All Chapters of 身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

しかし舞衣は昔から傍若無人に振る舞い、誰のことも眼中にない人間だった。だからおとなしく引き下がるつもりはなかった。「桐生社長、何でもご存じだと言うなら、琴川澄音が清陽の子を妊娠して、堕ろしたこともご存じなんですか!」澄音はその言葉を聞いた瞬間、息が止まるかと思った。全身から力が抜け、今にも崩れ落ちそうになった。悠臣は慌てて澄音を支えた。このことは、悠臣も凌と藍には話していなかった。だから2人がその事実を知らないのは確かだった。悠臣は顔を上げ、凌と藍の表情を窺った。ちょうど凌もこちらを見ており、兄弟の視線が交差した。凌の目に宿っていたのは、揺るぎない信頼だった。悠臣は兄の意思を理解し、舞衣へ向き直った。その声は低く静かだった。「舞衣、俺は宝生家との長年の付き合いを考えて、君の顔を立てるつもりでいた。だが君は、本当に身の程をわきまえない女だな。宝生家がなぜここまで追い込まれたのか、君がいちばんよく分かっているはずだ。自分が男遊びを繰り返して清陽の怒りを買ったくせに、彼には報復できないからと澄音に八つ当たりしているのか?澄音と清陽に過去があったのは事実だ。だが、それはもう終わっている。くだらない小細工で俺たちを引き裂こうとしても無駄だ。子どものことについては、君なら澄音の痛みを少しは理解できると思っていた。だが、それを攻撃の材料に使うとはな。舞衣、君が未婚の妊娠を人に言えない恥ずべきことだと思っているなら、どうして自分は他人の子を身ごもったまま清陽に嫁ごうとしたんだ?」自分の腹黒い企みと醜聞を皆の前で暴かれ、舞衣の顔色はみるみるうちに青ざめた。藍は澄音のそばへ歩み寄り、そっと抱きしめ、優しい声で慰めた。澄音は藍の腕の中で悠臣の言葉を聞いていた。胸が熱くなり、涙がとめどなく溢れ出した。心に積もっていた苦しみ。どうしても隠さなければならなかった後ろめたさ。真実が暴かれることへの恐怖。長く澄音を苦しめてきたものが、この瞬間、すべて霧散していった。舞衣には、乗り込んできたときの傲慢さはもう欠片も残っていなかった。屈辱に顔を真っ赤にして、逃げるように部屋を出ていった。和やかな夕食の席が、途中で乱入してきた舞衣のせいでこんなことになるとは、誰も思っていなかった。個室は再び静寂を取り戻した。悠臣は澄音の頬に残る涙を
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第22話

澄音が退院する日、藍は大きなヒマワリの花束を抱えて迎えに来た。悠臣は2人がぴったり寄り添っている様子を見て、思わず少し嫉妬した。声までどこか拗ねていた。「藍、自分の旦那がいないわけじゃないだろう?どうして毎日、俺の彼女を独占するんだ」藍は言い合うのも面倒らしく、足を伸ばして悠臣を軽く蹴った。そして澄音の手を引き、階下へ向かった。悠臣は慌てて荷物を持ち、その後を追った。藍が澄音と内緒話をしていると、悠臣は拗ねたふりをし、わざと前をのろのろ歩いて道をふさいだ。澄音は邪魔だと思い、悠臣を後ろへ引いた。けれど前方に突然現れた人物を見て、その場に固まった。藍と悠臣もすぐに澄音の異変に気づき、そろって顔を上げた。ひどく痩せた清陽が階段の前に立ち、瞬きもせずに澄音を見つめていた。藍はもともと清陽が気に入らなかった。さらに澄音が彼のそばでどれほど苦しんできたかを知った今、取り繕う気など少しもなかった。「あら、氷室社長。道の真ん中で立ちふさがるなんて、ずいぶんとみっともない真似を覚えたんですね」清陽は眉を寄せ、藍を見た。清陽には、凌の妻がなぜ以前から自分を嫌っているのか分からなかった。数年ぶりに会ったと思えば、その態度はさらにひどくなり、言葉にも容赦がなかった。それでも凌のことを考え、清陽は最低限の礼儀だけは保った。「桐生家はしつけが厳しいと聞いていたが、五十嵐さんは桐生家に入って6年も経つのに、まともな話し方も覚えていないのか」澄音は藍の気性を知っていた。