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檻を飛び出し、羽ばたけ大空へ​

檻を飛び出し、羽ばたけ大空へ​

作者:  満天星ちゃん​已完成
語言: Japanese
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故事簡介

逆転

ひいき/自己中

愛人

後悔

スカッと

「部長、海外への転任を申請します。これからはずっと、国際線専門で勤務させてください」 ​ 南国航空の運航本部。江本深雪(えもと みゆき)は、パリッとしたパイロットの制服に身を包み、凛々しい姿でまっすぐな視線を向けながら、手元の申請書を差し出した。 ​ 部長の進藤哲生(しんどう てつお)は顔を上げ、真顔で彼女を見つめた。 ​ 「深雪、本気なのか?行ってしまえば、もう二度と国内線には戻れないんだぞ」 ​ 深雪の唇に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。 ​ 「はい。両親はすでに亡くなりましたし、夫とも……離婚するつもりです。国内には、もう未練のある人は誰もいません。これからは、ただ空を飛ぶことだけにすべてを捧げたいのです」 ​ 彼女の固い決意を察した哲生は、それ以上引き留めるのをやめ、胸の中で深いため息をついた。 ​ 「そこまで言うなら、もう止めはしない。君は南国航空で唯一の女性機長だ。もっと広い世界へ羽ばたくべきだろうな。 ​ 深雪、広い空へと飛び立つ運命の鳥もいる。その翼は、生まれつき遠くを目指すためにあるんだからな。異動の手続きが整い次第、すぐに声をかける」 ​

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第 1 章

第1話 ​

「部長、海外への転任を申請します。これからはずっと、国際線専門で勤務させてください」

南国航空の運航本部。江本深雪(えもと みゆき)は、パリッとしたパイロットの制服に身を包み、凛々しい姿でまっすぐな視線を向けながら、手元の申請書を差し出した。

部長の進藤哲生(しんどう てつお)は顔を上げ、真顔で彼女を見つめた。

「深雪、本気なのか?行ってしまえば、もう二度と国内線には戻れないんだぞ」

深雪の唇に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。

「はい。両親はすでに亡くなりましたし、夫とも……離婚するつもりです。国内には、もう未練のある人は誰もいません。これからは、ただ空を飛ぶことだけにすべてを捧げたいのです」

