All Chapters of 檻を飛び出し、羽ばたけ大空へ​: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 ​

ただ機長に昇進したことしか知らず、深雪がどれほど優れているのかを、まったく分かっていなかったのだ。​機体の前に佇む彼女は、全身から眩いばかりの輝きを放ち、強く心を揺さぶるものがある。​武志の胸に、名状しがたい後ろめたさと恐怖が湧き上がった。思わず唇を噛み締め、声を絞り出した。​「彼女に、離婚したくないと伝えるためにここへ来ました。​彼女は離婚届を置いたまま姿を消してしまい、昨日は仕事に行くと言い残して出かけたので、身を案じています」​講義の場ではあれほどよどみなく言葉を操る大学教授の武志が、今はひどく不器用に、一言一言を慎重に選びながら話している。​「離婚したくない、ですか?」​哲生は鼻で笑った。​「まともな夫婦関係ならお互いの支えになりますが、足かせになった時点で、さっさと断ち切るべきだと思います。​家庭を持つ身としてはっきり言いますが、君たちはとっくに終わらせるべきでした。君は彼女に不釣り合いで、ただの足手まといに過ぎません。彼女を結婚という狭いしがらみに閉じ込め、底なし沼へ引きずり込むだけでしょう。​それに、俺の知る限り、君には忘れられない初恋の女性がいるはずです。その女性と復縁するつもりはないんですか?」​哲生の容赦ない言葉は、武志の胸の奥深くを抉り、ひた隠しにしてきた醜い本心を白日の下に晒した。​――諦めるべきなのか?しかし、どうしても納得がいかない。​いつか深雪が他の誰かのものになるかもしれないと考えるだけで、胸が締め付けられるように痛む。​三年間も共に暮らしていれば、たとえ生き物を飼っていても、愛着が湧くものだ。​ましてや、あれほど素晴らしい女性を目の前にして、惹かれないわけがない。​ただ、これまでは鈴への未練と執着が頭から離れず、深雪を愛してはならないと、何度も己の心に言い聞かせていただけだったのだ。​時折、武志は考えていた。鈴が世界のどこかで生きていて、二度と戻ってこなければよかったのに、と。​そうすれば、少なくとも深雪と共に平穏でささやかな幸せを紡いでいられたはずだ。​あるいは、最初から深雪と出会っていなければ。あの日、頑なに突っぱねてお見合いを断っていれば。​そうすれば、今のような板挟みの状況を避けられるのではないだろうか。​武志はうつむき、前髪の隙間から床を見
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第12話 ​

「鈴!誤解だ、そんなんじゃない!」​武志は慌てて後を追い、住宅街の中を焦りながら何度も探し回った末、ようやく公園の片隅で鈴を見つけた。​見ると、彼女の足首はひどく赤く腫れている。武志はたまらない気持ちになり、彼女を抱きしめてその涙を拭った。​「戻ろう、な?」​「嫌よ、武志。もう私たちのことは終わりにしよう」​鈴は鼻をすすり、真っ赤な目で武志を見つめながら、声を詰まらせた。​「武志みたいに親の言いなりになってお見合いをして、適当な相手と結婚して、適当に生きていくわ。​私としか結婚しないって、誓ったのは武志でしょう?もうその誓いは破られたんだから、これ以上あなたに未練は残っていないよ」​そう言って大粒の涙をこぼす姿に、武志の胸は乱されるばかりだ。​頭では分かっている。今ここで離婚を告げ、彼女を妻に迎えると約束すべきだと。​それなのに、どうしてもその言葉が喉に引っかかって、出てこない。​言いかけたものの、唇を少し動かしただけで、ため息をつくしかなかった。​武志はうつむき、長い葛藤の末に、ようやく重い口を開いた。​「……離婚は、する」​その一言を口にした瞬間、心も体も鉛のように重くなった。​胸の奥が大きな岩で塞がれたかのように、息苦しさが押し寄せてくる。​告げた途端、激しい後悔が込み上げてきた。​「本当?」​鈴は嬉しそうに武志の胸に飛び込み、甘えるような視線を向けた。​「じゃあ、今すぐ名前を書いてちょうだい」​嫌だ、と。