清陽がここへ来た目的も分かっている。藍が自分のために清陽と衝突するのは望まなかったため、今にも食って掛かりそうな藍を慌てて引き止めた。それから2歩前へ出て、2人を庇うようにいちばん前に立った。「清陽、私たちはあなたと揉めたいわけじゃありません。そこを通してください」澄音が前に出たのを見た瞬間、清陽は纏っていた険しい空気をふっと緩めた。その瞳に、深く切実な色を浮かべた。「澄音、今日退院すると聞いて迎えに来た。俺と一緒に来てくれないか?」その一言で、悠臣と藍の怒りに火がついた。澄音は左右の手で2人を引き止め、しばらく必死になだめて、ようやく落ち着かせた。澄音は手にしていたヒマワリを藍に渡し、自分から清陽の前へ進み出た。その声は冷たかった。「清陽
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第23話

澄音は顔を上げなかった。日差しの下に並ぶ2人の影を見つめたまま、まるで他人事のように淡々と言った。「この前、はっきり言ったはずです。清陽、私たちの縁はもう終わりました。あなたとやり直すつもりはありません。私はあなたが飼っている籠の鳥ではないんです。あなたの邸宅がどうなっていようと、私には何の関係もありません」澄音の言葉は、一言一言が鋭い刃のように清陽の胸に突き刺さった。清陽は貼り付けたような笑みを保てなくなり、その奥に隠していた痛切な思いを露わにした。「澄音、あの邸宅は俺が用意した新居だ。俺はお前を諦めない。俺と結婚してくれないか」かつての澄音は、その言葉を長いあいだ待っていた。けれど、とうとう聞くことはなかった。澄音がすべてを手放したあとになって、清陽はそれを口にした。だが澄音の心は、もう少しも動かなかった。顔を上げても、清陽がその表情に見つけられるのは喜びでも胸の高鳴りでもなかった。ただ、凪いだ水面のような静けさだけだった。「清陽、昔のあなたは私を見下していました。だから私を日陰の身にしておきながら、それを私への施しだと思っていた。今は気が変わって、また私の前に現れて結婚しようと言う。それが私への埋め合わせになると思っているんです。何年経っても、あなたは少しも変わっていません。いつも高みから世界を見下ろしている。まるで、この世のすべてが自分を中心に回るべきだと思っているみたいに。でも、あなたは世界の中心ではありません。すべてを支配する神様でもない。普通の人より多くの権力と財産を持っているだけです。それ以外は私と何も変わらない、ただの生身の人間です。どうして私があなたとの結婚を受け入れると思ったんですか?あなたのお金ですか?権力ですか?それとも、その顔ですか?」澄音の問いに、清陽はたちまち言葉を失った。20数年生きてきて、清陽は初めてこんなふうに問われた。しかも相手は、長いあいだ自分が傷つけ続けてきた、深く愛している女性だった。清陽はどう答えればいいのか分からなかった。だから、たった一言だけを口にした。「お前は俺を愛している。俺もお前を愛している」澄音が清陽の瞳にこれほど真摯な愛情を見たのは、これが初めてだった。清陽の口から愛という言葉を聞いたのも初めてだった。それでも、澄音の心には何の波
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第24話

清陽には、どう説明すれば、本当に愛していると澄音に信じてもらえるのか分からなかった。清陽は過去の出来事を必死に思い返した。自分が澄音を愛していた証拠を、ほんの少しでも見つけようとした。けれど記憶をどれだけ掘り返しても、愛の証と呼べるものは一つとして見つからなかった。何も見つけられないと悟った瞬間、清陽の胸は嵐が通り過ぎたあとのように空っぽになった。顔から血の気が引き、澄音の言葉に引きずられるように、自分自身を疑い始めた。――俺は本当に澄音を愛していたのか。――それなら、なぜ真心の欠片すら見つからないんだ。