彼女の固い決意を察した哲生は、それ以上引き留めるのをやめ、胸の中で深いため息をついた。

「そこまで言うなら、もう止めはしない。君は南国航空で唯一の女性機長だ。もっと広い世界へ羽ばたくべきだろうな。

深雪、広い空へと飛び立つ運命の鳥もいる。その翼は、生まれつき遠くを目指すためにあるんだからな。異動の手続きが整い次第、すぐに声をかける」

……

運航本部を後にした深雪は、うららかな陽気を見上げ、胸のつかえがすっと下りていくのを感じている。

家に戻ると、すぐにテーブルの上に置かれた小さなギフトボックスが目に入った。

江本武志(えもと たけし)は金縁の眼鏡をかけ、ソファに座って本を読んでいる。深雪の帰宅に気づくと、冷ややかな視線を向け、ぶっきらぼうに言った。

「テーブルの上のあれは、お前への誕生日プレゼントだ。おめでとう」

深雪は自嘲するように唇の端を歪め、力なく呟いた。

「私の誕生日は昨日よ。間違ってるわ」

その言葉に武志はわずかに目を見開いたが、すぐにまた口を開いた。

「次は覚えておく」

彼はいつもそうだ。何が起きても淡々としており、まるで彼の心にさざ波一つ立てることさえできないかのようだ。

「次は覚えておく」という言葉は、深雪がこれまで何度耳にしたか分からない。

なのに、武志は一度たりとも覚えていたことがないのだ。

そこへ、執事が恭しく歩み寄ってきた。

「旦那様、バラが空輸で届きました。庭師に手配し、細心の注意を払って手入れをさせております。

ネックレスもサザビーズのオークションで無事に落札いたしました。それから、浜田様のお気に入りのレストランも、すでに手配済みでございます」

武志は小さくうなずき、言葉を添えた。

「鈴は静かな場所を好む。誕生日当日は、店を貸し切りにするよう手配しておいてくれ」

彼が事細かに指示を出すのを聞きながら、深雪はただ、これ以上ないほどの皮肉を感じている。

浜田鈴(はまだ すず)の誕生日はまだ三ヶ月も先だというのに、武志はこれほど大げさに支度を始めている。

けれど自分の誕生日が昨日というのに、彼は覚えてもいなかった。

愛しているか、愛していないか、これほど残酷な天と地の差を生む。

深雪と武志はお見合いで出会った。

最初の顔合わせの席で、彼は唐突に結婚を申し込み、彼女は迷うことなくそれを受け入れた。

ずっと前から、彼に密かな恋心を抱いていたからだ。お見合いの相手がまさか想い人だなんて、神様がどれほど自分の味方をしてくれているのだろう、と当時は思った。

だからこそ、結婚してからの三年間、彼が家に帰ってくるのは片手で数えられるほどしかなくても、一年間で会話する回数が百回にも満たなくても、夜を共にする時、その瞳の奥に一欠片の温もりが宿っていなくても。

彼女はそれを喜んで受け入れていた。彼は生まれつき冷淡な性格だと思い込み、それなら自分は尽くせる限りの妻でいようと心に決めたのだ。ただ彼と生涯を共にできればいい、それ以上の贅沢は望まないと。

だが、それも三ヶ月前、鈴が突如として姿を現すまでのことだった。

いつも氷のように冷徹だった武志の顔に、それほど狂喜の表情が浮かぶのを、深雪は初めて目にした。

それはまるで、長い間よどんでいた湖に突然激しい波が立ったかのようだった。

そしてその日、深雪は初めて知った。自分が出会うより前に、武志には心から愛した初恋の相手がいたことを。その相手が鈴であり、二人は若い頃に愛し合っていた。しかし、彼の愛が最も深かったその年に、彼女は「死んだ」のだと。

