جميع فصول : الفصل -الفصل 50

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40.布を読む手

雨は、昼前にいったん止んだ。三嶋洋服店の硝子戸には、細かな雨粒の跡だけが残っている。通りの向こうのアスファルトはまだ黒く濡れていたが、雲の隙間から薄い光が落ち、軒先の水たまりを鈍く光らせていた。晴れたわけではない。空はまだ白く重い。湿気も深く、店の奥へしまった布地の匂いが、いつもより濃く感じられた。けれど、降り続いていた雨が少しだけ途切れたことで、空気の底にかすかな動きが生まれていた。美緒は、布見本の棚の前に座っていた。立ったまま作業をするほどの気力は、まだ戻っていない。けれど、奥の部屋にいるよりは、店先にいたかった。帳場の紙の音、アイロンの熱、裁ち台の上で布が動くかすかな音。そういうものに囲まれていると、胸の奥で固まっていたものが少しだけほどける気がした。母は帳場で、前日に出した仕事帳を片づけている。古い礼状は、丁寧に元の場所へ戻されていた。美緒はそのことを知っているだけで、少し呼吸が楽だった。過去の仕事が、確かに誰かに届いていた。その事実は、まだ美緒を救い上げるほど強くはない。けれど、底へ沈みきらないための小さな支えにはなっていた。母が、帳場から声をかけた。「今日は、奥で休んでてもええよ」美緒は、布見本の端を指で揃えながら首を横に振った。「少しだけ。じっとしてる方が、しんどい」「でも、背中……」母はそこまで言いかけて、言葉を止めた。背中が痛むことを、母は疲れのせいだと思っている。美緒も、そう受け取らせたままにしていた。未完成の弥勒菩薩の線は、まだ誰にも見せられない。衣の下で熱を持つその痛みは、母にさえ言えないものだった。美緒は、少し笑うようにした。「大丈夫。重いもんは持たへんから」裁ち台の向こうで、隆文が低く言った。「重いもんは持つな」母と同じことを言っているのに、父の言葉は少し違って聞こえた。止めているのではない。許しているのでもない。今の美緒にできる範囲を、静かに
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41.結婚前提という言葉

黒瀬本家の応接間には、蒸した空気が沈んでいた。雨は上がっている。けれど、庭の石はまだ濡れた色を残し、障子越しに入る光も白く重い。梅雨の晴れ間というには明るさが足りず、雨のあとというには熱が強い。畳の上に置かれた冷たい茶器には、細かな水滴がついていた。迅は、上座に近い位置に座っていた。祐一郎は同席していない。体調を理由に下がらせた。岩本側には、黒瀬の二代目を出さない非礼だと思われたかもしれない。だが、今の話を祐一郎に長く聞かせるつもりはなかった。向かいには、岩本組長がいた。その少し後ろに、由香が座っている。由香は、薄い色の着物を着ていた。離婚の話が済んだ直後の席にしては、華やかすぎないよう抑えている。だが、抑えた中にも、自分が選ばれる側であることを隠しきれない艶があった。迅は、由香をほとんど見なかった。見る必要がなかった。岩本組長が、茶器に指を添えた。「これで、形は整いましたな」柔らかい声だった。昔からの付き合いを語る時と同じ声。相手を立てているようで、実際には逃げ道を少しずつ塞いでいく声。迅は、目を上げた。「何の話です」岩本組長は、わずかに笑みを深めた。「由香のことです。いつまでも曖昧にはしておけませんやろ」その言い方に、迅の内側で何かが冷えた。形は整った。その言葉の中に、美緒との婚姻がひとつの段取りとして置かれていた。離婚が成立したから、次へ進める。邪魔なものがなくなった。そう言われているようだった。迅は、膝の上に置いた手を動かさなかった。怒りを見せれば、相手に隙を渡す。岩本はそれを待っている。「黒瀬さんと岩本の縁を、ここでさらに強める。外へも、分かりやすい形で示す。由香の立場も、早めにはっきりさせてやりたい」岩本組長は、穏やかに続けた。「迅さんも、次の黒瀬を背負うお方や。足場は固めておくに越したことはありません」由香が、ほんの少し視線を上げる。
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42.針を持つ手