澄音は長いあいだ胸に積もっていた言葉を淡々と言い終えると、背を向けて歩き出した。敷石を一歩ずつ踏みしめるその足取りは、いちばん楽しかった子どものころへ戻っていくようだった。藍が壁の陰から顔を出し、ヒマワリを抱えて澄音に手を振った。悠臣は両腕を広げ、澄音の帰る場所となって待っていた。澄音には、もう何の迷いもなかった。澄音は走り出し、自分の未来へ飛び込んだ。病院を出たあと、悠臣はあのオファーレターを澄音へ手渡した。澄音はその紙の束を何度も何度もめくり、口元には絶えず笑みがこぼれていた。午後ずっと放っておかれた悠臣は、ついに耐えきれなくなった。紙の束を取り上げ、空いた澄音の手に自分の手を絡ませた。「大魔王の下で働くのが、そんなに嬉しいのか?」大魔王とは、京明市のビジネス界隈で凌につけられた異名だった。実の弟までそう呼ぶとは思わず、澄音は目を丸くした。「何が大魔王よ。お義兄さんは私のキャリアにおける恩人なの!言葉に気をつけてよ。じゃないとチクるからね!」凌が澄音を自分の会社に引き抜いたことについて、悠臣はずっと根に持っていた。澄音が職場に戻ることに反対しているわけではない。ただ、自分の彼女が凌の下で働くことが気になって仕方なかったのだ。仕事中の兄がどれほど恐ろしいか、悠臣以上に知っている人間はいない。悠臣に言わせれば、大魔王という呼び名ですら、凌の容赦のなさを表すには足りなかった。澄音に苦労してほしくない。だから悠臣は、この件に反対だった。だが当人同士が納得している以上、悠臣に止める術はなかった。澄音は退院後、すぐに入社することになっている。悠臣はこれまでの人生で積み上げた経験を
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第25話

澄音は自信たっぷりにその挑戦を受けて立ち、賭けの条件を尋ねた。悠臣は意味ありげに笑った。「今はまだ教えない。そのときになれば分かる」澄音が入社した初日、悠臣は仕事を口実に、彼女の執務室へ何度も顔を出した。そのせいで澄音はすっかりうんざりしていた。澄音は何度も、きちんと仕事をして自分の邪魔をしないよう悠臣に釘を刺した。悠臣は表面上は素直にうなずくものの、実際には少しも態度を改めず、空き時間ができるたびにふらりとやって来た。やがて、そんな頻繁な行き来はすぐに凌の耳に入った。凌は2人を自らの執務室に呼び出し、静かで威圧感のある声できっちりと説教をした。澄音は凌の執務室を出るなり、悠臣の耳を引っ張った。「来ないでって言ったのに聞かないから、桐生社長に見つかったじゃない。初日から私の立場がないでしょ!」悠臣は謝ろうともしなかった。悪びれる様子など微塵もなく、にやにやと笑っていた。「澄音、君は初日から叱られた。君の負けで、俺の勝ちだ」澄音は最初、何を言われているのか分からなかった。勝ち負けとは一体何の話なのか。悠臣が数日前の賭けを持ち出して、澄音はようやく気づいた。――すべて悠臣がわざと仕組んだことだったのだ。澄音が叱られるように仕向け、あの賭けに勝つために、わざとあんな真似をしたのだ。澄音の怒りは頂点に達した。悠臣を押しのけ、眉をひそめたまま執務室へ戻ると、まず秘書に言いつけた。今後は悠臣を必ず引き留め、もう執務室へ通さないように、と。勝つために手段を選ばなかった悠臣は、結局その高くつく代償を払う羽目になった。それから1週間、澄音は徹底的に悠臣を無視した。最後は悠臣が藍に泣きつき、間に入って弁解してもらって、澄音はようやくしぶしぶ態度を軟化させた。けれど悠臣は後悔していなかった。その賭けを使って、とても大事な目的を果たそうとしていたからだ。だから悠臣は、何としても勝たなければならなかったのだ。澄音の父は、娘から悠臣との結婚というおめでたい話を聞いて以来、見違えるほど前向きに治療に取り組むようになっていた。医師たちの懸命な治療の甲斐あって体は少しずつ回復し、もうしばらく様子を見れば退院できるとまで告げられた。だが、澄音は密かに頭を抱えていた。あのとき澄音は悠臣のペースに押し切られ