​喉元まで出かかった拒絶の言葉を、辛うじて胃の底へと押し戻した。​結局、自分がどうやってその紙に名前を書き連ねたのか、武志自身はよく覚えていない。​並んだ筆跡には、いつもの力強さが微塵もなく、書き終えた瞬間、彼は自分の選択を心の底から悔やんだ。​しかし、鈴はそんな隙を与えるはずがない。彼女は素早く離婚届を奪い取り、スマホのカメラで撮影すると、すぐさま深雪に送りつけた。​【武志も署名してくれたわ。あとは深雪が戻ってきて、一緒に役所に提出するだけね】​機体から降りたばかりの深雪は、そのメッセージを目にしても、まったく動揺しなかった。​二人は今頃、睦み合っているのだろう。​そのように思っても、もはや胸にさざ波一つ立つことはなかった。​そこへ、背後から
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第13話 ​

月曜日は、深雪と鈴が話し合って決めた日だ。​武志は約束通り、役所の前にやってきた。​この数日間、彼はあの時自分が口にした言葉を、ずっと後悔し続けていた。​けれど、嬉しそうな鈴の姿を見ると、後悔など口にすることはできなかった。​本当に離婚するのだろうか。​役所から晴れやかな笑顔で出てくる、入籍したばかりの夫婦たちを目にした武志は、ふと胸に迫るものを覚えた。​かつて自分と深雪が入籍した時も、彼らのように喜んでいたのだろうか。​だが、あの日に撮った記念写真を思い返すと、とても喜んでいたとは言えないと気づいた。​あの日の記憶が、再び脳裏に蘇る。​お見合いで知り合った後、互いの親に簡単に挨拶を済ませ、式の取り決めをした翌日には、もう入籍に行った。​すべてが早送りのようで、今思い返しても信じられないほどの速さだ。​けれども、はっきりと覚えているのは、あの日の自分が少しも嬉しくなかったことだ。​鈴が亡くなったという衝撃と、親からの重圧という絶望の渦中にいて、笑顔などこれっぽっちも作れなかった。​でも彼と違って、隣にいた深雪の顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。​最初の頃、彼女はこの結婚に少なからず期待を抱いていたのだろうか。​彼らは一体、なぜここまでこじれてしまったのだろう。​武志は黙り込んだまま、どうしても役所の中へ一歩を踏み出せずにいる。​「武志?武志!」​鈴がその手を揺さぶり、何度も声をかけたが、彼はまったく反応しなかった。​鈴の顔色はみるみる曇り、胸の中で物事が手からこぼれ落ちていくような焦りが生まれた。​しかし、もう待てない。何が何でも今この好機を逃さず、武志と深雪を離婚させなければならない。​でなければ、この機会を逃すと、次からは武志が首を縦に振らなくなるのではないかと恐れてしまう。​そこへ、深雪が一成を連れて役所の前に現れた。​「武志、おはよう」​深雪の声には何の感情もこもっておらず、武志と鈴が睦み合っているのを目にしても、微動だにしなかった。​まるで、自分とは何の関係もない赤の他人を見つめているかのようだ。​その声を聞いて、武志ははっと振り返り、深雪の姿を捉えた瞬間、その背後に立つ一成の姿も視界に捉えた。​何しろ背が高く、すらりとした体躯の男で、嫌でも目を引
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第14話 ​

「江本様、奥様。本当にお二人は離婚されることで間違いありませんか?」​窓口の係員が決まり文句を口にした。​「はい、間違いありません」​深雪は揺るぎなく言い切った。​「……」​武志はただ黙り込んだままだ。​彼は険しい表情で、暗い眼差しを深雪に向け、かすれた声で静かに切り出した。​「深雪、俺たち……やり直せないか?」​その一言を絞り出すだけで、彼はありったけの気力を使い果たした。​言い終わるか終わらないかのうちに、深雪はにべもなく突っぱねた。​「無理よ」​武志の瞳から光がみるみる消え失せ、暗闇だけが残された。​「……分かった。