梅雨の終わりは、はっきりとは来なかった。朝から雨は降っていない。けれど、空はまだ白く、雲の奥に水を含んでいるようだった。店の戸を少し開けると、湿った風が入ってくる。その風の中に、ほんのわずか、夏の熱が混じっていた。三嶋洋服店の店先には、布とアイロンの匂いがある。雨の続いた日々の重さは、まだ棚の奥や帳場の紙に残っていた。布見本の端は少し湿気を含み、紙の角もわずかに波打っている。それでも、何日も閉じこもっていた空気が、今日は少し動いていた。美緒は、帳場の横で畳まれた布を整えていた。三嶋洋服店へ戻ってから、店先にいる時間は少しずつ増えていた。初めは、ただ座っているだけだった。次に、伝票を見るようになった。電話を取った。名前を書いた。古い礼状を読んだ。布を見て、持ち主の癖を読んだ。けれど、まだ針は持っていない。針箱は、いつも手の届くところにあった。黒瀬を出る時、持ってきたもののひとつだ。結婚前から使っていた、小さな針箱。離れにも置いていた。濡れた上着の肩を気にし、迅のスーツの布を見ていた頃も、この針箱は美緒のそばにあった。今は、三嶋洋服店の帳場の下に置かれている。そこにあると分かっていても、開けられなかった。針を持つことは、ただ作業をすることではない。三嶋美緒として、もう一度手を動かすことだった。黒瀬を失った痛みの中で、それでも生活と仕事の側へ戻ることだった。それが、少し怖かった。迅を忘れたいわけではない。忘れられるわけもない。由香との結婚前提という言葉は、まだ胸の奥に残っている。ふとした拍子に、その言葉だけが耳の内側で繰り返される。結婚前提。迅と由香。自分が黒瀬から出されたあと、外の世界で形になって流れてきた言葉。そのたびに、背中が小さく疼いた。未完成の弥勒菩薩の線が、衣の下で熱を持つ。迅に見せるためではなかった。迅に選ばれるためでもなかった。自分が逃げないために刻んだものだった。そう分かっていても、痛いものは痛かった。迅の隣にいない自分。
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43.空いた座布団

庭石に落ちた葉を、下足番の若い衆が竹箒で払っていた。朝の黒瀬本家は、いつも通りに見えた。門の内側には打ち水の跡がうっすら残り、玄関先の敷石は湿った光を返している。軒下に吊られた風鈴はまだ鳴らず、梅雨の終わりを待つような重たい空気だけが、庭の緑にまとわりついていた。結衣は紙袋を片手に、玄関の前で一度足を止めた。乱れているものは、何もない。靴は揃っている。玄関框は磨かれている。花器には白い桔梗と青もみじが控えめに挿されていて、色の強すぎない涼しさがあった。佳穂が選んだ花だとすぐに分かる。派手ではないのに、そこにあるだけで場の格を整える花だった。けれど、何かが違った。静かすぎるのだと思った。いや、本家はもともと騒がしい場所ではない。男たちは低い声で必要なことだけを交わし、女たちは大きな笑い声を立てない。足音も、襖の開け閉めも、誰かの咳払いさえも、自然と控えめになる。そういう家だった。それでも、以前の静けさには、どこか人の息づかいがあった。いまは、その息づかいの途中だけが、すこし抜けている。「結衣さん」奥から声をかけられ、結衣は慌てて顔を上げた。藤堂梓が、廊下の端からこちらを見ていた。いつものように髪をきちんとまとめ、薄い鼠色の着物に白い割烹着を重ねている。表情は崩れていないが、目元の疲れだけは隠しきれていなかった。「おはようございます。これ、母が持たせてくれて」結衣は紙袋を軽く掲げた。「いつもの昆布です。佳穂さんに渡してほしいって」「ありがとう。助かるわ」梓は紙袋を受け取ると、玄関の花へ一瞬だけ目をやった。結衣もつられて見る。花はきれいに整っている。水も濁っていない。茎の角度も、葉の向きも、佳穂らしく隙がなかった。梓は何も言わなかった。結衣も、何も言えなかった。本家の台所では、すでに茶の支度が始まっていた。湯気の立つやかん、乾いた布巾、棚に並ぶ湯呑み。畳の部屋へ運ぶための盆が二つ、調理台の隅に置かれている。佳穂はその前に立っていた。背筋
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44.岩本のお嬢