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第26話

だが澄音には、凌たちのように実家から書類をくすねて入籍を強行する気もなければ、悠臣の両親に会ってすべてを打ち明ける勇気もなかった。藍と一緒にいるとき、澄音はときどき遠回しに桐生家の両親について尋ねてみた。豪快な藍でさえ、義父母の話になるとため息をついた。澄音はますます、自分から挨拶に行きたいとは言い出せなくなった。1日、また1日と時間が過ぎていく。父の退院の日が近づくにつれ、澄音は不安で胸がいっぱいになり、食事も喉を通らなくなった。悠臣はそんな彼女を黙って見守っていた。澄音が何に悩んでいるのか、悠臣にはよく分かっていた。だから思い切ってある週末、悠臣は半ば強引に澄音を実家へ連れて帰り、両親に引き合わせたのだ。悠臣にも、両親の考えは読みきれなかった。この数日、凌がそれとなく吹き込んでくれた話が効いているのかどうかも分からなかった。ところが事態は、桐生家の兄弟にも、藍にも、そして澄音にも予想外の展開を見せた。両親は賛成とも反対とも言わなかった。ただ、とても静かに食事を終えたのだ。食後、全員でリビングに集まり雑談をしていた。悠臣も澄音も、内心ではひどく緊張していた。桐生家の両親は結婚が遅く、40歳近くになってからようやく2人の子に恵まれた。そのため、息子たちへの教育は厳格だった。凌は幼いころから跡取りとして厳しく育てられてきた。にもかかわらず、実家から必要書類をくすねて勝手に入籍するという前代未聞の騒動をしでかし、両親を長く怒らせた。悠臣は凌よりは甘やかされて育った。だが長男の1件があったため、母はずっと悠臣の結婚相手選びに目を光らせていた。普段は親孝行な悠臣が、結婚のことになるとここまで反抗的になるとは誰も思っていなかった。しかも連れてきたのは、家格も釣り合わず、界隈でよからぬ噂まで流れている女性だったのだ。桐生家の両親はそのことで、長いことため息をついていた。だが2人は、悠臣が凌と同じ無茶をするのも恐れていた。そのため頭ごなしに反対する姿勢は見せられず、ひとまず静観を装うしかなかった。それなのに悠臣は、両親の意向も確認せず、突然澄音を家へ連れてきたのだ。両親は内心では腹を立てていた。けれど、ここで怒りをぶつけるわけにもいかなかった。2人はソファにかしこまって座る澄音を、黙ってじっくりと観察
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第27話

朔哉がこれほど打ちのめされた清陽を見るのは、久しぶりだった。朔哉の記憶の中で、親友がここまで自暴自棄になったのは、舞衣に振られたときまでさかのぼる。頼んだばかりの酒20本がまた空になり、清陽はもう酔って意識もおぼつかない。それでもスタッフに、早く酒を持ってこいと催促していた。清陽の意識はすでにぼやけていた。だが胸の痛みだけはまだ暴れ続けていた。清陽は朦朧としたまま1杯、また1杯と飲み下したが、どうしても自分を麻痺させられなかった。朔哉はスタッフにチェイサーを持ってこさせた。それから清陽の手にあるグラスを奪い取り、中身をテーブルへぶちまけ、必死に言い聞かせた。「清陽、もう飲むな。これ以上飲んだら胃がもたない。また病院へ運ばれるぞ」だが清陽はテーブルに突っ伏し、縁から滴る酒を口で受けようとした。砂漠に閉じ込められた死にかけの人間が、最後の水をすするような、痛ましい姿だった。朔哉には止められなかった。清陽が壊れていくのを、ただ見ているしかなかった。清陽は澄音に容赦なく拒絶されてから、毎日のように酒に逃げていた。朔哉は椅子に深く沈み込み、清陽が酔った勢いで漏らした本音を思い出した。胸の奥に、かすかな苦さが広がった。朔哉は清陽を長く知っていた。清陽は普段は冷徹に見えても、内には熱い感情を秘めており、いつも本心とは裏腹な行動をとってしまう男だった。清陽が澄音を特別に思っていることにも、朔哉はずっと前から気づいていた。だから何度も親友に忠告し、2人きりになれる時間も作ってやった。