​はい、離婚します」​彼は係員に向かって、やっとの思いで告げた。​離婚こそ自分が望んでいた結末なのだから、これでいいのだと、必死に自分に言い聞かせながら。​――これで……いいはずだ。​胸を締め付けられるような苦しみに呑み込まれそうになりながら、離婚届が受理されるのを見つめる武志の目は、真っ赤に充血している。​何よりも、深雪の傍らに一成がぴたりと寄り添っていることが、武志の心を乱した。​「手続きが終わったら、またこっちへ戻るつもりはありますか?」​一成が何気なく尋ねた。​「いいえ、もう戻りません。国際線への異動を決めた時から、こっちへ帰ってくるつもりはありませんでしたから。​あっちの住まいももう決まっていますし、近いうちに会社の寮を引き払う予定です」​深雪は真面目に答え、手渡された受理証明書を手に、少しばかり胸を高鳴らせている。​手続きが済んだこの瞬間、彼女はずっと己の肩にのしかかっていた重荷が、ようやくきれいさっぱり消え去ったのを感じた。​これで、武志とは一切関係がなくなった。​戸籍に自分の名前だけが残されているのを見て、武志の胸には微塵の喜びも湧かない。​晴れやかな他の三人とは違って、彼は全身に寂しさを漂わせ、その佇まいはひどく重苦しい。​「武志、私たちやっとまた一緒になれるのね。嬉しくないの?」​鈴は満面の笑みを浮かべ、武志の大きな手に自分の手をねじ込むと、無理やり指を絡ませた。彼が自分を愛しているのだと、一刻も早く証明したいのだ。​さらに深雪を勝ち誇ったように見つめるその目は、まるで「ほらご覧なさい、やっぱりあなたは私の足元
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第15話 ​

だが、鈴にはそんな幸運は訪れなかった。ワゴン車に弾き飛ばされるようにしてその場に倒れ、見るも無惨な姿で地面にへたり込んだ。​いつもなら真っ先に駆けつけて守ってくれるはずの武志さえ、今は彼女のそばに寄ろうとせず、その様子を気遣う気配もない。​その古ぼけたワゴン車と、見覚えのあるナンバープレートを目にした瞬間、鈴の顔から血の気が引き、唇ががたがたと震え始めた。​「嫌……嫌よ……私じゃない……」​彼女は這いつくばるようにして起き上がると、なりふり構わずその場から逃げ出そうとした。​その時、ドアが開き、端正な顔立ちで身軽な格好をした男が、苦虫を噛み潰したような表情で降りてきた。​「浜田鈴、まさかまたお前に会える日が来るとは思わなかったぞ!」​加賀谷泰造(かがや たいぞう)は歯を食いしばり、言い放った。​鈴の薄汚い嘘にまみれた顔を見つめていると、今すぐにでもその身を引き裂き、骨まで噛み砕いてやりたいほどの憎しみが込み上げてきた。​「私じゃないわ!人違いよ!」​鈴は慌てて武志の背後に隠れ、怯えた目で彼を睨みつけた。​「武志、あの人はひどいの。車で私をはねておきながら、謝りもしないのよ。すごく痛いわ……お願い、あの人を懲らしめてちょうだい」​しかし、武志も決して愚かではない。長年大学で教鞭を執ってきた経験があるだけに、ただ事ではない雰囲気を瞬時に察した。​車から降りてきた男がためらうことなく鈴の名を呼んだこと、そして彼女のうろたえた様子から、二人がただならぬ関係なのは一目瞭然だ。​もしかすると、消息を絶っていたこの三年間、彼女はこの男と共に暮らしていたのかもしれない。​そこまで思い至った武志は、胸の内で何かが繋がったのを感じ、鈴の手を力強く掴んで自分の前に引き寄せると、厳しい声で問い詰めた。​「泣くのはやめろ。お前、この男を知ってるな?」​彼女がうつむいたまま固く口を閉ざしているのを見て、武志の胸の怒りは一層燃え上がった。​「この男と一体どんな関係なんだ。本当のことを言ってくれなければ、力になりようがない!」​「私は……その……」​鈴は口ごもるばかりで、何一つ言葉を返せなかった。​泰造は鼻で笑った。​「こいつが言えないなら、俺が話してやる!​三年前、親父は命がけで海からこいつを救い上げた。
