黒瀬の氷のような瞳の奥底に、深海のような濃く暗い澱みが渦を巻いた。  彼は私から視線を外し、閉ざされた書庫の重厚なオーク材の扉へと目を向けた。 「……過去に、私が正確に記録を残しすぎたせいで。……救えなかったものが、ございます」  かすれるような、ひどく低い声だった。  彼の黒い手袋に包まれた指先が、バイ
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第106話 黒瀬の小さな背信③

 その痛ましい後悔と罪悪感が、今、この鉄仮面のような男を内側から食い破り、かすかな背信へと突き動かしている。 「私は奥様の手足です。それ以上でも、以下でもありません」  黒瀬はゆっくり私に向き直り、再び感情の消えた執事の顔を貼り付けた。 「ですが、記録をどう『整える』かは、書記である私の裁量に委ねられております。……凛花お嬢様が、自らその命を手放すような真似をされない限りは」  それは、「私が見逃している間に、生き延びる方法を見つけろ」という、彼なりの限界ギリギリの助力だった。  彼もまた、透と同じように、この屋敷の理不尽な仕組みに組み込まれ、血を流しながら立っている囚人の一人だ。 「……ええ。私は自分の命を手放すつもりはありません」  私は彼に向かって、確かな決意を込めて告げた。 「自分の言葉は、自分で残します」  黒瀬は小さく頷いたように見えた。  彼は懐中時計を取り出し、時刻を確認する動作をした。 「では、私はこれより、奥様の私室へ向かわねばなりません。……凛花お嬢様も、お部屋へお戻りください」  彼が踵を返そうとした、その時だった。  チャリン。  鈍い、だが重みのある金属音が、廊下の絨毯の上に落ちた。  私の視線が、音のした足元へと向かう。  黒瀬が常に左手で持ち歩いている、あの数十本はあるであろう巨大な真鍮の鍵束。  そのリングから外れた「一本の鍵」が、深紅のペルシャ絨毯の上に転がっていた。  手の脂と長年の摩擦によって表面のメッキが剥がれ落ち、下地の赤茶けた金属が剥き出しになった、あの極端に摩耗した鍵。  書庫の奥、過去の花嫁たちの記録が押し込められているであろう、特定の場所を開けるための鍵。 「……黒瀬さん」  私は彼の背中に向かって声をかけた。 「鍵が、落ちましたよ」  黒瀬の足が、ピタリと止まった。  彼は振り返らなかった。 「……おや。いけませんね。最近、少し手元が狂うようです」  背中を向けたまま、彼が低く言った。 「私は今から、奥様の私室で長時間の打ち合わせに入ります。その鍵がないことには、おそらく明日まで気づかないでしょう」  私の呼吸が一瞬だけ止まる。 「……落とし物は、そのままにしておいていただければ結構です。後ほど、清掃の者に探させますので」  黒瀬はそれだけを言い残し、足
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第107話 前後の流れを残す方法①

 絨毯の上に落ちていた真鍮の鍵をカーディガンのポケットに滑り込ませた瞬間、金属の冷たさが布地越しに太ももへと伝わってきた。 黒瀬は「奥様の私室で長時間の打ち合わせに入る」「明日まで鍵がないことには気づかない」と言い残して去った。 それはつまり、今この瞬間が、あの書庫に潜入するための最初で最後の空白時間だという明確なシグナルだ。 私は周囲の廊下に誰もいないことを確認し、息を殺して書庫の重厚なオーク材の扉へと向かった。 ドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。 キイ、と微かに蝶番が軋む音を立て、扉が内側へと開く。 中に入り、背後で扉を閉めると、廊下の光が遮断された。 窓のない空間。古い紙の乾燥した匂いと、革表紙の油の匂い、そしてほのかな防虫剤の香りが、ひんやりとした冷気とともに鼻腔を打つ。 私はスマートフォンのライトを弱く点灯させ、天井まで届く巨大な書棚の間を進んだ。 黒瀬の鍵束の中で、一本だけ異常に摩耗していたあの鍵。 長年の使用によってメッキが剥がれ、角が丸みを帯びるほど頻繁に開け閉めされていた場所。 私は棚の最下段から中段にかけて、無数に並ぶ木製の引き出しやスチール製の保管箱の鍵穴を、ライトの光で一つずつ照らしていった。 部屋の最も奥。換気口の下の、薄暗く埃の溜まりやすい足元。 そこに、他の木目よりも明らかに手垢で黒ずんでいる、小さな引き出しが一つだけあった。 膝をつき、ポケットから真鍮の鍵を取り出す。 鍵穴に差し込むと、何の引っかかりもなく、ヌルリと滑らかに奥まで吸い込まれた。 カチャリ。 手首を回すと、重いラッチが外れる確かな手応えがあった。 取っ手を引き出し、中を照らす。 そこに収められていたのは、数冊の薄いファイルと、クリップで留められた紙の束だった。 私は一番上にあった紙の束を手に取った。 黄ばんだルーズリーフ。等間隔に引かれた青い罫線。 それは、以前黒瀬が小脇に抱えていたバインダーから、不自然に抜き取られていた『西翼・入室記録』の原本だった。 ライトの光を当て、日付の列
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第108話 前後の流れを残す方法②