彼女の訃報が届いた時、誰もが羨むエリートだった武志は、迷わず手首を切って後を追おうとした。

彼の両親が間一髪で駆けつけたため、一命は取り留めたものの、彼は長い間身も心もボロボロになり、朝から晩まで酒を飲み、ただ虚ろな日々を過ごしていた。

やがて、見かねた両親が死を辞さない覚悟でお見合いを迫り、なんとかその心を闇から救い出そうとしたのだ。

武志の心を最も美しく彩った人は、もうこの世にいない。これからの人生で誰と隣り合おうとも、それはただ適当に選んだ相手に過ぎない。

だからこそ、初めてのお見合いの席で、彼は迷うことなく結婚を口にしたのだ。

だけど、誰も予想していなかった。三年前に亡くなったはずの鈴が、まさか生き返ったかのように戻ってくる日が訪れるなんて。

鈴が現れたことで、深雪の脆く壊れやすい結婚生活は、木っ端微塵に打ち砕かれてしまった。

あれほど冷徹な男でも、誰かを深く愛することができるのだと、今さらながら深雪は思い知らされた。

武志は毎朝早く起き、鈴の大好物であるツナマヨサンドを丁寧に作る。車を一時間走らせ、雨の日も風の日も休まずに届けている。

鈴が好んで使う高級ブランドのカバンやジュエリーをすべて把握し、毎日欠かさず花束を贈っている。

鈴が少し機嫌を損ねてメッセージを返さないだけで、武志は一晩中眠れず、真夜中であっても彼女の機嫌を取ろうと飛び出していく。

そんな光景を、深雪はこのわずか三ヶ月の間に、嫌というほど見せつけられてきた。

だけど救いは、もう二度とそれを目にしなくて済むということだ。

三年間の結婚生活で、彼女が武志の心に踏み込んだことは一度もなかった。

ならば、これからは彼を自由にしてあげよう。それはきっと……自分自身を救うことにもつながるから。

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第1話 ​
「部長、海外への転任を申請します。これからはずっと、国際線専門で勤務させてください」​南国航空の運航本部。江本深雪(えもと みゆき)は、パリッとしたパイロットの制服に身を包み、凛々しい姿でまっすぐな視線を向けながら、手元の申請書を差し出した。​部長の進藤哲生(しんどう てつお)は顔を上げ、真顔で彼女を見つめた。​「深雪、本気なのか?行ってしまえば、もう二度と国内線には戻れないんだぞ」​深雪の唇に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。​「はい。両親はすでに亡くなりましたし、夫とも……離婚するつもりです。国内には、もう未練のある人は誰もいません。これからは、ただ空を飛ぶことだけにすべてを捧げたいのです」​彼女の固い決意を察した哲生は、それ以上引き留めるのをやめ、胸の中で深いため息をついた。​「そこまで言うなら、もう止めはしない。君は南国航空で唯一の女性機長だ。もっと広い世界へ羽ばたくべきだろうな。​深雪、広い空へと飛び立つ運命の鳥もいる。その翼は、生まれつき遠くを目指すためにあるんだからな。異動の手続きが整い次第、すぐに声をかける」​……​運航本部を後にした深雪は、うららかな陽気を見上げ、胸のつかえがすっと下りていくのを感じている。​家に戻ると、すぐにテーブルの上に置かれた小さなギフトボックスが目に入った。​江本武志(えもと たけし)は金縁の眼鏡をかけ、ソファに座って本を読んでいる。深雪の帰宅に気づくと、冷ややかな視線を向け、ぶっきらぼうに言った。​「テーブルの上のあれは、お前への誕生日プレゼントだ。おめでとう」​深雪は自嘲するように唇の端を歪め、力なく呟いた。​「私の誕生日は昨日よ。間違ってるわ」​その言葉に武志はわずかに目を見開いたが、すぐにまた口を開いた。​「次は覚えておく」​彼はいつもそうだ。何が起きても淡々としており、まるで彼の心にさざ波一つ立てることさえできないかのようだ。​「次は覚えておく」という言葉は、深雪がこれまで何度耳にしたか分からない。​なのに、武志は一度たりとも覚えていたことがないのだ。​そこへ、執事が恭しく歩み寄ってきた。​「旦那様、バラが空輸で届きました。庭師に手配し、細心の注意を払って手入れをさせております。​ネックレスもサザビーズのオークションで無事に落札い