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第16話 ​

「最初の二年間は、それなりに穏やかに暮らしてた。だが、結婚記念日の夜にこいつが泥酔して、うっかり口を滑らせたんだ。​親父がこいつを船に引き揚げて人工呼吸をしようとした時、目を覚ましたこいつはその顔を見て気味が悪くなり、襲われると勘違いして親父を何度も蹴り飛ばした。​その挙げ句に海へ突き落とし、親父が溺れていくのをただ黙って見殺しにしたんだ!​すぐ近くに救命用のロープがあったっていうのに、何もしようとしなかったんだ!」​そこまで来ると、泰造の恨みは頂点に達し、言葉を喉の奥から絞り出すようにして吠えた。​「あの夜、俺は怒りに任せてこいつを突き飛ばし、いっそ首を絞めて殺してやろうかとさえ思った。だが、間一髪で手を離した。こいつと同じような化け物に成り下がるわけにはいかなかったからな。​こいつはその拍子に壁に頭をぶつけ、翌朝、すべての記憶を取り戻した。​表向きは申し訳ない、罪を償うと言いながら、お袋が病気で倒れて治療費を工面した途端、その金を一銭残さず盗み出して、一人でとんずらしやがったんだ!​お袋は……結局、助からなかった……」​泰造の声は消え入りそうなほど細くなり、どこか遠くを見つめている。​その場は凍りついたかのような静寂に包まれた。​まだ近くにいる深雪と一成さえも、言葉を失い、立ち尽くしている。​武志は隣にいる鈴を見やり、その目は驚愕に満ちている。​彼は、自分がずっと必死に守ってきた人間が、これほどまでに卑劣で恐ろしい本性を持っているなど、想像すらしていなかった。​かつて彼女のわがままや荒い気性は、すべて若さゆえの愛嬌として受け入れてきたというのに。​しかし、二人の命を奪ったという大罪だけは、到底受け入れられるものではない。​武志の眼差しからは明らかな失望が読み取れ、戸惑いを隠せない様子だ。​どうして、あの優しくて愛らしかった女の子が、これほどまでに残酷な人間に成り果ててしまったのだろう。​彼には理解できなかったが、深雪にとってはそれほど意外なことでもない。​これまでの鈴の冷酷な振る舞いを見れば、彼女が到底まともな人間ではないことは容易に察しがつく。ただ、武志は都合よく彼女を信じ込んでいただけだったのだ。​鈴は縋るように武志の手を握りしめ、必死に首を振った。​「武志、私たちは幼馴染で
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第17話 ​

周りの誰もがまだ事態を呑み込めずにいる中、一成と深雪が左右から鈴を押さえつけ、警察へと引き渡した。​警察が鈴を連行していくのを見送りながら、泰造は込み上げる感情に押され、危うく言葉を失いかけている。​憎しみの果てに、ただ鈴の本性を暴くことだけを考えてここまでやってきたが、その先の結末など、思い描くことすらできなかった。​鈴の実家はK市でも名高い名家であり、それに対して自分は海辺の街のしがない漁師に過ぎず、到底太刀打ちできる相手ではないと諦めていた。​それなのに、まさかこうしてすべてが白日の下に晒される日が来るとは、夢にも思わなかった。​警察が興奮している泰造をなだめている隙に、深雪は手元にあった録音データを警察へと手渡した。​簡単に事情聴取を終えると、深雪と一成はその場を後にしようとした。​「深雪!」​その時、武志が突然彼女を呼び止め、重苦しく言葉を紡いだ。​「すまなかった。​前にお前が階段から落ちたのも、あいつに突き落とされたんだな?」​深雪は一度だけ振り返って彼を見つめ、小さく「ええ」とだけ応じると、再び歩き出した。​もはやそんな真実を彼が知ろうが知るまいが、彼女にはどうでもいいことのようだ。​なぜなら、あの時に受けた理不尽な疑いの苦しみは、すでに一人で耐え抜いてきたのだから。​今さら謝られても、何の手助けにもならない。​武志の顔からは、瞬く間に生気が失われていった。​「はは……​全部、俺のせいだ……俺がやらかしたことだ……」​胸の奥から溢れんばかりの後悔が押し寄せるが、今の彼には、深雪に許しを請う資格さえ残されていない。