昼を少し回った頃、黒瀬本家の玄関には、いつもより早く風が通された。梓は廊下の端に立ち、敷居の線を目で追った。古い木の床は磨かれ、薄く艶を帯びている。庭から入る光は梅雨の湿りを含んで白く、玄関先の花器には、佳穂が朝のうちに活けた青もみじと白い花がすっと伸びていた。派手ではない。けれど、場の空気を決める花だった。枝の傾き、葉の重なり、花の高さ。どれも主張しすぎず、それでいて本家に入る者へ、ここがどういう家であるかを無言で示している。黒瀬の本家に、余計な華やかさはいらない。古い木の匂い、白檀の残り香、庭の湿った土、低く抑えられた男たちの声。それらを乱さず、ただ芯だけを通す花でよかった。梓は花器の水面を確認し、玄関の脇へ下がった。奥から佳穂が出てくる。薄い墨色の着物に、白い帯。髪はきちんとまとめられ、いつも通り表情は静かだった。だが、その静けさの下に、硬く折り畳まれたものがあることを、梓はもう知っている。「支度は」「整っています」梓が答えると、佳穂は玄関を一度見た。花、框、客用の草履、廊下の奥まで視線を通す。その目は、掃除の粗を探しているわけではない。今日この家へ入ってくる女を、どこまで通し、どこから先へ入れないか、その境目を確かめているようだった。「失礼のないように」佳穂はそれだけ言った。歓迎しているように、とも、若の相手として、とも言わなかった。梓は小さく頭を下げる。「承知しました」その一言だけで十分だった。今日来る女は、岩本組の娘。黒瀬に古い貸しを持つ家の娘で、迅の結婚前提の交際相手という形に置かれている。だが、正式な妻ではない。婚約者として黒瀬が公に迎えたわけでもない。粗末には扱えない。だが、内側へ入れる相手でもない。梓は、その線を胸の中で引き直した。しばらくして、門の外に車の気配がした。砂利を踏む音。低く止まるエンジン。若い衆が門へ出る足音。梓は玄関から少し下がった位置で待った。佳穂は動かない。玄関の花の横に立つ
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45.茶の温度

午後の台所には、湯の立つ匂いが満ちていた。黒瀬本家の台所は、広いが華やかではない。古い木の棚、よく磨かれた調理台、布巾の重ね方、茶葉の缶が置かれる位置まで、使う人の手順が染みついている。窓の外では、梅雨明け前の湿った光が庭石を淡く照らしていた。蝉の声にはまだ早く、代わりに軒先から落ちる水の音だけが、細く聞こえている。結衣は湯呑みを並べながら、指先で縁の欠けがないか確かめた。今日は、女たちが本家に集まる日だった。季節の挨拶に出す品の段取り。祐一郎の見舞いに関する、表立たない気遣い。若い衆の妻たちへ伝えること。どれも大きな用事ではないが、放っておけばすぐに行き違いが起きる。黒瀬の男たちは外で物事を決める。けれど、その決まった物事が家の中で滞らず流れるようにするのは、女たちの手だった。佳穂は台所の奥に立ち、急須の横に並んだ湯呑みを見ていた。「そちらは少し冷まして」「はい」梓がすぐに返事をし、湯呑みのひとつを盆の端へ寄せる。「奥の方には、熱いものを。今日は長く座らはるから」「承知しました」「若い子には、こちらでええわ。朝から顔色がよくない」佳穂の声は静かだった。けれど、ひとつひとつの指示に理由があることを、結衣は知っている。茶は、ただ出せばいいものではない。誰が熱い茶を好むか。誰は猫舌か。誰が緊張しているか。誰が体調を崩しているか。誰が遠慮して口をつけないか。湯呑みひとつにも、見ていなければ分からないことがある。結衣は盆へ菓子皿を置きながら、一瞬だけ手を止めた。以前なら、そういう細かな違いを、もっと自然に拾う人がいた。考えたところで、胸の奥がきゅっと縮む。名前は出さなかった。出してはいけない気がした。梓が横から布巾を渡してくる。「結衣さん、これもお願い」「はい」結衣は布巾を受け取り、湯呑みの外側についた小さな水滴を拭った。その時、台所の入口に明るい声がした。「皆さん、お忙しそうですね」
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46.聞きたがる人