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第2話 ​
武志がまだ執事に熱心に指示を出している間に、深雪はそっと寝室に戻り、静かに荷物をまとめ始めた。​荷造りの途中で、彼女はふと武志との数少ないツーショット写真を見つけた。​一枚一枚めくっていく。写真の中の自分は幸せそうに微笑んでいるのに、隣に立つ武志の表情はどこまでも冷ややかで、その瞳はひどく静かだ。​ウェディングフォトでも、入籍日に撮った記念写真でも、彼は笑っていない。​以前の彼女は、彼が生まれつきそういう人間で、写真を撮られるのも笑うのも苦手だと思っていた。​だけど、彼と鈴のツーショット写真を見つけた時、そのすべての写真の中で、彼の瞳は優しく微笑み、隣にいる女の子を愛おしそうに、まっすぐ見つめているのだ。​深雪は胸の奥から湧き上がる感情をぐっと押し込め、ライターで写真に火をつけ、暖炉の中に放り込んだ。​炎が瞬く間に写真に映る光景を焼き尽くし、かつての記憶もまた、灰となって消え去っていく。​焦げ臭い煙の匂いを嗅ぎつけてやってきた武志は、暖炉の中で燃えている写真を見るなり、瞬時に顔色を変えた。​「お前、何を燃やしてるんだ?」​彼は荒々しい声を張り上げると、勢いよく火かき棒を掴み、暖炉の中の物を取り出そうとした。​パチパチという音とともに、薪の破片が飛び散り、深雪の体に降りかかった。​熱さに思わず眉をひそめ、息を呑んだ彼女が身動き一つ取れない隙に、武志はあえて赤々と燃え盛る炎を恐れず、その手を直接突っ込んだ。​炎に焼かれた彼の手は真っ赤に変色しているが、本人はまるで気づいていないかのように、ただ手の中の写真を救い出すことだけに必死になっている。​やがて、焼け残った破片に映っているのがすべて自分と深雪の姿だと分かると、彼はようやく大きく息を吐き、全身の力を抜いた。​――よかった、鈴との写真は無事だ。​手に残った煤けた破片など気にも留めずに放り捨てると、彼は慌てて立ち上がり、棚の中に大切に仕舞われている鈴との写真を確かめに行った。​幼い頃から現在に至るまでの思い出の写真が、棚の中にきれいに並べられている。一枚も欠けていない。ようやく、張り詰めていた心が解き放たれた。​それらの写真を一枚ずつ丁寧に元に戻し終えると、武志は暗い表情で冷たく言い放った。​「これからは、お前のアルバムと俺のアルバムを同じ場所に
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第3話 ​
聡が冗談めかしてそう言うと、武志の顔つきがにわかに険しくなり、冷ややかに言い放った。​「深雪とのことは早いうちに片を付ける。鈴にだけは絶対に辛い思いをさせない。あいつらにも伝えておけ。もし鈴に手を出す奴がいれば、どうなるか分かってるな、と」​これまで何年もの間、深雪が見てきた武志は、いつも冷淡で、決して感情を表に出さない男だった。まるでこの世の何事も、彼の心を揺らすことができないかのように。​それこそ、肌を重ねて彼が身を動かしている時でさえ、顔はいつも無表情だった。​そんな彼が、焼きもちを焼く感情を抱くのを、深雪は初めて目にした。​胸の奥から酸っぱいものが込み上げてきて、先ほどまでの淡い期待は一瞬にして消え去った。​彼がなぜすぐに離婚しようとしないのかは分からないが、彼が鈴を愛していることだけは、紛れもない事実だ。​深雪は静かに背を向け、その場を去った。​家に戻ると、彼女はすぐに離婚届を用意し、一文字一文字、自分の名前をはっきりと書き入れた。​それ以来、武志は数日間、一度も家に帰ってこなかった。​そのため、深雪は離婚の話を切り出すきっかけすら掴めずにいる。​仕方なく、彼女はメッセージを送って彼を呼び出すことにした。​【明日、空いてる?大切な話があるの。初めて二人で会ったあの店で待ってる】​ずいぶん時間が経ってから、武志から一言だけ返信があった。​【分かった】​翌日、レストランの席で、深雪は離婚届をカバンに忍ばせ、テーブルいっぱいに料理を注文して武志の到着を待っている。​一時間ほど経った頃、ようやく彼が姿を現した。​だが、その隣には鈴の姿も見える。​彼女は甘えるような声で言った。​「もうすっかり元気だって言ったのに、武志に何日も入院させられて、やっと今日は思いっきり楽しめるの!武志のお財布を空っぽにしちゃうんだからね!」​武志は愛おしそうに微笑んだ。​「ああ、お前の好きなものなら、いくらでも頼んでいいぞ」​二人は笑顔で歩み寄ってきたが、テーブルに並んだあっさりとした味付けの煮物を見ると、鈴の顔はたちまち曇った。​「武志……」​しょんぼりする鈴の瞳に、武志の心はあっさりと動かされ、慌てて店員を呼び止めた。​「これらの料理はすべて下げてくれ。代わりに唐揚げと、エビ天ぷらと…