 胃の奥から、酸っぱい胃液がせり上がってくる。  黒瀬はこれを破棄せずに隠し持っていた。  彼がどれほど無表情を取り繕おうと、彼の手元には、自分が加担してしまった殺人のプロセスが、完璧な議事録として残されている。彼自身が、この記録の重みに押し潰されそうになりながら、毎日のようにこの鍵を開け、死者たちの名前を見つめ直していたのだ。  私は必要なページをスマートフォンのカメラで素早く撮影した。  無音のシャッターを切るたび、スマートフォンの画面が暗い書庫の中で何度か白く明滅する。  原本を持ち出すことはできない。黒瀬が鍵の紛失に気づかなくても、中身が消えていれば私が持ち出したことは明白になり、美津子の排除の仕組みが即座に動き出す。  撮影を終え、ファイルと紙の束を元の順番通りに引き出しに戻す。  鍵をかけ、引き出しの表面に残った指紋をカーディガンの袖で丁寧に拭き取った。  書庫を出て、再び音のしない絨毯の廊下を足早に戻る。  自室の扉を開け、内側からロックをかけた瞬間、私は床にへたり込みそうになるのを必死に堪えた。  手に入れた。  噂でも、推測でもない。美津子が主治医を使って花嫁たちを狂わせ、処分したという、明確な時系列の証拠。  私は靴箱の裏から革張りのメモ帳を取り出し、デスクに向かった。  ボールペンを握る右手が小刻みに震えている。  スマートフォンの画面に写した入室記録と状態報告書を見ながら、その事実をメモ帳に書き写そうとした。  けれど、ペン先が紙に触れる寸前で、私の動きはピタリと止まった。  前世の、あの息苦しい会議室の光景が、フラッシュバックのように脳裏に蘇る。  ――顧客情報の誤送信トラブル。  あの時、私は紗耶ひとりの確認漏れとして処理されるのを防ぐため、営業部の新堂の判断、広報部長の承認を含めた『時系列表』を作った。  誰が、いつ、何を確認したのか。客観的な事実だけを羅列した表。  けれど、それは会議室でいとも簡単に私を刺す刃に変えられた。  私のチャット発言だけが切り取られ、「同期に責任を押し付けようとしている極悪人」の証拠として提出された時、私の作った時系列表は「言い訳のための偽造資料」として一蹴されたのだ。  なぜ、あの時私は負けたのか。  事実を並べただけでは、ダメだった。  言葉や記録は、それ
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第109話 前後の流れを残す方法③