由香が黒瀬興業の事務所へ顔を出すようになったのは、挨拶を済ませたあと、そう日を置かない頃だった。最初は、岩本からの菓子折りだった。次は、父から預かったという伝言だった。その次は、迅が忘れていったという書類を届けに来たことになっていた。ひとつひとつを取り上げれば、不自然というほどではない。岩本組との付き合いがあり、迅との関係が表向きそういう形になっている以上、黒瀬も門前で追い返すわけにはいかなかった。由香も、そのことを分かっているようだった。黒瀬の事務所は、本家とはまた違う重さがあった。古いビルの二階。表向きは興業会社の事務所で、入口には古びた社名板が掛かっている。中へ入れば、磨かれた床、低い応接セット、壁に掛かった額、奥の神棚が目に入る。煙草の匂いは以前より薄くなっていたが、紙と革と、古い木の匂いが染みついていた。由香は、その匂いが少し苦手だった。嫌いというほどではない。ただ、自分の知っている華やかな席とは違う。料亭の座敷、宴席の明るさ、男たちが自分に視線を向ける場所とは、空気の質が違っていた。ここでは、見られることが力になるとは限らない。それでも由香は、背筋を伸ばして入った。何も分からない女だと思われたくなかった。迅の隣に立つなら、黒瀬のことを知っておくべきだ。父もそう言っていた。嫁ぎ先のことを知らない女は、いざという時に役に立たない。美しくしているだけでは駄目だ。何を聞かれても、少しは答えられるようになっておけ。由香は、その言葉を素直に受け取っていた。だから今日も、きちんとした服を選んだ。派手すぎない紺のワンピースに、細い真珠のピアス。髪も軽くまとめて、事務所に出入りしても浮きすぎないようにしたつもりだった。受付を兼ねた机の奥で、坂下浩二が書類を整理していた。坂下は黒瀬の金庫番と呼ばれている男だった。年齢は四十を少し過ぎたあたり。派手さはなく、眼鏡の奥の目はいつも冷静で、紙の束を見る手つきにも無駄がない。由香は、こういう男が案外、組の中で重要なのだと父から聞かされていた。「坂下さんでしたよね」
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47.仕立屋の娘

夕方の光は、黒瀬本家の控え室の畳に、薄く沈むように落ちていた。昼の用件はほとんど済んでいた。季節の挨拶に添える品の数、若い衆の妻たちへ回す連絡、祐一郎の見舞いに関わる細かな段取り。声を張るような話ではない。けれど、ひとつでも行き違えば、あとから誰かが困る。そういう細い糸を、佳穂はいつも静かに束ねていた。結衣は湯呑みを両手で持ち、控え室の端に座っていた。今日はもう大きな動きはないはずだった。由香も、先ほどから座敷の一角に腰を下ろし、表面上は落ち着いた顔をしている。前のように無理に茶を運ぼうとはしなかった。佳穂に止められたことを覚えているのだろう。今日は、手を出さずに場を見ている。ただ、その視線はやはり少し落ち着かなかった。由香は人の顔を見る。着物の色を見る。誰が誰の近くに座るかを見る。佳穂が声をかけた時、誰が最初に動くかを見る。見ている。けれど、結衣には、その見方がどこか違うように思えた。相手の体調や気持ちを拾うためではない。自分がどこに入れるのか、誰が自分をどう扱うのかを測る目だった。それでも、由香は乱暴なことをしているわけではない。声も荒げない。笑みも崩さない。今日の装いも控えめだった。薄い藤色の上品なブラウスに、濃い色のスカート。香水も前よりずっと抑えられている。きっと、彼女なりに考えてきたのだ。そう思うからこそ、結衣は余計に落ち着かなかった。「これ、どうしたらええんやろ」若い妻の一人が、膝の上で小さな子どもの上着を広げた。袖口の縫い目が少しほつれている。まだ新しい服だが、子どもが走り回るうちに引っかけたのだろう。布端が小さく浮いていた。「急ぎではないんですけど、下手に縫うと余計に目立ちそうで」年長の妻が覗き込む。「ああ、ここな。裏から押さえたらいけそうやけど」「こういうの、どこへ持っていけばいいか分からなくて」その言葉に、誰かが何気なく言った。「三嶋さんのところなら……」声が途中で止まった。部屋の
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48.若の隣に立つ女