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第4話 ​
深雪は手の中の離婚届をぎゅっと握りしめた。伝えたかった言葉は、またしても宙に浮いたまま終わってしまった。​その時、店員が慎重に熱々の鍋を運んできたが、滑りやすい床のせいで足元をよろめかせ、思わず手を滑らせてしまった。​煮えたぎるスープがまっすぐ鈴のほうへと降り注ぐ。武志は血相を変え、とっさに鈴を抱き寄せ、自分の広い背中で熱いスープを受け止めた。​ほんの一瞬の出来事だった。彼の背中はたちまち濡れそぼり、剥き出しになったうなじの皮膚は真っ赤に腫れ上がり、背中からは激しい熱気が立ち上った。​店員が悲鳴を上げる中、武志はあまりの激痛に額に冷や汗を浮かべ、首筋や腕に青筋を逆立てながらも、真っ先に鈴の安否を気遣った。​「鈴、大丈夫か?どこか火傷はしてないか!」​彼女は完全に守られていたため、一滴たりともスープがかからなかったが、突然の出来事にただただ呆然と立ち尽くしている。​ようやく我に返ると、大粒の涙が次々と彼女の頬を伝い落ちた。​「平気よ……武志、どうしてそんな無茶をするの?身代わりになってくれるなんて」​武志は慌てて鈴の手を握りしめ、優しい声でなだめた。​「泣かないでくれ。大丈夫だ、これくらいは大したことない」​だが、もし彼が黒いシャツを着ていなければ、その生地の下で皮膚が焼けただれ、水ぶくれができている無残な姿が、ひと目で分かったはずだ。​スープがどれほど沸き立っていたかを知る店員は、恐怖のあまり涙を流した。​「本当に申し訳ございません。すべて私の不手際です。今すぐ病院へお連れします。治療費はすべて私が負担いたしますので、どうかクレームだけはご勘弁いただけないでしょうか?さきほどのお鍋は……」​鈴を心配させたくないのか、武志は深く息を吸い込み、必死に平静を装った。​「俺は大丈夫だ。クレームをつけるつもりもないから、もう行きなさい」​店員は申し訳なさそうにためらいながらも、その場を離れざるを得ない。​深雪の指先がかすかに震えている。​離婚届を差し出すには、あまりにも不適切な状況になってしまった。​武志は何事もなかったかのように振る舞い、背中がすでにただれ、血に染まっているのも厭わずに鈴に食事を勧めた。​彼が本当に痛がっている様子を見せないため、鈴もようやく涙を拭い、次第に安堵の表情を取り戻して
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第5話 ​
その言葉に、深雪の心臓は一瞬大きく跳ね上がったが、すぐに何事もなかったかのように口を開いた。​「最近、何か手続きをした覚えなんてないわ。ただの迷惑電話じゃないかしら?」​そう言ってスマホを受け取り、通話履歴に目を落とす彼女の顔には、少しの動揺もない。​武志はじっと彼女の顔を覗き込んだが、不審な点は一つも見つけられなかった。​彼はほっと胸をなでおろした様子で、ひとまずその話題を打ち切った。​「ここ数日、看病させて悪かったな。そういえば、以前から一緒にK大を歩きたいと言ってただろう。ちょうど文化祭の時期だから、一緒に行こう」​深雪の動きがわずかに止まった。​かつて彼女がK大を歩きたいと願ったのは、そこが武志の母校であり、彼の青春時代について知りたかったからだ。​けれど、今や離婚を目前に控え、彼のことを諦めようと決めた身だ。今さら足を運ぶ理由など、どこにあるというのだろう。​深雪のためらいを察したのか、武志はわずかに眉をひそめ、有無を言わせぬ調子で告げた。​「よし、決まりだ。明後日、K大に連れて行ってやる」​それは彼女に拒絶の余地を一切与えない、絶対的な言葉だ。​二日後、文化祭当日。武志は退院の手続きを済ませ、約束通り深雪とK大に向かった。​緑豊かなキャンパスを歩く中、深雪が言葉を発しようとしないため、二人の間には息が詰まるほどの沈黙が流れている。