 震えは、止まっていた。  メモ帳の真新しいページを開き、定規代わりにスマートフォンの縁を当てて、縦と横に何本もの直線を引いていく。  エクセルのスプレッドシートを作るように。  一番上の行に、項目名を書き込む。  【日時】  【事象(アクション)】  【発言者/実行者】  【承認者】  【沈黙した者/傍観者】  【切り取られた文脈(相手がでっち上げた公式の筋書き)】  それから、その項目の下に、今日書庫で手に入れた情報と、これまでに集めた事実を、感情を一切交えずに埋め込んでいく。 『11/8 10:00』 『主治医による投薬量の変更指示』 『実行者:主治医・吉見』 『承認者:天野美津子』 『沈黙した者:黒瀬誠司(記録しながら放置)』 『でっち上げられた筋書き:環境適応障害による一過性の精神的失調のための治療』 『茶会当日 午後三時』 『サンルームでの茶会。美津子からの精神的圧迫』 『発言者:天野美津子』 『承認者:なし(密室のため)』 『沈黙した者:小坂千尋(給仕として同席するも口外せず)』 『でっち上げられた筋書き:実家を救うために無理をして夜な夜な泣いている娘への、姑からの優しい気遣い』  インクが紙の繊維に染み込み、青黒い文字の列が、揺るぎない事実として定着していく。  その単語を書いた瞬間、ペン先が一度だけ止まった。  前世の会議室で、切り取られたチャットログを前に喉が塞がった感覚が、指先まで蘇る。  あの時の私は「文脈を見てください」と訴えることしかできなかった。  ペン先を、もう一度紙へ押し当てる。  今度は、見てくれる誰かを待たない。  見ざるを得ない形にする。  ペン先が紙を走るカリッ、カリッという音が、静寂の部屋に心地よいリズムを刻んでいた。  そうだ。これでいい。  誰かが言葉を切り取り、不都合な文脈を削り落として「公式な記録」を作ろうとするなら。  私はその削り落とされた『前後の流れ』と、誰がその嘘に加担し、誰が見て見ぬふりをしたのかという『共犯の構造』そのものを、逃げ道ごと封じる形で記録する。  これなら、私が死んだ後でも、あるいは私が生き残ってこの記録を公の場に叩きつける時でも、決して彼らに「都合の良い解釈」への逃げ道を与えない。  記録は、自分を守るための盾であると同
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第110話 社交界の罠①

 自室の扉を少しだけ開け、廊下に誰もいないことを確認する。 私は音を立てずに深紅の絨毯の上へ足を踏み出し、数時間前に黒瀬が立ち止まっていた場所へと向かった。 カーディガンのポケットから、冷たくなった真鍮の鍵を取り出す。 床にしゃがみ込み、毛足の長い絨毯の隙間に、その鍵をそっと滑り込ませた。 金属が絨毯に沈み込む、わずかな感触。 これでいい。明日、黒瀬がこの場所で鍵を「見つける」ことになれば、私が書庫に侵入したという物理的な証拠は一つ消える。 足早に自室へ戻り、鍵をかける。 私はデスクの上に置かれたメモ帳の表を見下ろし、冷たくなった両手を強く擦り合わせた。 武器は手に入れた。あとは、これを使う「場所」と「タイミング」だ。 翌日の午後。 私は千尋の手によって、アイボリーのシルクドレスに着替えさせられ、一階の南翼にある「光の広間」と呼ばれる大広間へと案内されていた。 天井一面にフレスコ画が描かれ、巨大なシャンデリアが三つも吊るされたその部屋には、すでに二十名近い招待客が集まっていた。 昨日のお茶会よりも規模が大きい、天野家が主催する定期的なサロン。 香水と、整髪料と、淹れたての紅茶の香りが混ざり合い、暖炉の熱気とともに部屋の空気を重くしている。 私は美津子の斜め後ろに立ち、紹介されるたびに完璧な角度で頭を下げ、微笑みを振りまいていた。「凛花さん。少し、こちらの方々とお話をしていてちょうだい」 サロンが始まって三十分ほど経った頃、美津子がふわりと香水の匂いを漂わせて私に告げた。「わたくしは、あちらのテーブルにご挨拶に伺わなければならないから。……皆様、どうかこの子をよろしくお願いいたしますね」 美津子は前回のお茶会にもいた恰幅の良い婦人と若い令嬢のグループに私を預け、優雅な足取りで離れていった。 私の鼓膜の奥で、かすかな警報が鳴った。 美津子が、自ら私を孤立させた。 広間の向こう側、少し離れた柱のそばでは、透が数人の初老の男性たちに囲まれて何事か言葉を交わしているのが見える。彼もこちらには来ら
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