清陽が素直に自分の気持ちを打ち明けられるようにと。だが、結局は遅すぎたのだ。スタッフが先ほどのチェイサーを運んでくると、清陽は一口飲んだだけで、水はいらない、酒を出せと騒ぎ、もがくようにカウンターへ向かおうとした。朔哉が慌てて追いかけると、酔った清陽は見知らぬ女性を抱きしめ、声を上げて泣いていた。舞衣に振られたときでさえ、清陽は涙を一滴も流さなかったというのに。清陽が澄音をどれほど深く愛していれば、ここまで取り乱すのか。朔哉には想像もつかなかった。朔哉は前へ出て親友を支え、個室へ引きずるように戻した。ひとしきり泣いたあと、清陽は深く眠り込んだ。朔哉は長いあいだ、ぼんやりと座っていた。そして意を決して、清陽のスマホを手に取った。
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第28話

悠臣は澄音を、営業を終えて静まり返ったホテルへ連れて行った。入口で澄音に目隠しをし、手を引いてゆっくりとホールへ入っていった。階段を一段ずつ上がるたび、悠臣は澄音を支え、とても慎重に歩いた。ホールの入口に着いたところで、澄音のポケットの中のスマホが鳴った。目隠しをされていて見えないため、澄音はスマホを悠臣に渡し、誰からか見てほしいと頼んだ。悠臣は画面に表示された名前を見つめ、嘘をついた。「知らない番号だ。たぶん迷惑電話だろう」澄音は切っておいてと頼んだ。悠臣は前方の扉を開け、澄音の目隠しを外した。そして通話ボタンを押して応答するのと同時に、口を開いた。「澄音、今日ここへ連れてきたのは、君にプロポーズするためなんだ。気づいていた?」澄音は気づいていた。ホテルの名前を見た瞬間、悠臣の考えは分かっていた。ここは、澄音が初めて悠臣と出会った場所だった。あのころ、澄音は大学を卒業したばかりで、清陽の秘書になったばかりだった。清陽に連れられて、このパーティーへ出席したのだ。澄音は名家の集まりに厳しいドレスコードがあることなど知らなかった。そのため、ごく普通のワンピースを着てきてしまった。清陽の秘書としてそんな場に出席した彼女の装いは、当然のように会場中の嘲笑を招いた。清陽もそのことで腹を立て、澄音を1人置き去りにして姿を消してしまった。澄音は広い会場で途方に暮れた。四方から向けられる冷たい視線やヒソヒソ話に耐えながら、1人で出口を探した。恥ずかしくて、悲しくてたまらなかった。逃げるようにして人気のない片隅へたどり着き、そこで1人くつろいでいた悠臣に出会った。悠臣は窓辺に座っており、足音を聞いて振り返った。澄音は、そのとき悠臣がこちらを見た瞳を今でも覚えている。きらきらと明るく輝いていた。まるで夜空に瞬く星のようだった。今、このホールには誰もいない。けれど室内には、何年も前のあのパーティーの飾りつけがそのまま再現されていた。人の背丈ほどあるケーキ、美しいフラワーアレンジメント、積み上げられたシャンパンタワー、色とりどりのスイーツ。ぼんやりと、澄音は4年前の、まだ右も左も分からなかったころの自分に戻ったような錯覚に陥った。悠臣は澄音の手を取り、会場の中へ歩いていった。「澄音、
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第29話

悠臣は2人が初めて会ったときの細部を、すべて覚えていた。ゆっくり歩きながら、一つずつ語っていった。「『君のワンピースは、たしかにお姫様が着るようなものじゃない』って俺は言った。すると君の顔は、一瞬でさっと青ざめた。どうして君がそんなに悲しむのか、あのときの俺には分からなかったんだ。でも俺は慰めるつもりで、こう言った。きれいなドレスを持っていなかったシンデレラも、最後にはガラスの靴を履いた。だからドレスなんて、そんなに大事じゃないだろうって」澄音の頭の中でぼやけていた記憶が、悠臣の声に導かれて少しずつ蘇った。――思い出した。あのとき、自分が何と返したのかを。