​奥からは、鈴の往生際の悪い叫び声が響いている。​「弁護士を呼んで!私はやってないわ、何もしてない!全部あの男の言いがかりよ!証拠もないのにどうして私を閉じ込めるの?​浜田家も江本家も、ただじゃおかないから!」​江本家という名を耳にして、警察官たちが一瞬だけ顔を見合わせた。​すると、武志が足早に歩み寄り、冷徹な口調で言い放った。​「江本家はこの件に手を出すつもりはありません。江本武志です。江本家の一員として言いますが、彼女の犯した罪は厳正に裁いてください。これほどの悪事を働いた以上、相応の報いを受けるのは当然のことです!」​氷のように冷え切った声
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第18話 ​

自宅に戻った武志を待っているのは、ただ果てしない寂しさだけだ。​広すぎる屋敷には人の気配など微塵もなく、ただ冷ややかな空気が満ちている。​かつて深雪が使っていた品々は、とっくに彼女の手できれいに片付けられていた。​皮肉なことに、この家には鈴との思い出の品ばかりで、深雪と一緒に映った写真の一枚すら残されていない。​スマホの中を探しても深雪の姿は見当たらず、今や彼女の面影を辿る術さえ持ち合わせていない。​この三年間、自分がいかに夫失格であったかを、嫌というほど思い知らされた。​一方、深雪と一成は再び澄み渡る大空へと舞い戻り、二人での最後となるフライトを無事に終えた。​「深雪、次からは別の者と組むことになるが、やっていけそうか?」​一成は真面目な面持ちで尋ねた。​「ええ、もちろんよ!」​深雪はしっかりと前を見据え、力強く答えた。​彼女はとうに豊かな経験を積んだ機長であり、たとえ一成のサポートがなくても、十分にやっていける自信がある。​空こそが、彼女が羽ばたくべき場所だから。​大空を幾つもの航空機が横切っていくのを眺めながら、武志は時折、あの機体に深雪が乗っているのではないかと考えてしまうことがある。​国際線へ異動してしまい、もう滅多に戻らないことは分かっているが、まさかあの別れの日以来、一度もその姿を見かけられなくなるなんて思わなかった。​それなのに、頭の中にある彼女の面影は、皮肉なほど鮮明になっていく。​彼女の誕生日も、今でははっきりと覚えている。​もう二度と忘れることはない。​マンゴーアレルギーがあること、辛いものが苦手なこと、花を好むこと、そして……​彼女のあらゆる好みが心に深く刻み込まれていくが、それを本人に伝える機会はもう二度と訪れない。​「深雪、お前の好きなことも何もかも、全部覚えたんだ。一体いつになったら、戻ってきてくれるんだ?」​代わり映えのしない講義を淡々とこなす日々の中で、彼はかつてのように好きな人の話を口にすることがなくなった。​ある日の講義中、好奇心旺盛な新入生が再びこんな質問を投げかけた。​「先生、お若いですが、お付き合いされている方はいらっしゃいますか?」​途端に教室中から冷やかすような声が上がり、立ち上がった女子学生は顔を真っ赤に染めている。​
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第19話 ​

「深雪と同じものを使ってるのに、どうしてあの香りがしないんだろう……」​武志はぽつりと独りごちた。その目は真っ赤に充血し、瞳の奥には底知れぬ闇だけが宿っている。​もう何日もまともに眠れておらず、心身ともに限界に達している。​ほんの数分まどろんだかと思うと、すぐに悪夢にうなされて跳び起きる。​夢の中の深雪は、あの日と同じように、何の前触れもなく彼のもとを去っていく。​どんなに必死に手を伸ばしても、その体を繋ぎ止めることはできない。​翌朝、目覚まし時計の音が響き渡ると、武志はロボットのように淡々と身支度を整え、服を着替え、食事を済ませて外へ出た。​いつも通りの手順を終え、玄関口に辿り着いたその瞬間、彼は糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。