​その時、背後から弾むような愛らしい声が響いた。​「武志!」​深雪と武志が同時に振り返ると、黄色いワンピースをなびかせた鈴が、満面の笑みを浮かべてこちらへ駆け寄ってくるところだ。​「なんて奇遇なのかしら!武志も今年の文化祭に来てたのね」​鈴の姿が目に入った瞬間、武志の瞳にふわりと優しい光が灯り、これまでの冷徹さが嘘のように消え失せた。​「そんな薄着で、寒くはないか?」​「寒いわけないじゃない。母校に戻るんだから、とびきりお洒落してこなくちゃ。忘れたの?学生の頃、私は寒さに一番強いって自慢してたでしょう」​武志の唇の端が楽しげに吊り上がった。​「ああ、寒さに強いな。それで月に三回も風邪をひいて、俺に何度も講義をサボらせて薬を買いに行かせたのは誰だったかな?」​「もう、それは昔の話よ!どうして意地悪ばかり言うの?」​懐かしい思い出話に花が
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第6話 ​
再び目を覚ました時、深雪は自分が病院に運ばれていることに気づいた。​「動いちゃだめ!」​看護師がちょうど薬の取り替えに来たところで、起き上がろうとする深雪を慌てて止めた。​「あれだけ血を流したのですから、大人しく休んでください。それにしても、通りすがりの人に運ばれてきてからもう丸一日が経つというのに、どうしてご家族から連絡がないのでしょうか。ご主人の電話もつながりません」​その言葉に、深雪は苦しげに唇の端を歪め、かすかに笑みを浮かべた。​「夫はいません」​入院してから二日が経とうとする頃、武志がようやく姿を現した。​「体調はどう?」​そんな気遣いの言葉をかけられても、深雪の心には一欠片の喜びも湧かなかった。​彼女は静かに彼を見つめ、淡々と話した。​「どうしてここにいるの?浜田さんのそばにいてあげなくていいの?」​武志は一瞬言葉に詰まり、しばらくしてからようやく口を開いた。​「深雪、お前は機長だ。厳しい訓練を重ねてきたし、人一倍体も丈夫だろう。だから、あの時は鈴を先に助けたんだ。悪く思わないでくれ」​深雪はそっと目を閉じ、しばらくの沈黙の後、言葉を紡いだ。​「分かってるわ。言い訳はもう済んだでしょ?それなら、さっさと行って」​彼女の冷ややかな口調と態度に戸惑いを覚えながらも、武志はしばらくして言った。​「お前の看病をしに来たんだ。前は俺の面倒を見てくれただろう?夫婦なら、お互い様じゃないか」​――夫婦、か。もうすぐそうじゃなくなるけど。​それ以来、武志が何を言おうと、何をしようと、深雪は終始そっけない態度を崩さなかった。​かつての二人の立場が、今や完全にひっくり返ったかのようだ。​なぜか武志の胸に、名状しがたい不安がよぎった。何かが静かに、手の届かないところで狂い始めているような気がしてならない。​けれども、鈴から一本の電話がかかってくれば、彼はそんな胸のざわめきなど、たちまちきれいさっぱり忘れてしまうのだ。​深雪が退院するその日、武志の実家から電話があり、家族の食事会に招かれた。​武志の両親からの直々の誘いであれば、二人とも断るわけにはいかず、身なりを整えて向かうことにした。​その席で、深雪も武志も終始黙り込んだままだ。その重苦しい沈黙の原因は、親たちからの「子供はまだか
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第7話 ​
聡は怒りで胸を激しく上下させ、鈴の鼻先を指さして怒鳴り散らした。​「血液が不足してるんだ。そう簡単に手に入るもんか!これまで武志がお前をどれほど大切に想ってきたか、みんな知ってる。​今日だってお前があのチンピラたちと踊ろうなんて言い出さなければ、絡まれることもなかったんだ。お前に呼ばれて、武志は何も言わずに助けに来て、お前をかばって五回も刺されたんだぞ!​命を投げ出した彼のために、ほんの少し血をあげることすら嫌がるなんて、お前には人間としての心がないのか!」​どんなに言葉を尽くしても鈴は首を縦に振らず、挙げ句の果てには家へと逃げ帰ってしまい、聡は怒りのあまり我を失いそうになった。​まさに命の瀬戸際に、深雪が駆けつけた。​「私もAB型よ。私のを使って」​聡は呆然と立ち尽くし、しばらくしてから、ぽつりと毒づいた。​本当に訳が分からない、と。