「じゃあ、ガラスの靴は持ってきたの?」2人が同時にその言葉を口にしたとき、ちょうどホールの中央にたどり着いていた。澄音はテーブルの上に置かれた透明な箱を見た。中には銀色のハイヒールが入っていた。悠臣は重ねた2人の手を、その箱の上へそっと置いた。声は柔らかかった。「澄音、今日はガラスの靴を持ってきた。もうすぐ12時だ。俺と一緒に行ってくれる?」一方、その頃。 朔哉が澄音の番号を呼び出そうとスマホに触れた瞬間、別の手によってその動きは止められた。朔哉が顔を上げると、ソファに横たわっていた清陽が目を覚ましていた。いつから起きていたのか、どこまで聞いていたのかは分からなかった。朔哉は慌てて説明しようとした。「清陽、俺はただ、お前のために澄音に聞いてみようと……」言いかけたところで、清陽に遮られた。その声はひどくかすれ、本来の響きが分からないほどだった。「分かっている。でも、もういい」部屋はそのまま静かになった。清陽はソファにもたれたまま、少しも動かなかった。また眠ってしまったようにも見えた。朔哉は黙って立ち上がり、明かりを消して部屋を出た。長いあいだこらえていた清陽の涙は、ようやく誰の目にも触れることなく流れ落ちた。清陽は、澄音を取り戻せると思っていた。だから時間をかけて新居を整え、プロポーズの準備をし、式場まで用意していた。胸いっぱいの期待を抱いて、プロポーズしに行くつもりだった。だが澄音の淡々とした拒絶の言葉で、清陽の感情は完全に崩れ去った。ポケットに入れていたダイヤモンドの指輪を、清陽は取り出す勇気がなかった。
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第30話

小さな階段の踊り場には、一つの窓があった。そこは、2人が初めて出会った場所だった。思い出の場所に戻ってきて、澄音は嬉しそうに目を細めた。「どうしてここへ連れてきたの?」悠臣は懐からあるものを取り出し、澄音の手へ渡した。澄音は一目見た瞬間、その笑顔を固まらせた。――結婚に必要な書類?悠臣の声は、得意げな響きに満ちていた。「さっき両親が俺たちをあれこれ問いただしているあいだに、藍姉さんがみんなの目を盗んで2階へ上がって、こっそり探し出してくれたんだ。金庫の暗証番号を割り出すのに、かなり苦労したらしい。さっき家を出るときに渡してくれて、兄貴を見習えって言われたよ」澄音は思わず、藍が個性的なスカート姿のまま、こそこそ家中を探し回る様子を想像してしまった。――どうして結婚するだけなのに、こんなに後ろめたいことをしているような気分になるのだろう。澄音が何も言わないのを見て、悠臣はようやく顔から笑みを消した。澄音の表情を注意深く観察した。澄音の顔には、怒っているような、喜んでいるような、悲しんでいるような、笑っているような、複雑な色が浮かんでいた。悠臣には読み解けなかった。だが以前、実家から書類をくすねて入籍を強行する話をしたときのやり取りから、今は責任をなすりつけるべき場面だと判断した。「もちろん、これは全部藍姉さんの提案だ。俺は少し意見を言っただけで、最終決定権は君にある。澄音、もう少し待ちたい?」澄音は顔を上げた。複雑な表情を和らげると、その書類を大切そうに悠臣の手へ戻した。「こうやってこっそり持ち出すのは、やっぱりよくないと思う。ご両親も、いつか気づくわ」悠臣の顔に、かすかな失望が浮かんだ。けれど澄音の顔には、いたずらっぽい笑みが広がった。「だから、急いで役所で手続きを済ませて、元の場所に戻しておかないと。ご両親に気づかれる前に!」突然変わったその言い方に、悠臣は完全に不意を突かれた。少し固まってから、ようやく澄音の言葉の意味を理解した。嬉しさのあまり、また澄音を抱き上げて回ろうとした。幸い、その場所は狭くて動き回れなかったため、澄音はどうにか難を逃れた。だが悠臣は喜びで頭がいっぱいになっていた。一晩眠ったら澄音の気が変わるのではないかと心配し、今すぐ夜が明けてほしいとさえ
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