料亭の軒先に灯る明かりは、雨上がりの石畳を淡く濡らしていた。黒瀬が昔から使っている店だった。格子戸の奥には、磨かれた木の匂いと、白檀に似た控えめな香がある。騒がしい客は通さず、必要以上のことは聞かない。祐一郎の代から、外で話しにくいことを収める時には、何度も使われてきた店だった。迅は車の後部座席で、ネクタイの結び目に指をかけた。緩めはしなかった。今夜の席に、気を許す余地はない。「若、着きました」運転席から久我が言った。迅は短く息を吐き、ドアが開くのを待たずに自分で降りた。夜気は湿っている。雨は止んでいたが、空気の底にまだ水の重さが残っていた。玄関前には、由香が立っていた。落ち着いた色の着物姿だった。華やかさを抑えたつもりなのだろう。帯も飾りも目立ちすぎないものを選んでいる。だが、立ち姿には、今夜の自分がどう見えるかを意識している張りがあった。迅の姿を認めた途端、由香の顔に笑みが広がる。「お忙しいのに、ありがとうございます」迅は足を止めなかった。「岩本の方から話が通ってたからな」由香の笑みが、一瞬だけ薄くなった。すぐに、何もなかったように戻る。「それでも、来ていただけて嬉しいです」迅は返事をしなかった。女将が戸口まで出てきて、深く頭を下げる。「いらっしゃいませ、黒瀬様。岩本様も、お待たせいたしました」由香は迅の半歩横へ並んだ。近すぎるほどではない。外から見れば、連れ立って来た男女に見えるだけの距離だった。迅は咎めなかった。ここで由香を遠ざければ、女将の目にも、店の者の耳にも残る。岩本の娘を粗末に扱ったという形を、わざわざ作る必要はない。ただ、歩幅を合わせることもしなかった。通された個室は、庭に面した静かな部屋だった。障子の向こうに、小さな池と石灯籠の灯りが見える。雨を含んだ葉が光を受け、時折、水滴を落とした。畳には新しい藺草 (いぐさ)の香りがわずかに残り、低い卓上には、すで
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49.呼べなかった名前

夕方の黒瀬本家は、人の出入りが途切れたぶん、昼間よりも音がよく響いた。庭先で柄杓の水が石へ落ちる音。台所で湯を沸かす小さな音。遠く事務所の方から聞こえる、誰かが引き戸を閉める音。どれも普段なら気にも留めないものなのに、今日はひとつひとつが妙に耳へ残った。結衣は控えの間に座り、封筒の束を揃えていた。若い衆の家へ回す連絡書き。怪我をした者の家へ届ける見舞いの品に添える短い文。祐一郎の体調を考え、本家へ顔を出す者の時間が重ならないようにするための覚え書き。派手なことは何もない。けれど、誰かがきちんと見ていなければ、小さな無理や遠慮がそのまま置き去りにされる仕事だった。向かいには梓が座り、帳面へ細かな書き込みをしている。佳穂は上座で、ひとつずつ封筒の宛名と中身を確かめていた。茶はすでに出ていた。けれど結衣は、まだほとんど口をつけていない。湯呑みから上がっていた湯気はとうに消え、指先へ伝わる温度も薄くなっている。数日前のことが、まだ胸の奥から離れなかった。由香の声は、決して荒くなかった。むしろ、終始柔らかかった。だからこそ、結衣はあの日から何度も、自分が過敏だったのではないかと考えた。仕立屋さんのお嬢さん。黒瀬のようなお家では、大変だったでしょうね。家同士のお付き合いもありますものね。露骨に美緒を罵ったわけではない。ただ、由香の中では、美緒が生きてきた場所も、積み上げてきた仕事も、黒瀬で向けてきた心も、初めから自分より下のものとして並べられているようだった。あの場で言い返せなかったことが、結衣の胸の中でまだ消えずにいる。怒っているだけだと思おうとした。美緒を慕っていたから、由香の言葉が許せなかっただけだと。けれど、由香に対して引っかかるものは、それだけではなかった。「こちらは、明日の朝に届けてもらいましょう」佳穂の声で、結衣は顔を上げた。佳穂は一通の封筒を、帳面の端へ置いた。「森下さんには、結衣さんから渡してもらう方が自然ですね」「はい。帰
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