​武志が命よりも愛したはずの想い人は、彼の命を軽んじ、言い訳ばかりで逃げ出した。​見向きもしなかった妻が、迷うことなく救いの手を差し伸べた。​たった一度の出来事が、人の本性を白日の下に晒した。​――武志、お前は今まで、とんでもない間違いを犯していたんだな。​聡の心境など気にせず、深雪は足早に採血室へと入っていった。​看護師が慌てて針を刺し、400mlに達したところで止めようとしたその時、深雪は突然引き留めた。​「もう400ml抜いてください。ひどい怪我だと聞いています。人の命がかかっているんです」​看護師は気の毒そうになだめた。​「普通は400mlでも十分に体に影響があります……」​聡も驚きを隠せず、止めに入ろうとした。​しかし、深雪は静かに首を振った。​「分かっています。でも、今は一刻を争う状況でしょう?やるからには、必ずあの人を救います」​合わせて800mlもの血液が体から失われ、深雪がしばらく身を休めていると、ようやく一命を取り留めたとの知らせが届いた。​ほっと胸をなでおろし、立ち上がろうとした瞬間、彼女の足元ががくりと崩れかけた。​寸前のところで聡がその体を支えた。​「み……深雪さん」​聡が深雪をまともに見たのは、これが初めてに違いない。​だが、もうすぐ二人は顔を合わせることがなくなる。​彼女はかすかに唇を動かした。​
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第8話 ​
「今日からいよいよ国際線だ。しっかり支度をしておいで。​向こうで手配した寮の準備は整ってる。現地に着いたら、そこを使ってもいいし、自分で新しく部屋を借りるなり買うなりしても構わない」​「ありがとうございます」 ​深雪は小さく会釈すると、すぐにクルーを集めて出発前の打ち合わせを始めた。​彼女にとって、これが国際線機長としての初陣だ。休んでいた期間も、一日たりとも学びや訓練を怠らなかった。​打ち合わせが進むにつれ、最初の緊張は薄れ、次第に堂々とした立ち居振る舞いへと変わっていく。​その凛とした佇まいに、その場にいる多くのクルーメンバーが心を奪われている。​打ち合わせが始まってからずっと、副操縦士の席だけがぽっかりと空いたままだ。​深雪がその空席に何度か目をやっていると、終わり際になってようやく、肩幅が広く引き締まった体つきの背の高い男が足早に姿を現した。​「遅れて申し訳ありません。別の便から降りたばかりです。今日は江本さんの腕を確かめる見届け役を兼ね、副操縦士としてこの便に同行させてもらいます。​南国航空で機長を務めている、永長一成(ながおさ かずなり)です」​彼は短くそう告げた。​鋭い眼差しで深雪の姿をさっと一瞥しただけで、それ以上は気にする様子もなく、淡々と手順を進め始めた。​どこか異国の血を引いているのだろうか。彫りの深い目元と、吸い込まれそうなほど深い瑠璃色の瞳を持つ男だ。​深雪は余計な視線を向けず、ただ国際線の規定に従って打ち合わせを続けた。​事前に上司から聞いており、一成の名前は彼女の耳にも届いていた。​南国航空で最も腕の立つ機長だそうだ。そして、彼女もいつかそのレベルに到達できるよう、日々頑張っている。​彼女は固い決意を瞳に宿し、一つの手落ちもなく、A国へと向かう大空の旅を切り拓いていった。​道中、彼女は終始冷静沈着に行動し、予期せぬ事態にも見事に対処し、無事に目的地での引き継ぎまで完了させた。​一成が深雪に向ける視線も、次第に確かな評価と敬意を帯びたものへと変わっていった。​「お疲れ様です。初めての国際線としては見事な出来栄えです。戻ったらゆっくり休んで、体を慣らしてください。あと数回は横について指導しますが、その先は君の腕次第です」​「お疲れ様です。本日の手助けに心から
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第9話 ​