​講義の時間になっても姿を見せない教授を心配し、学生たちは慌てて連絡を試みた。​電話がつながらないことを知った学生たちは、他の教員にその状況を伝えた。​武志と親交のあった教員たちが何とか深雪の連絡先を突き止め、電話をかけると、幸いにも応答の声が聞こえた。​「もしもし」​教員の一人が切羽詰まった声で尋ねた。​「江本武志教授の奥様ですか?先生に何かあったのではないかと思いまして。今日の講義にいらっしゃらず、誰とも連絡が取れないのです」​深雪の冷ややかな声が、受話器の向こうから響いてきた。​「あいにくですが、あの人とはとっくに別れております。ご用があるなら、彼のご両親か、ご友人の五明聡さんにご連絡ください。番号は後ほどお送りします。​まもなく担当するフライトが離陸しますので、これ以上の連絡はご遠慮いただけますか」​電話の向こうから空港特有の喧騒がはっきりと聞こえ、職員室の面々は一様に口を閉ざした。​様子を見守っている学生たちも大きな衝撃を受け、場は静まり返った。​通話が切れた後、すぐに三つの連絡先が、それぞれの名前を添えて送られてきた。​教員たちが手分けして連絡を取ると、聡が電話に出て、すぐに様子を見に行くと引き受けてくれた。​武志の自宅に駆けつけ、ドアを開けた聡の目に飛び込んできたのは、玄関で倒れ伏している男の姿だ。​あまりのやつれ様に聡はため息を隠せず、慌ててその体を抱きかかえ、病院へと運び込んだ。​再び意識を取り戻した武志は、病室の白い天井を虚ろ
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第20話 ​

武志は聡の最後の言葉をまるで耳に入れない様子で、その瞳には異様な光が宿っている。​「ああ、ちゃんと会って、心の底から謝らなければならない」​無事に退院すると、武志はすぐさまA国行きの航空券を手配し、もしかしたら機内で深雪に巡り会えるかもしれないと淡い期待を抱いている。​けれども、大切なことを忘れている。​深雪は機長であり、特に問題がない限り、通常は客席に姿を現すことはない。​A地に降り立つと、武志はどうにかして彼女のフライトスケジュールを手に入れた。​そこに並ぶ彼女の名前を目にして、胸の鼓動が不規則に高鳴った。​彼女が担当する便のチケットを買い求め、早くから空港に着き、VIP通路を通り、搭乗口の前でクルーが現れるのをじっと待った。​やがて、凛とした制服姿の深雪が現れると、武志は思わずその名を叫んだ。​「深雪!」​けれども、彼女は一瞬だけ足を止めたものの、そのまままっすぐ歩き去り、彼に一瞥すらくれなかった。​今は職務の最中だから、私情を挟むわけにはいかないのだろうと、武志は自分に言い聞かせた。​それでも、こうして再び彼女の姿を目にできただけで、胸がいっぱいだ。​武志は乗客の流れに身を任せて機内に乗り込み、数時間のフライトを経て目的地に着くと、疲れを感じる暇もなく、真っ先に降りた。​そうしてエプロンの片隅で長い間待ち続け、深雪がすべての引き継ぎを終えて出てくるのを見届けると、そっとその後を追った。​「恐れ入りますが、お客様、ここから先は関係者以外立ち入り禁止となっております」​警備員が慌てて武志の行く手を阻み、別のルートへ進むよう促した。​「出口が分からない場合は、係の者がご案内いたしますので」​武志は落胆を隠せないまま、一般の出口から外へ出るしかない。​そんな風に深雪の影を追いかけ回すことを数回繰り返し、ついに出勤前の彼女を捕まえることができた。​「深雪、少しだけ話を聞いてくれないか。今までお前をたくさん傷つけてきた。そのことを、ちゃんと謝りたいんだ」​彼は消え入りそうな声で、すがるような眼差しを向けた。​かつて鈴以外には目もくれなかったあの冷淡な面影は、どこにもなかった。​一向にプライドが高かった彼が、これほど下手に出る日が来るとは、深雪自身も思いもしなかったことだ。​彼
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