家に戻ると、真っ暗なリビングからは一筋の光さえ漏れていない。​きっと深雪はまだ仕事中だろう。​武志はもともと彼女の勤務時間を把握しておらず、当然、知ろうと心を配ったことさえ一度もなかった。​明かりを点けると、一番目立つテーブルの上に一通の書類が置かれている。​なぜか、胸のざわめきがどんどん激しくなっていく。​その書類が一体何なのか、確かめることさえ恐ろしい。​学生が提出した論文か何かに違いない。​そう自分に言い聞かせて現実から目を背けようとしたが、一歩踏み出してその紙を手に取る勇気は湧かなかった。​どんなに拒もうとしても、近づくにつれて書類に並んだ文字が容赦なく目に飛び込んできた。​「離婚届?」​その文字を目にした瞬間、武志の頭は真っ白になり、思考が完全に停止した。​慌ててその離婚届をひったくるように手に取り、中身には目もくれず、まっすぐに署名欄へ視線を向けた。​そこにはっきりと書かれた【江本深雪】の四文字が目に飛び込み、次第に視界が狭まり、最後にはその名前だけが心に焼き付いた。​「ふっ、深雪が?離婚したい、だと?」​長い沈黙の後、武志は冷たく笑ったが、その表情はひどく歪んでいる。​「俺から切り出してもいないのに、よくもまあ……」​言葉とは裏腹に、彼は激しい衝撃を受けたかのように表情を崩し、全身から今にも壊れそうな脆さが漂っている。​どうしても信じられない。​「あいつは……あいつは俺のことを想ってるはずじゃないのか?​なのに……どうして、あいつから先に別れを切り出してくるんだ?」​武志にはどうしても理解できない。​離婚届を握る手はがたがたと震え、いつまでも収まる気配がなかった。​ずっと前から離婚のことは考えており、聡にも早いうちに片を付けると伝えていた。​それなのに、なぜか最後の決断をずっと先延ばしにしていた。​時折、こんな風な夫婦のままでいるのも悪くないのではないか、それほどひどい暮らしでもない、とさえ考えていた。​少なくとも、愛する人はまだそばにいてくれるのだから。​しかし今、深雪はその都合の良い思い込みを木っ端微塵に打ち砕いた。​彼女はもう、この関係を続けるつもりはない。だからこそ、自ら離婚を突きつけてきたのだ。​なのに今、別れたくないとしがみついて
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第10話 ​
時は刻一刻と過ぎ、スマホの充電が切れるまでかけ続けても、深雪は電話に出なかった。​そればかりか、他のどんな手段で呼びかけても、なしのつぶてだ。​武志の胸は焦燥で張り裂けそうになり、一刻も早く直接会って、その真意を問いただしたくてたまらない。​それなのに、どうすることもできない自分の無力さに苛まれる。​やがて翌朝が訪れ、時計の針が八時を回る頃、彼は目を真っ赤に充血させたまま、車を走らせて南国航空本社へと向かった。​「すみません、機長の江本深雪の夫ですが、彼女に取り次いでいただけますか?」​受付スタッフは少し戸惑った様子で、本当のことを伝えるべきか迷っているようだ。​そこへ、ちょうど運航本部の部長・哲生が通りかかった。​武志の姿を見ると、わずかに眉をひそめ、受付スタッフを助けるように声をかけた。​「ここは俺に任せていい。深雪のことについて話そう」​そうして武志を応接室へ促すと、振り返って厳しい目付きでその男を見つめた。​「深雪の旦那さんですか?それを裏付ける証拠は何かありますか?」​言われるままに、武志はポケットから運転免許証を取り出し、哲生の前に差し出した。​目の前の男の名前を確かめると、哲生はそれ以上目もくれず、鼻で笑った。​「お言葉ですが、君は反省したほうがよろしいかと思います。かつての深雪は、大空をどこまでも自由に羽ばたく鳥のような存在でした。それを都合よく閉じ込め、自分のそばに縛り付けていたのは君です。​ご覧ください。あの壁に飾られているのは、これまでに表彰された素晴らしい機長たちの写真です。​深雪は、我が南国航空が誇る初の女性機長です。彼女の腕前は誰もが認めており、入社以来毎年表彰されていましたが――君と結婚するまでは。​最近、彼女はようやく目を覚まし、再び自分の夢を追いかけ始めました。今さら君がここへ来て、彼女に何の用があるというのですか?」​哲生は語りながら、写真の中の深雪に誇らしげな視線を向けた。​その話を聞いた武志も、思わず写真に映る深雪に惹きつけられている。​クルーの中心に立つ彼女は、ひときわ目を引く美しさを放っているが、何より人々の心を捉えるのは、その澄んだまっすぐな瞳だ。​その瞳の奥には、尽きることのない希望と揺るぎない自信が満ち溢れている。​その姿から、彼
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